最期の日々［３］


「リナ……」
「ガウリイ」
リナは４０度の熱を出して、寝込んでいた。顔は紅潮し、呼吸は乱れてひどく苦しそうだ。
「リナ……俺の、せいか」
「あなたの、せいですよ」
面会室にゼロスも入ってきていた。マイクのスイッチを切る。
「夕べの２時頃から、高熱が出て、ずっとそのままです。解熱剤も効かない。こんな高熱が、今の弱ったリナさんの身体にとって、どんな負担になるか、分からないとは言わせませんよ」
「リナ……俺が、俺がリナを」
「ガウリイさん」
ゼロスは、静かな声で言った。
「リナさんは、今はわずかでも雑菌に触れるとこんなにダメージを受けるんです。残酷な言い方かも知れませんが、あなたはリナさんの『余命』を縮めたんですよ」
「……」
「リナさんは、今、読みたい本を読み、聴きたい音楽を聴き、観たいテレビを見て、ゆっくりと最期の時間を過ごしているんです。あなたは、その貴重な時間を大きく奪った。僕は個人的にあなたを許せない」
「……リナ」
「でも、リナさんは、あなたを責めないで欲しい、と言いましたからね。リナさんにとってあなたは大事な友達なんでしょう。だから、これ以上はあなたを責めません」
「……昨日は、すみません。『人殺し』なんて言ったりして。俺、逆上していたんです」
「いいんですよ。僕たちスタッフはどう言われても。ただ、ここに入院している人たちは、単に生きることを諦めた人たちじゃない。最期まで、輝いて生きたいと願っている人たちです。リナさんも、もちろんその一人です」
「俺、また来てもいいでしょうか」
「あんな無茶をしないのなら、いつでも来て下さって結構ですよ。でも、リナさんの生き方を責めるような言い方をするのは、止めていただきたいですね」
「……わかりました」
そして、マイクのスイッチを入れる。
「リナ」
「ガウリイ……あたし、大丈夫よ……」
「リナ、すまなかった」
「ガウリイ、大好きよ。また……来てね」
ガウリイはスイッチを切り、院を後にした。


「リナさん、採血ですよ」
「ゼロス……苦しい。すごく……くるしいよ。熱い。眠れない」
ゼロスは、手際よく採血しながら、その腕の燃えるような熱さに心を痛めた。
「何か、して欲しいことはありませんか」
「グレープフルーツジュースが飲みたい。思いっきり冷えたのを、ぐいぐい飲みたい」
「分かりました。まかせて下さい」
ゼロスは、血液を検査室に渡すと、駐車場に向かった。

「え？無い？」
「ええ。グレープフルーツジュースの缶ってのはありませんねえ。紙パックならあるんですけど。ああ、チューハイならありますよ」
「いえ……お酒では駄目なんです。ご迷惑かけました」
ゼロスは、次に近いコンビニを頭の中で計算しながら、車を出した。

「グレープフルーツ……ジュース……」
リナは、熱に潤んだ瞳で、そうつぶやいた。喉は、ひりひりするほど乾いている。
「冷たいの……思いっきり、飲みたいなあ」
ゼロスが「まかせてください」と言って出て行ってから、２時間が過ぎている。熱はいっそう上がったようだった。
「計ってみよう……」
ピピッ。体温計が音を立てる。
「４１度２分……」
潤んだ瞳で、リナは弱々しくくすっと笑う。
「新記録」
リナは、その表示が消えないように体温計をケースの外に置きっぱなして、目を閉じた。苦しみで、眠ることすら出来ない。
（高熱が続くのって、ずーっとマラソンしてるのに似てるなあ）
はあはあと息をつく。身体の全てが熱い。
（ゴールは、どこ？）

