Fam Fatal［２］



日本堤を男たちが行く。
「ぜろすの旦那、まだ足が震えてますよ。猪牙舟（ちょきぶね）はそんなに怖かったですかい」
「参りましたよ」
　ゼロス、と呼ばれた男は、肩までの絹糸のような髪をかき上げる。
「あんな小さな舟が、あんな速さで……あなたは、平気なんですか？」
「へえ。乗り慣れてますからね」
「それは、この先の遊郭にも通い慣れている、ということで？」
「まあ、そうなります。安く遊ばせてもらってますが」
「ご冗談を」
　ゼロスは微笑む。
「江戸に名を馳せた宝石問屋のあなたが、安く遊ぶなんて事はないでしょう。きっと、一番の美人を買っていらっしゃるのではないですか？」
「簡単にお言いなさるね。一番の美人……番付に乗るような花魁を買うには、一晩に何十両を用意しなきゃいけないね。まあ、ぜろすの旦那なら小遣い程度の物かも知れませんが」
「さすがに僕も、小遣いというわけには行きませんよ」
　微笑んだゼロスを見て、宝石問屋は感心した顔をする。
「そうやって笑っていなさると、日本人と何ら変わりありませんな、旦那は。髷こそ結っていなさらんが、その黒髪、その肌。完璧なやまとことば。だからこそ、この鎖国の時代に堂々と江戸で宝石商を営むことが出来る。……旦那の生まれはどこの国でしたっけ」
「イギリスです」
「そうそう、えげれす。そんな風にはちっとも見えませんや。着物も決まって。どう見ても、吉原に遊びに来た粋な旦那衆ですな」
「僕は初めての遊郭なので緊張していますよ」
「旦那ならもてますよ。格子戸の女たちの視線を釘付けだ」
　宝石問屋は軽口を叩きながら、ゼロスを大門（おおもん）へ案内していく。
　大門の外に、刀を下げた侍が数人立っていた。
「おつとめご苦労さんです、いつも」
　宝石問屋は軽く頭を下げる。
「いえいえ。くつろいでいって下さい」
髪を後ろでまとめただけで月代を剃っていない、一番威厳のある侍がそう答えた。
「今の人たちは……」
「この吉原の警備隊ですな。私が挨拶した人が隊長ですよ」
「なぜ、女性なんですか？」
　宝石問屋は、目を見開いた。
「私も、何人もの素人さんをここに連れてきて遊ばせたものだが、瑠奈（るな）ちゃんが女だと見抜いたのはあんたが初めてですよ」
「分からないものですかね。あの髪のかぐわしい香り、すらりと伸びたしなやかな身体……」
「瑠奈ちゃんはね、女の身でああして働いて金をため、身請けしようとしてるんですよ」
「身請け？」
「たった一人の大事な妹、瑠璃の字を分け合った璃奈ちゃんをね」
　大門をくぐると、安い見世が並ぶ。格子の向こうから、白粉を厚く塗った女たちがしきりと声をかける。
「吉原の中について説明しましょうか」
「いえ、さっきの姉妹について、知っていることを話して下さい」
「ようござんすよ」

　母親を病で亡くしていたが、幼いときから明るく、仲睦まじい姉妹だった。父親は、商いを営んでいた。娘たちには商人の娘にはふさわしくないほどの教養と、男勝りの剣術を身につけさせた。上の娘───瑠奈は剣術の才覚を現し、妹娘───璃奈は、古典の本をすらすら読めるほどに賢くなった。何より、二人とも美しかった。
「武家にでも嫁にやるつもりかい。商家の娘にこんなに金をかけて」
「いやあ」
　父親は、得意そうに言った。
「女の身でも、商家の子でも、こいつらには一流の娘になって欲しいんだ。母親がいないぶん、な」
　両腕に娘を抱きかかえて街を歩く姿は、下町の名物だった。
　酔っぱらいの喧嘩を仲裁しようとして、父親が刀に刺されたのは、瑠奈が十三、璃奈が十の歳のことだった。残された店と財産は、親戚が我先に取っていった。誰も、瑠奈と璃奈を引き取ろうとはしなかった。
「吉原に行きなって」
　そう勧めたのは隣の店の手代。
「あんたたちほどの器量なら、絶対売れっ子になれる。確かなこった」
　父を亡くした悲しみからまだ抜け出せない璃奈の手を引いて、瑠奈はお歯黒どぶを越えた。
　思わぬ上玉の飛び入りに、女郎屋は躍起になって取り合いをした。その時瑠奈が言った。
「この璃奈が、男に身体を差し出さずにすむ見世に、璃奈を預けます」
　それなら、と手を出したのが、大見世の一つ、征留屋だった。
「この歳だと、まずは禿（かむろ）として吉原のしきたりを学ぶことになるね。そこから芽が出れば、十四ばかりで振袖新造になるころ、引込禿（上級の遊女になるための段階）としてさらに花魁へ向けて修行を重ねることになる。この間、客は一切取らせない。そして、花魁となった暁には、客をふることができるからね。このときに金を稼げば、一度も男と寝ないで吉原を出ていくことは出来るよ」
　幼い璃奈が口を開く。
「ただし、花魁になれたらの話でしょう？」
「あ……ああ」
「吉原に遊女は三千人。花魁は十数人」
「良く知ってるねえ、お嬢ちゃん」
「しかも、身請けしてくれる人が見つからなければ、一生をこの塀の中で過ごすことになる」
「璃奈」
　瑠奈は優しく璃奈の頭を撫でた。
「璃奈の身請けは私がします」
「女の身で……どうやって」
「吉原には、遊女が逃げぬよう、客同士で諍いが起こらぬよう、警邏（けいら）隊があるのでしょう？」
「あ、ああ、あるが」
「私をそこへ入れて下さい」
どっと笑いが湧いた。
「お、お嬢ちゃん、それはないよ。あんたもその器量だ。遊女になっておいて間違いはないよ」
「ならば、警邏隊で一番強い方と手合わせさせて下さい」
「何を無茶な……」
「面白い。相手になってやろうか、お嬢ちゃん」
　警邏隊の隊長……長い黒髪を背中に流した粋な男が、瑠奈に刀を渡した。
「お、おい、雅瓜（がうり）」
「気の強い女は好みだ。おい、誰か剣を俺に貸せ」
二人はにらみ合い、地面を蹴った。
「───こんな、馬鹿な」
数秒後、地面に這わされているのは男の方だった。
「私が警邏隊に入る。構わないわね？」
「……ああ。だが、給料は安いぞ。お前の妹を身請けできるかどうか」
「璃奈が花魁になるまでに貯めればいいのよ」
「お前の妹にはその素質があるって？」
「ええ。私なんかより、ずっとね」
雅瓜は姉の勇姿をただ呆然と眺めやっていた妹娘に目をやる。
「赤茶けた髪。さくらんぼみてえな紅い瞳。いったいどこの血が混じってるんだ」
「さあ。私たちの父親は生粋の日本人だったわ。母様のことは知らされてないの。で？　髪や瞳が、璃奈の美しさを殺いでいて？」
「……い、いや。不気味っちゃ不気味だが、その分怖いくらいに奇麗だな」
「征留屋さん」
　瑠奈は、丁寧に頭を下げた。
「璃奈を、よろしくお願いします」
璃奈の髪と瞳は、外国人の血が混じっているわけではなく、単なる突然変異です。瑠奈と璃奈のお母さんは、普通の日本人です。雅瓜＝ガウリイ、征留屋＝セイルーンです。笑ってやってください……。


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