遠い旅路の目的地[１３]
ある娼館に務めているとき、店主に呼び出された。薄い札束が差し出された。 「これは……」 「リナちゃん、気に入られたんだよ。特別なお客様に。もう、うちには帰ってこなくていいから。大切なお客様だから、絶対にご機嫌を損ねちゃ駄目だよ」 「あの、あたしはここで働く方が……」 表で、車のホーンが鳴った。店主は顔色を変えた。 「急いで。リナちゃん、早く」 「荷物……」 「そんなのいらないから。乗って！」 娼婦姿のまま、窓ガラスに黒いフィルムをぴっちり貼った車に押し込められる。重いドアが閉まり、高級車は音もなく滑り出した。 着いたところは、呆気にとられるほど豪華な屋敷だった。ドアが開き、高価そうなスーツに身を包んだサングラスの男が、リナの腕を掴んだ。逆らえないまま、屋敷の奥へ、奥へ連れられていく。廊下の端に、薄暗い地下への階段があった。リナの手を掴んだ男は、それをどんどん下りていく。リナは不安を顔に浮かべて、ただついていく。 鉄のドアが開けられた。堅い革靴で背中を蹴られ、リナは狭い部屋に倒れ込んだ。サングラスの男は無表情に、リナの服をはぎ取っていく。靴も、靴下も脱がされた。下着も。 「……なんだ、これは」 首から小さな袋に入れて提げられた『契約の石』を見て、男はそれをむしり取ろうとした。 「やめて！ これは……これは」 「なんだ」 「……親の、形見で」 男は手を放した。そして、冷たい鉄のドアを閉め、外から鍵をかけた。 「刑務所より、ひどい……」 コンクリートの床からむき出しに生えているバスタブと便器。天井につるされた白熱灯。そして、吐瀉物のすえた臭いのする堅いベッド。リナは、鉄の扉を叩いた。 「ちょっと！ 誰かいないの！ 出してよ！ 出して！」 部屋の外の気配は感じられない。ドアを叩く手が痛くなって、リナはベッドに腰掛けた。安物のスプリングがきしる。 「何が……どうなってんのよ」 ドアを叩くことと、不安にかいた冷や汗を流そうと、バスタブの蛇口をひねった。触れられないほど熱い湯が勢い良く飛び散る。天井の白熱灯に、小蠅が一匹、しつこくまつわりついている。リナの不安をかき立てるように。 ドアの下部についた小窓が少し開いた。リナはドアに駆け寄った。コップ一杯のオレンジ色の飲み物が突き出され、小窓は堅く閉じた。 「待って！ 食事は！ あたしはいつ、ここから出られるの！」 喉がかれるほど叫んでも返事はない。リナは、ベッドに腰掛けコップを手に取った。 「ばかにしてる……これが食事？」 匂いをかぐ。普通のオレンジジュースの匂い以外、何もしない。リナは、生ぬるいそれを飲み干した。 幻覚が始まったのはすぐだった。まぶたの奥に光がはじけた。黄金の振り子が揺れ、美しい花が咲いては散っていった。 （ああ……綺麗、なんて……綺麗なの） 光は空にあまねき、花は花園になった。歪んだレンズ。花園は無限に広がってゆく。 鉄のドアが開かれても、リナは動けない。ただ、微かに腕を動かし、かげろい移ろう花びらを掴もうとするだけ。誰かが、リナの中に入ってきた。幻想の花が、だらだらと蜜を垂らす。リナは感じたことのない快楽にあえいだ。下半身が溶けて、男の身体に混ざり合う感触。 何度抱かれたのか、いつ男が出ていったのか分からない。リナは目を見開いて、天井を見つめていた。いつしか花の幻想は消え、四角く冷たい部屋が戻ってきた。白熱灯に、まといつく小蠅。リナは両手をつき、何度も失敗しながらふらふらと身体を起こした。 （麻薬──） あのジュースに含まれていたのか。脚の間に指を触れると、白濁した液が滴った。 （どんな人が？ いえ、何人？ あたしを抱いたの） 全く分からない。