遠い旅路の目的地[１７]
リナは、黒く重い修道女の服に身を包んだ。深く頭巾を被った。老修道女の導くままに、教会を掃き清め、休日ごとのミサを司った。貧民街を巡り、病んだ貧しい人々に施しと、祈りを与えた。リナはもう旺盛な食欲を見せなかった。老修道女とともに素朴なパンと薄いスープを飲み、今日の糧があることを赤の竜神（スィーフィード）とスィーフィード・ナイトに感謝した。老修道女が言ったように、リナは貧しき人々に、病める人々に、そして教会の周りの深い緑と小さな動物たちに、ゼロスの面影を感じた。それは遠い昔に失った、深い安らぎだった。 ある日、リナは急な腹痛と違和感に、トイレに駆け込んだ。血に汚れた下着を見て、リナは微笑んだ。この教会に来て、千数百年ぶりに、リナはあの薬を飲むのを止めたのだ。温かく滴る血は、彼女がまだ生殖能力を失っていないという、嬉しい知らせだった。 程なく、老修道女は死の床についた。リナは彼女の看病をしながら、多くの温かい言葉を聞いた。彼女が亡くなると、リナは彼女の墓を作り、それを護った。時が流れた──。 小さな栗鼠が、リナの与えたクルミを噛み砕いている。微笑んでそれを見守っている彼女の前に、髪を凝った形に結った一人の女性が、ふっと姿を現した。 「リナ＝インバース」 「あなたは……確か、ヒュレイカー、さん。懐かしい……姿が変わっていない、ということは、あなたは魔族だったのね」 「ええ、そうです。プリースト・ヒュレイカー」 「プリースト？」 「海神官です」 リナは、静かに座っていた。深く被さった頭巾の奥の表情は見えない。 「私は、遠い昔、獣神官ゼロスと戦いました。あなたも知っている通り、私はあなたの姿に化けました。ゼロスは、あなたの姿を庇って、あなたの姿をした私の不意打ちを受け……滅びました」 リナは、袖からもう一つクルミを取り出すと、栗鼠に与えた。栗鼠は熱心にクルミを囓る。 「それから、私はあなたを見てきました。最初は単なる興味でした。あの強かったあなたが、陵辱され、罪に堕ちていくのをただ見ていました。あなたを愚かだと思いました。あなたが人を殺めたときさえ、私は笑っていました。人間はなんと弱いものだろうと」 リナはヒュレイカーを、頭巾の奥から優しく見つめた。 「あなたは無感覚の海に堕ち、営々と罪を重ねました。……ただ一人、この世のどこかにいる人間を求めた。……私は……魔族らしからぬ感情が湧いてくるのに気づいたんです」 ヒュレイカーは眉をひそめる。 「あなたの思いは貴いものではないかと……私は許されない間違いを犯したのではないかと。ゼロスが滅んでさえいなければ、あなたは苦しみの海に堕ちることはなかった。でもあなたは……今、安らかです。あんなに振り撒いていた負の感情を、今は少しも感じない。あなたは、自分の力で、苦しみの海の彼岸まで泳ぎ着いたのです」 ヒュレイカーはひざまずいた。 「今日ここへ来たのは、私一人の判断です。海将軍リクスファルトも、もちろん我らがあるじ、海王ダルフィンも知りません。私は……後悔しています。あなたを、激しく、怖ろしく、血にまみれた場所へ突き落とした事を。私は」 リナの、優しい瞳。 「許しを、乞います」 リナは、小さな手でヒュレイカーの頬に触れた。 「あなたを許します」 「リナ＝インバース……」 「あたしは、あなたを恨んだりしません。今日、ここに来てくれたことを感謝します」 「なぜ……なぜあなたは、そこまで強くなれたの？」 「姉ちゃんのお導きよ」 リナは頭巾から顔をのぞかせ、いたずらっぽく笑った。 「聖女リナ、頭巾を取れ」 男は、修道女にナイフを突きつけた。レリーフの前。修道女は動かない。 「殺すぞ。本気だ」 「あたしに、頭巾を取って欲しいの？」 「お前がこの教会に来てから７０年が経つという。婆さんの面を拝ませてもらおうか」 「なぜ？」 男は、唾を飲み込んだ。 「お前は、不老不死の存在だと聞いたことがある。それを確かめに来た。さあ、その頭巾を取るんだ」 修道女はゆっくり頭巾を取った。男は息を呑んだ。柔らかく波打つ紅茶色の髪。若い……と言うよりも、あどけない顔立ち。果実のような、あかい唇。金の産毛が光る頬。全てを映す、深紅の瞳。ステンドグラスの光を浴びて、聖女リナは美しかった。 「やはり、お前は不老不死……」 「あなたは、不老不死を得て、何をしたいの？」 聖女リナが問うた。 「そ……そりゃ、金を……金を集めて、女を侍らせて……旨いもんをたらふく食って、……その……」 男はナイフを下げた。 「畜生、下らねえな。俺が馬鹿みてえだ」 男は、小さな声で言った。 「あんたは、いつから生きてる？」 「千年の昔から」 「何のために」 「愛する、一人の男を探すために」 男は、力無く笑った。 「そらみろ、あんただって、下らない目的のために……」 「あなたの中にも、彼が見える」 男は立ちすくんだ。聖女リナの切ない目に射すくめられて。聖女リナは、男の頬を撫でる。 「聖女リナ……」 「街の皆はあたしをそう呼ぶようね。でも、あたしは聖女ではありません。ただ、長い時を生きてゆく女です」 男は、改めてナイフを構えた。 「ふ、不老不死はいい。分かった。じゃあ、金だ。旨いものと、女を買うための金だ。信者の布施が相当あるだろう」 「……そうね。でも、教会の信者さんたちから預かったお金は、大事なもの。あなたにあげるわけには行きません。その代わり、あたしは、かつて自分で稼いだお金を持っている。……今まで、どう処分していいか分からなかった、汚れたお金です。あなたに差し上げます」 聖女リナは奥へ引っ込み、大きなトランクを引っ張って出てきた。 「開けてみて」 男は、留め金を外した。纏められてもいない、紙幣が風に舞った。 「これは……この金は」 「あたしが修道女になる前に、娼婦として稼いだお金です。持っていって下さい。……出来ることなら、あなたを幸せにするために、使って下さい」 男は、放心したようにナイフを投げ捨てた。 「いらない。その代わり、あんたの祝福をくれ」 「祝福？」 「あんたのその可愛らしい唇に、キスさせてくれ」 聖女リナは微笑んだ。そして、男の唇にゆっくりと口づけた。 「あなたは、彼だもの。あたしは、あなたにキスしたかったわ」 男は去っていった。聖女リナは金の詰まったトランクを片づけ、レリーフの前で瞑想に入った。 教会の告解室はいつも開けられていた。誰かが入ってきて、罪を告白した。小窓の向こうの聖女リナは、あらゆる罪を受け入れ、許した。その人が心から悔いているのならば、強姦であれ、……殺人であれ。 「あなたが殺めた人の魂は、転生の輪に入ります」 聖女リナの声は語る。 「遠い未来、今度はあなたがその人に尽くさねばならないかもしれません。その運命を静かに受け入れ、今度こそ、その人を愛するのです。あなたは、そこに安らぎを見出すでしょう」 
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