Fam Fatal［７］



　朝焼けの大門。初めて、自分の男を見送る。
「璃奈さん、また来ます。そして、また貴女を抱きます」
「そ、そんなこと……」
「誰も聞いていませんよ」
　周りには、後朝（きぬぎぬ）の別れを惜しむ男女の群。そっと口づけを交わしているものもいる。
「近い内に、来ますから。今はお別れです」
　そして、璃奈の手に、冷たく小さな何かを握らせる。
「貴女と僕をつなぎ合わせるお守りです」
　ゼロスは、そっと璃奈の手を包み込み、くるりと後ろを振り向いて去っていた。璃奈はその姿が見えなくなるまで見送る。今まで、さんざん年上の遊女から聞いてきた。朝焼けの中を去りゆく恋人の姿は、何より切ないものだと。でも、こんなに、心臓を締め付けられるように辛いものとは思わなかった。璃奈が呆然とゼロスが過ぎ去っていった方向を眺めていると、肩に細い手が置かれた。
「……姉ちゃん！」
「どうしたの、璃奈。こんなところで。男の見送りじゃないでしょうね」
「ち、ちが……え、と、そうなんだけど……やっぱりちがって……」
「璃奈、あんたまさか……」
「あ、あのね」
　璃奈はばくばくする心臓を押さえる。
「那河姐さんが振ったお客様がいて、それであたしが夜明けまでおもてなししてたの。知ってるでしょ？　それが新造のお仕事。もちろん、やましいことは……」
「無い？」
「無い！」
「大変ね、新造は。花魁になるための厳しい勉強の他にそんなお役目まであるなんて」
「あ、あたしは全然大変じゃないよ。姉ちゃんの方が大変でしょう。もう眠いんじゃない？」
「そんなことを言ってたんじゃ警邏隊長は務まらないわ。じゃ、行くわね。おやすみなさい」
「うん、姉ちゃん、お休み……」
三枚歯の下駄の音が遠くなると、瑠奈はつぶやいた。
「ただ、朝まで宴席でもてなした男を見送るのに、あんな目をするの？　璃奈……」

「り〜な〜ーっ」
置屋に戻ると、髪を下ろした那河太夫が飛びついてきた。
「あんた、何もされなかったでしょうね？　大丈夫だった？」
「大丈夫よ、姐さん。ちょっとお酒をついだら、ぐうぐう眠っちゃったわ、あのお客」
「それは、嘘よね」
「え？」
「あのおかっぱ頭……私が特上の酒に眠り薬を混ぜて、口移しに飲ませようとしたんだけど、あたしの鼻をつまんで無理矢理あたしに飲ませたのよ。私、今さっきまで、揚屋で眠りこけてたの。失敗だったわ。それもこれも、あんたを……まあ、新造なら誰でも良かったのかも知れないけど……引っぱり出すためよ。そんな奴が酒なんか飲んだくらいで眠るもんですか」
　那河はふんと鼻を鳴らす。
「怒らないから、正直に言いなさい。あの客……あんたに何かしなかった？」
「姐さん、本当よ、信じて。何もなかったわ。確かに、酒を飲ませたら眠ったというのは嘘。でも、朝まで話していただけよ。あたしの好きな異国の話をしてくれたから、夢中になって聞いてしまったけど……」
「大門まで送ってきた？」
「ええ、ちゃんと……」
「あんな奴、一人で帰らせればよかったのよ」
　那河は璃奈を抱きしめる。
「今日のことで、あの客があんたを気に入ったかも知れないわ。いいこと、こんどあの客が来たら、あんたはもう出ちゃ駄目。詩絵羅に出てもらいなさい。あんたはこの私の教育を受けて、吉原一の花魁になる女。新造のうちから、くだらない男に目を付けられるわけには行かないのよ」
　璃奈を離さないまま、目を上げる。
「いいわね、詩絵羅」
「はい、姐さん」
「全く。このあたしの元にいるうちに変な男に手を出されたんじゃ、瑠奈さんに言い訳が立たないわ」
「那河姐さん……瑠奈姉ちゃんと」
「ええ、約束してるわ。璃奈は奇麗な身体のままで、瑠奈さんに引き取らせるって。璃奈も油断したら駄目よ。あんないいお姉さんが、身請けまでしてくれようって言うんだから」
「分かってます」
　璃奈はうつむいた。後悔はない。でも、自分を護っている優しい思いたちに背いたことは確かだった。

　同じ部屋で暮らしている詩絵羅が寝付いたのを確かめて、懐に入れていた冷たい小さな塊を引っぱり出す。それは、透き通った色のない石の首飾りだった。不思議な形に切られていて、表から見ても裏から見ても、四角い枠の中に星形が浮かび上がる。
「これが、お守り……あの人と、あたしがもう一度会えるための」
　璃奈は、その透明な石を握りしめて、ゼロスの顔を思い浮かべ祈った。不思議と、自分を抱いているときのゼロスの、真剣な紫の眼差しばかりが思い浮かんだ。


「ほら、また箸が止まってる！」
那河太夫の鋭い声が飛んだ。
「璃奈、あんたは禿の頃から誰より喰うのが取り柄だったじゃないの。それが何！　この十日ばかり、ろくに味噌汁も飲まないで。やせっぽちな胸が、これ以上引っ込んでもいいの！」
「……すみません」
「ああもう！　それで、胸のことをからかわれると、私に対してだって、がっと噛みついてきたじゃない。どうしたって言うのよ。ああ、苛々する。ただでさえ、今日は嫌な客が入ってるっていうのに」
「嫌な……客？」
「例の異人よ。また相場の三倍の金を積んできたわ。今回は薬入りの魚でも食わしてみようかしら。で、どうしても、というときは、詩絵羅、あんたが相手するのよ」
「ええ」
「璃奈！　あんたは行っちゃだめだからね」
「……はい」
「早く元気を出しなさい。その蚊の鳴くような声を聞いていると、気が滅入ってかなわないわ」
　璃奈は、里芋の煮物を箸から落として、また那河に怒鳴られた。

恋の病にかかってしまった璃奈ちゃん。水晶の中に星の映るペンダントは、羽久の母が持っているもので、なかなか素敵なので璃奈ちゃんに持たせてみました。


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