最期の日々［２］
「あたし、白血病なんだって」 「リナさん……」 アメリアは涙ぐみそうになるのを必死に押さえる。一番辛いのはリナのはずだ。 「それで、骨髄移植の相手を捜したんだけど、いないんだって。家族の誰とも白血球型が合わなかったし」 「私の……私の血は合わないんですか」 「あんた、そもそもＯ型でしょ。あたしはＢ型だし」 「でも、なにか方法があるんでしょう？ね、リナさん、そうでしょう？」 「そうね、抗ガン剤と放射線による治療ってものがあるわね。ただ、あたしはそれでは助からないだろうって、言われてる」 「そんな……」 「それに、抗ガン剤や放射線を使うと、あたしはもの凄い吐き気がして、ものが食べられなくなって、髪の毛も全部抜けちゃうんだって。それで、助かる確率は１パーセント以下」 「リナさん……それじゃ、まさか」 「あたしは、この病院を出て、ホスピスに移るわ」 「リナさん……！」 「残された日々を、思い切り楽しみたいの。美味しいもの食べて、好きな本を読んで、好きな音楽を聴いて……」 「……」 「あと、最後の恋、なんて出来たら最高なんだけど、そこまでは贅沢か」 「私、１パーセントでも、生きる方に賭けて欲しいです。ホスピスに行くなんて、リナさんらしくないです」 「あんたに、分かる？１パーセントという数字の冷酷さが」 アメリアは黙る。 「あたしは、自分の最期は、自分で決めたい。心地よく、あたしらしく、最期を迎えたいの」 「私、お見舞いに行きます」 「大歓迎よ」 アメリアが来客室に入ったとき、リナは大きな音で音楽をかけながら、分厚い本を読んでいた。テーブルサイドには、缶の「カルピス」が置いてある。缶は冷たいらしく、うっすらと汗をかいている。アメリアは、マイクのボタンを押した。 「リーナーさん！！」 「どぅわわっ！？」 リナの手から本が滑り落ちる。 「ア、アメリア、あんたねえ……」 「思ったより、ずっと元気そうですね、リナさん」 「元気よー。食欲は相変わらず無いけど、まあ何とか食べてるし。ここ、眺めもいいでしょ？」 「ええ、そうですね。何、読んでたんですか」 「『カラマーゾフの兄弟』」 「そ……それはまた大作を」 「だって、世界文学の最高峰でしょ？読まずに死ねるか！って感じよね。それにこの部屋って、隣はナースステーションだし、そっちは来客室だから、大きな音で音楽がかけられるのよね」 「なるほど……」 「クラスのみんなは元気？」 「ええ。みんな元気です。あたしが今日行くって言ったら、みんなよろしくって言ってました」 「ガウリイのクラゲ頭は？」 「うーん……そう言えば、元気ないですねえ。でも、リナさんのせいじゃないと思いますよ」 「あいつも見た目だけは結構いけてるんだから、とっとと恋人の一人でも作ればいいのにねえ。……恋人と言えば、あんたとゼルはどうなってんの」 「ゼ、ゼルガディスさんですか。げ、元気です」 「元気なのは分かってるわよ。どう、ちょっとは進展した？」 「今度の花火大会に誘われました」 「おーおー、いいねえ若人は。羨ましいこって」 「花火大会、その窓から見えるんじゃないですか」 「そうらしいのよ。最高のロケーションだわね。みんなが汗水垂らしてうちわを振ってる間に、あたしは冷房の効いたこの部屋で優雅に花火鑑賞」 「あと一ヶ月ですね……」 「たぶん、それまでは生きていられるわ、あたし」 アメリアは黙った。 「あ、ごめん、気、使わせちゃって。あのね、あたし、苦しくもないしぴんぴんしてるから。みんなにもそう伝えて。アメリア、そこのガラスにほっぺ、くっつけて」 「はひ。こうでふか？」 「ふふっ」 リナは、ガラス越しにアメリアの頬にキスをした。 「これは、みんなへのキスよ。アメリア、届けておいて」 「えーっ、あたしがみんなにキスして廻るんですか？」 「きっとみんなも喜ぶわ。美少女からのキス」 「もお」 アメリアは膨れた。 「じゃあ、あんまり疲れさせてもいけないし、あたし、そろそろ帰りますね。あ、おみやげの果物の缶詰は、今消毒にまわってます」 「ありがと。それじゃあね」 リナはにっこりと微笑んだ。アメリアも微笑んで、面会室を後にした。 「ふうっ、はあ、はあ……」 リナはどっとベッドに倒れ込む。目が回る。苦しい。シーツを掴む。 「はあ、はあ、はあ……」 アメリアには、こんなところ見せられない。『カラマーゾフの兄弟』がベッドの下に落ちた。 「ああ、栞はさんでないのに」 リナは、ベッドにうつぶせになって、ようやく息を整えた。 「あたし、『カラマーゾフの兄弟』、読み通せるかな？」 「リナちゃん、今日は骨髄穿刺するわよ」 「ゼラス先生！やーだー、そう言うことは昨日のうちに言っておいて下さいよ」 「何言ってるの。