遠い旅路の目的地[１９]






　どれだけの時が過ぎ去ったのか。雪が止んだ。雲が途切れ、光が地面まで射し込んだ。そして、温かな雨が降った。雨は少女の指先のしびれを溶かし、ひび割れた爪先にしみ込んだ。少女は優しい雨の中で歓喜の声をあげた。雨は、声に応えるように少女の全身を包み込んだ。
　砂の大地は、幾度も降る雨を吸い込んで、黒く、柔らかくなった。少女はその大地に光が降り注ぐのを見た。そして、小さな緑の芽が、少女の傍らに萌え出でた。少女はその芽に触れ、ささやいた。
「あんたはこうして何度もあたしの元へ帰ってくる。ゼロス！……ゼロス、会いたかったわ」

　緑は大地に溢れた。少女は、四つん這いになって、草の葉を食べた。みずみずしく、青い、生命の味がした。そして花が咲く。小さな虫が、低い羽音を立てて花にとまった。丘の麓は緩やかな川になっている。温かな水に手を入れると、透明な小魚の群が逃げた。帰ってきたのだ。一度愚かな戦いによって滅んだ命は、何年もの、何十年もの冬を越え、再び生まれ出た。数年が春のままで過ぎた。リナが最初に見つけた芽は、細い幹の樹になり、梢に実を付けた。少女は、一つの実を摘んで、囓ってみた。口の中に甘さが溢れた。甘い、ということはこんなにも人を幸せにするものだったか。少女は夢中で実を食べ、種を地面に埋めた。そこから、また新しい芽が吹いた。遠い空を、つがいの鳥が追いかけあうように渡っていった。



ＢＩＲＤ　いつのまにか夢を見ていたのさ
ＬＥＡＦ　遠い声がいまはすぐそばに

岸辺へと　虹のかかる　七色の　ひとつひとつ
しずくたち　まぶしそうに　手のひらの上　降りそそいで

日々のやさしい祈り　木々にささやく風と
空に翼が遊ぶ　海のはぐくむ生命
ＴＨＩＳ　ＷＯＲＬＤ



　少女は山羊のつがいを飼った。幹の太くなった丘の上の樹に繋いだ。やがて、小山羊たちが産声を上げた。少女は、世界のどこかにいるかも知れない誰かのために、乳離れした小山羊たちを丘から放した。
　木の実を食べ、山羊の乳を飲み、少女の身体は健やかになった。咲き乱れる花の中に、花の精霊のように座る。丘を覆う自然の女王。その深紅の瞳は、遠い思い出を空に描き出した。
（すべてのなかに、あなたがいる。あたしはあなたのすぐ側にいるわ……）

　少女は、いつも歌っていた。遙か昔に失われた、自然と愛を言祝（ことほ）ぐ歌を。同じメロディを、何度も彼女はくり返した。悲しい恋の歌は、もう歌わない。彼女は、愛そのものの中にあるのだから。
　自分以外の誰かの姿を、丘の麓に見たとき、少女は歌を止めて立ち上がった。足はすくんでしまった。声も出なかった。少女は、腕をあげ、手を振った。唯一動く手を。その影は、青年のようだった。川を渡り、雫を跳ね上げ、こちらに近づいてくる。



