水の上の彼女の小さな部屋[２]
chapter 2. 夕暮れの少女 その時、階段のきしむ音がした。僕が見上げると、古びたガラスを通ってくる光を背にした、一人の少女が踊り場に立っていた。色素の薄い長い髪を光に透かせ、赤ワインの瞳を無表情に僕に向けている。僕は凍りついた───彼女は、光に溶けてしまいそうなほど、この夕暮れに似合っていた。 「リナ」 ルナさんが言った。 「ご挨拶しなさい。お客様よ」 「───いらっしゃいませ」 甘く、冷たく、無感情な声でそういうと、彼女はくるりと僕たちに背を向けて、階段を上がっていった。その足音が消えると、僕はルナさんに尋ねた。 「あの人は？」 「妹のリナ。珍しいわ、お客様がいらっしゃるときに部屋から出てくるなんて」 「えっ？」 「あの子は、心を病んでいる。生まれてからずっと。このペンションの離れの部屋で、一人で暮らしているわ。食事も、私が運ぶ。この宿が、カウンセラー常駐になったのも、一つはあの子のためよ。……嫌じゃなかった？ あの子がいると知って」 「いえ、別に……」 僕は、階段の途中に立ったリナと呼ばれた少女のことをもっと知りたかった。あの美しい深紅の瞳の娘。彼女は、僕の心の中でずっと眠っていたものを、大きく揺さぶった。それが何かは、まだ分からなかったけれど。 「お部屋は階段を上がって正面。これが鍵よ。じゃあ、荷物は私が持って上がるわ」 「女性に、悪いですよ」 「私は力持ちなの。それに、あなたはお客様」 ルナさんは、本当に軽そうに僕の鞄を持ち上げると、先に立って二階へ上った。僕は、二階の廊下に『リナ』さんのことを探したが、突き当たりのドアの向こうは、磨りガラスで何も見えなかった。 「リナが気になる？」 突き当たりばかり見ている僕をみて、ルナさんが言った。 「あの……とても、可愛らしい方だったので」 「そうね。心を病んでいなければ、今頃はたくさんの男たちに口説かれている年頃だわ」 「でも、ルナさんもお綺麗ですよ」 「ありがとう」 ルナさんは、部屋の窓を開け、ソファの上に僕の荷物を置いた。 「夕食まで、しばらく時間があるわ。陸に戻る？」 「いえ、部屋で本でも読んでいます」 「ああ、そうだわ。この部屋の向かいに、小さいけど図書室もあるわ。持ってきた本を読み終わったら、そこで何か見繕ってね。じゃ、夕食で」 ルナさんは出ていった。こんなに人と話したのに、少しも疲れていない。ルナさんは僕のような客のエキスパートなのだろう。僕は、鞄の中からＴシャツとチノパンツを出して着替え、広いベッドの上で、ずっと読みかけだった『カラマーゾフの兄弟』を読んだ。湖の上を吹き渡ってくる涼しい風が、窓の外の柳を揺らし、カーテンを揺らし、僕の髪を揺らした。 気がつくと六時を回っていた。僕は、小さなテレビをつけてみた。が、この深く紺色に沈んだ部屋に不釣り合いな気がして、すぐに消した。夕食の時間にはまだ早いが、僕は食堂に行ってみることにした。 ガレのランプが静かに上質の家具を照らし出している食堂。先客がいた。金髪を結い上げた、僕と同じくらいの歳の女性。僕が入ってくるとすぐ、彼女は読んでいた雑誌から目を上げ、にっこりと僕に微笑みかけた。 「こんばんは」 「……こんばんは」 「お客様ですね？ このペンションの専属カウンセラーの、フィリア＝ウル＝コプトと申します」 「……どうも。ゼロス＝メタリオムです」 「ルナさんから、あなたのお医者様からの紹介状はいただいています。私はあなたにお薬は出せませんが、いつでも、たとえ夜中でも、どんな相談にでも乗りますわ。カウンセリング室は図書室の隣。たいていの時間はそこにいます。気軽にノックして下さいね。それから、自由カウンセリングとは別に、週に一度、定例カウンセリングの時間を一時間、取っています。もちろんあなたが嫌だったら考えますけど、出来たら来て下さい」 「分かりました」 「他に、何か聞きたいことでもあったら……」 「フィリアさんは、リナさんの主治医なんですか？」 近くにルナさんがいないことを確かめて、僕は聞いた。 「お会いになったの？ リナさんと」 「いえ、ただ顔を見て、『いらっしゃいませ』と言われただけですが……」 「まあ」 フィリアさんは顔をほころばせた。 「リナさんは、特に男性のお客様が苦手なのに……リナさんに『いらっしゃいませ』を言わせるなんて、大したものですわ」 「それで、僕の質問の答えは……」 「あら、私ったら。