水の上の彼女の小さな部屋[extra]
chapter 4. 揺れる小さな部屋 真夜中を過ぎても、彼女は現れなかった。僕は、時間が過ぎるのも忘れて彼女を待った。暗いベッドの上で、息を殺して。眠れない。暁の光が窓に満ちる。僕は軽く痛む頭を振って、窓辺に立った。 リナさんが、渡り廊下にでて、イーゼルを立て、何か描いていた。彼女の瞳は、キャンバスと夜明けの風景をかわるがわる見つめていた。この美しい朝焼けを写し取っていることは、容易に知れた。遠目にも分かる、真剣な眼差し。 （心を病んでいるのよ。生まれたときから。） ルナさんの言葉が蘇る。でも、今の真摯な彼女が病んでいるとはとても思えなかった。静寂の中、そこにあるのは芸術家の瞳。 （病んでいるのよ。） 確かに、そうかも知れない。宿に泊まりにきただけの、見知らぬ男を相手に処女を散らすなど、正気の沙汰ではない。けれど。僕はいつまでも彼女を見つめ続けていた。 彼女がイーゼルを畳んで部屋に引っ込んでしまってからも、僕は昇りゆく太陽と消えてゆく朝焼けを見つめていた。ひどくのどが渇いていた。僕は、洗面所に行き、コップに冷たい水をくんで何杯も飲み干した。ベッドにもう一度寝転がって、絵を描いていた彼女のことを考えた。ベッドの脇にかけられた湖の絵を見た。「Ｌｉｎａ」という署名は、絵の流麗さに比べて、幼く、ちぐはぐに見えた。不意に、眠気が襲ってきた。 「ゼロスくん、朝ご飯片づけるわよ。起きて」 くり返されるノック。でも、僕は起きられない。身体は熱く重く、夢の中にいる。 ようやく目を覚まして、汗をかいた衣類を着替え、食堂に顔を出す。 「やっと起きたわね、ゼロスくん。どうしたの？ ゆうべ、寝つけなかったとか？」 「はい、まあ、ちょっと」 「今厨房でお昼ご飯作ってるけど、何か出しましょうか。ヨーグルトでいい？」 「あ、すみません……」 「うちの特製カスピ海ヨーグルト。ジャム、つける？」 「はい」 冷たいヨーグルトが、口の中に心地いい。それを食べ終わった僕は、壁の絵を見ていた。湖の絵、湖の絵。……湖に脚を浸して踊る少女。 「……今、リナさんは新しい絵を描いているんですか？」 「知らないわ。あの子は、いつも新しい絵が出来てから、私たちに言うの。私は出来上がった絵を飾るだけ。あの子は、描くところを誰にも見せないのよ」 「鶴の恩返しみたいな話ですね」 「あなたは、見たの？ リナが絵を描くところを」 「いえ。ただ、気になったから」 昼食を食べ終わると、僕はまた部屋でリナさんの訪れを待った。思い立って、図書室にも行ってみた。でも、リナさんとは会えなかった。僕は、動物園の檻の中で、落ち着きなく動き回る動物だった。ただ、彼女の身体を求めてさまよう。結局、その日一日リナさんとは会えなかった。その次の日も。 更に次の日の夜、僕は夢の中で裸のリナさんを抱いていた。彼女は僕の下で、甘いあえぎ声を上げて僕にしがみついていた。僕は彼女の背中をたどり、直に小さな胸に触れた。そして僕は彼女の中に射精した。 ───目を覚ますと、もちろんそこに彼女の姿は無かった。僕は夢精したのだ。汚れた下着を洗面所で洗いながら、夢精したのなんて何年ぶりだろう、と思う。もしかしたら、精通以来かもしれない。 次の朝、僕はフィリアさんに聞いた。 「リナさんの調子はどうですか？」 「あなた、リナさんのことをよく尋ねるわね。彼女は可愛いし、無理もないけど」 フィリアさんはふと厳しい目をした。 「でも、彼女に干渉してはだめよ。彼女はクリスタルグラスのように脆いのだから。あなたに優しさがあるのなら、滅多なことで彼女に近づかないで」 「分かってます」 分かっていない。僕は、彼女に会いたくて、会いたくてたまらないのだ。 「まあ、リナさんの状態について言うとね、ここ数年の中では一番調子がいいかしら。目の輝きがしっかりしてるわ。彼女が、このままいい方向へ向かってくれるといいんだけど」 僕と寝たことと、それは、どういう関わりを持っているんだろう。 「リナさんもね、ずいぶん長い間ひとりだったから……ご両親やルナさんはそりゃあ心配したわ。私も、ここへ来てからずいぶん彼女のことを考えたの。でも、彼女はしっかりと殻に籠もっていて、私たちに心の中を見せようとはしなかった。でも、昨日訪ねていってみたら、久しぶりに笑顔を見せてくれたわ。