ただ、感じたことのない激しい悦楽を得た事以外は。 時間の経過の分からない部屋。やけに喉が乾く。リナは、バスタブの蛇口を何度もひねって、渇きをうるおした。長い長い時が過ぎ、ドアの小窓が開く。オレンジジュースが差し入れられる。 （誰が、誰が飲むものか──） リナは、それを目に入れないようにベッドに寝転がった。 最初に感じたのはけだるさだった。それは、ごく軽いものから始まり、我慢できないほどの不快感になった。シーツを掴んで、リナはあえいだ。そして、寒さが来た。鳥肌が立ち、リナは歯の根が会わないほど震えた。 （寒い。助けて。誰か、助けて……） 「やっぱり飲んでねえか」 男の声がした。 「馬鹿だな、こんなに苦しまずにさっさと飲めばいいんだ」 太い指が前髪を掴んでリナを起きあがらせた。口にコップが押しつけられ、安物のジュースの甘さが舌にまとわりついた。 効果はすぐに現れた。リナは星空を見た。美しく火花の走る星空に、リナは逆さまにどこまでも落ちていった。快楽がはじけるたびに、星が一つ流れた。 我に返ったときは、冷たいベッドの上だった。誰もいなかった。体内には、精液が残されていた。 三日目に差し入れられたのは、アルコールランプとアルミホイル。マッチ。半透明の小さな結晶。そして、ガラスの注射器だった。リナは、恐怖と絶望に震えた。売られたのだ。僅かな金で、麻薬を扱う組織に。生きている人形と変わらない、性奴隷として。 だるかった。リナは、ベッドに横たわったまま、じっとしていた。自らの身体を蝕むような真似が出来るはずがない。しかし、だるさは激しくなった。耐えられないほどに。そして、寒さが訪れる。 半ば無意識だった。アルコールランプにマッチで火をともし、アルミホイルの上の結晶を温める。雫となったそれを、そっと注射器に吸い込む。 （今日だけ） リナの指は、自分の静脈を探る。 （こんなに苦しいんだもの。今日、だけよ） 針を差し込む。寒さが止み、だるさが去った。そして、まぶたの裏に幻が拡がる。 「素直だな」 誰かがリナに話しかけている。リナは答えない。ただ、指先で男の身体を求める。 「そうだ。俺たちを楽しませるんだ」 開いているリナの目には、何も映らない。 食事は与えられなかった。飢えも、渇きも一本の注射針が癒した。意識が陶酔に堕ちると、誰かが入ってきてリナを抱いた。何日過ぎたかわからない。陶酔が途切れると、気怠さと震えは一層ひどくなった。リナは飢えた動物のようにドアの小窓が開いて、自分を癒す小さな結晶が差し入れられるのを待ち続けた。 リナは千年の時の流れの中で、初めてゼロスを忘れた。何もかもがあの小さな注射器の前ではどうでもいいことだった。小窓が開くと、リナは奪い取るようにアルコールランプを、注射器を、そして結晶を手にした。肘の内側は注射針の作った内出血で青黒く染まった。みずみずしかった皮膚はかさかさに荒れた。ある日、リナはバスタブにもたれて、底にたまった水に映る自分の顔を見た。目は落ちくぼみ、奇妙な光に輝いている。頬はこけ、唇は蒼白かった。 （くすり……） 怠さと冷や汗の中で、リナは求め続けた。 （早く、早くくすりを……） 天井の小蠅だけが、リナを見つめていた。 リナは、やがて自分で起きあがれなくなった。バスタブに浸かる事も出来ず、肌は垢にまみれた。柔らかだった紅茶色の髪は脂じみ、嫌な臭いを放った。 自力で便座に座ることもできなくなり、便器にしがみついて粗相をしたリナは、汚いシーツ一枚にくるまれて、車に乗せられた。車は１０分ほど走り、繁華街の裏通りにリナを放り出して去っていった。冬が近づいていた。風が身にしみ、リナはシーツの前をかき合わせた。 