最期の日々［１］

窓の外に海の見える、ガラス張りの部屋。
「ここが、あたしの最後の部屋になるのね」
「気に入りましたか？」
「もう最高！綺麗な景色、綺麗な部屋。これで、ご飯も美味しければ言うことないわね」
「その点も、当施設は自信がありますよ」
「うーん、楽しみ！えっと、メタリオムさん？」
「ゼロス、と呼んでいただいて結構です」
「ベッドサイドの、ボタンについて教えて欲しいんだけど」
リナは、ぽふっ、とベッドに座って、ガラスの蓋のついたいくつかのボタンを触る。
「一番大きなこのボタンは、ナースコールです。バスルームにもついています。少しでも身体が苦しかったり、何か用があれば、遠慮なく押して下さい。それから、これはナースステーションとこの部屋の間の窓を不透明にするボタン。着替えや、お風呂の時には押して下さい。こっちの小さいボタンは、カーテンの開閉ボタンです。これは、エアコンの調整ボタン。そしてこのマイクは、ガラス越しの来客室と繋がっています」
「ありがとう、わかったわ」
「それじゃ、早速ですけど、体温を計って下さい。その間に、右腕から採血します」
「はいはい。ナースステーションから部屋が丸見えっていうのは、落ち着かないわね」
「貴女に何かあったらすぐに駆け付けられるようにするためですよ。我慢して下さい」
「あたしがここに持ってきた本は？」
「いま、薬剤で消毒中です。丸一日はかかりますよ」
「えーっ、すぐに読みたい本もあったのに」
「その間は、テレビでも見ていて下さい」
「あたし、あんまりテレビは見ないんだけどなあ」
その間にも、ゼロスはリナの腕から採血していた。
「ゼロスさん、採血上手いわね」
「呼び捨てでいいですよ、リナさん」
「そっちはさん付けのくせに」
「大切なお客様ですから」
リナに全く痛みを感じさせずに針を抜いて、リナの病んだ血の満たされた小さな試験管を振る。
「じゃあ、次は夕食の時に来ます。安静にしていて下さいね」
「言われなくても」
リナはふっと微笑んだ。
「あたしには、安静にしていること以外できないわ」

ナースコールがなったのは、夕方だった。
「リナさん」
ゼロスが駆け込んできた。ベッドの上にリナの姿はない。シャワールームの扉が開き、そこから身体を部屋の中へ投げ出すようにして、リナが裸で倒れていた。ゼロスは、リナを抱き起こして、滅菌済みのバスタオルでくるんだ。
「……女の看護士さんに来て欲しかったんだけどなあ」
リナが、青ざめた顔で弱々しくいう。ゼロスは、リナを抱き上げて、ベッドに降ろした。布団を掛ける。
「髪、拭いて」
「はい」
ゼロスは、言われたままにリナを抱き起こし、長い栗色の髪をタオルでごしごしと拭う。そして、ヘアブラシを持ってきて、髪を梳いた。
「ありがと、もういいわ」
リナの顔色は戻らない。
「寒くないですか」
「平気よ。それより、ふらふらする」
「シャワーを浴びるのは、ちょっと無理だったんじゃないですか」
「病院では一度もお風呂に入らせてもらえなかったから。久しぶりのシャワーだったの。でも、やっぱりちょっと無理しちゃったみたいね」
儚げに微笑む。ゼロスは、一瞬、その笑顔に魅せられる。
「リナさん、食欲ありますか？」
「そうね、お腹空いたわ」
「じゃあ、少し早めですけど、晩ご飯にしましょう。ライスとパン、どっちにしますか？」
「うわ、選べるの？病院では有無を言わさずその日のメニューを食べさせられたもんだったけど」
「少しでもお客様の需要に応えるのが当院のモットーですから」
「じゃあね、パン！本物のバターつけてよ。マーガリンじゃ嫌よ。今日のメインメニューは何？」
「鱸のムニエルです」
「素敵！デザートは？」
「フルーツパフェです」
「生の果物を使って？」
「いえ、缶詰です」
「……そっか。そうよね。うん。当たり前のこと聞いちゃった」
リナが顔をうつむける。ゼロスは、つとめて明るい声で言った。
「当院のデザートは美味しいですよ。期待していて下さい」
ゼロスは去っていった。リナは、なんとか身体を起こして、パジャマを着た。

