遠い旅路の目的地[１８]
そして、最後の戦争が始まった。もはや男たちは兵士として戦場に駆り立てられる事はない。ただ、大きな都市が次々に滅びてゆく。核は核を呼び、報復は報復を呼んだ。地上にあるあらゆる核兵器は発射台に備え付けられ、静かに飛び立つときを待っていた。 スィーフィードナイト記念教会には、いつ来るか分からない怖ろしい死に怯える人々が集った。聖女リナは、頭巾の下から静かに微笑んでいた。そして、震える人々に、姉の横顔を浮き彫りにしたレリーフを触らせた。 「祈るのです。あなたたちのために。世界中で怯えている、あなたたちの同胞（はらから）のために。この戦争に『敵』はいません。全ての人を。全ての命を愛し、受け入れるのです」 そう。遠い昔に、ガウリイが、ゼルガディスが、アメリアが、ナーガがそうしてくれたように。 ゼフィール・シティがミサイルの射程に入ったというニュースが流れた。金のある人々は、地下にシェルターをこしらえ、そこに引きこもった。そうでない人々は不安を抱えながらも街を捨てなかった。どうせ、どこにも安全な街などありはしないのだ。 蒸し暑い日だった。太陽は姿を見せず、分厚い黒い雲が空に垂れ込めていた。聖女リナは、教会の前を掃除しながら、ふと顔を上げた。雲が割れて、さっと美しい光が射し込んだ。銀色の輝きがそこに現れる。 「天使──」 悪魔の塊は弾け、強烈な光が聖女リナの目を灼いた。そして熱線。聖女リナの黒い修道女の服が燃え上がる。暴風が後に続き、聖女リナの身体を崩れゆく教会の壁に叩きつけた。 聖女リナは目を覚ました。 「生きてる……」 胸から下げた「契約の石」はまだ砕けていない。聖女リナは生きていた。痛むからだをひきずって起こす。教会は──「スィーフィード・ナイト記念教会」は、一塊りの石の群となって崩れ去っていた。丘の上から街を見る。ビル街は熱線に黒ずみ、まだ街のそこここで炎が揺らめいていた。 ぼろぼろになった修道服を引き裂いて胸と腰を隠し、聖女リナは街へ降りた。ほとんどの人は最初の光と熱線に殺されていたが、もちろん生きている人々もいた。全身にひどい火傷を負い、消えてしまいそうな命を抱えて。聖女リナは死にゆく人の手を握り、勇気づけ、祈り続けた。 雲は晴れなかった。そして、雨が降った。べっとりと肌に張り付く、嫌な臭いの、濁った黒い雨。人々はその雨を避けることすら出来ず、ただ横たわっていた。 火傷を負った人々が亡くなると、別の問題が起きた。食糧難と、──白血病だ。やせ衰え、体力を無くした病人たちは、髪が抜け、あちこちに内出血を起こし、目眩と吐き気の中で弱っていった。リナは、忙しく立ち振る舞って、彼らの看護を続けた。出来ることは、ほとんど何もなかったけれども。 「聖女リナ、あんたは傲慢だ」 髪が抜け、歯茎から止まらない血を流し続ける一人の男がリナにそう言った。 「俺を見ろ。口の中は血の鉄サビの臭いで一杯だ。身体中に青あざが出来て、髪も抜けてしまった。こんなに醜くなって、俺は死んで行くんだ。それにくらべて、あんたの美しさはどうだ」 薄日に輝く豊かな髪。白く、柔らかな頬。 「あんたは不老不死だという。あの爆弾が光った日にも、あんたは何の傷も負わなかった。そんなあんたが俺たちに安らぎを与えるだと？ ちゃんちゃらおかしいね。あんたを見ていると、嫉妬と憎しみで苦しくなる。ここから去れ。その美しい姿を見せるな」 「あなたの気持ちはわかります……」 「いや、分かってない。死を知らないあんたに、俺の気持ちは分からない」 聖女リナは、胸に下げた袋から、小さな乳白色の珠を取り出した。男に握らせる。 「……なんだ、これは」 「あたしの命です」 「なんだと」 「床にぶつけるだけで、簡単に砕ける。──死が怖いのならば、あたしはあなたと一緒に逝きましょう。あなたが天国へゆけるように、あなたの先を歩いていきましょう」 男は、毒気を抜かれた顔をして、聖女リナに珠を返した。 「あんたは、不死というわけじゃなかったんだな」 「ええ」 「俺はもうすぐ死ぬ。でもあんたは生きてくれ。俺みたいな、恐がりの馬鹿な人間のために。……ひとときでも、俺にあんたのすべてを預けてくれたことを感謝する」 男は喋り終えると、疲れたように目を閉じた。聖女リナは微笑んでいた。目の落ちくぼんだ、その男の顔の上に、愛する者の面影を見出して。 「お姉ちゃん……リナお姉ちゃん」 皆、聖女リナの手を握って死んでいった。その街に最後に残されたのは、小さな男の子だった。彼も、他の者と同様に病んでいた。髪も歯も抜け、パジャマとも呼べない布きれにくるまっていた。 「お姉ちゃん……お願いがあるんだ」 「何でも聞くわよ」 「お姉ちゃんのおっぱい、さわらせて」 聖女リナは微笑んだ。そして、胸を覆っている布を、そっとほどいた。 「お姉ちゃんはね、おっぱい小さいわよ。がっかりしないでね」 少年は、聖女リナの白い乳房に触れた。 