何人かの道行く人が、話しかけた。 「どうしたんだい、お嬢ちゃん。その格好は……」 「くすり……くすりを」 それだけしかリナには答えられなかった。そしてその答えを聞くと、人々は関わるまいとして去っていった。この都市に、麻薬で身を持ち崩す若者は少なくない。そして、そのほとんどがマフィアとつながりをもっているのだ。 （くすり……あれが、無いと） 気怠さが始まった。リナは、あえいだ。口の端から泡になった涎が垂れた。氷の蔦に閉じ込められたような、残酷な寒さがそれに続いた。 （くすり！） 寒さの中で、悪夢が忍び寄った。 （アメリア） 懐かしい少女が、リナをのぞき込む。その目に、軽蔑の色が浮かぶ。 「最低ですね、リナさん」 （ちがうの、アメリア……これは） 手をのばす。アメリアは早足で去っていく。 （ガウリイ） リナは安堵して微笑む。 （助けて……昔のように） 「そんな汚れた女は、俺は知らない」 きびすを返すガウリイの脚にしがみつく。 （行かないで。苦しい。行かないで） 「俺を汚したくせに。俺は、あのことを絶対許さない」 （嫌……嘘よ。許すって言った） ガウリイの足が、乱暴にリナの小さな手を踏みつけた。 （ガウリイ） 後ろ姿が消える。リナは泣いた。子供のように。 「リナ」 （ナーガ。お願い。助けて……） 「裏切り者」 深い恨みの声でナーガは吐き捨てた。ブーツのかかとの音を立てて、黒いマントが去っていく。 「リナさん」 優しい声が響く。たった一人の、愛しい人。 （ゼロス！ 助けて。あたし、苦しいの。くるしい……） 「なぜ、僕が貴女を愛したと思いますか？」 （え……） 「僕は、貴女の強大な魔力に惹かれたんですよ。それ以外に、貴女に興味なんてありません」 （あたしは……あんたを探すために、魔力を） 「ただの人間の女なんて、僕が愛すると思いますか？」 ゼロスの目は爬虫類のように感情無くリナを見下ろす。 「さよなら。貴女にふさわしい相手は他にいます」 （ふさわしい……相手？） ぷくぷくした脂肪につつまれた指が、リナの肩を掴む。リナは、小さく「ひっ」と悲鳴を上げた。血にまみれ、割れた頭蓋骨から脳髄を垂らしているヨハンが、リナに抱きついてきた。 「君に殴られて、痛かったよ。でも、僕を愛してくれるなら、許してあげる。この……」 ヨハンの手に、プラスチックのボールを繋いだ玩具が握られる。 「ボールを、君の後ろの穴に入れさせてくれるならね」 （い……や……嫌……） 「うああ、嫌！ 助けて！」 目を覚ました。見たことのない天井。リナは悪夢に荒い息をつく。誰かが、力強い手でしっかりとリナの手を握っていた。 「大丈夫か？ 夢だ。全部、ただの夢だ。忘れろ」 誰かの影が、リナの上に落ちる。リナは、その影に向かってつぶやいた。 「くすり……くすりを」 「甘ったれるな！」 鋭い声と共に頬を張られた。 「苦しいのは分かってる。だけど、ここを乗り越えないと、お前は本当に廃人になってしまうんだ。もう少しの辛抱だ。こらえるんだ」 手を握ってくれる、温かい、乾いた手。 「分かったか？」 リナは、瞳だけを動かした。 「わか…った」 「悪夢を見たら、俺が起こしてやる。安心して休め」 リナは、何度も悪夢を見た。水夫たちが、魚屋の主人が、野盗が、軍人たちが。刑務所の看守が。そして、割れた頭蓋骨で恨みがましくリナを見つめるヨハンが、リナを犯した。男たちの手は芋虫に変わり、身体は巨大な蜘蛛になった。リナが恐怖と嫌悪に声をあげると、小さく頬が叩かれ、現実に引き戻された。リナが流し続ける冷や汗を、誰かが濡れたタオルで辛抱強く拭ってくれた。 何時間……何日が過ぎただろうか。