もちろん、彼女の大事な書きかけの絵には、分厚い白布がかかっていたけれど」 フィリアさんの目が優しくなった。 「あの子は、凄い才能を持ってる。もっと外へ出るべきだし、いろいろな人と交流を持つべきだわ。すぐに、とは言わないけれど。そして、」 マニキュアされた爪が、金髪をかき上げる。 「幸せになるべきだわ」 その夜も、リナさんは姿を現さなかった。僕は、自分の部屋と図書室を行ったり来たりしていた。 「あら、ゼロスくん、図書室にいたの。悪いけど、もう図書室には鍵をかけるわ」 「ああ、すぐ出ます。すみません」 ルナさんは、ポケットから鍵束を出して、図書室の灯りを消し、鍵をかけた。 僕は眠れないまま、何本かのビールを飲んだ。酔いはしたが、リナさんの身体を激しく求める想いは治まらなかった。 （彼女はクリスタルグラスのように脆いのだから。） フィリアさんの声。 （心を病んでいるのよ。生まれたときから。） ルナさんの声。 僕が彼女を抱くことが、彼女のためになるわけがない。……いや。僕は彼女を抱いたことはない。“彼女が僕を抱いている”のだ。僕は彼女の素肌に触れさせてもらったことすらない。それは何の言い訳にもならないけれど。 （あいたかった） リナさん。 （ずっとさみしかった） リナさん……。 僕は決意しなければならなかった。彼女の中に踏み込むか、とどまるか。選択肢はない。僕は彼女に激しく惹かれ続けているのだから。 深夜に、廊下に出る。床板のきしむ音がひどく大きく聞こえる。僕は、そこに鍵がかかっていることを確信して、磨りガラスのドアの取っ手をまわした。ルナさんの鍵束を探してでも、そこを開けるつもりだった。ドアは、あっけなく開いた。僕は、驚きも不安もなく、ただ進んでいった。階段を下りる。水の上の彼女の小さな部屋には、明かりが灯っていた。材質がそこだけ違うような、頑丈なドアをノックする。扉は内側から開かれた。小さな手が、僕を部屋の中に引っ張り込んだ。 「待ってた」 泣きたくなるような甘い声が、僕の耳をくすぐった。 「あんたがこの部屋に来てくれるのを、ずっとずっと待ってた」 僕は、抱きついてくる彼女の髪を撫でる。緩やかに波打った、細い柔らかい髪。 「磨りガラスのドアは、貴女が？」 「姉ちゃんが鍵をかけるのを聞いてから、そっと外しに行ってた。来てくれた！ やっと側に。ゼロス……ゼロスはあたしのものよね？」 「ええ」 僕は快楽と罪悪感と……満たされる気持ちに目を閉じた。 「貴女の……ものです」 リナさんは部屋の明かりを消した。水柳のせいで、月の光さえこの部屋には届かない。暗闇の中で、リナさんが服を脱ぐ気配がした。 「リナさん……貴女に、触れたい」 「だめ」 リナさんは、大きなキャンバスにかかっていた白い布を取ると、それを自分の身体に巻き付けた。そして、いつものように僕の手を自分の胸に導く。頼りない柔らかさに、僕は全神経を集中する。彼女は絵筆を手に取り、僕の耳をくすぐる。くすぐったさよりも、しびれるような快感が先に立つ。僕の中心は、触れられてもいないのに固くなる。 「リナさん……っ」 「なあに」 「貴女は、こんなことをして……楽しいんですか」 「楽しい？」 少し考える間がある。 「楽しいから、とかそういうのでやってるんじゃないわ」 「じゃあ……なぜ」 「あんたが欲しいだけ」 「僕もリナさんが欲しいです」 ふっ、と彼女の唇が笑みの形を作ったのが分かった。その唇がそっと僕の頬をなぞり、僕の唇に触れる。僕は叫びたい。貴女が欲しい。貴女を抱きしめたい。貴女の裸が見たい。……貴女を連れ去りたい。 気がつくと、僕の服は全て脱がされている。彼女は、舌で僕の全身をたどる。足の指をくわえられ、新たな感覚が呼び覚まされる。僕のペニスは、もう切なくなって、先走りの液を涙のように溢れさせている。彼女の指がそこに巻き付き、液をすくって先端全体に塗りつける。 「欲しい？」 「欲しい……です」 「あげる……あたしを。だから……」 温かい膣が僕を包む。 「行かないで」 彼女の動きに合わせて、僕の喉からは絶え間ない喘ぎが零れた。 目覚めると、曙光が部屋に射していた。リナさんは、僕の隣で眠っている。僕は、彼女の髪をかき上げ、その唇に唇を重ねようとした。その時、彼女の目が開いた。 「眠ってないわよ。だめよ、あたしにそんなことをしようとしちゃ」 僕はため息をついて、部屋の中を見渡した。小さな部屋。小さなベッド。キャンバスには未完成の絵。