水の上の彼女の小さな部屋[６]
chapter 6. 炎と聖なる婚姻 「おはよう、ゼロス」 気がつくと、リナさんは立ち上がって部屋のカーテンを開けていた。水柳越しの朝日が射し込む。 「あ……僕は」 「気持ちよさそうに寝てたよ。朝まであたしの側にいるって言ったくせに、一人で夢の国へ行ってたのね、ねぼすけさん」 肩に、毛布が掛けられていた。 「風邪引かないように、毛布を分けてあげてたんだから。感謝してよね」 「リナさん、今日は具合良さそうですね」 「だって、昨日ゼロスがおまじないをかけてくれたもの。ねえ、もう一度言って。あたしのことが好き？」 「好きです」 「あたしが、昨日みたいに“あいつ”に取り憑かれても？ 唇を怪我するほどかみしめても？」 「好きです」 「それは、初めて会ったときから？」 「ええ」 「姉ちゃんよりも、フィリアよりも？」 「ルナさんも、フィリアさんも、魅力的な女性ですね」 「むー。」 リナさんはふくれる。 「それでも、僕は貴女にしか欲情しない」 「ふふ。それ、本当？」 「僕は、試しにフィリアさんにキスしてみたんですよ」 「はあ。で、どうだった？」 「どうも。ただ、貴女のことが好きだという想いが、はっきりしただけです」 「キスして」 リナさんは、ベッドに腰掛けた僕のおとがいを持ち上げ、触れるだけのキスをした。唇にかさぶたの感触を感じて、僕は切なくなった。 「そろそろ姉ちゃんが鍵を開けに来るわ。もう行って。今夜も、抱いてあげる」 リナさんの吐息が耳に熱かった。僕は、一度リナさんを折れるほど抱きしめると、水の上の彼女の小さな部屋を後にした。 「ルナさん」 「どうしたの、ゼロスくん」 「リナさんを、僕に下さいませんか？」 「ふうん」 ルナさんは全く顔色を変えずに僕をじっと見た。 「本気？」 「ええ、本気です」 「あの子は、あの小さなアトリエからほとんど出たことはないのよ。どうやってあなたのものにするのかしら？」 「僕をここで働かせて下さい。何でもします」 「あたしの一存、と言うわけには行かないわね。父さんや母さんもだけど、フィリアの意見も聞いてみなくちゃ」 食堂に、フィリアさんが入ってくる。 「おはようございます、ゼロスさん。ルナさん。どうしたの、ゼロスさん。汗をかいてるわ」 「フィリアさん。今のリナさんに結婚は出来ると思いますか？」 「これはまた大きな問題ね。結婚……誰とするの？ もちろんあなたとよね？」 「はい」 フィリアさんは、あごに手を当てた。 「昨日のリナさんの発作は見たわね？」 「ええ」 「他人の側にいるだけで、いえ、一人の時でさえ。リナさんは幻聴と妄想に苦しめられている。あなたは、それを悪化させるだけかも知れないのよ？」 僕は、確信を持って答えた。 「彼女は、僕が守ります」 「なぜ、そう言えるの」 「彼女が僕を必要としているからです」 ルナさんとフィリアさんは顔を見合わせた。僕は、ただテーブルの上を見つめ、あごの汗を拭った。 朝食を終えると、フィリアさんが僕の腕を引いた。 「カウンセリング室へ行きましょう」 僕はそれに従った。 カウンセリング室のドアを閉めると、フィリアさんは窓を開けた。涼しい風の心地よい朝だった。 「あなたは、リナさんを妻にしたい、と」 「はい」 「悪いけど、腕を見せて」 「えっ？」 「あなたが、剃刀でかき切った方の腕」 僕はシャツをまくり上げ、その傷をフィリアさんに見せた。 「あなたは、その傷を抱えて一人で生きていくことも大変なのよ。その傷を共に背負っていける人ならともかく……」 フィリアさんの蒼い瞳がひた、と僕を捉える。 「同じ傷とはいわないけれど、心の傷を抱えたリナさんを、あなたは抱きしめていけるの？」 「大丈夫です。彼女に会って、僕は初めて生きていこうという気持ちになれたんです」 「何か、あったみたいね。彼女と」 フィリアさんは僕のまくったシャツを丁寧に元に戻すと、そう言った。 「リナさんも、同じ思いなの？ あなたと生きていきたいの？」 「ええ。彼女も、僕も、互いを必要としています。もう離れては生きていけません」 「彼女を抱いたのね？」 