サクリファイス…前編







　世界の主要都市の上空２００メートルに、巨大な、黒いシャンデリアを思わせる浮遊物が出現してから、十ヶ月が過ぎようとしていた。
　ニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、北京……そしてもちろん、東京。


　青春学園の校門から、一団の少年たちが出てくる。部活に疲れた身体で、それでもなお元気そうに。
「うっわー、今日はＵＦＯよく見えんなー！　晴れてるから！　綺麗だなあ、ほんと」
　菊丸英二が、無邪気に歓声を上げる。
「違うよ、菊丸。何度も言っただろう。ＵＦＯ、っていうのは、未確認飛行物体のこと。アレは、内部に他の星系から来た生物の乗っている、確認された『乗り物』だから、ＵＦＯとは呼べない」
　乾貞治が、生真面目に正す。
「ユーホーはユーホーじゃん」
　英二は唇を尖らす。
「不気味っスね、アレ」
　越前リョーマは眉をひそめる。
「そっか？　カッコイイじゃないか」
　桃城武は、呑気そのものだ。
「でも……いつこっちを攻撃してくるか分からないし」
　河村隆は不安げに眉を下げる。
「今の俺たちに出来ることなんて何も無い」
　海堂薫は空の物体に視線すら向けなかった。
「ま、アレが来て以来、落ち着かなくなったことは確かだけどね」
　不二周助は、微笑を崩さずに言った。
「アレはアレ。テニスはテニス。明日も、皆、遅刻しないで」
　大石秀一郎は穏やかに忠告する。
「しかし、何者が乗っているにせよ、趣味の悪いことだ」
　手塚国光が吐き捨てた。

　彼らは、仲間だった。どんなときにも、それは変わらない。


　乾は、自分の部屋でパソコンのキーボードを熱心に叩いていた。何度かマウスでクリック。そしてまた、キーボード。
「『ＵＦＯ』が来て以来、ずいぶんと手薄になってるな──どこのマスコミが侵入してるか分からないぞ、これは」
　乾がやっているのはハッキング行為だった。目標は日本政府、内閣調査室。目的は──
「ユーホー、からのメッセージが、届くとすればここだよ『にゃ』」
　友人の呑気な口調を真似て、乾はさらに指を走らせる。いくつかのウィンドウが画面上に開いて──
「ビンゴ」
『東京都庁上空浮遊物体に関するレポート』と題されたファイルを開く。
「いつもどおり、かな？」
『何の伝達もなし。攻撃もなし。こちらからの呼びかけにも応答せず』
　何度かハッキングを試みた乾が引き出したデータは、いつもそれだった。そして、今日、この日も。
「ふう……」
　小さい頃から人一倍「ＵＦＯ」好きだった少年は、興味を失ってウィンドウを閉じようとする。その瞬間だった。アルファベットが、ウィンドウの中を走った。
「な……英語、か？　アメリカか、イングランドか……英語圏からの緊急メッセージ？」

『sacrifice』
『Japan，Tokyo，Meguro，Seisyundai，』
『Eiji，K』

「な……なっ」
　流れる文字の速さに、眼が追いつけない。でも、確かに、自分はそのようなメッセージを見た気がした。
「バックアップを──」
　流れ続ける文字を、ローカルハードディスクに保存しようとした瞬間。画面はアラートで埋め尽くされ、回線は自動的に向こうから切断された。
「畜生、やり直しだ」
　慣れた手つきで、もう一度政府のネットにハッキングをこころみる。しかし──。
「何だ、この堅さは──」
　パスワードが変わっている。回線を繋ぐ手順も、今までのものでは上手くいかない。
「畜生」
　乾は、彼らしからぬ科白を再び口にして、パスワード解析に入った。彼のメインマシンは、メモリもＣＰＵも（中学生のお小遣いで買える範囲では）最高の性能を持った自作のものだ。
「よし」
　パスワードが生成される。回路が開く……そして、容赦のない切断。それどころか。
「こちらのマシンへ逆探知だと！」
　指を走らせても間に合わない。乾は、とっさにケーブルを引っこ抜いた。わきの下が、冷たい汗でじっとり濡れていた。
「何かが、起こった。動き出したんだ」
　あの文字列の意味は何だ。