８軒目のコンビニでようやく缶入りのグレープフルーツジュースを発見したゼロスは、スピードを出して聖慈母院に向かっていた。駐車場に滑り込む。滅菌服に着替え、手と顔を消毒し、大切なグレープフルーツジュースを消毒済みのコップに移す。冷凍庫を開け、蒸留水で作った氷を入れる。
「リナさん、お待たせしました。グレープフルーツジュースですよ」
「ゼロス！見て、この体温計……」
４１度２分。
「リナさん！」
「えへへ……すごいでしょ？ところで、ジュースは……」
「ここにあります。早速飲んで下さい」
「うん……頂くね」
リナの喉が動く。半分ほど一気に飲むと、リナは息をついた。
「美味しい。気持ちいい。口の中が、すーっと冷えていく」
「さあ、残り半分も。ぬるくならないうちに」
「ええ」
リナは喉を鳴らして、残りのジュースを飲み干した。
「ありがと、ゼロス。でも、……えっと、ずいぶん時間がかかったね」
「なかなか缶入りのグレープフルーツジュースって無くて。コンビニを何軒か回ってたんです。遅くなってすみませんでした」
「ごめんね、こんな夜遅くに、あたしのわがままで……」
「いいんですよ。それも僕の仕事の一つですから」
「ほんとに、ほんとに美味しかったよ。生まれてから飲んだ飲み物の中で一番美味しかった」
「なによりです。さあ、もう一度熱、計ってみましょうか」
「えー？せっかくの４１度２分を消しちゃうの、もったいないなあ」
「おばかなこと言ってないで、さっさと計って下さい」
「はーい……」
４０度４分。
「もっと強い解熱剤を入れた方がいいですね。点滴を持ってきます」
「ゼロス」
「何ですか？」
「ジュース、ありがと」
ゼロスはにっこり微笑んで、部屋を出ていった。


「ゼロス、昨日はリナちゃんのためのジュース探しに何時間も走り回ったんですって？」
「ああ、母様の耳にも入ってましたか。リナさんが高熱を出して苦しんでいたので、なんとか飲ませてあげたいと思って」
「普通、冷やした蒸留水とかをあげて、我慢させるでしょう？」
「患者さんのリクエストに出来るだけ応えるのが、うちのモットーじゃないですか」
「それはもちろんそうだけど……ゼロス、あなたは何だかリナちゃんには特別に優しいような気がするのよ」
「……ええ」
「好きになった？」
「いけないことですか？」
「いけなくはないけど……あなた、リナちゃんがいなくなっても、ちゃんと仕事を続けられる？」
「わかりません」
「学生時代から浮いた噂一つなかったあなたが最初に好きになったのが、よりによってもうすぐ逝ってしまう女の子だなんてね……」
ゼラスは遠い目をした。
「とにかく、リナちゃんに優しくするように、他の患者さんにも優しくするのよ」
「もちろん、分かってます」
「なら、いいの」
ピンポーン。ナースコールの音が響く。
「はい、何ですか？」


リナの高熱は３日続いて、それから下がった。リナは、さすがに疲れた様子で、本も読まず、音楽も聴かずにぐったりとしていた。面会室にガウリイが入ってきた。
「リナ」
「……ガウリイ……」
「熱は、下がったのか？」
「うん。今は、７度５分くらいあるけど、まあ大丈夫よ」
「謝りたくて来たんだ。ほんとに、すまなかった」
「いいの。ガウリイなりに、あたしのことを考えてしたことだもの。立場が逆だったら、あたしも同じことをしたかも」
ふとリナが見ると、ガウリイはぼろぼろと涙を流していた。
「あの時も言ったけど、俺はお前が好きだったんだ」
「ありがとね」
「お前がいなくなってしまったら……俺はもう誰も愛さない」
「それは、だめよ、ガウリイ」
ガウリイは、涙をためた瞳で、リナを見た。
「ガウリイ。あんた、のーみそスライムだけど、顔はすっごくいいんだから。あたしよりも素敵な女の子、いくらでも見つかるよ」
「お前よりいい女なんていねえよ」
「それはどうも」
「冗談じゃないんだよ！」
「ガウリイ、ガラスに頬をつけて」
「……」
リナは、ガラスに押しつけられたガウリイの頬にキスをした。
「このキスのこと、ずっと覚えておいて。あなたが思いだしてくれるだけで、あたしは生きてるってことになるの。そして、あたしよりいい女、見つけなさい」
「リナ。お前が覚えてろっていうなら、俺は一生、今のキスのことを忘れないよ」
「そうしてくれたら、嬉しいわ」
ガウリイは、リナの顔色がどんどん青ざめていくのに気づいた。
「疲れさせちまったみたいだな。また来るよ」
「待ってる」
それが、リナとガウリイのかわした最後の会話だった。