そうね、まあ、そうです。でも、リナさんに薬を出しているのは、陸の上の別の病院。私は、リナさんの病状を見守って、その時々に必要な薬を陸の上の主治医にアドバイスしているくらいです」 「リナさんは、どんな病気……」 「ごめんなさい。あなたに何でも話すわけにはいかないわ。それはリナさんのプライバシーだもの」 「あ……そうですね、すみません」 「あなた自身の悩みならいつでも聞くわ」 フィリアさんはそう言って、また静かに雑誌のページを繰り始めた。 新鮮な魚の夕食がすんでしまうと、僕は自分の部屋に戻ってシャワーを浴びた。備え付けの冷蔵庫の中に、ビールが冷えている。缶に口をつけて一息に飲んでしまうと、何をするともなく部屋の中を眺めた。水の上を渡る風が、ほてった身体に心地よい。壁の絵に目を留める。この湖の絵だった。水柳の葉。透き通った水。底まで射す日の光。絵のそばによると、それが簡単な筆運びで書いてあることが分かるのに、少し離れると、その絵は写真よりも遙かに生き生きと見えた。右下のサインを見る。 「Ｌ……ｉ、ｎ……ａ」 リナ。これは、あの少女の筆になるものなのか。 僕は窓をさらに開くと、ベッドに横になった。思えば、僕は『リナ』さんのことばかり考えている。彼女のことを思い出すと、鼓動が早くなるのを感じた。それは、懐かしいと言えるくらい久しぶりの気持ち。 「恋……ですか」 彼女を見たのは一瞬。声を聴いたのは一言。知っているのは、彼女は心を病んでいることだけ。それでも、僕は強く彼女に惹かれていた。 ビールの軽い酔いに、いつしか眠ってしまったらしい。気がつくと、部屋のドアがノックされていた。僕は、指で乱れた髪を整えながら、「どうぞ」と言った。 リナさんが、無言で入ってきた。 「な……何か、ご用ですか」 声がひっくり返る。蛍光灯に照らされて、彼女の紅茶色の髪が柔らかく光る。彼女は、そっと僕に近づいた。油絵の具の匂いがした。 「リナ……さん」 その白い手がのばされる。僕の頬を撫でる。Ｔシャツの上から胸を撫で、そのまま脚を撫でられた。僕の存在を一つ一つの動作で確認するかのように。 「ゼロス」 甘い声が、僕を呼んだ。 「なぜ……僕の名前を」 「姉ちゃんが呼んでたじゃない」 くすくす、と笑う。そして、もう一度、細い指が頬に触れる。 「ゼロス」 彼女は、僕の手を取って、彼女の胸に触れさせた。小さな、手のひらにおさまってしまいそうな乳房。綿のワンピースの上から感じる、その頼りない柔らかさ。 キスは甘かった。彼女の舌が、僕の唇をちろちろと舐めた。 「だめ……です、リナさん」 「どうして？」 もしかして、彼女はニンフォマニアなのだろうか。ここに来た男性客に、同じようなことをくり返しているのではないだろうか。 その時、彼女の手がチノパンツの上から僕のペニスに触れた。僕は、痛いほどに勃起していた。リナさんは僕のズボンのファスナーを下げ、探るように下着の中に手を入れて、直接そこにさわった。僕は快感に震え、のどの奥からため息をついた。 このまま彼女と寝てしまったら、僕はますます混乱することは目に見えていた。でも、頭の底がしびれるような快楽が、思考を止めさせる。リナさんは、僕のＴシャツの中に手を入れ、乳首に触れた。 「ああ」 思わず声が出る。 「もっと、感じて」 リナさんの低い声。 「あたしを、感じて……」 いつしかズボンを脱がされ、下着もおろされている。彼女は、その小さな唇で、僕のそれをくわえた。柔らかな舌が、絡みついてくる。 「リナさん、もう……」 彼女は、口を離すと自分のショーツだけを脱いだ。そして、僕の上にまたがる。ペニスに手をそえられ、ゆっくりと彼女の中へ導かれる。 （他の男性客にも、こんなことを？） リナさんの動きが止まった。 「くうっ……」 唇から小さな苦痛のうめきが漏れる。 「リナさん？」 「大丈夫……気にしないで」 リナさんは、息を吐きながら、僕の上に腰を落とした。僕のそれを熱い肉が包み込む。僕は、思わず腰を動かした。 「動かさないで。少し……待って」 僕の腹に、温かい液体が伝った。彼女の愛液にしては量が多くてさらっとした……それは、破瓜の血だった。 「リナさん……初めて」 「そうよ。あんたが初めて」 しばらく苦痛をこらえるように息を整えていたリナさんが、少しずつ動き始めた。彼女の中は、狭くて、温かい。僕は、もう限界だった。 「リナさん……抜いて下さい。僕はもう……」 「いいの。