『sacrifice』
『Japan，Tokyo，Meguro，Seisyundai，』
『Eiji，K』

「青春台、エイジ．Ｋ……」
　乾は、ベッドに寝転がって天井をにらみつけた。
「エイジ．Ｋ。まさかな」
　そうだ。天空のお城は、政府の偉いさんに用があるはずだ。たかだか中学３年の、明るくてちょっとおバカな少年に用があるはずがない。
──はずがない。
「眠ろう」
　乾は、部屋の電気を消して、夏ぶとんにくるまった。でも、先ほどまでの興奮と、締め付けられるような不安で、なかなか寝付けなかった。


　そんな乾が、やっと眠りに落ちた頃。近所でも知られる大家族の菊丸家の前に、車が一台止まっていた。この、一応静かな住宅街ではあるが庶民の町に、似合わない高級車。全てのガラスは防弾処理がされており、車体は、例えばちょっとした手製の爆弾が炸裂したくらいではびくともしない耐久性を誇る。
「馬鹿言わないで頂戴！！」
　寝巻き代わりの薄いキャミソールから、豊かな胸の谷間を覗かせた女性──菊丸希美は声を嗄らして叫ぶ。
「英二、逃げなさい！　お勝手から！　あんた足速いでしょ、ケーサツに飛び込むのよ！」
「お嬢さん、警察とは、そもそも国家の監察下にあるものですよ」
　表情と言うものがまるでない、異様に姿勢のいいスーツ姿の男は、希美を見下ろしてそう言った。
「こっの……」
　希美──英二の呼ぶところのチィ姉ちゃん──は、英二によく似たアーモンド形の眼に怒りをみなぎらせて、スーツ男の手を取り、噛み付いた。男の眉が、僅かに動く。後ろに影の様に控えていたヘルメットをかぶった兵士のような男たちの一人が、棒を持ち出して希美に触れた。ばぢぃっ、と嫌な音がして、希美はのけぞり、噛み付いた口を離す。
「菊丸英二君」
　男は、湖の様に静かに、そう言う。英二は、父の手に抱かれている。父の汗のにおいを感じながら、こうして父ちゃんに抱かれたのはいつ以来だろう、とぼんやり考えている。
「君の勇敢なお姉さんが、心臓発作を起こして死んでもいいのかな？」
　そう広くもない玄関は、家族と押しかけた男たちで、人いきれがしている。英二を抱きしめている父、母。強盗撃退用の木刀を持ってはいるものの、動けない長兄と、倒れた希美を抱き起こしている次兄。そして、強い瞳で男達を睨みつけている、背の高い長姉。
「今使ったのはね、まあ、マスコミでもよく報道されている、スタンガンだよ」
　感情のない声。
「でも、そこらの護身用のものとは出力が違う。もう一度、お姉さんに喰らわせたら、危ないだろうね。分かるかな？　心臓が、止まるんだ。私たちは先ほど言ったように、総理大臣の下、内閣調査室の命を受けてここへ来ている。菊丸英二君」
　男がその名を呼ぶたびに、父の抱きしめる腕が強くなる。英二は、しびれたような頭で男の声を聞いていた。
「私たちは余計な犠牲者を出したくない。しかし、抵抗されるとなると、残念ながら君の家族を傷つけたり、あるいは……まあ、君はあの名門・青春学園の生徒なんだってね？　賢い君なら、自分がどうすれば良いか、分かるだろう」
　残念でした。俺は、いいテニス部があるっていうからダメ元で受けてみたら通っちゃっただけの、ただのおバカさんです。成績は、下から数えた方がずーっと早いです。
　心の中で言い返しながら、英二はただ竦んでいる。
「これは、基本的人権の侵害にならないんですか？」
　貼り付いたように木刀を握り締めたまま、法学部生の長兄が言う。
「なるよ。なるだろうね。でも」
　スーツ男は長兄を氷のような眼で見た。
「一人の人権を守るために、全世界の人類の──いや、あらゆる生命が、危機にさらされるとしたら？　君はどちらを守る？」
　意識を失っていた希美が、ぱちりと眼を開け、次兄の腕を振りほどく。
「全世界がどうしたってんだあ！　あたしたちは英二を守る！　そんだけだ！」
　スーツ男の目配せ。スタンガン男が、希美にそれを近づける。英二は、父親の、暖かい──この夏の夜では、いささか暑い──胸の中から飛び出した。
「わかった。行く」
「英二！」
「ゴメン、チィ姉ちゃん。ありがと、庇ってくれて。俺、皆がこれ以上傷つけられるの、見たくない」
「英二」
　唇を真っ青にした母が言う。
「怖くないの。あなたは」
「にゃはは、すっげー怖い。だけど」
　英二はスーツ男の眼を、猫の瞳で睨み上げた。
「行くよ。連れて行って」
「勇敢で頭のいい君のことを、ご家族は忘れないだろう」
「……ふん」
　スーツ男の後ろにいた兵士たちが（実際は兵士な訳がない。日本は軍を持っていないのだから。自衛隊員か？）、英二の腕を乱暴に掴み、引きずった。
「痛いな。そんな、無理矢理しなくても、ちゃんと着いていくよ」
　英二が乗せられると、あっけなく車は発車した。別れを惜しむいとまもなかった。
「英二……」
　家族全員が、ため息の様に、彼らが眼の中に入れても痛くないほどに可愛がっていた末っ子の名前を呼ぶ。
「何よ……なんで英二なのよぉっ」
　希美が悲痛な叫びを上げた。
　その時だった。また、車が家の前に止まる音がした。幾分大きな、ごつい車のような……。
「何。また何かあるの」
　玄関のドアが再び開かれた。スーツ男が立っていた。
「あんた……英二と一緒に行ったんじゃなかったの？」
　長い髪、きつい顔立ちの長姉・亜依が眼を眇める。
「ご家族の方も、英二くんとは別の場所でご静養いただきます。いいところですよ。自然がいっぱいだ。私みたいな政府の小間使いには到底望めない環境ですね」
「──何のために」
　狭い玄関に、ばらばらと兵士たちが入ってきて、家族の一人ひとりを拘束した。
「『上』の、意向ですよ」
　スーツ男は、ある方角を指差した。それは、真上ではなかった。東京都庁上空に輝く、黒いシャンデリアの方角──。