悪夢は、リナの上から去った。リナは目を開いた。 「もう、大丈夫だ」 誰かの、温かい声。 冷たい、甘い水の入ったコップを口にあてがわれた。叫び続けて痛む喉は、それを飲み込みきれず、水はぶかぶかのパジャマの上に零れた。 「しょうがないな」 誰かは、水を口に含み、リナに口づけた。心地よい水が、喉に流れ込んでくる。リナは再び眠った。悪夢は、もう見ない。 「何か食べた方がいい」 「食欲……ないの」 「そのままでは、悪い病気に罹る。粥を作る。待ってろ」 ベッドの背もたれが起こされた。リナは、初めて自分の側にいた誰かの顔を見た。銀色の髪。薄い蒼の、鋭い瞳。 「……ゼル」 男は、不思議そうにリナを見た。 「俺は、お前に会ったことはあったか？」 「ゼルガディス＝グレイワーズ」 「お前とは、初対面のはずだが……」 ゼルガディスは焦げだらけの粥を作った。 「食べろ。冷ましてある」 久しぶりの食事は、温かく身体にしみわたった。 「まだ、立てないか」 「苦しい……」 「どうした」 「吐き気が……」 ゼルガディスの用意した洗面器に、リナは緑色の、奇妙な味のする液体を吐いた。ゼルガディスはそれを見て言った。 「胆汁に、膵液か。内臓までやられてる。あいつらも、ひどいことをするな」 食事を食べ始めてから３日。リナは、ふらふらとしながらもようやくひとりで立てるようになった。 「何かしたいことはあるか」 「頭……かゆい。お風呂に入りたい」 「風呂か。すぐ湯を張る。待ってろ……お前……っと、何時までも『お前』じゃ困るな。名前、何ていうんだ」 「あたしに、名前なんて無い。好きに呼んで」 「好きに……と言われても、女の名前なんて……えっ、と、リナ。これでいいか」 リナは微笑んだ。 「それでいいわ」 男物のトニックシャンプーで洗った髪は、涼しく尖った匂いを立てている。脂と垢を洗い流し、ようやく人心地ついたリナは、ゼルガディスのパジャマを着て、テーブルに向かって腰掛けた。 「レトルトで悪いが、晩飯だ。……えーと、リ…ナ。どこで俺の名前を知った」 「分からない。ただ、あんたはゼルだと思ったの」 「超能力者か、お前は」 ゼルガディスも、レトルトのピラフをぱくつく。 「ゼル、ずっとあたしにベッドを貸してくれたのね。寝てないんじゃないの」 「椅子で眠った。それに、仕事柄徹夜は慣れてる」 「仕事？」 「警察官だ」 リナは顔色を変えた。 「あたし──を、警察に」 「安心しろ。お前を通報したりはしない。誰が見たってお前は被害者だ。そのぼろぼろの身体が元気になるまで、ここで休んでいけ」 リナは、次第に元気を取り戻した。ゼルガディスは、昼間は働きに行き、夜に帰ってくる。手に、その日のリナの食事を提げて。 ある昼間、テーブルの上の電話が鳴った。リナはためらったが、ベルは鳴りやまない。１１回目のコールで、リナはおそるおそる受話器を取った。 「はい、あの……グレイワーズ、です」 「リナか。俺だ。今、昼休みで、……婦人服店にいる」 ゼルガディスの声だった。リナは安心して先を促した。 「お前のサイズを聞いてくるのを忘れた。ウエストは」 「５０センチ」 「そうか。その……ば、ババババ」 「バババ？」 「バ……ストは」 リナはくすっと笑った。 「７６センチ」 「とりあえず、いつまでも俺のパジャマ、というわけにもいかないから、何か服を買ってくる。あ、靴のサイズは」 「２２．５」 「分かった」 電話は切れた。 リナは冷蔵庫を開けた。栄養ドリンクばかりが冷えている。棚の奥に、熟れすぎたトマトがあった。それを取り出す。冷凍庫を開けると、冷凍食品の山。リナは、冷凍ホタテを取り出した。 「コンソメは……ある。