食事は、ゼロスが見守る中進んだ。リナは、鱸のムニエルを半分しか食べなかった。
「美味しくなかったですか？」
「ううん、すごく美味しかった。海が近いせいかな、魚、すごく新鮮ね」
「そうですよ」
「ただ、途中でお腹一杯になっちゃって、食べられなかったの。さってと、デザートは別腹……」
リナはパフェを小さなスプーンで食べた。それもリナは半分残した。
「すごく美味しかったの。でもね、でも、また途中でお腹一杯になっちゃって……」
うつむいたリナの深紅の瞳から、涙がぽたぽた落ちた。
「あたしね、すっごく大食いだったんだ。レストランでも、お皿を積み上げるくらい食べてたの。学校でも、お弁当食べて、その上放課後にはパンをいくつも食べなきゃ満足できないくらい、お腹空いてたの。それなのに……」
涙で詰まってその先はしゃべれなかった。しゃくり上げるリナの肩を、ゼロスは軽く抱いた。
「大丈夫です、リナさん。食べられる分だけ、食べればいいんです。ここではあなたは何も無理することはないんですよ」

夜九時。見ていたテレビがふっと消えた。部屋も暗くなる。
「あ、消灯か」
リナは、布団に潜り込む。やがて、隣のナースステーションも暗くなる。眠ろうとした。でも、眠れなかった。耳を澄ますと、遠くに潮の音が聞こえた。何度も寝返りを打つ。ふと、天井を見上げると、寝る前に刺された点滴の影が映っていた。首を吊った人間のように見える。
「……っ！」
リナは、ベッドサイドのガラスの蓋を開け、ナースコールを押した。程なく、ゼロスが入ってくる。
「どうしました、リナさん」
「ゼロス……」
リナは、泣きながらゼロスの白衣にしがみついた。消毒液の匂いがつんとする。
「ごめんなさい、ただ、怖かったの。眠れないの。点滴の影が……」
言おうとして、その子供っぽさにためらう。
「何でも言って下さい」
「……その、首を吊った人のように見えて」
「じゃ、少し明かりをつけましょう」
ゼロスがポケットから出したリモコンを操作すると、天井にポツンと常夜灯が点いた。点滴の影が消える。
「くだらないことで呼び出してしまってごめんなさい」
「謝る事なんて無いんですよ。リナさんの心を少しでも安らかにするのが、僕たちの役割ですから。落ち着きましたか？」
「ええ。でも、何か音楽が欲しいわね。静かな曲が……」
「リナさんのＭＤプレイヤー、今、本と一緒に消毒に回っていますから、明日までの辛抱ですね」
「うん、わかった。ありがとう」
「眠りづらいようなら、入眠剤を点滴に混ぜましょうか？」
「そうしてくれると助かるわ」
ゼロスは、部屋を出ていった。そして、小さな点滴瓶を持って帰ってきた。
「これで、ぐっすり眠れますよ」
「うん……ありがとう」
「じゃ、僕はこれで……」
「ちょっと待って」
リナは、ゼロスの白い上着の裾を引っ張った。
「手、握らせて」
「はい」
ゼロスは、リナの手をそっと自分の掌で包んだ。
「冷たい……」
「この部屋にはいる前に、消毒薬で濡らしてますからね」
リナは、その手が温かくなるまで、手を離さなかった。


ここは聖慈母院。命の終章を見守る場所。ホスピスである。リナは、末期の白血病だ。骨髄移植の相手は、海外まで探しても見つからなかった。毎日のように４０度近い熱を出し、苦しむリナを見かねて、両親はリナをここに入れることを決めた。今、リナは無菌室にいる。入室できるのは、特別な消毒を受けた看護士と医者だけだ。来客は、ガラス越しの来客室から、マイクで部屋の中と話せるようになっている。