　夏休みに入ったばかりのテニス部。朝の九時から、練習が始まる。
「あれ、英二来ないな」
　河村が、落ち着かなげにきょろきょろした。
「ああ、今日は体調が悪くて休みだって。ちょっと夏風邪をこじらせたらしくて、あと何日か休むかもしれない、って言ってた」
　大石が、部誌にそのことを書き込みながら言った。
「エージ先輩がいないと、調子出ないッスね」
　ラケットで柔軟体操をしながら、桃城が言う。
「あの……大石」
「何だ、乾」
「その電話、誰からあったんだ」
「何の電話？」
「菊丸が休む、という電話だ」
「ああ、英二のお姉さん。年上の方の。今日、俺が家を出る前に電話があったよ」
「そうか」
　乾は、手の平の汗をシャツにこすりつけた。今日、菊丸英二の顔を見られれば、それでよかったのだ。自分の考えすぎだった、と、ほっと出来た。でも、今日、菊丸はいない。
『Japan，Tokyo，Meguro，Seisyundai，』
『sacrifice』『sacrifice』『sacrifice』『sacrifice』……。
「乾、具合が悪いのか。顔色が悪い」
　手塚にそう言われて、乾は答えた。
「ああ、ちょっと眩暈がする。今日は家に帰るよ」
　そして、大石を呼び止める。
「悪いだけど、大石。一人で帰れる自信が無い。ついてきてくれないか」
「あ……ああ。かまわない」
　お人よしで心配性の副部長は、すでにユニフォームに着替えていたのに、せっせと制服を取り出し始めた。


「乾、本当に顔色が悪い。珍しいな、お前がこんなことになるなんて」
「いや、俺は良いんだ……」
「は？」
「菊丸の家、知ってるだろう」
「英二の家？　そりゃ、何度もお邪魔したし……」
「連れて行ってくれないか」
「何言ってるんだ。具合が悪いんだろう」
「頼む。一刻を争うかもしれないんだ」
　大石は、目を見開いた。
「何だ……乾、英二に何かあったのか」