「ねえリナ、ゼロスさんとの仲はどうなった？」
「や、やだなあ姉ちゃん。仲とかなんとか、そういうんじゃないよ」
「最後の恋にするんでしょ？」
「……あたしの方はね。でも、ゼロスにはきっと、あたしの思いは迷惑よ。あたしはたくさんいる患者さんの一人に過ぎないんだから」
「告白するだけが恋じゃないのよ」
「……？」
「ひたすらに、ゼロスさんを想いなさいな。それが、あなたの生きる力になる」
「生きる力か……でも、姉ちゃん、あたし、もう長くないんでしょ？」
「そうよ」
「……姉ちゃんは、相変わらず厳しいなあ」
「最期まで、輝いて生きて。あたしに言えることはそれだけ」
そう言って、ルナは毛糸を引っ張った。無言のまま、姉妹は時を過ごした。
「姉ちゃん……」
「何？」
「そうやって、いてくれるだけで、どんなにあたしが力づけられるか、分かってくれる？」
「あんたの役にたてるなら嬉しいわ」
「誰もいない一人の部屋にいると、すごく怖くなるの。些細な闇にも、飲み込まれてしまいそうになる。姉ちゃんがそこで編み物をしてるだけで……あたしはとても安らかな気持ちになることが出来る」
「だから、毎日来てるでしょ？」
「父さんと母さんは元気？」
「毎日ご飯食べてるし、働いてるわ」
「うん……良かった」
また無言の一時間が過ぎた。
「じゃああたしはそろそろ帰るわね。怖かったら、ゼロスさんを呼んで、うんと甘えなさい」
「もお、姉ちゃんってば！」


ルナが帰ってしまって、部屋に薄暗い闇が忍び込んでくる。その時、ぱっと部屋の電気がついた。
「リナさん、お食事ですよ」
「ゼロス」
「今日はサーモンのソテーにポテトサラダです」
「ふふ、美味しそう」
それでもリナは、それぞれの半分以上を残した。リナの身体は、もう食べ物を消化する力すら失ってきていた。デザートの缶詰の桃をつつきながら窓を見ていると、突然どん、と音が上がって、空に火の華が咲いた。
「花火大会！」
「そう言えば、今日でしたね」
「アメリア、ゼルとちゃんと見に行ってるかな？」
「ゼルさんって誰ですか？」
「アメリアの恋人よ。いいな、恋人と一緒に花火大会」
ゼロスは立ち上がって、部屋の電気を消した。
「この方が綺麗に見えるでしょう」
どん。どん。どん。
炎の華は空を飾り続ける。輝いて、なお輝いて。消える間際に、キラキラとした名残を残す。
「ねえゼロス」
「何ですか？リナさん」
「今のあたしってね、どん、ってうち上がって、ぱっと光の華を咲かせてから、消える間際にきらきらと光る、その最後の光を生きてる気がするの」
「……」
「あたしも、恋人と一緒に、見たかったな、この花火大会」
「僕と一緒では、ご不満ですか？」
リナは、暗い部屋の中で、真っ赤になった。
「ううん、ゼロスがいてくれるならいい。ねえ、最後まで、一緒にいてくれる？」
「ええ。最後まで、一緒にいますよ」
消毒液で濡れたゼロスの手が、リナの手に重なった。
どん。どおん。
「ねえリナさん、看護士が患者さんに言うことじゃないかも知れませんが……」
「なあに？何でも聞くわよ」
「好きです、リナさん。愛しています」
リナは目を見開いた。そのあどけない表情を、花火が照らし出した。
「迷惑ですよね。僕に急にこんなことを言われても。忘れて下さい」
「忘れないわ」
ゼロスは、リナが涙を零しているのに気づいた。
「あたしも……あたしもゼロスが好きだったの。愛してるの。こんな気持ち、初めてなの」
「貴女には、ガウリイさんが……」
「あいつは親友だけど、恋人じゃなかった。あたしがこの一生で好きになったのは、ゼロス、あんただけよ」
ゼロスは、そっとリナを抱きしめた。強く抱くと折れてしまいそうな細いからだ。だから、羽根を抱くように軽く、雪を捕まえるようにそっと……。
「ほんとならキスしたいところですが、またあなたに高熱を出させたらいけませんからね……」
「ねえ、こういうのはだめ？」
リナは、シーツの端を持ち上げ、自分の唇にあてた。ゼロスは、その上からそっと、唇を重ねた。ほんの一瞬。窓から、大きな花火のオレンジの光が射した、その一瞬だけ……。
「ゼロス、あたしすごく幸せよ」
二人はベッドに腰掛けて、よりそってじっとしていた。やがて、花火の最後の一発が打ち上がり、煌めいて、消えていった。
「終わり、かな？」
「そうみたいですね」
ゼロスは部屋の電気をつけた。
「リナさん、顔色が悪いです。すぐ横になって下さい」
「ゼロス……さっきの言葉は、花火大会が見せてくれた幻？」
「幻なものですか」
ゼロスは、リナの腕から採血しながら言った。
「リナさんこそ、最後の恋の相手が僕なんかでいいんですか？」
「何言ってんの。あんたは最高の相手よ」


