水の上の彼女の小さな部屋[３]
chapter 3. 偽りのキス ルナさんは、水柳の枝をかき分けるように広い空間へ出た。空が眩しいほどに青い。そして、それを映す湖も。 「ずいぶん、透明なんですね、この湖は」 「この湖はね、水源なの。流れ出す川しかないから、汚れようがないわ」 「なんて名前の湖なんですか？」 「名前はないわ」 「え……」 「強いて言うなら、ホワイト・リバー水源、ね。ずいぶん豊かな水が湧き出るらしいわ、ここは」 ルナさんはボートを止めた。ボートが描いた軌跡が、陽光を反射してきらめく。僕は湖に手を浸した。蒼いインクを溶かしたように、その水は僕の手を染めた。うっすらと見える白い水底に、魚の影がある。 「昨夜の魚は、ここのものを？」 「もちろんよ。父さんは釣りが趣味なの。お客様に新鮮な魚を食べていただくことを、何より楽しみにしているわ」 「僕は、貴女のお父さんにもお母さんにも一言もご挨拶を……」 「ああ、いいの。そういうことを気にしないためのペンションなんだから。まあ、偶然顔を合わせたら挨拶してちょうだい。悪いんだけど、そろそろ引き返さないと買い物に間に合わないの。戻ってもいい？」 「あ……はい。戻って下さい」 ルナさんはハンドルを切り、固い水面を駆けた。僕をペンションの玄関で下ろすと、 「じゃあ、食料とその他諸々、調達してくるわ」 と言って、威勢良く滑り出していった。 僕は部屋に戻り、『カラマーゾフの兄弟』の続きを読んでいた。ときおりページに指を挟み、目を伏せてリナさんのことを思った。本の中ではイヴァンが神の心について説いているのに、僕は一人の女性のことで頭がいっぱいだ。けれども、リナさんの美しさは神の作り賜いしものなのかもしれない。僕は栞を挟み、本を投げ出した。今の僕には、もっと簡単に夢中になれる、軽い読み物の方がいいのかもしれない。図書室へ行ってみよう、と思い立った。 部屋を出て、向かい側のドア。ガラス戸から中を覗く。誰もいないようだ。僕は、ノブをまわし、扉を開けた。窓が開いているらしく、ドアが開いた途端、風が駆け抜け、僕の髪を揺らせた。 「───ゼロス」 扉から見えないほど奥に、小さな影があった。 「リナさん」 昨日、僕が抱いたその身体が、まっすぐに僕の胸に飛び込んできた。 「あいたかった」 なぜ？ 「ずっとさみしかった」 なぜ？ 「ねえ、部屋へ行こう。あんたの部屋へ」 僕はなぜ、この娘に逆らえない？ リナさんはしっかりと僕の腕にしがみついている。僕はこのまま廊下へ出ていいものか迷った。フィリアさんや、まだあってもいないリナさんの両親にこんなところを見られたら、やっかいなことになる。 「大丈夫」 リナさんが僕の耳元でささやいた。 「早く、行こう。そして、しよう」 僕の部屋に入ると、リナさんは僕のシャツのボタンを引きちぎるように外した。僕の胸に、唇を寄せる。 「リナさん、ゆうべは……っ」 僕はもう呼吸が乱れる。 「痛く、ありませんでしたか？」 僕の胸に舌を滑らせているリナさんが顔を上げた。 「痛かったわ」 そして僕を押し倒す。 「からだが、ばらばらになるかと思った」 「なら、なぜあんな事を……」 「したかったからよ」 リナさんの微笑みは、イヴァンの説く神でさえ誘惑されるだろう。 「あんたと一つになりたかった。だから、ここへ来たの。嫌だった？」 嫌なはずがない。長い間死んだも同然だった僕の身体へ、熱い生命の息吹をもたらしてくれたのは彼女だ。 「嫌じゃ……ありませんでした。でも……貴女は……っ」 唇を唇でふさがれる。化粧は全くしていないのに、桃色に色づいた、どこか現実離れした薄い唇。甘い舌。その舌が、僕の首筋をなぞる。小さな手が、僕の中心を不意に掴む。 「……っ」 「ねえ、これ、あたしに感じてるの？」 「そう……です」 「だから、こんなになってるの？」 ズボンの上から、根本から先端に擦りあげられる。 「貴女に……貴女に触れたい」 「だめ。あたしがゼロスにいいと言うまで、それはだめよ」 彼女の手が、僕を快楽の源泉へ導いていく。