小麦粉は……バターは……」 リナは流し台に向かって、手を動かし始めた。 「なんだ。いい匂いだな」 帰ってきたゼルガディスはリナに婦人服店のバッグを差し出した。 「お前、すごく小柄なんだな。まあ、初めてこの家に連れてきて、俺のパジャマを着せたときに分かってはいたが」 「……！ 見たの？」 「お前は裸で捨てられてたんだ。見たに決まってるだろう……いいから、服を着てみてくれ。サイズが合わなきゃ、交換しなくちゃならん」 リナは、バスルームで５着ほどの服を着てみた。どれも、リナにぴったりだった。リナは、その中でも一番気に入った服をまとって、バスルームを出た。 「ありがと、ゼル。どれもぴったり合うわ」 「良かった。靴も買ったんだ。履いてみてくれ」 かかとのない、飾り気のないパンプス。それもリナの足にぴったりとはまった。 「ゼル、いくらしたの。あたし……」 「気にするな。大した金じゃない。それより、飯、作ったんだろう？ 喰わせてくれ」 ゼルガディスは、トマトスープを飲み、ホタテのクリーム煮を食べた。 「旨いな。誰かの作った飯を食うのは久しぶりだ」 ぶっきらぼうにそう言うと、ゼルガディスは自分で立ち、スープをおかわりした。 食後には、リナが熱い紅茶を淹れた。 「茶葉なんて、うちにあったのか」 「ティーバッグが、封も切らずに戸棚に押し込んであったわ」 「……まあ、男の一人暮らしだからな。いい加減なんだ」 照れたように、ゼルガディスはまだ冷めない紅茶を飲んだ。 ゼルガディスがいくらかの金をテーブルに置いて出かける。リナは近所の市場に出かけ、夕食を作る。そういう生活がしばらく続いた。ある日、リナは余った小銭で花を買い、家にあった小瓶に活けた。 「花……か。俺の部屋には似合わんな」 そう言いながら、ゼルガディスは花の香りを吸い込んだ。 「だってだってぇ、あまりにも殺風景だと思ったんですぅ。リナはぁ、この部屋に潤いがほしかったんですぅ」 リナの媚びた声に、ゼルガディスは頬を赤らめた。 「可愛こぶるな」 「ぶりぶり☆」 リナは片目をつぶって小さく舌を出した。 穏やかな日々。安らかな生活。リナをベッドに寝かせ、自分は床にマットを敷いて寝るゼルガディス。 電気を消して、二人は横たわる。 「ねえ……ゼル、アメリア……って知ってる？」 「どうして、お前アメリアのことまで知ってるんだ」 「アメリアって、あんたの何？」 「部下だ。アメリア巡査」 「どんな子？」 「まあ、優秀な警察官だな。少々正義感が強すぎて、突っ走る傾向はあるが」 「ふうん……」 沈黙が降りる。 「ゼル」 「まだ起きてたのか。さっさと寝ろ」 「あたしを抱いても、いいよ」 「……」 「あたしは裏通りにゴミみたいに捨てられる前、娼婦だった。男に抱かれることには慣れてるの。あたしはあんたに何のお礼もできな……」 「いいから、黙って寝ろ。……俺は、お前にそういうことは求めない」 「いいの？」 返事はなかった。リナは、微笑んで目をつぶった。 （時が過ぎても。生まれ変わって、キメラでなくなっても。ゼルは、ゼルなんだ） 「情け……ないな」 「いいから寝てなさい。毛布は取らないで。汗をかいた方がいいんだから」 林檎を剥きながらリナは言う。ゼルガディスは熱を出していた。リナは、せっせと世話を焼いた。こんな時だけれど、少しでも恩返しできるようで、リナは嬉しかった。 「お粥と、フルーツジュースを作ってあげる。しばらく待ってて」 リナがエプロンを掛けて料理していると、ドアのチャイムが鳴った。二度。三度と鳴る。 「届け物かもしれん。出てくれ」 ゼルガディスに言われて、リナは玄関に走った。 