遠い旅路の目的地[５]
わずかな希望と、わずかな路銀。油虫の這い回る安宿に泊まりながら、リナは目眩や吐き気が去るのを待った。しかし、吐き気はひどくなっていくばかりだった。食事もほとんど取れず、枕元の洗面器の上にかがみ込みながら、リナは下腹をさすった。そこは僅かに膨らんでいるように感じた。 （産むことはできない） ゼロスを探す。それだけのために永遠の命を得たのだ。子供を育て、一人前にすることはできない。かといって、孤児院に預けていくこともできない。 （堕ろさなくちゃ……） 赤の竜神（スィーフィード）の教えの下では、堕胎は罪である。闇の医者がひっそりと行っているというが、リナにはもう余分の金は無かった。 夜。冷たい秋風の中、リナは川に入っていった。水は身体をしんしんと冷やしてゆく。 （あたしは、たとえ肺炎になっても、死ぬことはない。これで堕りてくれたら──） 一歩。また一歩。リナは流れる水に足を踏み入れていく。 （神様……助けて） 神に許されない行為を、神に許されない女が、神に祈る愚かさ。水は胸まで来ている。リナは凍える足をもう一歩進めた。 「何やってるのよ！」 鋭い声に、リナは顔を上げた。暗くてよく見えないが、髪の長い女が、ばしゃばしゃと水を跳ね飛ばしながら、リナに近づいてきた。 「あ……あの」 「馬鹿なことは止めなさい。何があったか知らないけど、死んだら元も子もないじゃない！」 女はリナの腕を掴んだ。強い力だった。そのまま、引きずるように岸へ引っ張られる。 「放して！ 貴女には関係ない」 「見つけちゃったんだもの！ もう見過ごせますか！」 弱ったリナに、女に逆らう力は無かった。数分後、二人はぜえぜえと息をついて、岸にいた。女もリナも、髪までずぶ濡れになっている。 「ば……か……」 女はリナの肩を両手で掴む。 「そんなに若いじゃない。そんなに綺麗じゃない。死ぬなんて考えるの、早すぎるわよ」 「あたし、死のうとしてたんじゃないのに……」 女はきょとんとした顔をした。 「じゃあ何？ こんな季節に、夜の水泳？ 服のままで？」 「……何でもないの」 「何でもないわけないでしょ！ このミンシア姐さんに話してご覧。力になるから」 優しい言葉だった。ずっと不安と恐怖に占められていた心が溶けていく。リナは泣き出した。冷たい頬に、熱い涙が止めどなく流れた。ミンシアと名乗った女は、そっとリナを抱きしめた。 「……どうしたの」 「妊娠したの。でも、産むわけには行かなくて……お金もなくて」 「……そう。怖かったわね。辛かったわね。でも大丈夫。あたしの知り合いの医者に頼んで上げる」 「お金、無いのよ。払えない」 「馬鹿ね。ミンシア姐さんのおごりよ。行きましょ。こんなところにずぶ濡れでいたら、二人とも風邪引いちゃうわ」 リナは泣きやまなかった。ミンシアは、指の長い手でしっかりとリナの肩を支え、歩き出した。 魔法の明かりが、派手な紫やピンクのガラスを照らし出す。美しく化粧した女たちが、ガラス窓の中から微笑みを送る。そんな店先に、リナは連れてこられた。 「……ここは」 「娼館よ。まあ、こんなところだけど、あったかいお風呂と、柔らかいベッドには事欠かないわ」 ミンシアはリナを部屋に招き入れ、熱い湯でリナの身体を温めた。 「こんな服しかないけど」 薄く透けるネグリジェを着せられ、柔らかく沈むベッドに寝かされた。 「ここに、洗面器置いとくからね。じゃあ、あたしはひとっ走りお医者さんのところへ行ってくるよ」 リナは、久しぶりの清潔で心地よいベッドの中で足を伸ばした。冷たい川の中での出来事は、遠い幻のようだった。不思議と、あんなに苦しめられた吐き気はこみ上げてこなかった。安らかに眠った。夢も見なかった。 「よく寝てたね。