「あなたは、この世を飛び立って、神の国に入るのです……」
「牧師さん、神の国になら、あたし、とっくに入っているわ」
「と、いうと……？」
「恋をしているの」
「それは素晴らしい。恋の翼は、あなたをより高みへと運ぶでしょう」


「あー、読み終わった！間に合って良かった」
「何ですか、リナさん、大声を出して」
部屋の消毒をしていたゼロスが振り返る。
「読み終わったの。『カラマーゾフの兄弟』」
「それはそれは。いかがでしたか？」
「素晴らしかった。圧倒された。読めて、良かった」
「特にどこが？」
「アリョーシャの、苦しみと、悟りが……って、ゼロス、読んだことあるの？」
「ええ。学生時代に」
「すばらしいわよね」
「ええ。とてもすばらしいです」
二人は微笑みあった。その夜、リナは苦しみだした。熱が出たが、リナは「寒い」と言い続けた。毛布が何枚重ねられても、その寒気は去らなかった。ゼラスが呼ばれた。ゼラスは、ゼロスを病室の外に呼び出した。
「ご家族を呼んで。それから、最期まで側にいてあげなさい」
やつれはてたリナの両親が、病室に入ってきた。ルナは、いつも通り、静かだった。
「父さん、母さん、ごめんね……苦労かけちゃって。この部屋の入院費も馬鹿にならなかったでしょ？」
「馬鹿ねえ、リナ。こんな時に、お金の心配なんて……」
リナの母親は、止めどなく涙を流し続けた。
「父さん、母さん、姉ちゃん。最期のわがまま、言っていい？」
「何でも聞くわ。何でも言いなさい」
「ゼロスと、二人にして」
リナの両親とルナは、黙って立ち上がった。ゼロスに頭を下げた。ルナは、リナにウィンクして去っていった。
「いいんですか、リナさん」
「ねえ、ゼロス。あたし、可愛い？綺麗？」
「この世の誰よりも」
「あたしが逝ったら、もう誰も愛さないと誓って」
「誓いますよ」
「一生あたしを愛し続けると誓って」
「誓います」
リナは、幸せそうに瞳を閉じた。ゼロスはその小さな手を握った。最期に、リナの唇が小さく動いた。
「うそよ。ゼロス、誰かと幸せになって」
そしてリナの命は、脈動を止めた。


「ねえゼロス、今日は花火大会よ。あれから１年ね」
「ええ。リナさんが逝ってしまってから、もうそんなになるんですね」
「ゼロス。あなたは、もう誰も愛さないのかしら？」
「ええ」
「それもいいかもね」
「ええ、母様」
ゼロスは、そっとつぶやいた。
「リナさん。貴女の最期のお願いは、聞けませんよ」






この章での実体験は、
・看護婦さんにグレープフルーツジュースを買ってきてもらった
・４１度２分の熱
・窓から花火大会
といったところです。
ゼロスのような素敵な看護士さんとの恋はありませんでした（当たり前だ）。白血病は、今では決して不治の病ではなく、私のように、骨髄移植しなくても自家移植で良くなる人も増えていると思います。あらゆる病気の人の回復を祈って。
それではここまで読んで下さってありがとうございました。
ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。「自家移植」というのは、自分の血を採って、その中から健康な血液を抽出し、細胞培養で増やして、改めて身体の中に入れる、という治療法…だと思います。（自分で受けてたくせに詳しくない）もう一度言いますが、あらゆる病気の人の回復を祈って。


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