リナさんは僕のそれを愛撫しながら、ベッドの脇に立ち、器用に下着を脱いだ。 「リナさん……貴女の、素肌を見たい……」 「だあめ」 くすくす……と笑い声がして、僕のズボンが下着ごと引き下ろされる。リナさんは、昨日と同じように僕の上に乗った。熱い肉が、僕を包み込む。 「はあ……あっ」 「ゼロス、可愛いわ。あたしに、感じてくれてるのね……」 僕は彼女の中にいるのに、彼女の息は乱れない。彼女は蠱惑的に微笑んだまま、腰を揺すぶる。僕は懸命に顔を上げるが、僕たちの結合部は彼女の薄紫のワンピースに隠されたままだ。 「貴女に……触れたい」 彼女は、片手で自分を支えながら、僕の片手を取って、胸に触れさせてくれる。その淡い膨らみ。僕がその先端を探ると、彼女の熱い肉がきゅっと締まった。 「はあ、ああ、ああっ……」 僕は女のように声を上げ、彼女の中に快楽の液を吐き出す。彼女の中は、濡れていて、たまらなく熱い。 「ねえ、もう一回、したい？」 その声に逆らえる男なんていない。僕は夢うつつでうなずく。 「口でさせてくれるわね？」 僕の返答を待たずに彼女は、自分の愛液で濡れた僕の茎を唇に当てる。小さく舌を出し、鈴口のあたりを責める。僕が声を出す前に、今度は茎の裏に沿ってつうっと舐めあげる。 「な……ぜ……」 「なあに？」 「貴女……は、こんなに男を……悦ばせる方法を……」 「知らないわ。ただ、分かるの。ゼロスがして欲しいことが」 柔らかな舌がきつく茎に絡み、吸い上げられる。僕はあっけなく二度目の絶頂を迎えた。 気がつくと、彼女は唾液に濡れた僕のそこをティッシュペーパーで拭っていた。自分のそこも同じようにさっさと拭い、丸めてゴミ箱に捨てる。下着を身につける。僕の下着とズボンを元通りにする。まるで犯罪者が証拠を隠すように。そして、乱れた髪を指で整えながら、ドアノブを掴む。 「行かないで下さい」 リナさんは僕を見ない。ドアが開く。 「行かないで……」 ドアが閉まった。部屋の中には、彼女の匂いさえ残っていなかった。 僕はしばらく眠った。夢の中で、僕は彼女の裸を見ていた。華奢で、触れると消えてしまいそうな裸身は、ありありと存在感を持って、僕の目の前にあった。僕は宗教の信者が教祖の前にひれ伏すように、その裸身の前にこうべを垂れた。彼女の細い指が、僕の髪をかき回していた。ノックの音。 「リナさん……」 もう一度、はっきりとしたノックの音。そして、リナさんではない声。 「ゼロスくん、寝てるの？ 昼食の時間だけど」 「……起きてます。すみません、ちょっと寝坊しました」 「私たちは構わないけど、せっかくのフレンチトーストが冷めるわ」 「今行きます」 フランスパンを、ナイフが通るほどに柔らかく玉子とミルクにつけ込み、バターで焼き上げたフレンチトースト。僕は、がっつくようにそれを味わう。かすかなバニラの香りが、食欲を引き立てる。でも、もっと食欲をそそったのは、彼女の……リナさんの身体だ。僕は、彼女の中で昇りつめるたびに、自分が空っぽにされるような感触を得ていた。 「お腹が空いていらっしゃるのね」 フィリアさんが、少し離れた席から僕を見ていた。僕は赤面した。 「私は朝におやつを食べちゃって、そんなにお腹が空いていないの。よかったら、一切れどうぞ」 フィリアさんのくれたフレンチトーストを、僕はあっという間に食べてしまった。フィリアさんは小さく笑った。 「今日の午後は、週に一度のカウンセリングだから。食休みがすんだら、カウンセリング室にいらして」 「はい」 僕は、冷たいミルクを飲み干し、食堂を後にした。 カウンセリング室の扉を叩く。 「どうぞ」 フィリアさんの落ちついた声がする。僕は扉を開いた。レースのカーテンが、午後の眩しい日光に照らされて、華やかにそよいでいる。フィリアさんの金の髪も、今日は下ろされて、風に揺れている。 改めて向かい合ってみると、フィリアさんは美しい女性だった。化粧は薄く、この湖のような深い青の瞳は、まっすぐこちらを見据えられても不快感を感じさせなかった。丁寧に口紅を塗られた唇が動く。 