鳥の詩［１］




いもうとをやめて　あなたのこいびとに　なるわって　頬はさんでくれる


僕は、目を覚ました。真っ白な、知らない天井。体を動かそうとして、痛みに顔をしかめる。あばら骨が痛い。なにか、コルセットのようなもので固められている。左腕も動かない。右足も。分厚いギブスに包まれている。僕のベッドに、女の子が突っ伏して眠っている。寝息に合わせて上下する、紅茶みたいな色の柔らかな髪。女の子が、ぴくっと動く。
「目を……覚ましたのね」
女の子は立ち上がる。
「先生……呼んでくる」
「待って下さい、リナさん」
そう、リナさん。この女の子の名前はリナさん。僕は自由になる右腕で、リナさんを引き寄せ、唇にキスをした。
「お、お兄ちゃん……何するの」
お兄ちゃん？この子は僕の───恋人のはずだ。
「リナさん、貴女は僕の恋人でしょう？」
リナさんは耳まで赤くなる。
「それは、そうだけど……とにかく、先生と、母さん、呼んでくる」
出ていきかけて、振り返る。
「助けてくれて、ありがとうね、お兄ちゃん」
お兄ちゃん───あの子は僕の妹なのか？頭が痛む。思い出せない。あの子は僕の恋人だ。霞む記憶の中で、それだけは間違いない。
「ゼロス！ゼロス、目を覚ましたのね！良かった、あなたは３日も眠っていたのよ」
綺麗な中年の女性が僕の頬にキスをする。香水のいい匂いが漂う。
「誰、ですか？あなたは……」
「ゼロス！？」
「ゼロス、というのは僕の名前ですか……」
「先生、ゼロスは、ゼロスは……」
「頭を打って、一時的な記憶の混濁があるようですな。大丈夫、傷が治る頃には記憶も取り戻しますよ」
「そんなことが確実に言えるんですの？」
綺麗な女性が医師に詰め寄る。
「今は、それくらいしか言えません。でも、頭を打った患者さんには良くあることですよ。とにかく落ち着いて下さい。看病する側が混乱していたら、患者さんが不安になる」
「ゼロス、あなたの母親のゼラスよ。本当に覚えてないの」
「ゼラス……」
記憶にない。
「リナさんは……リナさんはどこですか？」
「リナのことは覚えてるのね、ゼロス！」
「ええ。僕の恋人」
ゼラスさんは黙る。
「違うわ、ゼロス。リナはあなたの、たった一人の妹よ」
「恋人です」
僕はきっぱりと言った。ゼラスさんは医師をすがるような目で見る。
「それも、記憶の混濁でしょう。ゼロスさんはリナさんを抱いて落ちた。その最後の記憶が、リナさんを恋人だと思わせているのかも知れません」
「リナさんに、会わせてください」
「それは、かまわないけど……今、ジュースを買いに行ってるわ、すぐ戻るはずよ」
「お兄ちゃん……」
ストローで飲める紙パックのジュースをいくつか抱えて、リナさんが戻ってきた。
「リナさん、リナさんは僕の恋人ですよね？」
ゼラスさんが、不安な目をした。
「違う。あたしは、お兄ちゃんの妹よ」
「リナさん……！」
僕は叫んだ。
「貴女は僕の恋人だ。何を忘れても、僕の名前を忘れても、それだけは覚えている。貴女の身体の柔らかな抱き心地を覚えている。貴女はあの夜、僕のものになったはずだ」
ゼラスさんが顔色を変える。
「まさか、あなたたち……」
「もうやめて！」
今度はリナさんが叫んだ。
「あたしはお兄ちゃんの妹よ。それ以上でもそれ以下でもないわ。これ以上変なこと言ったら、あたし本気で怒るから……！」
ジュースのパックをまき散らして、リナさんは部屋を出ていった。僕は追いかけたかったが、体中を締め付けるギブスがそれを許さなかった。
「ゼロス」
ゼラスさんが優しく言う。
「あなたは、体中のあちこちを骨折しているの。全治二ヶ月はかかるわ。あなたは三階の物干し場から落ちたのよ。腐っていた手すりを修理しておかなかったあたくしの責任ね。あなたは、リナをかばって落ちた。リナに怪我はなかったわ。本当に優しい子ね、あなたは」
「ゼラスさん、リナさんをかばうのは当然です。僕の恋人なんだから」
ゼラスさんは、困った顔をして微笑んだ。