「柔らかい……あったかい。ああ、目が見えたらな」 少年の目は、あのミサイルの放った最初の光で焼きつぶされてしまっていた。 「お姉ちゃん」 「なあに」 「このおっぱいから、いつか赤ちゃんにお乳をあげるの？」 聖女リナは静かに答えた。 「いつかね。あたしに赤ちゃんが出来たら」 少年は、命が絶えるまで聖女リナの胸をさわっていた。手が冷たくなり、床に落ちると、聖女リナは立ち上がった。携帯ラジオのスイッチを入れ、ダイヤルをひねる。言葉一つ、音楽の一小節、それは拾わない。聖女リナは旅に出た。雲は晴れないまま、冬が迫っていた。 聖女リナは川を渡った。全ての山に登った。誰にも出会わなかった。一つの命さえ、見つけることが出来なかった。旅のところどころで、聖女リナはラジオのスイッチを入れた。相変わらず、ダイヤルをいくら気をつけてひねっても、言葉は流れてこなかった。見渡す限りの荒野。植物の一本も生えていない。旅の途中で、厳しい冬が訪れた。雪が、嵐が、聖女リナのぼろぼろの服を吹きさらした。 ある雪の山の中で、聖女リナは足を止めた。巨大なゴールド・ドラゴン。その上に、護るように覆い被さったエンシェント・ドラゴン。翼は破れ、まぶたは堅く閉ざされている。 「フィリア……ヴァルガーヴ」 聖女リナの瞳から涙が溢れた。二体のドラゴンの身体は、半ば雪に埋もれていた。 「最期まで、あんたたちは愛し合っていたのね」 聖女リナは、二人の固く冷たい身体に寄り添って一夜を明かした。そして山を降りていった。 長い長い旅は終わった。深い雪の中、聖女リナはかつてゼフィール・シティと呼ばれた場所に帰ってきた。ラジオは、世界中で何の音も拾わないまま、電池が切れた。聖女リナは丘へ登り、教会だった岩の塊に触れた。熱と氷に交互に晒されたその塊は、触れると手の中で砕け、砂と変わった。聖女リナは砂の中を手探りした。かつて姉の姿を鮮やかに映しだしたレリーフは、一滴の金属の塊となって、砂の中に埋まっていた。 ある朝、聖女リナは街の方に金属音を聞いた。何かが地面の中から射出される音。 （シェルター……！） 裕福な人々が、ミサイルがこの世界を滅ぼす前に身を隠した殻。聖女リナは、雪を蹴立てて駆けた。街の中央部に、どこか丸い虫に似た金属の部屋が、姿を現していた。聖女リナはそのドアを叩いた。 「誰か！ 誰か生きていませんか！ 誰か……」 返事はなかった。聖女リナは扉の側にある、あらゆるボタンを押してみた。それらは、作動しない……というより、死んでしまっているように思えた。聖女リナは街を歩いて平べったい金属片を拾い、シェルターのドアをこじ開けた。弱い女の力で、ドアは簡単に開いた。 「……！」 シェルターの中の様子は、酸鼻をきわめた。人々は、僅かな食料を巡って争い、ナイフで、そして素手で殺し合っていた。先に死んだ者は肉を食べられたらしく、腐りきった死体に白い骨の部分を見せている。聖女リナは、力を失って座り込んだ。その膝に、誰かが触れた。 「たべもの……を」 顔も身体も半分腐っている、男か女かも分からない人間が、聖女リナに話しかけていた。 「食べ物はないわ」 「うそだ……お前は、そんなに美しい」 「本当よ。もう、樹の一本も、草の一本もない。あなたにあげられる食べ物はなにもない」 「ならば……お前の肉を喰わせろ。血をすすらせろ。苦しいんだ。渇いているんだ」 聖女リナは、腕を差し出した。腐肉の中で奇妙に光る白い歯で、人間は聖女リナの腕に囓りついた。しかし、その弱い力で、肉を食いちぎることも、皮膚を破ることさえ出来なかった。 「肉を……にくを……」 半ば腐った人間は、それだけをつぶやきながら死んでいった。 聖女リナは、独りぼっちになった。もう誰も、彼女を聖女とは呼ばない。リナは、名前のない少女になった。名も無き少女は、教会のあった丘へ戻った。雪を降らせ続ける雲へ向けて、指を組み、祈った。 冬は何年も続いた。少女は雪の塊だけを食べて生き続けた。激しい雪嵐に、少女は身を晒した。冷たい雪と、鋭い風が、少女の身体を洗い、その魂を清くした。永遠に続く冬の中で、少女は時間の感覚を無くしていった。ただ、少女の身体は規則正しく血を流した。一月が過ぎたことを知り、少女は微笑む。温かな血が雪の大地に滴り、硬い氷をわずかに溶かした。 冬の中で、少女の服はだんだん千切れて小さくなっていった。そして少女は裸になった。肌は白ざめ、唇は色を無くした。少女は教会のあった丘から、降りることはなかった。どんな苦しみも、彼女を絶望させなかった。彼女は右手に彼女の命である「契約の石」をしっかりと握っていた。風の中から、雪の中から、かつての彼女の仲間たちが……そして彼女のたった一人の恋人が語りかけた。少女はその響きを胸に、じっと厳しい寒さに耐え続けた。 
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