「はい」 「それがどんなに危険なことだったかも知らずに」 「……」 「あなたは、リナさんの発作を見る前に、リナさんを抱いたのね」 僕は黙るしかなかった。 「責めているわけじゃないのよ」 フィリアさんは微笑んだ。 「あなたは嫌がる女性に無理強いするような人じゃない。誘ったのはリナさんの方ね？」 「はい。そうです」 自分が卑怯者のような気がしたが、それが事実だった。 「側にいたい、というのは互いの意思なのね？」 「リナさんはそう言ってくれました。そして、僕も。間違いのないことです」 「ここのところ、リナさんの精神状態は凄く良かったわ。昨日の発作は除いて、だけど。何があったのかと思っていたけれど、あなたたちはそういう関係だったのね」 フィリアさんは僕のカルテを持っている。けれどそれを開かない。 「すぐに結婚だのなんだのと言うのには、私は賛成しないわ。でも、もうしばらく、一緒に暮らしてみるのには賛成ね。あなたの滞在期間はどれくらい残っているの？」 「あと、一週間です」 「じゃあ、その終りに答えを出しましょう。あなたはリナさんの側にいて。ただ、」 フィリアさんはいたずらっぽく微笑んだ。 「リナさんのご両親とルナさんが許せばだけど」 「ルナさん、ご両親は……」 「あなたもいわば患者さんでしょう？ ゼロスくん。あなたの状態を悪化させるわけには行かないから、今は会わないって言ってるわ」 「怒ってらっしゃるんじゃ……」 「怒ってるのは私よ、私。私が閉めた鍵をあけて、逢い引きをしてたのね？」 「それは……」 「分かってる。あの磨りガラスの扉は、あちら側からしか開けられない。あなたを誘ったのはリナ。それは分かっているわ」 「……」 「なぜ、逢い引きを続けたの。私にも、フィリアにも言わずに。あなたがここにいるのは自分の心を癒すためのはずでしょう。なぜリナと、黙って関係を続けたの？」 「僕が、リナさんに惹かれていたからです。愛していたからです」 「いつから？」 「フロントで、初めて会ったときから」 「やれやれ」 ルナさんは微笑んでため息をついた。 「とにかく、今夜からはこっそり鍵を開けて会うような、せこい真似はしないで。あなたとリナのためにツインルームを空けるから。それから、過剰な行為は控えること。リナは発作を起こしたばかりなんだから。わかった？」 僕は部屋を移った。図書室から持ってきた軽いミステリーを読みながら待っていると、夕方にリナさんがその部屋に入ってきた。食事は、二人分部屋に運ばれた。リナさんは発作を起こすこともなく、綺麗に夕食を平らげた。代わる代わるシャワーを浴び、僕たちは抱き合って眠った。不思議と、セックスをしようという気にはならなかった。 熱い。のどが渇いている。うるさい。木が、乾いた材木が折れる音が耳に響く。深い眠りから僕は目覚めた。 ドアから、炎が吹き込んでいる。隣に、リナさんの姿はなかった。 「ゼロスくん！」 窓の外から、轟音に混じって絶叫が響く。 「ゼロスくん！ 下は水よ！ 飛び降りて！ リナも一緒に、早く！！」 僕は、窓の桟に手をかけて、その熱さに手を引っ込めた。覚めかけた頭に、ようやく状況が入ってくる。燃えている。この家が、燃えている。 「ゼロスくん！」 僕は、窓から怒鳴った。 「リナさんがいないんです。探してきます！」 「待って！ ゼロスく……」 廊下に出たが、煙と熱で息苦しい。僕は這うように磨りガラスのドアへ進んだ。リナさんはそこにいる。そういう気がしたのだ。ドアノブを掴もうとして、激しい熱気に阻まれる。僕はパジャマの袖を破いて、手に巻き付け、ドアノブをまわした。鍵がかかっている。いまから鍵束を探している余裕はない。僕は磨りガラスを殴りつけた。一度目でヒビが、二度目で小さな穴が開いた。僕は穴に手を突っ込むと、向こう側のドアノブの鍵をまわした。ガラスで、手首にざっくりと傷が付いた。また麻酔なしで縫われるかな、と僕は思いながら、ドアを開けた。 渡り廊下の屋根も燃えている。火の粉が花火のように散っている。僕は布を巻き付けた手で窓を開け、パジャマの上着を水に浸した。それを頭からかぶり、渡り廊下を一気に駆け抜ける。リナさんの小さな部屋は炎に包まれていた。 「リナさん！ いるんでしょう！ 開けて下さい！」 この家に似合わない、頑丈なドアを叩く。 「リナさん！ これから僕たちは幸せになるんだ。そうでしょう？」 ドアノブを掴んで何度もひねる。ドアは開かない。僕は、近くにバケツを見出す。懸命に黒い水をくんで、部屋の外壁にかける。屋根を支えていた柱の一本が落ちたらしい。いっそう火の粉が上がり、めりめり、と部屋自体が傾いだ。そうだ、と僕は思う。この部屋を支える土台は腐りかけていたんだ。 「リナさん！！」 渇ききった喉から、いっそ血でも流れればいいと思う。その時、部屋の中から声がした。 「ゼロス？」 「リナさん……良かった、生きてた！ 窓から、外の水に飛び下りて下さい！ きっと、ルナさんの船が助けてくれます」 「あたしは……助かるわけには行かないの」 僕は呆然とした。 「なんで……」 「家中に、火をつけて回ったのはあたしだから」 リナさんが、背中をドアにつけて喋っているのが分かる。僕は、ドアにぴったり口をつけて叫んだ。 「それでも構わない。誰も死んでいない！ あなたは罪を償える。僕と一緒に行くんじゃなかったんですか！？」 「あたしのために、父ちゃんも、母ちゃんも、姉ちゃんも、フィリアも、この水の上の家に閉じ込められてた。あたしがいなくなれば、きっとみんな自由になれる。ゼロス、あんたも」 「リナさんのいない自由なんて、意味がない！！」 「あたしは、あの絵と一緒に行くわ。あの絵を見たのは、ゼロス、あんたとあたしだけ。それが嬉しいわ」 「リナさ……」 天井を組んでいた樹が、轟音をたてながら部屋の中へ落ち込んでいく。あの絵の上へ、あの小さなベッドの上へ。僕の愛しい人の上へ。そして小さな部屋は傾き、どうと水の上へ倒れ込んだ。火と水が触れあい、激しい水蒸気が立ち上る。僕は泣いていた。もう目の前にないドアを、心だけが叩き続けていた。 「ゼロスくん！ 乗って！」 渡り廊下のすぐ側まで、ルナさんのモーターボートが近づく。ご両親らしい顔と、フィリアさんの金髪が見える。僕は、煤で真っ黒になった手で涙を拭い、モーターボートに飛び乗った。 水柳の枝が燃えている。炎のトンネルを、モーターボートは突っ切った。昏い湖。倒れていく柳。やがて、ペンションも水柳も、一塊りの炎にしか見えなくなった。湖の上に吹き渡る冷たい風が、僕たちの頬を冷やす。 「リナ……」 そうつぶやいたのは誰だったか。皆が、この火をつけたのは誰か、知っていた。そして、なぜ彼女が失われなければいけなかったのか、分からなかった。モーターボートは桟橋に着いた。湖の畔の街の人たちが、力の抜けた僕たちが岸に上がる手助けをしてくれた。 あれから数年が過ぎた。僕は、フィリアさんと結婚した。ただ、お互い分かり合っているように、肉体関係は持たなかった。僕たちは、二人ともリナさんの幻と結婚したのだ。僕たちは、決して仲違いすることはなく、穏やかに暮らした。言ってみれば、僕たちは自由だった。僕たちは、あの湖に旅行さえした。遠くに水柳の群生を見晴るかして、僕たちは肩を寄せ合った。 僕はリナさんと最後に交わってから、セックスをしていない。マスターベーションすら。僕は、一生分の快楽を、あの三週間で使い果たしてしまったのだ、と思う。それを不幸だとは思わない。 リナさんの夢が、時折僕を夢精に導く。目を覚ますと、涙が流れている。 フィリアさんとゼロスを結婚させる……というのは、書きながら浮かんできたアイデアです。共通の痛みを持つものが、それを共有し続けるために共に暮らすということ。性的な物を全て捨てたゼロスは、もう永遠に幸せになれないのか、それとも穏やかな幸せを掴んだのか。それでは、ここまで暗い話につきあっていただいてありがとうございました。次は明るい話でお会いしたいです。 ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。この結末に不満だ！と言う方も多いでしょうけど、羽久としてはこれしかない！というオチだったので仕方ないのです。すみません。 
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