水の上の彼女の小さな部屋[１]
「すみません、マルグリットさん」 僕はうつむいたまま、つぶやくように言う。 「気にすること無いってぇ。お客さんにはよくあることだし。そういうときの必殺テク、メグはいくつか持ってるんだぁ」 目の前の、見た目の年齢よりもずっと子供っぽいしゃべり方をする娼婦は、自分のことをメグと呼ぶ。 「ねぇ、メグに色々させて。絶対勃つからぁ。保証つきぃ」 「いえ、もう、いいんです。ちゃんとお金は払います。帰りますから」 「そういうのぉ、メグのプライドが許さないぃ。ね、この胸でコスってあげるからぁ」 彼女は、僕を強引に押し倒す。きつい香水の匂いで鼻が麻痺しそうだ。彼女は、しばらくその自慢らしい大きな胸で僕のそこを擦りあげたが、それは萎縮したままだった。 「うーん、じゃあこれぇ。お尻の穴に、指を入れてあげるぅ。これは効くんだから。こないだ７０歳のお客さんもこれでイかせたよぉ」 「本当にもういいです。僕は帰りたいんです」 マルグリットさんは機嫌を損ねたようだった。 「あたしがそこまでしてあげるっていってるのにぃ。馬鹿にしてる？ せっかくナンバーワンのあたしを指名したんだからぁ、楽しまなきゃ損じゃない」 僕は、何も考えずにこの店に入り、何も考えずに一番値段の高い娘を選んだことを、後悔していた。セックスなんてここ数年したことがなかった。心の病が、こんな所にまで影響を及ぼすとは思っていなかったのだ。 「ねえってば、やってみようよぉ。せっかく高いお金払ってるんだから、気持ちよくなれないと損でしょお？」 こういう娘を、「親しみやすくて情が深い」と人は称するのだろうか。けれど、僕はもう彼女の声を聞いていたくなかった。強引に立ち上がり、金メッキにあふれた部屋の隅に置かれた箱から、下着を取り出す。 「ごめんなさい。メグ、何かいけなかった？」 着替えていると、しょんぼりした声で彼女は言った。 「貴女に悪いところなんて何もありませんでしたよ。ただ、僕の体調がよくなかっただけです。すみません」 のろのろとスーツを着る。僕を締め付ける、汗くさい鎧。ネクタイはする気にならず、皺になるのも気にせずにポケットに突っ込んだ。 「また、メグを指名してくれる……？」 甘ったるい声で、マルグリットさんは僕を送り出す。 「はい、指名しますよ」 互いに嘘だと分かっている会話。それが苦しいのに、どうしてこんな店に来てしまったのだろう。 「またね」 最後の声だけ素に戻った感じで、彼女はぱたんと扉を閉めた。 脱力したまま、けばけばしい明かりの灯った歓楽街を歩く。 「お兄さん、いい娘いるよ。安いよ」 呼び込みの声がたまらなく煩い。早く歓楽街を通り抜けたくて、脇道に入り込む。すみれ色の明かりの灯ったラブホテルに、そそくさとカップルが入り込んでいく。僕はそんな彼らを羨ましいと思い、汚らしいとも思う。性の衝動から遠く離れて。一番汚らわしいのは自分自身だ。高い金を出して娼婦を買い、結局抱くことも出来ずに店を後にした。ばかばかしい。そんなことで何かが変わると思ったのだろうか。 裏道を通り過ぎると、また歓楽街に出た。僕は、止まっているタクシーに乗り込み、家の住所を告げた。 「お兄さん、いい思いしてきた？ 遊んできたんでしょ」 「いいえ」 「またまた。香水の匂いがするよ」 あのきつい香水の匂いが移ってしまったらしい。僕は、寝たふりをして、運転手の言葉を止めようとした。 「寝ちゃうの？ お兄さん」 返事はしない。 「よっぽどすっきりしたんだね。うんうん。身体、軽くなったでしょ」 僕は眠っている。何も答えない。 家に帰り着く。ドアを開けると、姉さんが顔を出した。 「あら……珍しいわね。女物の香水の香りをつけて帰ってくるなんて。いい傾向だわ。遅いと思ったら。飲み屋さん？ それとも風俗？」 「姉さんには関係ありませんよ」 「関係ないこと無いわよ。大事な弟が、心の病を押してまで女とつきあってきたんだから。どう？ 上手くやれた？」 「さんざんでした」 「そう。ご飯用意してあるわよ。ホタテのクリーム煮とマカロニサラダ。あんたの好きなもの」 たしかに、それはかつて僕の好きなものだった。でも、今はどちらも僕の心を浮き立たせない。食べ物は、何を食べても同じ味しかしない。この倦み疲れた身体を明日も働かせるための、効率の悪い燃料。 「……おいしくない？」 姉さんは、部屋着に着替えてぼそぼそと食事する僕の顔をのぞき込む。心配そうな表情が、綺麗な顔に浮かんでいる。僕のこの病が出てからは、数多い見合いの話も全て断り、たった一人の肉親である僕の面倒を見続けてくれる、優しい姉。 「ワインを開けたの。一人では飲みきれないから、どう？ 手伝ってくれない」 「お相伴します」 グラスに血の色のワインが注がれる。 「乾杯」 姉さんは、僕のグラスに自分のグラスをぶつけて、美味しそうに飲み始めた。僕も、少しだけその液体を口に含む。香りがよくて、渋みがある。相当にいいワインのようだ。酒も僕の心を晴らしはしないが、感情が麻痺して楽にはなる。 「なあにちびちび飲んでるの。もっとぐいっと行きなさい。今日は二人でこのボトル一本空けましょう」 「そんなに飲んだら、明日の仕事に……」 「何言ってるの。明日のあんたに仕事はないわ。あさっても」 「はあ？」 僕は間の抜けた顔で聞き返した。 ☆ ☆ ☆