昨日伝えて一日痛いの想像するより、今伝えてぱっぱとやっちゃった方が精神衛生上いいでしょう？」 「そう言う問題かなあ……ぶつぶつ」 リナはうつぶせになり、パジャマをまくり上げられる。六本の麻酔注射を打たれた後、骨髄液を取るための太い錐が骨盤に差し込まれる。 「くう……っ、いた……っ」 「リナさん、僕手を握りましょうか？」 「おねが……い、ゼロス」 「リナちゃん、ごめんなさいね、すぐ済ませるから」 「い……いんです。痛くて、当たり前……なんでしょ？」 「後一回、刺すからね。今日はそれで終わり」 「ゼロス……もっと手、強く握って」 「ゼロス、いいわね。モテモテじゃない」 「母様、軽口叩く暇があったら、手早く済ませて下さい。リナさんが可哀想です」 「あら、赤くなって。これは本気かしら……っと、すんだわ。リナちゃんお疲れさま。しばらくは、麻酔が効いてるから痛くないはずよ」 「ホネが……痛い」 「それは、どうしようもないの。ごめんなさい。点滴に痛み止めを混ぜるわ。ゼロス！」 「はいはい、痛み止めの点滴ですね。すぐ持ってきます」 ゼロスは部屋を出ていく。 「リナちゃん、ゼロスはどう？貴女に優しくしてる？」 「ええ、とても」 「リナちゃんみたいな美少女だったら、男はみんな優しくするでしょうけどね」 「ゼラス先生みたいな超絶美人に言われても説得力ないです」 「あらあ、お世辞？あたしなんておばさんよ。リナちゃんの肌のぴちぴちしてることっていったら。あなたの肌を拭けるゼロスが羨ましいわ」 「ゼ……ゼラス先生、ちょっと怖い」 「ほほほ、冗談よ。でもリナちゃんはほんとに可愛いわ。娘にしたいくらい。そうだ、ゼロスと結婚させれば、リナちゃんを堂々と娘に出来るわ！これはどう？」 「先生！」 「ふふ、赤くなっちゃって。若人はいいわねえ。ほほほ」 「何の話をしてるんですか！」 点滴を持って戻ってきたゼロスが、二人の間に割り込んだ。 「……」 ゼラスは、静かに顕微鏡を覗いている。 「どうですか？母様」 「……駄目ね。前の検査のときより、いっそう未成熟白血球が増えてる」 「リナさんは……」 「あと、２ヶ月。あるいは、もっと早いかも知れない」 「そうですか……」 「ゼロス、お願いよ。出来るだけ、あの子を楽にしてあげて。望みは何でも聞いてあげて」 「分かってますよ。それが、この『聖慈母院』のモットーじゃないですか」 「あんなに若くて、あんなに綺麗なのに、ね。生きていられれば、１００人の男を虜にするわ」 「今でも、一人の男を虜にしていますよ」 「ちょっとゼロス、それどういう……」 「リナさんの様子を見てきます」 ゼロスは検査室を出ていった。 「ゼラス先生。こちらの患者さんの血液検査、お願いします」 「はいはい……」 「リナさん」 「ゼロス」 「この曲は……『右手を…』」 「『…私の右手の上に重ねて』、よ。珍しいわね、男の人がＣＨＡＲＡの曲を知ってるなんて」 「好きなんです」 「あたしも」 「海の泡になって、消えてしまう人魚の歌ですね」 「さっきから、この曲をリピートで聴いてるの」 「こんな哀しい曲を？」 「人魚は、恋をしたから泡になって消えるんだけど」 リナは、少し潤んだ深紅の瞳を上げた。 「あたしは、なんで泡にならなきゃいけないのかな？」 ゼロスは、答える言葉を持たなかった。 「ゼロス、お腹空いた」 「はいはい。今厨房を急かしてきますよ」 ゼロスが出ていくと、リナの瞳からポロポロと涙が落ちた。 「なんで泡にならなきゃいけないのかな？」 ゼロスが夕食のトレイを持ってくると、部屋には『愛の自爆装置』が大音量で流れていた。リナは鼻歌で合わせながら、『カラマーゾフの兄弟』を読んでいた。 「おい、リナ、起きろ！！」 「……むにゃ？」 「起きろってば！リナ！！」 リナは、昼寝から目を覚ました。 「あ、ガウリイ。やだ、あたしったら、髪ぐちゃぐちゃ。ブラシブラシ……」 髪をばりばりと梳かしながら、マイクのスイッチを入れる。 「びっくりしたあ。今日の面会名簿に、あんたの名前、無かったわよ」 「今日、お前が入院しているここのことを知ったんだ！驚いたぜ」 「ああ、そう言えば、アメリア以外には、普通の病院に入院してるってことにしてもらってたわね」 「なあリナ」 ガウリイの蒼い瞳は、ガラス越しに真剣だった。 「ここは、人の最期を看取る場所なんだろ？」 「そうよ」 「なんでお前がこんなところにいるんだ」 「……よりよく、残りの生を生きるためよ」 「死ぬ気なのかよ！」 「ここのことを聞いたなら、あのことも聞いたでしょ？あたしが生き延びられる確率」 「ああ。１パーセントだってな。