来て、あたしの中に」 「そんな……」 彼女は僕を締め付け、さらに動いた。僕は、彼女のワンピースの裾を握りしめて、射精した。精液は、何度も、何度も彼女の膣の奥を叩いた。 僕が快楽に呆然としているうちに、彼女はティッシュで血と精液を拭い、ショーツをはいた。ティッシュをごみ箱に捨て、出ていこうとしていた。 「リナさん」 僕が呼び止めても、彼女はドアノブをまわし、そのまま姿を消した。 「なんで……こんなことを」 尋ねても、答えるひとはすでにいない。僕はようやく起きあがった。快感の残滓が、下半身にあった。僕のそれには、彼女の血がまとわりついていた。 シャワーを浴びる。彼女の薄い乳房の手触りや、激しく締めつけてくる膣の感触が、まざまざと思い出された。僕は温かい湯をを浴びながら、自分のそれを握り、マスターベーションした。もう一度射精しても、欲望は、おさまらない熾火のように僕を苦しめた。 朝日が、部屋に射した。深く眠っていた僕は、まぶたを温めるその日差しで目を覚ました。窓は、開けっ放しになっていた。冷たい風が、部屋の中を吹き渡っていた。僕は窓辺に寄った。水柳の垂れ込めた枝を透かして、朝日が輝いている。家の裏手に、昨日僕が乗せられて来たモーターボートが繋いである。窓の外に身を乗り出して眺めると、ちょうど廊下の突き当たりのドアの先にあたる部分に、渡り廊下があった。渡り廊下は水の上に組まれた小さな部屋につながっている。たぶん、あそこが彼女の部屋。 （なぜ彼女はあんなことを……） 考えてみても、答えは出なかった。 朝食は、またフィリアさんと一緒になった。柔らかいスクランブルエッグとよく焼けたベーコン、冷たいジュース。一つ一つが、なんとなく美味しく感じられた。食べ物が美味しいと感じたのは久しぶりだ。 パンのおかわりを頼むと、ルナさんが微笑んだ。 「お腹、空いてるの？」 「ええ」 ルナさんの顔が見づらかった。ルナさんは、もちろん知らないだろう。妹が、昨日僕を相手に処女を喪失しただなんて。 「朝１０時頃、陸の方へ行くわ。何か買ってきて欲しいものはある？ 日用品とか、雑誌とか」 「いえ……ただ、少しこの湖を見てみたいんです。出かける前に、僕を乗せて一回りしてくれませんか？」 「構わないわよ。じゃあ、９時半に玄関で」 お腹いっぱいになると、部屋へ戻って横になった。窓から、かすかにルナさんとリナさんの声がした。窓から覗くと、食事のトレイを持ったルナさんが、リナさんにそれを渡していた。リナさんは、昨夜の食事だったらしいトレイを返す。リナさんの顔には、表情がなかった。昨日僕の部屋へ来たときと同じように。 時間になったので、僕は玄関に行った。玄関には、大きな絵が掛かっていた。透明な湖に脚を浸し、白いドレスの裾を持ち上げた少女。長い髪の毛が風をはらんで軽やかに踊っている。絵の隅には、昨日僕が自分の部屋で見つけたのと同じ署名。『リナ』。 「それは、あの子自身みたいね」 いつの間にか側に来ていたルナさんが言った。 「あの子は、小さなこの湖から出たことはないのに」 ルナさんの口調に、少しだけ哀しみが混じる。 「やっぱり、そんな風に、湖で遊びたいのかしら？」 「このペンションの絵は、みんなリナさんが？」 「ええ、そうよ。湖の絵ばっかり」 「でも、素晴らしい才能だと思いますよ」 「そう。出来ることなら、学校に通わせて、その才能を伸ばしてやりたかった」 「リナさんはそれを望まなかった？」 「あの子にはこの小さなペンションが全宇宙なのよ。湖と、水柳と、その枝を通してくる光。窓から見える、それが全て。さ、早く行きましょう。ボートを玄関にまわしてくるわね」 ゼロスくんが鬱病の上、リナちゃんも得体の知れない精神病です。アダルトなシーンもようやく出てきますが……この先どうなるかは秘密、です。「水柳（みずやなぎ）」という木はありません。私の創造です。水の上のペンション……というのは、以前私が夢で見たものです。今でも思い出せるくらいくっきりしたイメージだったので、使ってみました。 ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。夢の中で私は、ベネチアのようなゴンドラに乗って、水上のペンションに向かっていました。柳の葉が綺麗に垂れて……もう一度あの夢を見たくなります。 
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