水の上の彼女の小さな部屋[extra]
chapter〔extra〕水上ピクニック 「ねえ、ピクニックに行かない？」 ある朝、僕と共にベッドで目覚めるとリナさんは晴れやかな声でそう言った。 「ピクニック、ですか。陸に上ってどこかへ？」 リナさんは首を振る。 「陸の上は人もたくさんいるし、空気だって汚れてる。あたしが行きたいのは、青空の下の湖、その上よ」 「貴女はボートは運転できないのでは……」 「姉ちゃんに頼めば、出してくれるわ」 リナさんはウィンクした。 「姉ちゃんは怖い人だけど、あたしのお願いにはべたべたに甘いのよ」 特製のサンドイッチを持って。パラソルをさして。清らかな水の上にたたずむ水上ピクニック。 「すみません、わがまま言って」 僕は恐縮する。 「いいのよ。リナが滅多に言わない贅沢だもの。サンドイッチも、リナの好きな物ばかりにしてきたわ」 空は果てしなく青い。水は、怖いほどに透き通っている。 「ゼロスくん、あなたこそ良かったのかしら？ リナのわがままにつきあわせて」 「僕は構いません。リナさんにお誘いいただけて、光栄ですよ」 ルナさん、リナさん、フィリアさん、そして僕。 「ルナさん、ご両親もお誘いした方がよかったんじゃ……」 「あの人たちはね、忙しいから。リナのお世話はあたしの担当なのよ」 ルナさんはふと寂しい目をした。 ボートは、今はエンジンが切られ、ゆっくりと水の上をたゆたっている。リナさんが、僕の腕を捕まえて、水の上から底をのぞき込んだ。 「ほら、ここ。水源」 「水源？」 目を凝らすと、確かにそこだけ水の流れが違った。水底は揺らめき、小石が躍っている。名前のない湖の、たった一つ自己主張する場所。リナさんはうっとりとそこを見つめている。 「不思議ね。こんな綺麗な湖に名前がないなんて」 「じゃあ、リナさんがつけてみますか？」 リナさんはきょとんとした目で僕を見た。そして笑った。 「ゼロスって、『赤毛のアン』みたいなことを言うのね」 「僕は読んだことありませんけどね。アンが湖に名前をつけたんですか？」 「友だち４人と、ね」 「今、つけてしまえば、この湖はリナさんの物ですよ」 「いらないの」 リナさんは水に手を浸した。 「あたしなんかが名前を付けたら、この湖は呪われてしまうわ」 「そんなこと……」 「何を話しているのかしら？」 フィリアさんが、僕とリナさんの間に割り込んだ。 「この湖には名前がない、って話です」 「そうね。最初に来た頃は、驚いたわ。それなりに大きくて、深さもある湖なのに」 フィリアさんも、澄んだ水に手を触れた。 「でも、今は名前が無くてもいいかと思ってるわ」 「……なぜですか」 「この湖は……だからよ」 リナさんは、僕たちから離れて、サンドイッチに手を伸ばしている。僕はフィリアさんに聞き返した。 「なんて言ったんですか？」 「この湖は、牢獄だからよ」 「牢獄？」 「リナさんを、閉じ込めている。身体も、心も」 フィリアさんの瞳には、憂いだけがあった。 「そんな……！ いつだって、リナさんは陸に上がろうと思えば上がれるはず……」 「甘え」 フィリアさんは手のひらを広げて指を折り曲げた。 「恐怖」 もう一本、折り曲げる。 「こわばった愛情」 「フィリアさん……」 「リナさんは、この湖に閉じ込められている。そして、そのことにリナさん自身も気づき始めている」 僕は、フィリアさんの肩を掴んだ。 「あなたはカウンセラーでしょう。それならなぜ、リナさんを陸に上げようとしないんですか。……リナさん自身、この湖を愛し、そして憎んでいる。それでいて、離れられないでいるなんて」 「ゼロス、フィリア」 リナさんの無邪気な声がかかった。 「サンドイッチ食べないの。あたしと姉ちゃんでみんな食べちゃうわよ」 「あ、いただきます。どれが美味しいんですか」 「コンビーフとレタスのが美味しいかな。だから、それは全部あたしのもの。そうね、玉子のサンドイッチなら、いくつ食べてもいいわよ」 フィリアさんが柳眉を逆立てる。 「リナさん！ あれ程好き嫌いは良くないって……」 「いいのよ。あたし、育たなくていいんだから」 リナさんは雲一つない青空を見上げる。それでも、ボートの上は涼しかった。女性は３人ともパラソルを差している。僕だけが、直射日光に晒されていた。 「あたしはこれ以上大人にならなくてもいい」 「それはだめよ、リナさん」 フィリアが諭す。 「誰でも、時が経てば大人になる。大人になることを放棄したとき、人は永遠の牢獄に閉じ込められるのよ。ピーターパンの牢獄に」 「あたしはもう、牢獄に囚われているんでしょう？」 僕とフィリアさんは顔を見合わせた。さっきの会話は、聞かれていたのだ。 「泉の牢獄。あたしだけじゃない。父ちゃんも、母ちゃんも、姉ちゃんも、フィリアも」 僕を見る。 「そしてゼロスも。あたしのせいで閉じ込められている」 「ゼロスさんは……違うわ。時が経てば、ここを出ていく人」 「ゼロス、出ていくの？ ここを」 リナさんは妖しく微笑んだ。僕が彼女に逆らえないのを知って。 「出ていき……ます。