遠い旅路の目的地[６]
「じゃあね、リナちゃん。また、君を買うよ」 「ありがとうございました。またのお越しを」 リナは、微笑みを浮かべて客を見送った。その笑みが、愛想笑いなのか、心からの笑みなのか、リナにももう分からなくなっていた。胸の大きく開いた、身体の透けるネグリジェに、絹の靴下を止めたガーターベルト。紅茶色の髪をかき上げ、館の中へ戻ろうとしたとき、聞き覚えのある高笑いが響いた。 「おーっほっほっほっほ！ ついに見つけたわよリナ＝インバース。何年ぶりかしら？」 リナは咄嗟に柱の影に隠れた。 「ほほほ、それで隠れたつもり？ この白蛇（サーペント）のナーガの眼はごまかせないわよ。観念して出ていらっしゃい！」 人通りの多い、娼館の前。相も変わらない派手な黒の衣装を身にまとった女が高笑いしていれば、嫌でも人の目につく。皆が、怪訝そうな眼をしてナーガを見ていく。 「ああもう、わかったわかった！ 久しぶりね、ナーガ。じゃ、さよなら！」 ドアの奥に引っ込もうとすると、ナーガは閉まるドアに足を突っ込んできた。重いドアに足が挟まる。 「いったー！ な、何をするのよ！ 卑怯よ、リナ＝インバース！」 「あんたねえ！ 堅い革靴でもないのにそんな真似したら、骨が折れても知らないわよ！」 店の中で、ミンシアがくすくす笑っていた。 「お友達？」 「いーえ、違います。不吉な奴です地獄の使いです、あー、手を放して！」 「放さないわよリナ！」 ミンシアはけたけた笑う。 「リナ、あんたのそんな顔初めて見た。すっごく楽しそう」 「どこがー！」 「いいから行ってきなさい。懐かしいお友達なんでしょ」 ドアのすき間から身体を差し入れたナーガが、ミンシアを指して言う。 「誰だか知らないけど、女、話が分かるわね。そう、私とリナは古い知己。縁の深い存在なのよ。さ、リナ、一杯飲みに行きましょ。あんたの奢りでね」 「わかった、飲むから、奢るから！ せめて服を着替えさせて」 「服。」 ナーガは、ふと気づいて、リナの全身を見回した。 「あんた、幼稚な身体に似合わない、何て格好してんの」 「あんたに言われたくないわね！ いい年して、まだその格好なの！」 とりあえず綿のワンピースを頭からかぶって、リナはナーガと共に歓楽街を歩いた。一軒のバーに入る。 「いらっしゃい、リナちゃん。今日はお仕事お休み？ ……そちら……は……お友達、かなあ」 滅多なことでは顔色を変えないバーのマスターが、ナーガの格好を見て青ざめる。 「古い友人よ。マスター、いつもの」 「私はブランデーをもらうわ。ジョッキで」 「はあ、ジョッキで、ですか」 二人はカウンターの隅に落ちついた。 「で？ 何やってるのよ、リナ。何かの仕事であんなところに潜入してるの？ 力になれるなら、手伝うわよ。報酬山分けで……」 「違うの、ナーガ」 リナは、ナーガの顔を見た。懐かしい、黒髪。綺麗な眉。一緒にいろんな仕事をしていた頃の、無邪気で、何も知らなかった自分。 「あたしはあそこで働いているの」 「馬鹿言いなさい。まああんたは金が大好きだったけど、あんなところで働かなくても、盗賊をちょちょいとひねれば、お宝は山ほど……」 「あたしは、もう魔法は使えないの」 「嘘……」 「使えないの。」 「何よ。馬鹿なこと言わないで」 リナは、てのひらを上に向けて、懐かしい呪文を唱えた。 「灯り（ライティング）」 魔力の灯りはともらない。 「嘘よ。嘘でしょ。だまそうとしたって……」 「何なら、ドラグ＝スレイブを唱えたっていいわよ。あたしには、もう何の魔力も残ってないの」 ナーガの深い緑の瞳に、激しい動揺が浮かんだ。 「私は……あんたの最大の、生涯のライバルで」 「その関係はもう終わったの。何なら、世界最高の魔導士はあんただって、認めてもいいわ」 「リナ！ 誰かに呪われたの。なぜ魔力を失ってるの。どうにかすれば復活するんでしょ。認めないわ、こんな勝ち方なんて！」 「あたしはね、望んで自分の魔力を捨てたのよ」 「なぜ！」 ナーガの悲痛な絶叫に、店中の客が振り返った。 「恋人を、探すためよ。この世界のどこかにいる、大事な恋人を──」 リナの肩を掴んでいたナーガの力が抜けた。