鳥の詩［３］


夕べ食べた、この上もなく美味しく、この上もなく不味いディナーは、既に消化されてしまっていた。ゼロスは、顔を洗って、アパートを出た。もう、思いつく限りの出版社に持ち込みはしてしまっていた。
（帰ってきたときに、留守番電話が光っていてくれたらいいんですけどね……）
ゼロスは携帯は持っていない。ふらふらと歩き、気がついたらいつもの公園に来ていた。ベンチに腰掛け、親指の爪を噛んだ。
（リナさんの客にご飯をご馳走になるなんて……）
リナの肩を抱いて途中の階で降りていった、綺麗な長い金髪が思い出された。
（あの人は、ああやってリナさんを手に入れられる。僕は……）
空腹が、身体に堪えた。ゼロスは目を閉じた。眠っていれば、少しは空腹を忘れられるかも知れない。
「……ゼロス、眠ってるの？」
甘い声が耳に響いた。
「リナさん？」
「ゼロス、お弁当持ってきたよ」
ホテルの名前の付いたパックに、サンドイッチや細々した料理が詰め込まれている。
「その、お弁当のお金は……」
「ガウリイが払ったけど」
「じゃあ結構です。僕は食べません。リナさん、一人で食べて下さい」
「何意地張ってるのよ。あたしはしっかり朝御飯食べてきたから大丈夫。ゼロス、食べて」
「僕は、ガウリイさんの財布からでた食べ物を、これ以上食べたくないと言ってるんです！」
「……ゼロス。あたし、あんたを怒らせるつもりじゃ……」
「じゃあそれを持って帰って下さい。もう僕に構わないで下さい。さあ……」
リナをはねのけようとして、くたくたと地面にしゃがみ込む。世界が回る。
「ほら、やっぱり無理してる。ねえ、ゼロス。正直、あんたのプライド……のこととか、よく分からないけど、それこそ、サラスヴァティ賞でもストレーガ賞でも取って、ガウリイに奢り返してやればいいじゃない。それまでは、ね、これ食べて」
「……はい」
ベンチに座って、サンドイッチを口に詰め込んだ。涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。ポテトを食べ、卵料理を食べる。空腹が満たされると、心のささくれがより痛んだ。
「アパートに戻ります。出版社から連絡が入っているかも知れないし……」
「ん、わかった。もう少し、一緒にいたかったな……」
リナはバッグから文庫本を取り出して読み始めた。ゼロスは、暗い気持ちでアパートに戻った。
（……！）
留守番電話が光っている。震える指で、再生ボタンを押した。
『オーシャン社の『ガルーダ』編集部です。連載に穴が開きましたので、そちらの作品を急遽掲載させていただきたく……』
ゼロスは、オーシャン社へ一直線に向かった。電車代もないので、徒歩で３駅分を歩いた。

前借りした原稿料を手に、ゼロスは今度は電車に乗って自分のアパートに向かっていた。滞納した家賃の、一部でもいいから払っておきたかった。鍵を、アパートのドアノブに差し込もうとして、手を止める。鍵は、がちっと音を立てるだけで、穴に滑り込まなかった。ふと周りを見ると、小さな机と、何冊かの文芸雑誌、小さな鍋。放り出されるように置いてある。
「大家さん！」
「ああ、メタリオムさんかい。悪いけど、これ以上あんたをここに置いておけなくなったよ」
「あの、家賃の一部をお支払いしようと、こうしてお金も準備してきたんですが……」
「一部一部って、あんたここ半年そればっかりじゃないか。もう、新しい人と契約しちまったよ。あんたは、そこら辺にある荷物を持って、どこなりとも行っておくれ」
「大家さん！すみません、これからはちゃんと家賃も納めますから……」
「その台詞も聞き飽きたよ。荷物は、放置しないで、ちゃんと持っていってな」
「大家さん……」
大家の部屋のドアは閉まった。内側から鍵をかける音がした。


「ゼロス……何、そのテーブルとお鍋」
「リナさんですか」
「しかも、こんな雨の中で、傘も差さずに。風邪、引くよ……っていうか、ゼロス、熱い！熱、あるよ！」
「放っておいて下さい」
「馬鹿！どうやってこの状況を放っておけっていうのよ」
リナに腕を引かれて立ち上がる。熱で世界が歪んだ。
「すごく苦しそう。とりあえず、病院行こう。保険証、持ってる？」
「……持ってません」
「何で？」
「保険料、納めていないんで……」
「とにかく、実費治療でもいい、お医者さんにかかろう！」
「お金、無いんです」
「あたしが払うわ！」
「そんなご迷惑を……」
「やかましい！タクシー！」
リナは、ゼロスをタクシーに引っ張り込んだ。
「ここら辺で一番大きな病院に連れていって」