　菊丸家は、見晴らしのよい高台にある、一軒家だ。玄関脇に、小さな犬小屋。
「コロ！」
　大石は、膝をかがめて犬小屋の中に呼びかける。
「コロ！　眠ってるのか？　いつもうるさいくらいに纏いついてくるのにな」
　乾は玄関のチャイムを押していた。指が震える。何度も、何度も、ボタンががちゃつくほどに押し続ける。
「おい……乾！　借金取りじゃあるまいし、そんな押し方する奴があるかよ」
　大石の呆れ声。
　しばらくが、静かに過ぎた。
「誰も出てこないな」
「英二のうちは共働きだし……お兄さん、お姉さんたちも、それぞれ仕事や学校がある。昼間は誰もいないさ」
「英二も出てこない」
「寝てるんだろう」
「大石」
　乾は、大石の肩を掴んだ。
「この家の、中に入る方法をしらないか」
「は？……えー……」
「そのために、お前を連れてきたんだ」
「乾……」
「お前、英二と付き合ってるだろう？」
　大石の顔が赤くなった。
「な、なんでそれを」
「それくらい俺には分かる。で、お前なら、この家の鍵の隠し場所とか、開いている窓とか、そういうことを知っているんじゃないかと思って」
　大石は、戸惑った。
「絶対に、今そうしなきゃいけないのか」
「ああ」
「……英二の、ためか？」
「ああ。菊丸のため、だけだ」
「わかった」
　大石は、庭の裏手に回った。雨どいに飛びつく。中２階の屋根に足をかけ、ぐっと身体を持ち上げる。そして、さらに上へ。
「ここが、英二の部屋だ」
　大石は、下の乾に呼びかけた。
「菊丸はいるか？」
　そう言われて、英二のベッドを見る。二段ベッドの上の段。布団は綺麗に畳まれている。
「いない……」
　トイレか、水を飲みにでもいったのなら、布団は寝ているときのままの形のはずだ。でも、布団は、綺麗に畳まれている。誰が寝た形跡もない。
「おかしい。乾。様子がおかしいんだ。誰が寝ていた形跡もない……英二の布団に」
「窓は開けられるか」
「鍵がかかってる」
「ちょっと待て」
　乾は、庭を歩き回って、手ごろな大きさの石を選び、大石に声をかけた。
「石を投げるぞ。受け取れ」
　大石の手に、石は渡った。
「それで窓を割って、中に入れ。俺も後から登る」
「乾！　不法侵入だぞ」
「そんなことを言っている場合じゃないんだ！！」
　大石は驚いていた。いつもの冷静な乾ではない。
（乾……何を知っているんだ？）
　大石は窓を割り、鍵を開けた。部屋の中に入る。人の気配がしない。立ち尽くしていると、開いた窓から乾も入ってきた。
「玄関だ。玄関へ」
「あ……ああ」
　言われたとおり、歩き慣れた家の中を通り過ぎ、玄関へ向かう。そして、二人は総毛だった。
　いつも綺麗に整えられていた玄関マットが、大きな靴によって踏み荒らされている。英二がふざけて振り回したこともある、強盗よけの木刀が、折られて転がっている。靴もあちこちに飛び散っている。乾は中から玄関を開け、外へ出た。
「大石、こういうことだ」
　乾は、手に何か白い塊を提げていた。大石はそれに見覚えがあった。英二の姉が可愛がっていた、コロの死体。