僕の心が病み始めたのは、もう一年も前になる。 ずっといい成績を取って高校を、大学を卒業し、それなりの会社に就職した。仕事は大して面白くはなかったが、無難にこなせていたし、職場の雰囲気は良かった。このままずっと上手くやっていけるだろうと思っていた。 ある朝、目覚めて、会社に行きたくないと思った。その思いを馬鹿馬鹿しいことだと振り切って、会社への電車に乗った。下りるべき駅で、どうしても足が動かなくなった。僕は乗り過ごし、三つ先の駅まで行って逆方向の電車に乗り換え、遅刻して会社に行った。たまにはそういうこともあるのだろうと、無理に自分に言い聞かせ、その日は気合いを入れて仕事をした。 朝、会社へ行きたくなくなる日は次第に増えた。ベッドから下りるのがひどく面倒だった。電車に乗る足も重かった。会社の最寄り駅まで来て、携帯から会社に、風邪で休みますと伝えた。自由な気持ちと自己嫌悪が交互に僕を翻弄した。どこへ行くでもなく、そのまま家に帰った。 たった一人の姉が僕の変化に気づいた。朝、ベッドの中で泣いている僕を見たのだ。姉は僕を抱きしめ、優しい言葉をかけ、会社に休みの電話を入れてくれた。 「ゼロス、こんな風にあんたを抱きしめるのなんて、子供の頃以来ね」 姉は僕に尋ねた。 「誰か、あんたに辛く当たる人がいるの？」 いない、と僕は答える。 「仕事がきつすぎるの？」 そんなことはない、と僕は答える。 「ねえ、無理して働くことはないのよ。うちには親の残してくれた財産があるんだから。会社が嫌なら、思い切って別の仕事を探せばいいじゃない。その間食べていく分のお金なら充分にあるんだから」 僕は黙って泣いた。今の状況に、不満は何もない。ただ、心が動かないのだ。そして身体も。僕はただ、会社を辞めるつもりはない、と姉に告げた。このまま会社を辞めたら、それこそ二度と家の外に出られなくなってしまうだろう。 僕は、身体を引きずるように会社へ通った。凡ミスが増え、顔色が悪いと言われることが多くなった。ある日、上司に呼び出された。 「精神科に通ってみないか」 僕自身もちらちら考えていたことではあったが、改めて他人から言われるとショックは大きかった。 「君のお姉さんから、社の方に電話があった。君がかなり無理をしていることは、私にも分かる」 上司は僕の肩に手を置いた。 「心配は何もいらない。君は優秀な社員だ。ただ、今のままではまとまった仕事を君に任せるのは無理だ。今はいい薬もあるし、ひょっとしたらカウンセリングだけで治ることなのかもしれない。君も辛いだろう。もっと積極的に、自分を楽にすることを考えてもいいんじゃないかな」 僕は優しい人たちに囲まれている。いい環境にいる。それなのに何もできない自分が情けなくて、苦しかった。 精神科は、綺麗なビルの二階。ドアを開けると、品のいいクラシックが流れている、心地よい空間があった。感じのいい受け付けの人が、初診の人に、ということで診断用紙を渡してくれた。 朝は気分がすぐれない……はい。 自分は必要とされていない人間だと思う……はい。 死んでしまいたいと思う……はい。 丸をつけて気づいた。僕は死にたかったんだ。死んでしまいたかったんだ。 白衣を着ていない、人のいいおじさん、といった感じの精神科医が言う。 「君は、自分で自分のことを何の病気だと思いますか」 「鬱病……ではないんでしょうか」 「先ほどの回答用紙を見せていただいたかぎりでは、そのとおり、ということになりますね」 「やっぱり……そうですか」 「だいぶ我慢されてきたようだ。辛かったでしょう」 僕の瞳が潤んだ。 「でも、僕は周りの人たちに何の不満もないんです。みんな優しい。僕を気遣ってくれる。なのに僕は……僕は消えてしまいたい。消えてしまいたい。」 消えて……しまいたい。 ☆ ☆ ☆