消灯時間が来て、病院は暗くなった。僕は眠ろうとしたが、三日も眠っていたせいか、なかなか眠気は訪れてくれなかった。体中を固められて、寝返りも打てない。天井を見つめてじっとしていると、病室のドアが静かに開いて、誰かが滑り込んできた。
「リナさん……！」
「お兄ちゃん」
リナさんは、優しく僕の唇にキスをした。ああ、やっぱりリナさんは僕の恋人だ。
「あのね、お兄ちゃん。あたしたちの関係は、母さんにも他のどんな人たちにも秘密なの。だから、今日みたいに人前であたしのことを恋人だって言うのは止めて。あたしたち、引き離されちゃうわ」
「……わかりました」
「あたしを守ってくれて、本当にごめんね。痛いでしょう、体中」
「貴女を守るために負った傷なら、痛くなんてありません」
「あたし、一生懸命看病するね。早く良くなりますように」
リナさんはもう一度僕の唇にキスした。そして、するりと病室を抜け出していった。満たされた気持ちに、優しい眠気が降りてきた。

ドアの外で、誰かが話している。一人はゼラスさんだ。何かを、誰かにお願いしている。まだ半分寝ぼけた僕は、それを聞くともなく聞いていた。やがて、ゼラスさんと、金髪の男性と銀髪の男性が入ってきた。
「よお、ゼロス。俺のこと覚えてるか」
金髪の男性が尋ねる。僕は、しばらく考えて、首を横に振った。
「俺のことは」
銀髪の男性。
「すみません。思い出せません」
「謝る事なんてないんだ。そのうち思い出してくれるだろう」
金髪の男性は、髪をかき上げた。
「喋るのに不便だから、自己紹介する。俺はガウリイだ」
「俺はゼルガディス」
「ガウリイさんに、ゼルガディスさんですね。覚えました」
「覚えてもらう、ってのも変な気持ちだな」
ガウリイさんは頭をぽりぽりかいた。
「で、どれくらいで治りそうなんだ」
「全治二ヶ月、と言われました」
「記憶の方は」
「それは聞いていません。時間が経てば、自然に治るだろう、と」
「あらあら、にぎやかだこと」
ゼラスさんとリナさんが入ってきた。
「ゼラスさん」
「他人行儀ね。いつも通り、母さん、って呼んでちょうだい」
「母さん」
こんなに綺麗な、見知らぬ人を、母さんと呼ぶのは、何だか照れる。
「それにリナさん」
「お兄ちゃん、具合はどう？」
「大丈夫ですよ」
「リナ」
ガウリイさんが、リナさんを引き寄せた。僕は、何だか嫌な気持ちになる。
「リナさんを放して下さい」
「そうよ。ガウリイ、あんまりベタベタしないで」
「いいじゃないか。俺たちは恋人同士なんだから」
「え……っ？」
僕とリナさんは、同時に声をあげる。
「おばさん公認の仲だよな、リナ」
「ええ。ガウリイさんなら、安心してリナを任せられるわ」
母さんが、微笑んで言う。リナさんは、ガウリイさんの手を振り払った。
「勝手なこと言わないで。あたしには好きな人がいるの」
「ふうん……じゃ、それが誰か、言ってみろよ」
「そ、それは……秘密です」
「秘密にしなきゃいけない関係なんだろ？だったら、おばさん公認の俺たちの方が、よっぽど健全じゃないか。なあ、俺とつきあうよな、リナ」
「……そうかもしれないわね」
リナは、今度は肩に回された手を振り払わなかった。僕は、理由の分からない心臓の痛みに耐えた。
「それじゃ、けが人を疲れさせるのも何だし、俺たちはそろそろ……」
ゼルガディスさんが言ったとき、病室のドアが開いて、二人の少女が入ってきた。
「アメリア……！フィリア」
「あ、ゼルガディスさん、お久しぶりです」
「おいおい、ゼロスの見舞いに来といて、それはないんじゃないのか？」
ガウリイさんが微笑んで言った。
「ゼロスさん、私たちのことも忘れちゃったんですか？」
「そちらがアメリアさん、こちらがフィリアさん」
「思い出したんですか？」
「さっき、ゼルガディスさんが呼んだじゃないですか」
「あ、そうか」
アメリアさんはがっかりした顔をする。
「心配しないで下さい。じきに本当に思い出しますよ」
「リナさんのことだけは覚えていたんでしょう？」
「ええ。妹のことだけは忘れていなかったんです」
「理想のお兄さまですわね」
フィリアさんが微笑んだ。
「おい、本当にゼロスを疲れさせちゃいけない。もう行くぞ」
「はい、ゼルガディスさん。……あ、渡し忘れてたけど、これ、お花です」
「ありがとうございます、アメリアさん」
僕は、にっこり微笑んだ。

その夜、消灯時間の後、リナさんは再び病室にやってきた。
「寝てた？」
「いいえ」
「あのね、ガウリイがあたしの恋人っていうの、あれ、嘘だから。ただ、母さんを安心させたいだけ」
「わかってますよ」
「あたしの本当の恋人は、お兄ちゃんだけよ。早く良くなって、またあたしを抱きしめて」
「一ヶ月で回復して見せます」
「無理は、しないで」
「はいはい。じゃあ、お休みなさい。それにしても、リナさんは、こんな夜にどこから入って来るんですか？」
「業務用の、夜間通用口があるの。それじゃ、お休みなさい」
リナさんが出ていくと、僕は安らかな眠りについた。