「なぜ、知っていた。英二の家の異変を」
　英二の家の近くの公園。日陰のベンチで、二人は汗だくになって座り込んでいた。
「俺は、政府の内閣調査室にハッキングをかけることがあるんだ」
　大石は驚きと呆れの入り混じった顔をした。
「何でまた」
「ん……自分のマシンと、プログラミングの力量を試すため、だな」
「そんなもんかな……コンピュータマニアって」
「で、アレだ」
　この公園からも見える。黒の中に色とりどりの灯りをちりばめた、趣味の悪いシャンデリア。異星人の乗り物だ、と一般的にマスコミに言われている、アレ。
「アレがこの地球に現れて以来、内閣調査室のハッキング対策は手薄になった。おそらく、アレからのメッセージを受け取るのに四苦八苦して、地上のことまで手が回らなくなったんだろう」
「で？　あの宇宙船は、日本の内閣に、何かメッセージを送っていたのか？」
「いや。昨夜までは、何もね」
「昨夜……」
　大石は立ち上がった。乾のシャツの襟首を掴む。
「ゆうべ、何があった。英二に関する、何かがあったんだな？　そうだな？」
　乾は、大石の手を掴んで、自分から離させた。
「俺にも、よく分からない」
「じゃあ、何で……」
「ただ、ゆうべの……正確な時間は家のＰＣのデータを見ないと分からないが、１１時過ぎか。突然、内閣調査室に英語のメッセージが届けられた。そのデータを保存する間もなく、俺ははじき出された。再度ハッキングを試みたが、セキュリティレベルは恐ろしく上昇していた。おまけに、ハッキングしたこちらに、逆ハックをかけてきた。俺は、諦めて回線を切った」
「で！　英二は！　どうなったんだ！！」
「流れてきた英文は俺には全ては分からなかったけど、『sacrifice』『Japan，Tokyo，Meguro，Seisyundai，』『Eiji.K』という文字列だけは分かった。目に焼きついた」
「サクリファイス……生け贄？」
「ああ。そして、今日英二はいない。ご家族もだ。玄関には争った後があり、犬は殺されて犬小屋の奥に押し込まれていた」
「でも、今日確かに、英二のお姉さんから電話が……俺の携帯に……」
「英二の家族を連れ去った何者かが、脅して電話させたのかもな。だいたい、あと何日か続けて休みます、なんて、風邪を引いたものの連絡にしてはちょっと怪しい」
「生け贄……生け贄」
　大石のほうが、今は蒼白だった。
「つまり、お前はこう言いたいのか。英二が、宇宙人だか何だか知らない、あの空に浮いているものへ、生け贄として差し出されると」
「……それは、最悪のシナリオだ。もっといいシナリオもあるかもしれない。……今んとこ、俺には思いつかないけど」
「皆へ知らせなきゃ。……そうだ、警察や、マスコミにも。とにかく、英二一家に何かあったのは間違いない。たくさんの人に探してもらうんだ」
「……ふうん」
　乾は、少し感心したように鼻を鳴らした。
「警察は、無駄だと思うよ。国家権力で英二が連れ去られたのなら、警察なんか相手にもしてくれないだろう。でも、マスコミはいい手だ。俺も今まで考え付かなかった。大衆の情に訴えて、国を糾弾してもらう、てのは実にいい手だ」
　乾は、カバンを開けた。薄いノートパソコンを取り出す。電源を入れ、インターネットに繋ぐ。
「メールより、まずは肉声でいきたいな」
　ＮＨＫは避ける。民放の各局の電話番号を控え、携帯電話を取り出す。
「すみません。ニュースとして流してもらいたい事件が……ええ、昨夜です……東京都の目黒区、青春台……菊丸英二……あの、あの？　もしもし？」
　乾は、携帯電話をベンチに叩き付けた。
「どうだった、乾」
「ダメだ。民放も、抑えられてる」
「一局じゃ分からないだろう。他の……」
「ムダだよ」
　今まで、夢中で、何が起こっているか、心に染みとおっていなかった。大石は、初めて、自分の大事なダブルスのパートナーが……そして秘密の（乾にはばれていたけど）恋人が、遠くへ……果てしなく遠くへ連れ去られたことを認識した。その認識は、涙になって両目から溢れた。
「英二……どうなるんだ、英二は。殺されるんじゃないだろうな」
「分からない」
「乾！　調べてくれ。英二はどこにいるんだ。何をされてるんだ」
「分からないよ、大石」
「誰か、何とかしてくれ……英二を、助けてくれ」
　悪夢の始まりだった。


　太陽は中天にある。乾は、コーラを買ってきて、大石に一缶を渡した。こんな時でも、のどは渇く。だが、コーラは甘い味すらしなかった。
「皆に言おう」
　大石は、ポツリとそういった。
「英二は、みんなの仲間だ。仲間がピンチなら、助け合うのが当たり前だ」
「簡単に言うな」
　乾は感情のない声で言った。
「英二が……英二の家族が連れ去られたことを知った、というだけで、ひょっとしたら俺たちの立場も危ういかもしれないんだ」
　大石は顔を上げて、不思議そうに乾を見る。
「さっき、俺たちはあの窓にべたべた指紋を残してきた」
「あ……ああ」
「俺は、昨日のハッキングを逆探知された。もちろん、こちらのアドレスを取られる前に回線を切ったつもりだが、もしかしたら遅かったかもしれない」
「……」
「『Eiji.K』を『sacrifice』にするために、国家はマスコミすら抑えている。俺たちみたいな一中学生なんて、多分国家にとってはどうでもいい存在だ。ネズミ以下。消えたって何の問題もない」
「……そんな」
「とはいっても、そうぽんぽん人を殺すなり攫うなりしていたら、いくらマスコミが統制されているとはいえ、ご近所の話題くらいにはなるだろう。俺たちは、簡単には殺されたりしない、と思う」
「英二は」
「それは、わからない、って言ってるだろう」
　乾は、珍しくイライラした声を出した。
「大石。お前にとって菊丸が大事な存在だったのはわかる。でも、俺にとってだって、菊丸はチームメイトだ。調べられるなら調べたい。助けられるなら助けたい。でも、昨日の内閣調査室のセキュリティレベルでは、俺一人では絶対に無理だ。映画か何かじゃないんだ。中学生は、国を相手には戦えない。そして、この事実を知れば、知ったものは……多分大丈夫だとは思うが、安全ではなくなるんだ。実際、『sacrifice』と名指しされたのは菊丸一人なのに、ご家族もいなくなっているのがいい例だ」
「じゃあ、レギュラーの面子だけにでも」
「大石！」
「英二がこんなことになっているのを知らずに、夏の大会を戦わせるのか。俺には無理だ。今、分かっていることだけでも知らせたい」
「『冷静な副部長』らしくもないな。桃や、ラケット握った河村あたりが、バーニングモードで近くの警察にでも突入してみろ。テニス部解散だってありうるぞ」
「じゃあ乾。お前は、英二がどんな目に遭っているのか分からない状況で、何が何％だの、データテニスで戦えるのか」
　乾は、木漏れ日を見上げてため息をついた。
「それは、無理だよ」
　木陰なのに、汗はだらだら流れる。冷や汗なのかもしれない。
「レギュラーの面子、だけな」
「ああ」


