水の上の彼女の小さな部屋[５]
chapter 5. 誓いと破滅 その日は、フィリアさんのカウンセリングの日だった。 「どうかしら。さしあたっての悩みはない？」 「ありません」 僕は嘘をつく。恋をしていることを隠す。 「あなたは、なんだか生き生きしてきたように思えるわ。ちょっと聞くけれど、いいかしら」 「ええ」 「あなたは、まだ死にたいと思う？」 「絶対に、思いません」 今度は本当のことを言う。僕はもう死にたくない。彼女から離れたくない。 「それは、ここへ来たことと関係あるの？」 「ええ、あります」 「ここの環境がそうさせた、ということかしら」 「たぶん、そうです」 フィリアさんは、花が咲くように微笑んだ。 「よかった」 フィリアさんは知らない。ルナさんも、リナさんの両親も知らない。僕が、あの小さな部屋で、どんなイニシエーションを受けているかなんて。僕は彼女の腕の中で死に、そして再生する。何度も、何度も……。 その夜も、僕はリナさんの部屋へ迎え入れられた。油絵の具の匂いのする小さな部屋。 「ピアスがしたいわ」 彼女はそう言った。 「ピアスですか。貴女は、耳に穴を開けているんですか？」 「まだよ。でも、これ」 彼女は、机の上に乗った、小さな箱を開ける。僕の手に握らせる。ピストル型の、それは壊れやすそうなピアッサーだった。 「どこでこんなものを」 「通信販売よ。時々、アクセサリーや本を頼むの。姉ちゃんは、いちいち中身を調べたりしないから……ねえ、これで穴を開けて。そこにつけるピアスは、ちゃんと持っているから」 「どうしても、僕が？」 「なあに？ 怖いの」 くすくす、と闇の中に笑い声が響く。 「もっと痛いこと、あたしにしたくせに？」 「こんなに暗くては、出来ませんよ」 彼女はマッチを擦って、蝋燭に火をともした。彼女の大きな影が、壁に、キャンバスに揺れる。 「さあ、やって」 「……苦手なんです、血とか、針とか」 「してくれないと、今夜はおあずけよ」 蠱惑的な笑み。僕はそれに逆らえない。 「分かりました。耳を出して下さい。……冷やしたりしなくていいんですか？」 「いいの。痛みを味わいたい」 僕は、彼女の薄い耳たぶにピアッサーを固定すると、思い切って“ひきがね”を引いた。ばちん、と手応えがあって、蝋燭の火に黒ずんで見える液体がそこから流れ出した。 「大丈夫ですか？ リナさん」 「平気。もう片方もやって」 両耳たぶに流れた血をティッシュで拭き取り、リナさんは銀のピアスをそこに通した。 「痛みがあると、生きてるって気がするわ……さて。約束通り、あんたにあげる。今夜の悦びを」 リナさんは、長い髪を耳にかけると、僕の上にのしかかった。 「こないだ、これが気持ちよかったみたいだから、」 柔らかく乾いた絵筆を取り出す。 「今日は、これでいじめてあげる」 閉じた僕のまぶたを、耳を、唇を、首筋を、乳首を。筆がそっと掃いていく。僕の乳首が尖ると、そこに彼女の舌が下りてくる。一方の乳首は、筆でいじくりまわされている。その筆が、脇腹に下りる。 「リ……ナ……さん」 「なあに？」 「意地悪を……しないで下さい」 「じゃあ、無理矢理にでもあたしの服を脱がせて、強姦すればいいでしょ？ あたし力も弱いし、簡単にそうできるよ」 「僕が……できない……ことを分かっていてっ」 「それじゃ、我慢するのね」 リナさんの筆先が、僕の快楽の中心をもどかしく撫でる。 「ああ、筆が濡れちゃった。糸を引いてるの。綺麗よ。見る？」 無邪気で残酷なリナさんの視線。 「あたしが、欲しいの？」 欲しい。 「他の何を無くしても？」 欲しい。 「……あんたの命に代えても？」 命なんて、僕はとうに捨てていた。僕を蘇らせたのはリナさんの存在だ。 「僕を……殺してもいいです」 リナさんは小さく笑った。 「だから……貴女を下さい」 「わかったわ」 そして訪れる陶酔。リナさんの中にきつく閉じ込められる僕。 「ゼロスの、こういう時の声って、凄く色っぽいよ……」 言葉の一つ一つが僕をなぶり、のぼり詰めさせる。 「あたしだけを見て。あたしのために生きて。あたしを捨てないで」 「どうして……僕はリナさんを決して放しません……リナさん、僕を捨てないでください」 リナさんは、激しく腰を揺すぶった。僕は、彼女の中にその夜初めての射精をした。 夕食を待って食堂に座る。少し湿り気を帯びた新聞をめくっていると、僕の正面の椅子に腰掛ける影があった。リナさんだった。 「こんばんは、ゼロス」 「……こ、こんばんは」 夕陽を受ける髪が、初めて会った日を思い起こさせる。 「まあ、リナさん。今日は具合がいいの？」 フィリアさんが弾んだ声を上げる。 「うん。