よかった」 次の日、リナはミンシアに手を引かれて、路地の奥のぼろアパートの一室に入った。診察台が冷たい光を放っている。 「ここの先生はね、そりゃまあヤミだけど、腕は一流だから」 ミンシアの微笑みに、リナは曖昧な笑みで応えた。 下半身を隠すようにかけられたカーテンの向こうで、医師の指が動く。 「二ヶ月、ですね。本当に産む気は無いんですね？」 「はい」 「後悔しませんね？」 「……はい」 「じゃ、処置します。大丈夫、すぐに終わらせますから」 膣を通り抜けて、子宮口にひんやりとした金具が差し込まれた。リナは、手を握りしめて、不快感に耐えた。内臓をかき回される痛み。小さくうめく。 気がつくと、あの診療台からは下ろされていた。誰かが、温かい手でリナの手を握っている。ミンシアだった。 「もう大丈夫。あと一週間くらいは出血があるけど、あんたの体の中に、もう何もいないよ。……どんな男が、あんたにあんな事を」 「分からないの。……多すぎて」 「そっか。悪いこと訊いたわね。辛い思いしてきたんだね。ゆっくり休んで。いい物を食べて」 「貴女に、そこまでしてもらうことはできないわ」 「リナ」 前髪をかき混ぜられる。その時気づく。この女性（ひと）は……ガウリイに似ている。目の色も、髪の色も、違うけれども……。 「しばらくは、黙ってあたしの世話になってなさい。いいわね」 リナは、久しぶりににっこりと微笑んだ。 ミンシアは娼婦だった。長い黒髪を結い上げ、ガラス窓に座る。指名があれば、客を部屋に招き入れ、相手をする。ひとときが終わると、店の前まで出て客を見送る。 リナは、娼館の一室を与えられ、栄養のあるものを食べさせられた。いつからか大理石のような白い頬に赤みが差し、藁のようにぱさぱさだった髪が潤った。ある日の昼間、リナはミンシアを訪ねた。 「ずいぶん元気そうになったわ。もう大丈夫みたいね。お金は足りてる？ 服や靴も買った方がいいでしょう」 「ミンシア、お願いがあるの」 「何でもどうぞ」 「あたしを、ここで働かせて」 ミンシアは眉をひそめた。 「あんたは……男にあんな目に遭わされて、こんなところで働けるの？ つらくはない？」 「いいの。自分のお金だって欲しいし」 「ミンシア姐さんは金持ちなんだよ。小遣いなら、いくらだってあげるよ」 「ミンシアの気持ちは嬉しい。でも、やっぱり、自分で稼ぎたいから」 「……わかった。多分、あんたなら売れっ子になるよ」 リナは、薄く化粧をし、香水を塗り、体の線が透けて見える服を着せられ、ガラス窓に座らされた。 「これを飲んで」 小さな錠剤を渡される。 「何？ これは……」 「月のものを止める薬だよ。これで、望まない妊娠はしなくなる。もう二度と、あんなに傷つくんじゃないよ」 リナは、自分の身体で男を癒すことを覚えていった。甘い声。蠱惑的な笑み。男の背中にしがみつく脚。他愛のない、客とのおしゃべり。リナは、娼館でも一番の売れっ子になった。 「さすがだね、リナ。あんたには才能があるわ」 ミンシアは水煙草を吹かしながら言う。 「あんたは……なんて言ったらいいのかな、頭がいいのよ。飲み込みが早い。客が何を望んでるかをちゃんと分かってる。それが分からなくて、何年男と寝ても、ちっとも売れない女だっているのさ。リナ、あんたは……」 ミンシアはリナの頬に手を触れる。 「高貴な生まれ、ってことはない？」 「違うわ。あたしの実家は商いをしていた」 「じゃ、いい学校を出たとか。金持ちの婚約者がいたとか。……魔導をたしなんでいたとか」 リナは、下を向いて唇を噛んだ。 「全部違うわ。あたしは、ただの娘よ」 
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