　練習を終えた面々が、部室に戻ってくる。皆、制服のままで扇風機に吹かれている大石と乾を怪訝な眼で見る。
「手塚」
　大石は呼んだ。
「伝達事項がある。レギュラーだけ残してくれ」
「……ああ。乾はどうしたんだ？　体調は？」
「ちょっと深刻な事情があるんだ」

　二十分ばかりが過ぎて、汗臭い部室にはレギュラーだけが残った。竜崎顧問は今日は来ていない。
「……で、なんだ、大石。皆に言いたいことがあるんだろう」
　手塚が促した。
「皆、落ち着いて聞いてくれ。ああ、タカさん。ラケットから手を放して。──英二が、誘拐された。ご家族も、皆一緒に」
　全員、顔色を変える。
「警察には……」
　手塚の当然の疑問に、乾は話し出した。昨夜自分が見たものの事を。そして、今さっき大石と確かめてきたことを。


「マジかよ……」
　桃城が、指が白くなるほど拳を握り締める。
「英二先輩……」
　めったなことでは表情を変えないリョーマが、目を見開く。
「そんなのってないよな、そんなのって」
　ラケットを遠くに離された河村は、肩を落として泣き出しそうだ。
「で？　乾。君にはもう何も出来ないの？」
　強い声に、皆は顔を上げた。不二が、乾を見つめていた。
「ああ。俺一人では、もう国家のセキュリティを突破することは……」
「一人では、と言ったね。」
　不二は続ける。
「君一人じゃなければ？」
　乾は肩をすくめる。
「誰が協力してくれる？　国と、」
　天井の、その上の。空の彼方を指差す。
「上の方々に逆らうようなことに。第一、せめて俺と匹敵するくらいのプログラミング能力がないと、ハッキングの役に立たない」
「あいつはどうかな」
　不二が口にする。
「誰だよ」
「あんまり好きじゃない奴だけどね……観月」
　全員が顔を見合わせる。
「確かに、ベンチでデータを取るときに、ノートパソコンは使っていたが……乾ほどにコンピュータマニアなのか？　彼は」
　手塚が尋ねる。
「裕太に聞いたことがある。日本テニス協会や、中体連のサイトにハッキングして、トーナメント表を事前に入手して対策を練ったりしているって」
「ふむ」
　乾は、顎に手を当てる。
「でも、今度の相手は、テニス協会や中体連どころじゃないぞ。それに、うちのテニス部でもレギュラーだけに秘密を話したんだ。他校の生徒に相談するなんて……」
「ま、うちの裕太をあんな目に遭わせてくれた奴だからね。多少の恩返しはしてもらうさ。」
　不二は冷たく言った。
（お前、あいつをあんなに手ひどく負かしておいて、まだそういうことを言うか……）
　他の全員は、心の中で突っ込みを入れた。

　不二から弟へ、弟から観月へと連絡が渡り、今は乾と観月が話していた。
「ん……と、そっちのＣＰＵとメモリ……、回線は……デスクトップは寮の共同……ダメだな、だったら……うん、できれば今日中がいい……」
　携帯の通話を切った乾は、カバンを取った。
「今からデートだ。観月と、インターネットカフェで。」