まあね」 リナさんは照れたように微笑む。その微笑みは清純で、とても夜毎に僕をもてあそんでいる少女とは思えない。 「あら、リナ。ゼロスくんと一緒に食べるの？」 「今日はそうするの」 「……大丈夫？」 「……たぶん」 最後の会話は密やかに交わされた。 「じゃあ、今日のメインディッシュ。鮎のパイ包み焼きよ」 「メインディッシュしかないくせに」 ルナさんは軽くリナさんを小突くと、厨房へ戻っていった。リナさんは、ナイフとフォークを取ると、上品にパイを切り分けた。……リナさんの呼吸が乱れ、ナイフとフォークはテーブルの下に滑り落ちた。 「リナさん……？」 「いや……」 リナさんは頭を両手で抱えた。耳を塞ぐ。 「いや……邪魔しないで。あたしは、ゼロスと……」 「リナさん！」 フィリアさんが立ち上がった。リナさんの肩を後ろから支える。 「邪魔しないで！ 話しかけないで」 リナさんが叫んだ。最初僕は、僕かフィリアさんに言っているのだと思っていた。だが、リナさんの瞳はただ中空を見つめている。 「いやああ！ どうしてほっておいてくれないの？ なぜあたしの邪魔をするの？ 近寄らないでぇ！」 ルナさんがリナさんの口にナプキンの端を入れた。それでも、リナさんは唇をかみしめ、血がルージュのように滴る。いつの間にか鞄を持ってきていたフィリアさんが、リナさんの腕を引き剥がすように伸ばさせ、脱脂綿で消毒すると、素早く何かを注射した。 リナさんの口から、真っ赤に染まったナプキンが、涎を引いて落ちる。リナさんの紅い瞳は、いつしか僕を見つめていた。 「ゼロス、助けて」 「リナさん……」 「助けて！ いやよ、ゼロス助けて！」 「何が貴女を苦しめているのですか？ どうすれば貴女を助けられるのですか？」 「お願いよ……ゼロス、助けて」 そして、リナさんは糸が切れるように意識を失った。 「無理、したのね」 フィリアさんは、ざっくりと切れたリナさんの唇を消毒する。 「食堂へ出てきて食事するなんて、この子にとっては何年ぶりか……それも、出会って間もない、一度ピクニックしただけのあなたと。きっと無理しすぎたのよ……あら？」 ソファに寝かせられたリナさんのピアスに、フィリアさんは気づく。 「リナさん、ピアスなんてしてたかしら……」 「ああ、この間この子に届けた小包、あれがピアスだったのかも。穴を開ける機械と一緒に。この子、ピアスに憧れてたのかもね」 ルナさんは軽く黒髪を持ち上げる。そこには、上品な蝶の形のピアスがあった。 僕は黙っていたが、何とか口を開いた。 「フィリアさん、リナさんは無理するとこんな風になるんですか」 「そうね。ほんの少しの環境の変化で、リナさんはパニックを起こす。幻聴に支配され、身動きがとれなくなる」 僕と夜、あんなに戯れるリナさんが？ 「物心ついてから、ずっとこうだったわ」 ルナさんは、優しくリナさんの髪を撫でている。眠るリナさんは子供のようだ。唇の傷が痛々しい。 「人前に出たり、人に気を遣わなければいけなくなると、激しい発作が起きる。……ゼロスくん、ごめんなさい。びっくりしたでしょう」 「僕は構いません。それより、リナさんはいつ目を覚ますんですか？」 「さっき鎮静剤を打ったから、今夜一晩は眠っているでしょう。リナさんの主治医にも連絡しないと」 「あの……」 僕は、おずおずと言った。 「僕の存在が、リナさんのお邪魔になるのなら、僕は家に帰ります」 「その必要はないわ、ゼロスくん。でも、この子の存在があなたの邪魔にならないか心配ね。ちょっと話したくらいの女の子が自分の前で発作を起こしたら、迷惑だったでしょう」 「いえ、全然……」 僕と彼女は『ちょっと話したくらい』の仲ではない。 「リナはここに寝かせて、私たちは食事の続きをしましょう」 ルナさんが言った。 「看病する側が疲れてたんじゃ、何にもならないわ」 「でもどうして、リナさんはゼロスさんと一緒に座ったのかしら？」 フィリアさんが小首を傾げた。 「リナさんは、特に男性のお客さんを怖がるのに」 「ゼロスくんが美青年だからでしょう」 ルナさんが言って、僕たちは力無く笑った。 僕が部屋までリナさんを抱いていこうかと提案したが、ルナさんは軽く断った。 「私は力持ちだっていったでしょう。それに、この子の部屋に家族とフィリア以外が入るのが、この子の病状にどういう影響があるか分からないわ」 ルナさんに抱き上げられ、リナさんは運ばれていった。 消灯。ルナさんが鍵をかける音。僕は、眠れないまま外の様子に耳を澄ましていた。磨りガラスのドアの向こうから、鍵を外す音がした。僕は弾かれたように起きあがる。 廊下に出てみると、リナさんが倒れていた。 「リナさん」 僕は声を潜めて話しかける。 