Fam Fatal［６］



　細かく屏風で区切られた広間。襖が開く度、璃奈は落ち着きなく腰を浮かせてその方向を見た。待ち人来たらず、でため息を一つ。廊下に世話役の男の声。璃奈はまた、腰を浮かせた。艶やかな黒髪を肩で切りそろえた、あの人が入ってきた。
「璃奈さん、こんばんは」
　そう言う声まで愛しい。初めて干菓子をくれたとき、そして鼻緒を繕ってくれたときしか声を聞いていないのに。璃奈は自分の身体を抱きしめる。この人を待っていたんだ、と思う。強く強く、思う。
「那河姐さんに振られてきましたのね」
「ええ。今夜の相手をよろしく頼みますよ」
　璃奈は、世話役の男に料理と酒を頼んだ。初めての経験に、声が震えた。
「璃奈さん。その、簪は……」
「あの、勝手に紅玉を簪にしてしまいました。あれはあたしにくれたものだったんですか？もしそうでなければ、今ここで簪を折ってお返し……」
「似合っていますよ。簪を折るなんてとんでもない。良い細工ですね」
「こんな高いものをいただいて……」
「美しい宝石は美しい人を飾るためにあるんですよ」
「ありがとうございます、お客様」
　客はふっと笑った。
「ぜひ貴女には、僕の名前を呼んで欲しいですね」
「ああ、まだお名前も伺っていなかった……」
「ゼロス、といいます」
「ぜろすさま……」
唇にのぼす、不思議な響き。
「貴女の甘い声で、名前を呼んで欲しかった」
「ぜろすさま……ぜろすさま」
　璃奈は呼ぶ度に身体がしびれるような感覚を味わった。
「璃奈さん」
　畳に置いた手を握られる。その手にすべての血が集まるようだ。
「あの、もうすぐお酒が来ますから」
　璃奈は、必死で手を引いた。けれど、手を放した瞬間、温かな胸に抱き込まれてしまった。
「ここは人目が多い。どこか二人きりになれる場所はありませんか」
それは、魔法の言葉。璃奈は、逆らえずに立ち上がる。
「こちらにいらして下さい」
赤に蝶の模様の振袖を揺らして、璃奈はゼロスの先に立つ。
「ここは……」
「布団部屋です。今は、すべてのお布団が引き払われています。明日の朝まで、ここには誰も来ません」
「璃奈さん」
もう一度胸に抱かれ、璃奈は甘い声でいやいやをした。その唇をふさがれる。
「貴女の全てが欲しい。かまいませんね？」
璃奈に逆らう術はなかった。

　広間に戻って、燗の冷め切った酒をゼロスの杯に注ぐ。男を知ったばかりの身体は幽かに痛んだ。
「璃奈さん、無理をしなくてもいいんですよ」
「いえ、これがあたしたちの仕事ですから……」
「貴女に手を出したこと、知られたら瑠奈さんに大目玉を食らいそうですね」
「姉のこと……ご存じなんですか？」
「ええ。大門で会いました。奇麗な方だった。あの女性（ひと）は貴女が男の相手をしなくてもいいようにあんな仕事を……」
　璃奈は、深紅の瞳を上げた。
「後悔は、していません。姉ちゃんも、那河姐さんも裏切ることになったとしても」
「嬉しいですね」
指を伸ばして、璃奈の頬に触れる。そして僅かに崩れた髪に。触れられるたび、璃奈はさっきまでの情事を思い出して顔を紅くする。
「ゼロス様はどこの国からいらしたのですか？」
「イギリスですよ」
「イングランド？　それとも他の島？」
　ゼロスは、目を見開いた。
「イングランドです」
「ティーと、スコーンの国からおいでなさったのですね」
「驚いた。貴女は博識でいらっしゃる」
「幕府禁制の御本を少々読み囓った程度でございますけど」
「いえ、貴女のように僕のイングランドを語ってくれた相手は、僕の商売相手にも誰もいなかった」
「遊女（うかれめ）は、暇でございますから」
「暇なわけがない。様々な芸事や学問を身につけさせられると聞きました」
「それでも、その中に暇がございます。あたしは、その隙に好きな異国の本を読みふけっただけで……」
　ゼロスは、ぬるくなって表面の乾いた鯛の刺身に手をつけた。
「貴女を、僕の国へ連れて帰りたい」
「ご冗談を」
「僕の国に来れば、貴女のそのティーブラウンの髪も、紅玉の瞳も、とやかく言われることはありません」
「あたしは気にしてなんか……」
「これは失礼。でも、貴女のその見事なまでの博識と、身につけられた芸。この吉原の外に出られたとしたら、それは役に立たなくなるのではないですか？」
「……」
「貴女のお姉さまが、貴女を身請けするためにがんばっておられることは知っています。でも、僕なら、貴女をもっと早く自由の身にして上げられる。どうです？　僕と一緒に来て下さいませんか？」
「お金が、かかります」
「分かってます。僕は宝石商を営んでいる。貴女を身請けするのになんの不自由もない」
「外国人の方が、この江戸で宝石商を？　お上に知れたら……」
「大丈夫」
　ゼロスは微笑む。
「僕が外国人であることなんて、誰にも分かりません」
「でも……」
　璃奈は心細かった。さっき、布団部屋の薄暗い中で、射すくめるように自分を見ていた紫水晶の瞳は、彼がこの国の人でないことを何よりも示していた。

ようやく結ばれた二人。しかし、布団部屋といったって、誰か来てしまいそうなものですけどね。


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