ゼロスは、ゆっくりと目を開ける。涙ぐんだリナが、覗き込んでいた。
「馬鹿ゼロス。肺炎、おこしかけてたっていうじゃない」
「……あれから、僕はどれくらい眠ってたんですか」
「３日よ」
「ここは……個室ですか」
「ええ」
「入院費は……」
「全部、あたしが払ってるから心配いらないわ」
「ご迷惑を……」
「いいんだってば」
「僕は、いつ退院できるんですか？」
「あと２日はかかるらしいわ。それで、何でテーブルや鍋なんて持ってたの？」
「…………」
「だんまり？」
「アパートを、追い出されて」
「はあ？」
「それで、あの公園で野宿してたら、雨が降ってきて……」
「だから、あんなひどい服着てたのね」
「ひどい服？」
「垢まみれ。はっきり言って、臭ってた。あれは、勝手に処分させてもらったから」
気づくと、ゼロスは水色の綿の着ごごちのいいパジャマを身にまとっている。
「着替えも、買って来なきゃね」
「あの、僕にはお金が……」
「あたしが払うって言ってんでしょ！」
リナは、深紅の瞳から涙を飛び散らせた。
「あたしが、４０度の熱出して呻ってるあんたを見て、どれだけ心配したと思ってるのよ。素直にあたしに払わせなさい！お金お金言わないで！あたしは余るほど持ってるんだから！」
「す……すみません、泣かないで下さい、リナさん」
「泣きたくもなるわよ、実際」
リナは目の縁をこすった。
「あ、それから、退院したらあたしのマンションに来てもらうからね。口答えはさせないわよ」
「分かりました」
「じゃ、ゆっくり休んで。とにかく、あんたの意識が戻ってよかったわ。先生を呼んでくる」
リナと入れ替わるように、白衣の中年男性が入ってきた。
「具合はどうかね」
「おかげさまで、結構楽です」
「熱も３８度台まで下がっているしね。あとは栄養を摂って、ゆっくり休むだけだ。……彼女は恋人かね」
「いえ、知り合いで……」
「ほとんど寝ずに、君の看病をしていたよ。彼女の方が倒れるんじゃないかと思ったほどだ。君が良くなったら、いたわってあげなさい」
「はい……」
「ゼロス、果物買ってきたわよ！何か食べたいものある？」
「林檎を」
「うん！今剥いてあげるからね」
リナは器用に林檎を剥いた。
「あたしも食べよっと」
一つの林檎を半分ずつ、二人で食べた。その甘さに、ゼロスは涙ぐんだ。
「リナさん、仕事は……」
「ああ、仕事？ここ何日かは、休んでるわよ」
「僕のせい、ですね……」
「あーもー、いちいち恩義を感じないと先に進めないわけ？ほんの何日かくらい、いいのよ。それより、早く病気を治して。あたしを安心させて」
「分かりました。ずっと、ついていてくれたそうですね」
リナは赤くなる。
「先生が、余計なこと言ったのね。うん、ずっとついてたわ。だけど、いらない心配はしないでねっ！」
「リナさんは本当に優しい人ですね」
「もお、ほっといてっ！」
照れて膨れてしまったリナを、ゼロスはくすくす笑って見た。


消える飛行機雲　追いかけて追いかけて
この丘を越えた　あの日から変わらず
いつまでも　真っ直ぐに僕たちはあるように
海神(わだつみ)のような強さを守れるよ　きっと