「やあ。」
「どうも。お久しぶりです」
　待ち合わせのインターネットカフェの一階で、乾は観月と顔を合わせた。互いに私服だ。もしものことがあったときに、制服だとまずいことになる。
「うちの菊丸の、多分命がかかっている。よろしく頼む」
「話を聞いたときは驚きましたけど、まあ知らない顔じゃない人が、そういう危機に立たされているというのは嫌ですからね。協力しますよ」
　二人は、店内を見て周り、いちばん性能のいいマシンを２つ選んで、隣り合って座った。
「じゃあ、打ち合わせどおり、僕がまずバレバレの拙いハッキングをかけます」
「ああ。そして、向こうが逆ハックしてくる隙に、俺があっちに入ってデータを抜き出す──菊丸の居場所を。」
　二人は、忙しく指を動かしだした。まずは、ハッキング専門のサイトへ行って、ソフトをダウンロードすることから始める。観月が内閣調査室のパスワード解析を始める。その間に、乾はおそらく一瞬であろう、内部に侵入できる瞬間のデータをローカルに記録できるように、準備を続けていた。
「……ふっ、こんなめちゃくちゃなハッキング、したことがありませんよ。」
「不二からの伝言。」
「何ですか。」
「『うちの弟にしたことを考えれば、手伝うのは当然だろう？』だと。」
「あれだけ僕を屈辱的に負かしておいて、よく言いますね……っと」
　観月のほうのＰＣがアクセスに成功した。すぐに、逆探知が始まる。
「乾君、急いで」
「オーライ」
『Eiji．K』で検索をかける。ビープ音。
「乾君？」
「くっ、もう一段階セキュリティが設定されていた！」
「こっちはもうだめです、間に合いません！」
　政府の内部コンピュータは、観月のＰＣのアドレス解析を終わり、乾の側へとターゲットを変えた。
「今回だけのアタックでは無理か……でも、せめて菊丸のデータのパスワードだけでも」
　乾は解析を続けた。１５桁のパスワードがほぼ解ける頃、画面が一瞬はじけ、そして初期化されたウィンドウズの青白い画面に戻った。
「ふう」
　脇に置いたウーロン茶に手を伸ばす。
「もう一度、同じことを繰り返したほうがいいようですね」
「悪いな、つき合わせて」
「いいんですよ。どうせ僕は裕太くんを傷つけた悪役ですし？」
　ようやく二人が疲れた顔に笑みを浮かべたとき──その笑みは凍りついた。ネットカフェの入り口が開き、迷彩服姿の男が数人飛び込んできた。肩からは銃を提げている。
「動くな！！」
　男たちの一人がそう叫ぶ前に、乾は観月の手を取ってトイレの方へ駆け出していた。
「待て、おまえら！」
　ガン、と銃声が（聞いたことないけれど、これがそうなのか？）鳴り、バシンとＰＣの砕ける音がした。女性客の悲鳴が上がった。乾は、トイレに駆け込むと掃除道具を見つけ、モップの柄で換気口を叩き割った。ありがたいことに、それは屋外へ繋がっていた。観月を自分の肩に乗せて押し上げ、先に逃がす。トイレのドアにモップの柄でつっかいをして時間を稼ぎ、自分も喚気口から外へ逃げた。二階から飛び降りるのは少々足が痛かったが、文句を言っている場合ではなかった。
「乾くん、急いで！」
　観月と一緒に、乾は真夏の夕暮れを駆けた。クーラーで冷え切った頭が急に熱にさらされて、変な気分だった。


「……っぜっ、ぜぇ、はっ、はっ……観月、どこか他のインターネットカフェ、知らない？」
「……くっ、はっ、はぁ……ネ、ネットカフェくらい、何処の駅にもあるでしょう」
「マシンの性能のいい……ところ」
「なるほど……そうなると……ですね」
　観月は、メモに小さな地図を書いて、破いて乾に渡した。
「一旦別れて、夜に待ち合わせましょう。服も変えたほうが良いですね」
「スーツ持ってる？　サラリーマンのふりをしよう」
「君ならスーツを着ればそれぐらい老けて見えるかもしれませんけどね……」