もちろん、リナさんは昼にも来てくれた。学校が終わると、お手製の甘くないケーキを持って、毎日通ってくれた。紅茶をいれてくれる。
「じゃ、お兄ちゃん、ベッド、頭のほう、持ち上げるからね」
「はい、リナさん」
香りの良い紅茶と、上品な味のケーキを味わう。退屈な入院生活の、至福の時間。
「おいしい？お兄ちゃん」
「美味しいですよ」
「あたし、いいお嫁さんになれる？」
「僕を置いて、お嫁に行ってしまうんですか？」
リナさんは、くすっと笑う。
「お嫁になんかいかない。ずっとお兄ちゃんの側にいるわ。これは、お兄ちゃんのお嫁さんになるって事にならない？」
「リナさん」
僕が驚いて目を見開くと、リナさんは深紅の瞳で僕の目を覗き込んだ。
「お兄ちゃんの綺麗な紫の瞳。いつもニコニコしてるからよく見えないけど……びっくりさせると見えるのよね」
「まさか、そのために僕のお嫁さんになると……？」
「ううん、さっきのは本当よ。あたし、ずっとお兄ちゃんの側にいるわ」
「嬉しいですね」
僕は動く右手で、リナさんの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「早く良くなりたい……そして、貴女のことをもう一度抱きたい」
「お兄ちゃん、あたしのことだけは良く覚えてるのね」
「一番大切な人ですからね」
「他の人のことも、早く思い出せばいいのにね」
「みんなが自己紹介してくれるから、そんなに不自由はしてませんよ。それより、貴女のことを忘れなくて良かった」
「ほんとね」
リナさんは幸せそうに微笑んだ。


入院して一ヶ月が過ぎ、左腕のギブスは取れた。僕は右脚のリハビリに入った。リハビリは、想像していたよりずっと辛いことだった。
「痛い……」
「駄目ですよ、メタリオムさん。ここまでは、歩かないと」
「脚に力が入らないんです」
「最初は皆そうです。さあ、ここまで」
「くっ……」
「はい。良くできました。今日はここまで」
「えっ？これだけですか？」
「一度にたくさんやったからって、良くなるものでもないのよ。今は、辛抱の時」
中年の看護婦さんは、きびきびと僕の脚に包帯を巻き直すと、松葉杖を持たせた。
「お兄ちゃん、リハビリ、大変そう」
「見てたんですか」
「心配だったから。絶対、無理しないでね」
「出来ませんよ。脚にボルトが４本も入ってるんだから」
「あたしのせいね。ごめんなさい」
「僕は、リナさんを助けられれば足がなくなっても幸せですよ。それよりリナさん、毎日来てますけど、勉強の方は大丈夫なんですか？」
「もちろんよ。あたしの成績がいいの、知ってるでしょ」
「僕のせいで高校受験に落ちたら、と思うと心配なんです」
「ふふっ」
「何ですか？」
「あたしの成績がいいこと、ちゃんと覚えててくれた。あたしのことなら、何でも覚えてるのね」
「リナさんのことなら、忘れませんよ」
次の日は土曜日だった。リナさんはお見舞いに来なかった。

夜になって、母さんが姿を見せた。
「ごめんなさい、退屈だったでしょう」
「いえ、そんなことはないです。来て下さってありがとうございます」
「母親に、そんな他人行儀はないでしょう……って、あなたはいつも敬語だったわね」
「今日はリナさんは？」
「アメリアさんとフィリアさん、ガウリイさんと、ゼルガディスさん、と５人で高原に行ったわ。今日は泊まりね」
「そうですか……」
「あの子も、毎日あなたのところにばかり詰めてて、倒れちゃわないか心配だったから、気晴らしに行かせたの。恋人のガウリイさんがいれば安心だしね」
「そうですね……」
気持ちがざわざわする。リナさんは、僕の恋人だと言ってくれたのに。
「安心ですね」
僕は微笑んだ。母さんはほっとした笑みを浮かべた。その夜、僕は眠れなかった。




「ゼロスを記憶喪失にしてみたら面白いんじゃないか？」という単純な発想でこの展開です。それにしても、ゼロス視点で物語を書くのは疲れます。つい「さん」をつけ忘れそうになるんです。それでは、次回は最終話、よろしくお願いします。
ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。記憶喪失……マジで安直ですね。それにしてもゼラスお母さんは、兄妹の母でも、姉弟の母でも、心配をかけられて、申し訳ないことです。


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