退院の日が来ると、リナは高価そうなスーツを買って、ゼロスに着せた。
「もう代金は払っちゃったから、行こ！」
病院のロビーは広く、大理石の柱が何本も吹き抜けの天井に立っていた。ゼロスは、入院費用のことを考えると、気持ちが暗くなった。病院前に止まっているタクシーに乗り込んだリナは、都心部の住所を告げた。タクシーは昼間の街を走り抜けた。やがて、御影石のシックな入り口の、チョコレート色のマンションに着いた。
「さ、入って」
１０階に上がる。一つのエレベーターは、２つのドアにしか通じていなかった。
「お隣さんの顔、見たことないの」
リナはくすっと微笑んだ。
ドアを開けると、懐かしい匂いがした。ゼロスが子供の頃にどこより好きだった場所……図書館の匂い。
「こっち。その本棚はスライドするから、くぐり抜けてきて」
「すごい量の本ですね」
「ふふっ。父ちゃんと母ちゃんと姉ちゃんの持ってた本、全部買いなおしてるの。なっかなか見つからないのもあったわ。ネットのオークションとかで見つけた本もあるのよ」
本棚の森をくぐり抜けると、リビングだった。奥は寝室になっているらしい。
「とりあえず、シャワー浴びる？」
「そうですね、入院中は身体の清拭だけでしたから……」
「着替え、用意しておくから」
「僕の服、また買ったんですか？」
「Ｔシャツとジーンズよ。気にすること無いわ」
「さっきのスーツは……」
「もお、しつこいなあ。気にしないでって言ってるでしょ」
「すみません、いつか返します」
「サラスヴァティ賞やストレーガ賞でも取ったらね。それまでは、貸しにしとくわ」
「……分かりました」
「あんたの机、処分しちゃったけど構わなかった？」
「ええ。安物ですから」
「あんた、パソコンとかは持ってないの？」
「持ってませんが……？」
「じゃあ、原稿はどうやって書いてたの」
「どうって……レポート用紙に」
リナは呆れた顔をした。
「あたし、パソコン持ってるから、今度から執筆はそれでしなさい」
「僕はパソコンなんて扱えませんよ」
「簡単よ。要は、ワープロソフトかエディターソフトが扱えれば済むことでしょ？しばらくは、あたしが教えてあげる。……顔色、良くないね」
「少し疲れて……でも大したことありません」
「退院したばっかりだものね。シャワーを浴びたら、しばらくあたしの寝室で休んでいて」
寝室は、殺風景だった。広いベッドの脇に、山のように積み上げられた雑誌や本。
「はい、パジャマ」
リナは、入院していたときとは違うパジャマを差し出した。
「スーツは、そこのハンガーに掛けてね。皺になっちゃうから」
ゼロスは、パジャマに着替えると、ベッドに潜り込んだ。リナの甘い匂いがする。
「じゃあ、おやすみ」
リナは寝室の電気を切った。ゼロスは、眠りの中へ落ちていった。

目を覚ますと、部屋は暗かった。手探りで灯りをつけると、ベッドサイドに書き置きがあった。

　ゼロスへ

　どう？よく眠れた？
　急な仕事が入ったので、出かけてきます。
　晩ご飯は、この近所においしいレストランがあるので、
　そこで済ませて下さい。（地図描いておくね）
　ジャケット着用の店なので注意して。
　お金は、このメモの下に置いておきます。

ゼロスは、地図をたどってレストランにたどり着き、決して安くはないディナーを食べた。家に戻ると、やることもなかった。ベッドに戻り、天井を見つめながら、新しい小説の構想を考えた。リナの香水の匂いが、ときおり思考を途切れさせた。
リナは、夜中過ぎに戻ってきた。
「ゼロス？起きてる？」
小さな声。
「起きてますよ」
「えへへ……うちに帰ったら誰かがいるって、嬉しいなあ。久しぶりの感覚。お腹、空いてない？」
「貴女のご推薦のレストランでお腹いっぱいいただきましたから。まだ空いてませんよ」
「じゃあ、あたしだけ、チーズクラッカー作って食べるわね。ふー、疲れた」
かき上げた髪からうなじが見える。リナが何に疲れてきたのか……それを思うと、ゼロスは激しい動揺を感じた。
「ちょっと、寝室から出て。着替え、するから」
「はい」
リナは、ピンクのパジャマに着替えると、リビングにでてきた。クラッカーに、分厚く切ったチーズを載せて囓る。
「リナさん」
「なあに？」
「僕も、欲しくなりました」
「素直でよろしい」
（僕も、欲しくなりました……貴女が）




と、いうわけで、リナちゃんとゼロスの同居が始まります。この人たちはいつまでも恋に落ちなくて、作者としても焦っております。でも、心の中では既に惹かれ合っているのでしょうね。それでは、今後ともよろしくお願いします。
ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。寝ずの看病をするリナちゃん。ゼロスが入院した病院は、うちの近所の病院をモデルにしています。新築で大きくて、それこそ大理石がふんだんに…市立病院ですが。


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