「明日……仕事が……ない？ 明日も会社はありますよ。姉さん、変なことを……」 「今日、あんたの上司さんと電話で話したわ。相変わらずいい人ね、あの人」 「何を話したんですか？」 「明日から、あんたが会社を休んで一ヶ月の療養をするって。向こうも『その方がいいでしょうね』って言ってたわ」 「姉さん、何を勝手な……！ 第一、一ヶ月うちに籠もっていたら、僕はよけいに辛く……」 「私の学生時代の友だち、ルナ＝インバースって覚えてる？」 「はあ……覚えてますが。うちにも何度か来られましたね。綺麗なひとだった」 「彼女はね、今ご家族のペンションを手伝っているのよ。それでね、そのペンションは、心を病んだ人の療養先として、積極的に患者さんを受け入れているらしいの。おととい久しぶりに電話したら、今ちょうど暇な時期で、部屋も空いているから、というわけで、一ヶ月の予約を入れたわ。専属のカウンセラーさんもいらっしゃるそうだから、安心よ。行ってらっしゃい。何にも気にせずに」 「ペンション……家族経営の。僕は今、そういうアットホームなところに入っていきたくないんですが」 「大丈夫。そういう病気の患者さんに慣れたところだから。必要以上の干渉はしてこないわ。あんたもだいぶん一人でがんばったんだから。羽を伸ばしていらっしゃい」 正直僕は、気が進まなかった。一ヶ月分の旅行の仕度をするのさえ。 「あ、荷物は私が勝手に作っておいたから。あとは、ゆっくり読みたい本でも入れて置きなさい」 姉さんの優しさが、心にしみた。 いつもと違う改札。いつもと違う車窓の風景。心浮き立つ、というところまでは行かないが、気分が楽なことは確かだ。僕は旅行鞄を開けて、地図を取り出した。姉さんがルナさんにＦＡＸしてもらったものだという。 「道路が途切れて……湖の中に、『ペンション・インバース』。島か何かでしょうか？」 そのことについては、姉さんから何も聞いていない。ただ、姉さんは僕を抱きしめて、送り出してくれた。 「何も考えないで。あんたの心の思うままに。いいじゃない、いっそ世間を離れても。あんたの心が壊れてしまわないうちに、休ませるべきだと私は思ったの。身体にだけ、気をつけて」 駅の売店で買ったパンを囓りながら、僕はもう一度地図を見る。途切れる道路。湖の中の家。 「無事にたどり着けますかね……」 僕は鞄を閉じ、背もたれに頭をつけた。 日差しの強い夕方に、最寄り駅に着いた。駅から湖の畔まではタクシーで行く。「ペンション・インバース」の名前を告げると、運転手は無言でうなずいた。たぶん、この運転手もそこへ行く客には慣れているのだろう。心を見透かされているようで落ち着かなかった。ペットボトルの底に残ったミルクティーで、安定剤を飲んだ。飲み終わってから、薬を飲んだことでよけいに見透かされたろうと、いっそう動悸がした。 一本道の道路は、小さな駐車場で終わっていた。荷物を取り上げてタクシーを下りると、透き通った湖が目の前まで迫っていた。岸に、小さなモーターボートが止まっている。 「ゼロスくん？」 モーターボートの操縦席に座ったエプロン姿の女性が、僕に声をかけた。ルナ＝インバースさんだった。 「いらっしゃい。よく来てくれたわ。荷物、後ろに乗せて。そこに座って。いい？ 出すわよ」 てきぱきと、僕はボートに乗せられてしまった。僕の荷物の他に、一抱えもある荷物の包みがある。僕がそれを眺めていると、 「ああそれ？ 今日の晩ご飯と、明日の朝ご飯」 素早くルナさんはそう言った。ボートにエンジンがかかる。水面が、まるで固い地面のように震動を伝えてくる。ボートは澄んだ湖上を走り、やがて柳の木が深くたれ込める一角に入った。 「水柳。」 ルナさんは、独り言のようにそう言った。 「綺麗な水の底から生えて、こうして水面に葉を垂らすの」 柳の葉の間から、光が射して水面に影を作っていた。やがてボートは、木を組んで作った土台の上に立つ、木造の家の前で止まった。玄関からの階段は、水中へと消えている。ルナさんは、大きな荷物を軽々と抱え、もう一方の手に僕の旅行鞄を提げた。 「お客様、中へどうぞ」 西日が、昏いフロントをオレンジ色に染めていた。 「ゼラスから聞いてはいるけど、一応住所と名前を書いてね。ああ、宿泊費はゼラスがうちの口座に振り込んでくれたから、気にしないで。夕食は食堂で六時半。朝食は八時半。昼食は十二時。陸へ上がりたければ、いつでも私に言って。すぐボートを出すわ、ゼロスくん」 ゼロスくん鬱病ものです。ご気分を害された方はすみません。しかも、一話ではリナちゃん登場しないという、ひんしゅくものです。館の裏庭ということで、いろいろな意味でアダルトな物が描けたら、と思い、投稿に踏み切りました。この先をあまり期待せずにお待ち下さい。ちなみにタイトルは、村上春樹の初期の短編「土の中の彼女の小さな犬」からぱくっています。言わなきゃ分からなかったかも知れませんが、一応言ってみます。 ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。これを読んで下さっている方、ありがとうございます。暗く、救いのない話ですが、私はこれを結構気に入っているのです。 
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