ジョッキに注がれた琥珀色のブランデーを一口飲む。肩をふるわせて、ナーガは黙っている。そして、その唇が動いた。 「私より、大事なのね？ その人は」 「ナーガ……」 「私には、あんたしかいなかったのに」 「……」 「離れても、ずっとライバルだと思っていたのに。あんたは、勝手に、あたしの知らない男のために魔力を捨てたのね」 「……ごめんなさい」 「裏切り者！」 リナは、唖然とした。ナーガは泣いていた。形のいい顎から、涙は何滴もしたたり落ちた。 「ごめんなさい」 それだけしか言えない。リナは、しゃくり上げるナーガの背中をそっとさすった。しばらくして、ナーガは潤んだ目を上げた。 「なぜ、あんな……その……仕事を、してるの」 「お金が必要なの。生きて行くには」 「パン屋でも食堂でも宿屋でも八百屋でも魚屋でも肉屋でも、仕事はいくらでもあるでしょう！ なんであんな、いか……がわしい仕事をするのよ！」 「昼間は、自由だもの。街を歩いて、人を探せる」 「あんたのいい人は、この街にいるの」 「分からない」 「どこにいるの」 「見当もつかないわ」 「馬鹿！ その人が見つかる前に、あんたは老いぼれて死んじゃうわよ」 「死なないわ」 「……え……」 「あたしは、魔族と不死の契約を結んだの。死ぬことはないわ」 「……その人を、探すために？」 「ええ」 「その人の方が、先に死んでしまうんじゃないの？」 「死ぬかもね。でも、生まれ変わる。そして死んで、また生まれ変わる。巡る命のどこかで、彼と巡り会えたら……あたしはそれでいいのよ」 「リナ」 ナーガは、リナの頬にそっと口づけた。ブランデーの甘い匂いが漂った。 「あんたは、あたしの全てだった」 「ありがとう」 ナーガを見送って、リナは娼館の自分の部屋に帰った。馬鹿で、お人好しで、優しかった友だち。切ない頬への口づけ。 『裏切り者！』 悲痛な叫びが、胸の奥にひりひりと残っていた。 「どう？ お友達とは、楽しく話せた？」 「……ミンシア」 「なかなかエキセントリックな人みたいだったけど」 「あの子と一緒にいた頃のあたしは、１３から１４で……何も考えず、ただ楽しく、旅をしていた。でも、きっとあたしはあの子を傷つけたわ。多分、もう会えない」 「リナ＝インバース」 リナは顔を上げた。 「その名前は……」 「さっきの女の子が叫んでたじゃないの。リナ＝インバースって。……『どらまた』。『ロバーズ・キラー』」 「……そうよ」 「ふうん……」 「あたしは、かつてそう呼ばれた。でも、今は違うの。ただ、『リナ』よ。この娼館の、ナンバーワンの売れっ子」 「リナ」 ミンシアは微笑んだ。その微笑みは、……いつもそう思わせるけれど、ガウリイに似ていた。 「あんたが何者であれ、あたしはあんたが好きだからね」 「あたしも。ミンシア、大好きよ」 「もう、寝なさい。お酒飲んできたんでしょ」 「ええ。おやすみなさい」 冬を、リナはその街で過ごした。稼ぎで、温かなコートを買って、それをまとって街ゆく人を眺めた。旅人の多い街。見覚えのない顔が、目の前を通り過ぎていく。赤ん坊を抱えた母親がいると、リナは夢中で赤ん坊の顔をのぞき込んだ。そこにゼロスの面影がないかを確かめるために。 雪解けの頃、結論は出た。もう、この街のあらゆる路地をまわってしまった。この街に、ゼロスはいない。リナは旅支度をした。 「行ってしまうの？」 ミンシアは、リナに茶色の小瓶を手渡した。娼婦に配られる、月のものを止める錠剤が一杯に入っていた。 「もう二度と、傷つかないように」 「高価かったんじゃ……」 「餞別代わりよ」 「ミンシア……ミンシア」 リナは、優しかった人を抱きしめた。 「貴女のこと、忘れない。あの心細かった夜に、川から引っ張り上げてくれたこと……それから色々なこと」 「リナ。貴女には幸運がついてるわ。きっと、探してる人はいつか見つかる。希望を捨てないで」 リナは、昼間の色あせた娼館の前に立った。化粧を落とした娼婦たちが、リナを見送った。リナは、街道へ向けて歩き出した。 
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