丘の上　手をふる人　歌を聞く　河のほとり
遠い影　小さく舞う


──約束の園　きみに逢える──



　青年は、黒い髪を肩の当たりでぎざぎざに切りそろえていた。その瞳は深い紫。裸だった。彼は、少女の前に立つ。そして、遠い昔に失われた少女の名前を呼ぶ。
「リナ、さん──」
「ゼ……ロス……」
「リナさん」
「ゼロス」
「リナさん！！」
　ゼロスの腕がリナを堅く抱きしめる。リナはなめらかな胸に頬を寄せ、涙を流す。いったいいつから。どれほどの時を越えて。自分はこの瞬間を待ち続けていたのか──。
　抱き合ったまま、無言の時が過ぎた。太陽が傾き、夕暮れになった。やがて星が空を飾った。二人は、ようやく身体を離し、口づけを交わした。互いの身体に、溶けてしまいそうだった。
　ゼロスが寝転がり、腕を伸ばす。リナは、その腕に頭を載せる。
「あの、最後の戦争を生き延びたの？」
「ええ」
「あたしは、長い冬に旅をした。世界中をまわった。あんたを見つけることは出来なかった」
「僕も旅していたんです、リナさん。この丘にも来ました。貴女はいなかった」
「ゼロス、……いま、何歳なの？　あんたは、あたしを置いて死んでしまうの？」
　ゼロスは、眩しい星空を横切る、生々しいほどの乳の川を見上げて、話し始めた。
「僕は、戦争が始まるだいぶ前に生まれました。生まれたときから、僕のまぶたの裏には一つの笑顔がはっきりと浮かんでいた。強く、優しく、それでいて脆くはかない、少女の笑顔が。僕が初めて口にした言葉は、貴女の名前でした。『リナさん』と……。
　少年時代を、貴女をただ探すことに費やして、僕は気づいたんです。ただ一人の人を探すのに、人間の一生はあまりに短いと。僕は、不死を得る方法を探しました。そして、遠い、見捨てられた南の海域に船を出し、身を灼くような魔族の結界を乗り越えました。そこには、美しい一人の金髪の、魔族の女がいました。彼女は僕に触れ、語りました。彼女は遠い昔僕の母であったのだと。そんなことがあるのでしょうか？
　彼女は僕の額に触れ、乳白色の珠を創り出しました。それが砕けない限り、僕は死ぬことはないと。そして彼女は言いました。千年以上前に、人間の女に同じ事をしてやった、と……僕の心臓は早鐘のように打ちました。貴女を待たせた。それも、千年以上も。貴女はもう絶望して、契約の石を砕いてしまったのではないか……僕を見限って、他の人を愛したのではないか……でも、僕には貴女を捜し続けるほか、道はなかった。
　最後の戦争が起きたときも、僕は独りになって生き続けました。貴女を探した。そして、今日この花園の中に座っている貴女を見つけたんです。まぶたの面影よりも、ずっと可愛らしくて、美しくて、僕の心をときめかせるリナさんを」
　リナは涙の浮かんだ目で微笑む。
「あんただって……ずっと思い出にしまい込んできたどんなあんたの面影より……ずっと素敵。ずっと、あんたらしいわ」
「リナさん。僕が貴女を千年以上も待たせたことを──許してくれますか」
「ええ。許すわ」
　ゼロスの目にも涙が浮かんだ。魔族にはなかった涙。



そこにすべてがあった
深く静かな暗闇（やみ）と　惑星（ほし）の生まれる光
誰も知らない奇跡



「リナさん」
　ゼロスは、リナの花の香りのする身体を抱きしめ、うなじに顔を埋める。くすぐったさに、リナは小さく笑い声をあげる。
「やあだ。何するの」
「子供を作りましょう」
　二人は、視線を交わす。そして、微笑む。
「たくさん、作りましょう。この川を越えて、世界の全ての丘に子供たちの笑い声が満ちるまで。僕は、何人でも、何十人でも、何百人でも育てます。あなたが命を孕み、そして産むのを見守ります。僕たちは、この世界の父と母になるんです」
「いいわ。あたしは、何千人でも産む。産みの苦しみの時には、ゼロス……」
「僕が、必ずついています」
　そして二人は、無原罪のエデンで身体を重ねる。長く厳しい冬と温かな雨、そして清冽な川に洗われた聖らかなリナの身体は、ゼロスの全てを受けとめる。二人は、別れた夜のことを思い出す。
「もう、二度と貴女から離れたりしません、リナさん」
「あたしも……あたしも離れない。ゼロス、側にいるわ」



過ぎてゆく日と明日　いつも日射しの中で
勇気あたえてくれた　愛を教えてくれた


　枯れ草を編んだ服を身にまとったリナが、丘の上に静かに座っている。その腹は命を授かり、大きく膨らんでいる。彼女の隣にはゼロスがいる。山羊の骨のナイフで枝を削り、組み合わせている。彼らの家が狭くなったので、新しい部屋を作っているのだ。生まれてくる赤ん坊のための部屋を。
「ガウリイ！　ゼル！　アメリア！　……ナーガ！　フィリア！　ヴァル！」
　リナが呼ぶと、小さな子供たちが駆け寄ってくる。一番小さなヴァルは、フィリアの腕に抱かれている。
「ゼロスが新しい屋根を作ったの。土壁に載せるのを手伝って」
「はあい！」
　子供たちは勢い良く返事をし、リナとゼロスの周りをくるくる回る。リナは、すっかり太くなった「最初の樹」の幹を見上げる。きらきらと輝く木漏れ日の中に、方舟が見える。



ＥＡＲＴＨ　見上げていた　木の上の方舟
ＹＥＳ　時を越えて　まなざしをたどる


「リナさん、新しい子供の名前は何にしますか」
「ふふ……たくさん候補があって、絞りきれないわ」
「この子たちが世界に散り、新しい命の種になっていくんですね」
「ええ。──ゼロス、幸せ？」
「もちろんです。リナさんは？」
「あたしは千年を、それ以上を生きたけど──それはこの時のためだったんだと思う。あたしはやっとたどり着いたの……遠い旅路の目的地に。息が止まるほどに幸せよ」
　二人は手を握りあう。その手の中には、契約の石がある。ふたりのそれは、もうどちらがどちらのものか分からない。
「いつまでも──生きましょう。尽きることのない、僕と貴女の愛のように」



人は皆　いつか知るよ
同じ夢　いつの日にか
語られる　物語を



──君と出逢えば　懐かしくて──