時がくれば」 「本当に？」 僕が冷や汗をかいているのにフィリアさんが気づいた。 「どうかしたの、ゼロスさん。船にでも酔った？」 「僕は、出ていかなければならない人間なんです」 「どうして？」 リナさんの、冷たく小さな手が、僕の手に重なる。 「ずっとここにいてよ。さみしいわ、あたし」 「リナさん！ わがままを言ってはだめ」 フィリアさんが鋭い声で言った。 「あなたは確かにとても辛い病を背負っているけど、それで人を思い通りに動かそうとしてはだめよ。ゼロスさんを巻き込んではだめ。分かるでしょう？」 リナさんはそっと僕の耳にささやいた。 「分かってくれてるわよね？」 そして、幾分甘えた声で、フィリアさんに言う。 「ごめんなさい、フィリア。ゼロスは、怖くない『お客様』だから、ついずっといて欲しいと思ってしまったの」 フィリアさんはほっとした顔をする。 「分かってくれていれば、いいわ」 一人、エンジンルームの上に座ってサンドイッチを囓っていたルナさんが皆に言う。 「水源は堪能した？ それじゃ、そろそろ場所を移動しましょうか」 「水柳のトンネル、してくれるの？」 「あら、リナはトンネルがお望み？ 相変わらず子供のままね」 ボートは勢い良く発進した。波一つないガラスの水面を、真っ白なモーターボートが駆ける。 「水柳のトンネルって何ですか」 「見れば分かるよ。ゼロス。とっても素敵なんだから」 リナさんは、僕の腕にしがみついた。ボートは、ペンション「インバース」の方へ向かっている。ルナさんは更にスピードを上げたようだ。 「トンネル！」 ボートの両側を、水面まで垂れた柳の枝が覆った。日光も、ちらちらと遮られる。振り向けば、ボートの後ろの波に巻き上げられた水煙と、揺れる柳。 「わあい、柳のトンネル！」 無邪気なリナさんの叫びに、ルナさんは微笑む。やがて、柳が途切れて、広い湖が姿を見せた。 「もう一度！ 姉ちゃん、お願い！」 ルナさんは、水の上で急旋回する。甲板に置かれたバスケットが滑る。ボートはもう一度、逆側から水柳のトンネルに突っ込んだ。顔に風が当たって、息もできないほどだ。 妹を喜ばせて満足げなルナさん。リナさんのきらめく深紅の瞳。苦笑しているような表情のフィリアさん。僕は？ リナさんの小さな胸を腕に感じながら、僕はどんな表情をしていただろうか？ ペンション「インバース」が、今度は右舷を一瞬で駆け抜けていく。リナさんの顔を見ていると、彼女がこの湖に閉じ込められているとは思えない。湖と彼女は、一つになって溶け合う。水柳と彼女は、絡み合って呼吸する。 本当の幸せがこの世にあるとすれば、それは彼女とこの湖の間にあるのではないか、と僕は考えていた。 『トンネル』を３回やったあと、ルナさんはもう一度水源の上にボートをつけた。その腕前は見事と言うしかなかった。 「慣れてるからよ」とルナさんは微笑んだ。リナさんは、もう一度湧き上がる水に両手を浸した。日が傾いてきていた。オレンジ色の陽光が、リナさんの紅茶色の髪を染めた。僕は、愛しい彼女の肩を抱き寄せた。湖の上を吹く風はもう冷たかった。 「あたしのことが好き？」 誰にも聞こえない小さな声で、リナさんは僕に聞いた。 「大好きですよ」 「あたしのために、この深い深い湖の底に沈むことになっても？」 「貴女と一緒なら」 リナさんは、フィリアさんとルナさんがこちらを向いていないことを確認してから、僕の耳たぶを素早く噛んだ。その刺激は、僕の身体に火をつけた。こらえきれないほどの欲情が、僕を苦しめた。 「今夜も、来て」 逆らえない言葉。 「あたしを、抱きしめて」 それは魔法の呪文。 「たとえ、深い湖の底に沈むことになっても……」 呪いか。言祝（ことほ）ぎか。 「好きよ」 蜜の言葉が得られるのなら、僕はこの湖に沈められてもいい。 今度は、トンネルと言えないほどゆっくりと、水柳の葉をかき分けて僕たちは帰途についた。「インバース」の階段を僕とリナさん、そしてフィリアさんとで上がる。 「ふう、今日は一日遊んじゃった。晩ご飯はあり合わせの物になるから、期待しないでね」 ルナさんは、家の裏にボートを留めに行った。 僕はバスケットを持った。空だと思っていたが、不思議な重みがあった。厨房に返す前に、そっとバスケットを開けてみた。リナさんが好きだと言った、コンビーフとレタスのサンドイッチが、手つかずのまま残っていた。 この章は、全部が書き上がった後からつけくわえたものです。何となく、こういう話が書きたくなって。第４章と第５章の間が綺麗に空いていたのが幸いしました。レイ・ブラッドベリ作のＳＦ小説、「火星年代記」の最後の一章、「百万年ピクニック」というタイトルから着想を得たものです。 ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。レイ・ブラッドベリは私のフェイバリットな作家の一人です。いつか彼のような小説を書けるようになりたい。（無理） 
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