「あなたの紹介状を詳しく読ませていただきました。嫌だと思ったらすぐにそう言ってね。自殺企図があったというのは本当なの？」 「……本当です」 数ヶ月前のこと。僕は、病院でもらっていた強い薬をため込み、強い酒でそれを一気に飲み干した。そして、もうろうとした意識の中でかみそりで手首を切った。すぐに姉さんに発見され、病院に運ばれた。二日間入院した。胃洗浄の苦しさと、麻酔なしで手首を縫われたのが痛かったのを覚えている。 「どうしてそんなことをしたの？ まあ、こんな質問は主治医の方からさんざんされているとは思うんだけど」 「……僕には生きている意味がないと思ったからです」 「今でも、そう思ってる？」 今。たった今なら。 「そうは、思っていません」 「今なら、自殺を試みたりしない、ということ？」 「はい」 僕には彼女がいる。あのきらめく紅い瞳の。彼女は僕の、失われていた生きるための力を呼び覚ましてくれた。 ふと疑問に思う。それは彼女でなくてはならなかったのだろうか？ 僕にキスしてくれる唇は、他の人間の物でもよかったのではないだろうか。たとえば目の前の、この美しい女性では。 「ゼロス……さん？」 僕はテーブルの上に身を乗り出し、フィリアさんにキスしていた。薫る淡い香水。フィリアさんは優しく僕の肩を押した。僕は唇を離し、いま自分がしていたことに改めて気づいて赤面した。 「なんのつもりかしら？」 怒るでもなく、冷たくもなく、フィリアさんは微笑んで僕に尋ねた。 「あ……すみませんでした」 「いいのよ。私にそうすることで、あなたが心の何かを整理しようとしているのなら。それとも、あなた本気で私のことを好きなのかしら？」 「すみません……違います」 「分かっていたわ」 フィリアさんは象牙のような両手を机の上で組んだ。 「私にキスして、何か分かった？」 「……はい」 「よかった」 フィリアさんは、カルテにも何も書き込まず、ただ黙っていた。 「聞かないんですか？ 僕がなぜあんなことをしたか」 「それは私の役目じゃないもの。あなたが話したいことを聞くだけよ、私は。といっても、さっきあなたの自殺未遂について聞いてしまったのは私だけど」 僕は言葉を選んだ。 「僕は……ここに来て、自分が変わろうとしていることに気づいたんです」 「ここに来て。あなたを変えたのは何かしら。ルナさん？ 私？ それともこの綺麗な湖と水柳？」 僕を変えたのはたった一人……彼女だ。 「全てです」 「いいことね。ここに来た甲斐があるじゃない。休みはまだたっぷり残っているし。休息しなさい。それが、今あなたにきっと一番大事なことだわ」 フィリアさんは手をのばして僕の髪に触れ、カルテを閉じた。 夕食を食べ終わって、自分の部屋に引き取る。何もする気になれないまま、窓から水柳の葉を眺める。ふと、リナさんの部屋の方を見ると、小さな明かりがついていた。あの中に、リナさんはいる。絵の具の匂いを身にまとって。ルナさんが、ドアの外の廊下を歩いている気配がした。磨りガラスのドアは開けられ、ルナさんはリナさんの部屋の入り口へ向かう。ドアが開く。リナさんの、柔らかな髪が現れる。夕食のトレイが渡される。 僕が身を乗り出すようにその光景を眺めていると、ふっとリナさんがこちらを向いた。僕は慌てて身体を引っ込める。リナさんは、僕が彼女を見ていたことにたぶん気づいただろう。 今夜も、来てくれるだろうか。それだけが、気になる。 フィリアさんがカウンセラーなのは私の小説では２度目です。何となく、彼女にはそういうイメージが似合うのです。それでは、続きもよろしくお願いします。 ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。ここらへんを書いているときは、ラストの予想はしていませんでした。読んだことのある方は、「ああ、この辺から……」と思って下さい。読んだことのない方は、お楽しみに、です。 
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