Fam Fatal［８］



　揚屋に着くと、那河太夫は今までの不機嫌が嘘のようにあでやかに微笑み、客の待つ部屋へ入っていった。璃奈は、詩絵羅を廊下に呼び出した。
「なによ、璃奈。あたしに用事なら、みんなの前でだって……」
「これをあげる」
　詩絵羅は目を見開いた。大きな紅玉の填った簪。
「その代わり、今日のお客の相手をあたしに代わって」
「受け取れないわ。こんなもの。それに、那河姐さんが言ったじゃない。今日のお客の相手は……」
「銀八さんのところでお金に換えて。五十両にはなる」
　詩絵羅は息を呑む。
「あんたの年季奉公の足しにしてちょうだい」
「璃奈。私にだけ教えて。あんたは、あのお客様に……」
「惚れてるわ」
　詩絵羅は、璃奈の冷たい指をぎゅっと掴んだ。
「ばか！ばか！なんて子！」

「この間は失礼しました」
「まったくね」
　那河は優美な笑みを浮かべて相手を見る。相手も負けずに微笑みを返す。
「この吉原で三本の指に入る遊女・那河の鼻をつまんで酒を飲ませる客なんて、ほっぽりだされても文句は言えないはずよ」
「それはそれは」
　客は笑みを崩さない。
「今日は私の相手をしなさい」
「おや、征留屋の太夫は、客に命令ですか？」
「私にはそうする権利がある。いいじゃない。乳臭い新造のどこがいいっていうの？」
「そうですね、貴女は実に魅力的です───ただ、僕は」
「あの娘になら会わせないわよ」
「何のことでしょう」
「私の相手をするか、別の新造の相手をするか───とにかく、あの娘は私にとっても、それからあの娘を見守る人々にとっても大事なものなの。あんたみたいな下品（げぼん）の客とは会わせられない」
「分かりました。では、今日は別の新造さんのお相手をすることにしましょう」
「あんた……私では何が不服だっていうの？」
「あの娘でないところが」
　恭しく言って、客は席を立った。
「図々しいったら。よく言うわよ」
那河太夫は煙草盆を引き寄せた。

　璃奈は、胸にかけた水晶の首飾りを引っぱり出し、汗をかいた手で握っていた。もし、あの人が新造を呼び出さなければ、紅玉の簪を詩絵羅に渡したことも無駄になる。璃奈と詩絵羅は廊下にいた。新造の呼び出しがかかれば、詩絵羅が行くふりをして、途中で璃奈と交代する。璃奈は具合が悪くて寝ていることにして、詩絵羅が代わりに璃奈の布団に入る。
「ごめんね、詩絵羅……」
「私に謝られても。那河姐さんと、あんたのお姉さんに謝りなさい……でも」
「何？」
「私も、璃奈のこと、大好きだったわ。同じ時期に禿になって、同じ時期に新造になった。音楽でも教養でも、璃奈には全然かなわなかったけど……璃奈と一番仲良しだったことは私の誇りでもあったのよ。将来、私が格子窓から客を引いている頃、あんたは大通りを花魁道中しているんだと、ずっと思ってた。あんたは、男を知ったのね？」
　璃奈は紅くなってうつむく。
「新造は客を取らないのがしきたりだっていうのに……」
「詩絵羅、あたし、客を取ったとは思ってない」
　璃奈の目はまっすぐだった。
「あたしとあの人は、恋人として抱き合ったのよ」
　詩絵羅は肩をすくめる。
「分かったわ、あんたの気持ちは。でも、その恋、上手くいくとは限らないわよ。そして、上手くいったとしたら、那河姐さんとあんたのお姉さんを傷つける。分かってるんでしょうね」
「分かってる……」
「振袖新造！　客の相手を頼む」
　声がかかった。
「はい。今行きます」
　詩絵羅がすかさず返事した。

「璃奈さん……」
「ゼロスさま……」
　屏風の影で、二人はしっかりと抱き合った。
「那河太夫の話では、今日は逢えないはずだと……」
「この首飾りが、あたしたちを導いたのよ。また、逢えた。嬉しい……」
　璃奈は涙を拭った。
「嬉しいときにも、涙は出るのね。父ちゃんが死んだあの時に、あたしの涙は涸れ果てたと思っていたのに……」
　ゼロスは、璃奈の白い首筋に光る銀の鎖を見つける。
「水晶の首飾り、つけていてくれたのですね」
「ゼロスさまが下さったもの。必ず二人を導いてくれると……」
「さま、はつけなくていいですよ。どうぞゼロス、とお呼び下さい」
「ゼロス」
そう恥じらって呼ぶ声が愛しい。ゼロスは淡く紅を差されたその唇を指でなぞりながら言った。
「二人きりに、なれるところへ」
「ええ。ゼロスと二人になりたい」
　先に立って歩く、華奢な姿。
「そして、ひとつになりたい」

　リナが襦袢の上に振袖を着込んでしまうと、布団部屋はいっそう暑くなった。二人は、濡れ縁に出て、わずかな涼をとった。
「ファム・ファタルという言葉をご存じですか？」
「ふらんす語……？　意味まではわからないわ」
「ファムは女。ファタルは宿命。運命の女、と言う意味です。もっとも、今では妖婦、悪女の意味合いで使われることが多いですけどね」
「それが何か？」
「貴女は、ファム・ファタルです。僕にとっての」
「悪女？」
「そう言えるかも知れませんが……僕は昔の意味を取りたい。運命の女。宿命の少女。たった一人の、かけがえのない……」
「ふぁむ・ふぁたる」
　リナはつぶやく。そして目を閉じる。長い睫毛と、果実のような唇が、見えない力でゼロスを誘う。
「本当のファム・ファタルですよ、貴女は」

八日目にしてやっと、タイトルの「ファム・ファタル」が出てきました。私がこの言葉を知ったのは、斉藤由貴さんの詩「ファム・ファタル〜運命の女」からです。その頃読んでいた「月刊カドカワ」で連載されていました。


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