「はい、どちら様……」 黒髪の、大きな目をした女性。エプロン姿のリナを見て、肩をふるわせている。 「あの、こちらは、グレイワーズさんの……」 「あ、はい、そうですが」 「失礼しました」 女性は、くるりと背を向けると、走り去った。 「……誰だった」 「アメリア。あんたのお見舞いに来たみたい。あたしが出て……誤解したみたいなの」 「アメリアの顔を知らないお前が、何でアメリアだって分かるんだ。それに、誤解ったって、おれはあいつとは別に何も……」 ゼルガディスの頬は、明らかに熱以外のことで赤らんでいた。 穏やかな生活の中で、リナはようやくゼロスのことを思い出した。運命の恋人。自分の、遠い旅路の目的地。 ──いつまでもここには、いられない。 夕食後の紅茶。沈黙が降りる。リナが、口を開く。 「いままで、ありがとう。あたし、そろそろ行かなくちゃいけないの」 「──リナ！」 「荷造りも、もうしてある。後は出て行くだけ」 「行く当ては、あるのか」 「また、どこかの娼館で働くわ」 「そんなこと……！ お前にはさせられない。させたくないんだ、リナ」 「ゼル……」 ゼルガディスの目は、真剣だった。 「俺を置いていくのか、リナ」 「置いて……いくって」 「今更、お前のいない暮らしなんて、考えられない。ここにいてくれ、リナ」 そして、視線を外す。 「俺を……愛してくれ」 リナは微笑んだ。 「ゼル、昔話を聞いてくれる？」 「ごまかすのか」 「昔……遠い、遠い昔、あたしはあんたと旅をしていた。あたしは魔導士で、あんたは魔法を使う剣士だった」 「……二人の旅か？」 「違う。仲間たちと一緒だった」 リナは目を閉じる。今も鮮やかに浮かぶ、あの旅路。 「そして、仲間の一人をあたしは愛した」 「……それは、昔の俺じゃないんだな」 「ええ。違うわ」 「俺は。遠い昔の俺は、お前を愛していたのか」 「あんたは、アメリアを愛していたわ」 「そうか。アメリアを……」 「そして、あたしが愛した男は消えた。あたしは彼を捜すために、不死を得た」 「不死？」 リナは、テーブルの上のナイフを取った。迷わず喉に突き立てる。 「リナ！」 一筋だけ血が流れ、そして止まる。リナはナイフを抜き、微笑んだ。 「あたしは永劫を生きる。一人の恋人を、探すために。あんたとの暮らしは穏やかで……安らかで。目的を見失ってしまいそうだから。だからあたしは、ここにはいられない」 ゼルガディスは、力無くテーブルを叩いた。 「昔の俺の事なんて、俺は知らない。今ここにいる俺は、お前を愛している。……でも、お前を見送る」 「ゼル……」 「情けない男にはなりたくないからな」 「ゼル」 リナは銀髪の上に手を置いた。 「ゼルは、あたしを警察に突き出すと脅迫することもできる。もちろん、その強い力で、無理矢理あたしを抱くことだって出来る。でも、そういうことは決してしない」 目を閉じる。 「昔のゼルも、そういう男だった。あたしは、彼のそんなところが……あんたのそんなところが、大好きだった」 「身体を売るのは……しょうがないのかもしれんが、病気には気をつけろ。それから、絶対に、絶対に、もう二度と麻薬はやるな」 「ええ。絶対」 「それから、もしもこの先何か困ったことがあったら、すぐにでも頼ってきてくれ。俺はいつでも待っている。……まあ、お前よりも早く、俺は死んでしまうんだけどな」 「ゼル。アメリアを愛してあげて」 ゼルガディスは顔を上げない。 「あの子は、あんたを愛してるわ」 リナは、夜のうちにアパートを後にした。遠くへ行くバスに乗った。 
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