「なんて無茶を。貴女は鎮静剤を打たれているんですよ」 彼女の肩を支え、立たせる。彼女の身体は力が抜けきっていて、ぐにゃぐにゃしている。僕は、彼女を抱き上げた。がくりと首が下がり、おでこをのぞかせたあどけない寝顔が晒された。僕はゆっくりと階段を下り、彼女の部屋へ向かった。 リナさんをベッドに寝かしつけ、立ち去ろうとすると、リナさんが僕の腕を引いた。 「行かないで」 開ききらない瞳。たぶんもうろうとした意識の中で、リナさんは僕を呼んだ。 「ゼロス、置いていかないで」 紅い瞳から涙が流れた。 「怖いの。何かがあたしの側でささやくの。お前なんか一生誰の側にもいられないんだ、って。お願い。そいつに言い返して。一生あたしの側にいるって」 「一生リナさんの側にいますよ」 「あたしのこと、好きだといって」 「好きです。こんなに人を好きになったのは、生まれて初めてです」 「もうあたしから離れない、ってそいつに言ってやって」 リナさんの言う“そいつ”がどこにいるのか分からなかったけれど。 「僕はリナさんを放しません。一生をかけて、守り続けます。たとえ何があっても」 リナさんは満足したように目を閉じた。そして静かに言葉を紡ぐ。 「あたしのこと、狂ってると思う？」 「それは……」 「あたしがね、一番分かってる。あたしは狂ってるのね。生まれたときから今でもずっと」 涙がもう一筋、リナさんの頬を伝った。 「“そいつ”は必ずやってくる。眠り姫の悪い魔女みたいに、あたしの不幸を確約していく。でも、王子様はこない。あたしは一人きりで眠ったまま年をとって、死んでいくの」 「僕では王子様になれませんか？」 言いながら、自分で恥ずかしかった。ついこの間、薬を飲みすぎて手首を切った人間が、どうしてこんなに苦しんでいるリナさんの救いになれるだろう。 「好きよ、ゼロス」 リナさんは、半分眠ったように言う。 「生まれてから、こんなに好きになった人はいないわ。だからあたしをあげた。だからピアスの穴を開けてもらった」 そしてリナさんの心の扉が開く。中から、“そいつ”が顔を覗かせる。 「お願いよ、静かにしていて。あたしは、たった一人の人に、たった一度の告白をしているんだから」 リナさんの小さな手が、僕の手を掴む。柔らかくて冷たい、壊れてしまいそうな手。 「その絵。布を取って」 僕が言われたとおりにすると、湖に遊ぶ男女が姿を現す。男は肩までの黒髪を後ろでくくり、少女は紅茶色の髪を風に遊ばせている。透明な水が、二人の足を蒼いインクの色に染め上げる。 「ゼロスが来るずっと前に描いた、その絵」 僕は黙ってリナさんの言葉を聞く。 「不思議だったわ。髪型はすらすら描けたんだけど、目の色が決まらなかった。今までそんなことで悩んだこと無かったから、どうしてだろうと不思議に思った。でも、あんたがフロントに立っているのを見たとき、分かったの。あたしはこの人をずっと待っていたんだって」 闇に目を凝らす。今は、男の瞳が菫色に塗られているのが分かった。 「だから、もうどこにも行かないで。あたしのそばにいて。身体が目当てでもいい。あたしをずっと欲しがって」 「僕は、初めて会ったときからリナさんが欲しかった」 「身体が？ 心が？」 「両方です。僕の全てを賭けて、貴女を僕の物にしたかった。貴女が好きです、リナさん」 僕は彼女に口づけて……ふと我に返った。彼女の唇は、血の味がした。今、彼女は鎮静剤の効き目と戦って、僕と話しているのだ。 「今日はもう眠って下さい。貴女は疲れすぎている。側にいて欲しいなら、朝日が昇るまで側にいます」 「どう……して……あたしを……好きにして……いいのよ」 「今の貴女には出来ません。さあ、眠って……明日の朝、貴女が目覚めるまで、ここに……」 静かな寝息が聞こえてきた。僕は微笑んで、彼女の細い肩に毛布を掛けた。 リナちゃんにゼロスがピアスを開けるシーンは他の小説でも書きましたが、この小説にも何となく似合う気がして再び書いてみました。そして起こるリナちゃんの発作。えーと、ちょっとだけゲーム「Ａｉｒ」の影響を受けているかも。「会食不能」といって、誰かと食事をすることが出来ない病気ってあるらしいです。それでは、次は最終話です。よろしくお願いします。 ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。残されたサンドイッチ、食べられなかった鮎のパイ包み焼き……リナちゃんを襲う苦しみはいかばかりのものでしょう。そしてリナちゃんは一つの決断をします。 
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