だけど、お前は、その１パーセントに賭ける女じゃなかったか？」 「……」 「ここで安穏と死が訪れるのを待ってるなんて、全然お前らしくないぜ。いまからでもいい、普通の病院に戻って、治療を受けてくれ！」 「……ガウリイ。あたしは、あの頃よりも悪くなってるはず。今は、１パーセントの望みもないわ」 「それでも０じゃないんだろ！？」 ガウリイはガラスを叩く。 「こんな、ビニールとガラスの檻のような場所から出てきて、戦ってくれ、リナ！」 「……簡単に言ってくれるじゃない」 リナはガウリイの瞳をにらみ返した。 「抗ガン剤と放射線の治療は、もの凄い副作用が出る。吐き気、脱毛……それらを乗り越えても、１パーセントしか生きられないのなら……あたしは、最期まで、あたしらしく生きる道を選んだ。この選択のつらさがあんたに分かるっての？」 「リナ……俺は、お前が好きなんだ」 「……」 「お前を失いたくないんだ。頼む、リナ、こんな人殺し病院から出て、治療を受けてくれ」 「ガウリイ！」 リナは、鋭い声を出した。 「あたしは、あたしの命のあり様を、選択する権利があるはずよ。あたしは、ここにいる。ここを人殺し病院って言ったのは取り消して。ここは、命の終章を看取る、神聖な場所よ！」 「嫌だね。ここは人殺し病院だ」 「ガウリイ！」 「ええい、こんなガラス越しじゃ何も伝わるもんか。いま、そっちに行くからな」 マイクのスイッチがぶちっと切られた。 「ガウリイ……？」 リナの病室には、鍵はかかっていなかった。ガウリイが、その重い引き戸を開けて入ってくる。 「だ、だめよガウリイ、おねがい、止めて！」 ガウリイは、ビニールのカーテンを開ける。 「リナ、お前をここから連れだしてやるぜ」 「……！」 リナは、ナースコールボタンを叩いた。ゼロスが駆け付けたとき、ガウリイはリナの点滴をむしり取って、リナを抱き上げようとしていた。 「俺と一緒に来い！リナ」 「いやあ、やめて！」 ゼロスは、ガウリイに体当たりして、リナをベッドの上に降ろさせた。襟首を掴んで、ガウリイを病室から引きずり出す。 「畜生、放せ！人殺しの手先め！」 「……」 ゼロスは、黙ってガウリイの頬を思い切り殴りつけた。 「何しやがる！人殺し」 もう一発。ガウリイは、冷たいリノリウムの上に殴り倒される。 「あなたは……！」 ゼロスは紫の瞳を怒りで暗くした。 「手の消毒もせず、滅菌服も着ずに、リナさんの病室に入ったんですか！そしてリナさんに触れたんですか！」 「おう、それがどうした！」 「それが、今のリナさんにどれだけ致命的なことになるか、分からなかったんですか！」 「……」 ガウリイは黙る。 「明日、来て下さい」 「……は？」 「あなたの、しでかしたことの結果を、見届けに来て下さい。それと……」 ゼロスは、ガウリイを引き起こすと、正面から睨み付けた。 「二度と僕たちのことを『人殺し』などと呼ばないで下さい！」 「『人殺し』じゃねえか！」 「違う！僕たちは、人がよりよく生きるための手伝いをしているものです。とにかく今日は帰って下さい！」 「……ああ」 ガウリイは、ゼロスを睨み付けると、帰っていった。ゼロスは、全身の服を滅菌済みのものに着替えた。手を消毒液で濡らし、リナの部屋に入る。 「今の方の触ったところを消毒します。間に合うか分かりませんが」 リナは、ほの白い顔をして、ベッドに横たわっていた。抜けた点滴が、床に小さな水たまりを作っている。 「ゼロス、あんまりガウリイを責めないであげてね。あいつ、昔っから馬鹿なんだ」 「ええ、ほんとうに馬鹿ですよ……！リナさん、今日のうちからあなたの点滴に解熱剤を入れますが……」 ゼロスは額を押さえた。 「間に合うものか……」 ゼロスが熱心に床や壁を消毒して廻っている間に、リナはいつしか眠っていた。 この章での実体験は、 ・家族の誰とも白血球型が合わなかった ・「カラマーゾフの兄弟」を読んだ ・先生にいきなり当日「骨髄穿刺」を告げられた ……ってなところですか。ガウリイのような、強引な見舞客は来ませんでした。ガウリイの台詞はかなり過激ですが、私の意見では決してありません。ホスピスは、現代医療に欠かせない、素晴らしい場所だと思っています。それでは、続きもよろしくお願いします。 ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。「骨髄穿刺」というのは、文中でも説明していますが、背中側から骨盤に太い針（錐？）を刺して、骨髄液を抜き取る検査のことです。あれは痛かった。それと、この強引なガウリイがけっこう好評をいただきました。彼も、彼なりに真摯にリナちゃんを想っていたのですね。   |