湖に遊ぶ、少女と青年の絵。 「あれは、僕ですか？」 僕は絵を指さす。 「そうよ。あんた。あたしは、この絵を描きながらあんたを待ってた。ずうっとね」 「ずっと？」 「ええ。もう何年も前から」 「僕が、ここに来ることになったのは、ほんの一週間ほど前のことですよ。ずっとだなんて……」 「あたしには分かってたの。何もかも。あんたが来れば、あんたを抱くことも。そして、この部屋に別れを告げることも」 「出て行くんですか？ リナさん」 「出ては、いけない。姉ちゃんやフィリアが、それを許さないでしょう。この家は水に囲まれている。あたしには、ボートの運転は出来ない」 「僕が……僕が連れていってあげますよ。貴女を僕のお嫁さんにして。きっと、家族の方にも分かってもらえます。貴女は僕の側で、自由に絵を描いていればいい。夜になったら一緒に眠りましょう。それだけで僕は幸せに……」 「そうね。あたしはあんたのために、綺麗な絵を何枚でも描いてあげる。料理は出来ないけど、あたしは器用だからすぐに覚えるわ。あたしたちは幸せな夫婦になって、一生を過ごす」 「貴女に似た可愛い赤ちゃんも欲しいですね」 「それは無理」 彼女は、小さく首を振った。 「あたしには、生理はないの」 光はいっそう強くなり、彼女の部屋の中にくっきりと水柳の葉の影を映しだした。 「もう、部屋に帰って。今夜、また、来て」 彼女は、固く白布を身体に巻き付けたまま、くるりと壁を向いて横になった。人形のように細く華奢な肩は、「これ以上話しかけないで」と語っていた。 毎夜ごとに、僕たちの逢瀬は続いた。僕は、自分の中にこれほどの欲望があったのかと驚いていた。ルナさんが渡り廊下に鍵をかける音、リナさんが向こう側から鍵を外す音。僕の耳は敏感にそれを聞き取った。そして、僕は誰もいない廊下を歩く。リナさんの部屋を目指して。 リナさんは、何度身体を重ねても、けっして布越しの薄い胸以外は触れさせてくれなかった。騎乗位以外の体位も許してはくれなかった。僕は彼女をねじ伏せて、その細い身体の全てを暴き立て、彼女の上にのしかかりたかった。けれど、彼女が僕から離れてしまうことを思うと、何もできなかった。僕たちがつながり合っているとき、その部分は必ず布で隠されていた。 先端が痛くなるほど交わって、疲れ切った僕と彼女は、狭いベッドに並んで横になる。ときおり、部屋全体がゆらりと揺れるのが分かる。 「揺れていませんか？」 「この部屋を支えている土台が、腐りかけているのよ。水の中にずっと浸されているんだから、当然ね」 「危ないじゃないですか。修理を……」 「いいの。この部屋に、家族以外の誰かが近づくのは面倒くさいわ」 「僕は……」 「あんたは特別。ずっとあんたを待ってた、って言ったでしょう？」 リナさんはそう言って、僕に口づける。僕はリナさんの身体に手を回そうとする。 「それは、だめ」 彼女は僕の手からそっと逃れた。 僕はくたくたに疲れて、朝日が部屋に射し込むまで眠り続ける。彼女は、そんな僕の側でずっと起きているようだった。僕が目を覚ますと、いつもその深紅の瞳でのぞき込まれた。 「ゼロスの目。綺麗な紫」 歌うようにリナさんは言う。 「どんな色で塗ろうか、苦労しているのよ」 細い指先が、イーゼルの上の絵を指さす。彼女と一緒に湖で戯れているその男は、幸せそうに見えた。水柳の葉の影が、絵の上を横切った。 「変な木ね。水の中に根を張って、腐りもしない。毎年、綺麗な葉をつける」 「貴女みたいですよ」 「そう？」 「貴女は、この水の上の部屋で、止まった時の中にいるように美しいままで暮らしている」 リナさんは、僕の髪をくしゃくしゃと撫でた。 「あたしにだって、子供の頃があったのよ。そして、だんだん年老いて、おばあさんになるわ」 それは、当たり前のこと。でも僕には信じられなかった。彼女は、この部屋と共に、いつまでも美しくあるような気がしたのだ。 リナちゃんの病は何なのでしょうか。実を言うと、羽久も考えていません。ただ、彼女がゼロスを待ち続けていた……それだけは真実です。 ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。リナちゃんは不幸せですが、一面でそれは彼女が選んだことでもあるのです。 
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