「リナさん、朝食ですよ」
ゼロスが部屋に入ってくる。夕べ眠れなかったせいか、リナはまだぐっすりと眠っている。寝顔は、唇まで血の気を失っているが、あどけない。
（天使みたいですね）
ゼロスはベッドサイドのテーブルの上に朝食を置くと、リナの肩を揺すった。
「リナさん、起きて下さい。朝ご飯の前に採血も済ませなくちゃいけませんから」
リナは、しばらくむにゃむにゃ言っていたが、ゆっくりと目を開く。
「ゼロス」
「おはようございます、リナさん」
そして、ゼロスはリナのパジャマの袖をまくり、ゴムバンドで二の腕を締め付ける。浮いた静脈に採血の針を差し込む。
「やっぱり、ゼロス、採血上手い。全然痛くないもの」
「僕は手先の器用さには自信があるんです。朝食は食べられそうですか？」
「うん、お腹空いてる」
「うちの食パンは、厨房で焼いてるんですよ。それに、マーガリンではなく、バターがご希望でしたね」
「えへへ、嬉しいなあ、ご飯が美味しいのって」
「残しても、気にしないで下さいね。リナさんが、お腹いっぱいになれば、それでいいんです」
「ん……昨日は、泣いちゃってごめんね」
「泣いてもいいんです」
ゼロスは、にっこり微笑んでいった。
「僕たちスタッフは、貴女の涙を受け止めることも仕事ですから」

リナは、生ものを食べることは出来ない。今の彼女は、ほんの少しの雑菌から、高熱を出してしまう危険があるからだ。果物や野菜は、缶詰か、一度火を通したものでなければならない。

「サラダ、食べたいなあ」
「温野菜サラダなら」
「そんなんじゃないよ。レタスがしゃきっとしてキュウリがぱりっとしてる生のサラダ」
「うーん……それはちょっと無理ですねえ」
「嘘よ。ただ言ってみただけ」
リナはにっこり微笑んでそういう。ゼロスは、再びその笑顔に動揺した。そして思う。たぶん、自分はこの少女に惹かれているのだ。余命いくばくもない彼女に。
「ゼロス？」
「……あ、はい。なんですか、リナさん？」
「いや、なんかぼーっとしてたから、呼んでみたの」
「すみません……」
「ゼロスにも、そんなことがあるのね。顔も頭もいいし、採血も上手いのに」
「僕って、顔、いいですか？」
「まあ、あたしの意見だけど、かなりいいわね。もてるんじゃない？」
「仕事が忙しいんで、もててる暇もありませんよ」
「仕事って、あたしの世話？」
「今はそうですね」
「ごめんね。あたしがわがままばっかり言ったり、夜中にナースコール押したりするから」
「いいんですよ。僕は百人の女性に好かれるよりも、リナさんに好かれたいですね」
「あら、あたし、ゼロスのこと大好きよ」
どきん。ゼロスの胸が大きく脈打つ。
「ゼロスが、あたし担当の看護士で良かったって、ほんとに思うわ」
「大好きって、看護士として、ですか？」
「え……そうよ。あんたは最高の看護士だわ」
ゼロスは、笑顔を作った。
「最高の誉め言葉、ありがとうございます」


面会室に、黒髪の美しい女性が入ってきた。マイクのスイッチを入れる。
「リナ、体の具合はどう？」
「姉ちゃん……うん、すごくいいよ。前の病院にいたときよりも、ずうっと楽」
「それはよかったわ。前の病院にいるときは、あんた、ずっと苦しそうな顔ばかりしてたから」
「ご飯も美味しいのよ」
「なによりね」
そして、ルナは鞄から編みかけの編み物を取り出して、静かに手を動かし始めた。
「姉ちゃん……何、編んでるの？」
「父さんに、マフラー」
「ねえ……父さんと母さんはどうしてるの？」
ルナは一瞬口ごもる。そして、囁くように言った。
「父さんと母さんはね……あんたがここに来てから辛くてお見舞いに来られないみたい。二人とも、疲れてるみたいね。あたしが父さんと母さんの分までお見舞いに来るわ。今日は、缶ジュースを色々持ってきたの。缶ジュースなら飲めるんでしょう？」
「わー、嬉しい！蒸留水って不味いのよね」
「今消毒に回ってるから、明日には飲めるはずよ」
「ありがとう、姉ちゃん」
「どういたしまして」
「今日は、いつまでいられるの？」
「晩ご飯の前には帰るわ。母さんが、今、体調を崩しててご飯作れないのよ」
「母さんが……それ、あたしのせい？」
「ばかね、あんたは何にも気にすることはないのよ」
その時、無菌室のドアが開いた。熱いおしぼりを山盛りにしたワゴンを引いて、ゼロスが入ってきた。
「リナさん、身体の清拭です。っと、お姉さんがいらしてたんですか。後にしましょうか？」
「ううん、ここんとこシャワー浴びられなくて気持ち悪かったの。構わないから、身体を拭いて」
「じゃあ、パジャマを脱いで下さい……ほんとに、お姉さんの前でいいんですか？」
「いいってば。あ、姉ちゃん、紹介しとくね。この人がゼロス。あたしの担当看護士よ」
「ゼロスさん、初めまして」
「こちらこそ。リナさんは模範的な患者ですよ。安心して下さい」
上半身のパジャマを脱いで、小さな胸を露わにしたリナを、ゼロスはおしぼりで拭いていく。
「あー、熱いタオルが気持ちいい」
「次は、脚を拭きましょう。上はパジャマを羽織ってくれて結構ですよ」
リナは、パジャマのズボンを脱ぐ。ゼロスは、リナの細い足をごしごしと拭った。
「ありがと、気持ちよかった」
リナの顔色は、ベッドに腰掛けている間にみるみる白くなっていった。
「リナさん、横になって下さい」
「うん」
「じゃ、また、夕食の時に」
使用済みのタオルをワゴンの中に入れると、ゼロスは出ていった。
「リナ、あんた、ゼロスさんのこと、よっぽど信頼してるのね」
「うん……でもなんで？」
「若い男性に裸を見せて、身体を拭かれても平気な顔をしてるなんて」
「ゼロスにはね、ここに来た最初の日に裸、見られちゃったから」
「でも、よさそうな方ね。リナ、アタックしてみたら？」
「ふふ……最後の恋の相手にはふさわしいかな？」
「そうね」
ルナは編み針に目を落とした。


それは、四ヶ月前のこと。
「リナさん、学校にお化粧して来ちゃいけませんよ」
「なあに、アメリア。あたし、化粧品は一切使ってないわよ。なんでそんなこと言うの？」
「肌が、真っ白ですよ。でも、そう言えば唇も白いですね。貧血ですか？」
「うん、なんか最近、クラクラすることが多いんだ。夏だからかなあ。暑いのがすごく身体に堪えるの」
「しっかり食べてるんですか？」
「それが、最近、食欲ないのよね」
「ええーっ！！食欲魔人のリナさんが、食欲がない！？」
「な、なによ、大げさね。たまにはあたしにだって、食欲がないことだってあるわよ」
「……リナさん、病院で一度診てもらった方がいいんじゃないですか」
「そうねえ……でも面倒くさいな、病院なんて」
「何か悪い病気だったらどうするんですか」
「あはは。あたしが悪い病気になんかかかると思う？」
「でも、その顔色の白さは気になりますよ。ほんとに、一度、診てもらって下さい。あたしからのお願いです」
「わかったわかった。それなら、今日の帰りにでも、公立病院にでも行ってこよっかな」
リナは、タクシーに乗って、大きな病院に行った。アメリアも付き添った。リナは、なかなか診療室から出てこなかった。やがて、看護婦が、アメリアの前に顔を出した。
「あの、あなたはリナ＝インバースさんの身内の方？」
「いえ、友達です。リナさんに何か……」
「どうも、今晩から入院していただいた方がいいみたいなの。ご家族の方の連絡先、わかるかしら？」
「ええ……」
アメリアは、携帯電話をとりだして、リナの家の電話番号を表示させた。看護婦は、それをメモすると、あわただしく走っていった。
「リナさん……いったい何の……」
アメリアは、不安な気持ちを、無理矢理抑えつけた。
「あのリナさんが、そんな重病のわけないですよね」
リナが白血病であることを知ったのは、それからずいぶん後のことだった。




この小説は、私の白血病の実体験に基づいています。もっとも、私はホスピスには行かず、病院で回復しました。でなきゃ、いまごろこんなに呑気に小説なんて書いていられませんね。この章で実体験なのは、
・ベッドサイドのボタン
・食欲不振
・生ものが食べられない
・すっぴんなのに化粧してると言われた
こんなとこです。では、続きもよろしくお願いします。
ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。白血病でホスピス行く人は少ないと思います。（いや、本当はいるのかもしれませんが。）私が白血病になったのは大学一年のことで、「うっく〜、（もちろん本当は本名）化粧濃すぎるよ」と言われてびっくりしたのを覚えています。


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