　St．ルドルフ寮に帰った観月は、スーツがクリーニング中だったことを思い出して頭を抱えた。

「これはこれは」
　乾は、笑いをこらえて観月を見た。
「不二裕太君に借りました。彼もまあ、この計画に関係ないわけじゃないですし」
　グレーのスーツにネクタイの乾の前で、だぶだぶのＴシャツにショートパンツ、バスケットシューズ、さらにニューヨーク・メッツの野球帽を後ろ前にかぶった、それはそれは中学生らしい格好の観月は、頬を染めてそっぽを向いた。
「じゃ、また、よろしく頼む。……また、厄介な奴らが押しかけてくるかもしれないけど」
「今回は、まず退路の確保から始めた方が良いでしょうね」

『Eiji．K』pass?
16j57dk793nj234...リターン。
「開いた」
　乾は、汗ばんだ手でキーボードを叩き続ける。店員に気づかれないように接続した外部ハードディスクに、大きなサイズのファイルがダウンロードされていく。
「ダウンロードしきれるかな」
「大丈夫でしょう」
　自信ありげな観月の声に、乾は首をかしげた。
「ちょっとした爆弾を、向こうに仕掛けました。昔暇つぶしに作った、ごく簡単なウィルスソフトなんですけどね……さっき寮に戻ったとき、僕のサイトに上げておきました。こちらのアドレスを逆探知するのに、幾分手間がかかるようにしてあります」
「観月」
　乾は、片目でファイルのダウンロードがつつがなく進んでいるのを見ながら、観月の肩に手を置いた。
「ありがたい」
「困ったときはお互い様です……僕の信条にはあまりそぐわない言葉ですが」
　やがて、快いダウンロード完了を示すベルが鳴り、乾と観月はほっと肩を落とす。
「じゃあ、行きますか。さっきみたいに物騒な人たちが入ってこないうちに」
　外付けのハードディスクを取り外し、ちょいちょいと画面をいじって、アダルトサイトでも見ていたかのように装う。まるで親子のような二人は、夜の蒸し暑い空気の中に出た。……と、サイレンは立てていないが、明らかに装甲車と分かる車が、さっきのインターネットカフェに乗り付けていた。二人は、振り向くこともせずに駅へ入り、切符を買って改札を抜け、一息ついた。
　列車が次の駅に着いたとき、観月が乾の腕を引っ張った。
「ちょっと、降りてください」
　改札を抜ける。乾にとっては知らない町並み。観月の引っ張るままに足を進める。
「ＮＴＴ支局……」
「ええ」
　観月は、その薄暗い建物に入っていく。閉店時間間際のそこでは、カウンターの向こうにヒマそうな店員が欠伸をかみ殺している。
「ここに、何か用が？」
「知りませんでしたか？　ＮＴＴ支局には、フレッツの販促のためにたいてい無料で使えるコンピュータが置いてあるんですよ」
　確かに、ロビーに３台のＰＣがあった。観月は、カラフルなリュック（これも裕太に借りたのであろう）から、外付けハードディスクを取り出し、一台に繋いだ。
「乾くん、さっき君のダウンロードしたデータ……菊丸英二君に関するデータを僕のこれにコピーしてください」
　乾は、一瞬唖然とした。そして、首を振った。
「だめだ。あのデータを持っているというだけで、君の立場は危うくなる。そこまで迷惑はかけられない」
「うちの赤澤部長、ご存知ですね」
「ああ」
　というか、関東圏の中学テニス選手は、たいてい乾はご存知だ。
「先ほど寮に帰って、不二くん……ああ、ええと裕太くんに服を借りて、廊下を走っていたら、赤澤部長に出くわしまして。で、どうしてもこの格好の説明がつかなかったんですよ。──だから、言ってしまいました。詳しいことは置いておいて、とにかくあの悪趣味な宇宙船関係で、青学の菊丸英二くんが拉致された、ということは」
「な……」
「彼は、まあ単純バカな性格がとりえですからね。大層腹を立てていました。今頃、ルドルフ（うち）のテニス部には、話は伝わってしまっているでしょうね」
「そんな……危険な」
「もちろん、赤澤くんは単純バカですが、単なるバカではありません。皆を扇動したり、さわぎたてて事を荒立てることはしないはずです」
「しかし……」
「乾くん。あなたたちは……青学のテニス部は、菊丸くんを奪還するつもりなのでしょう？」
「……」
「僕たちSt．ルドルフ生としては、一緒に戦うつもりはありませんが、もしあなたたちがしくじって……あなたたちも帰ってこなくなったら」
　観月の癖。帽子からはみ出した癖のある前髪を、優雅に指で触る。
「僕たちが特攻します」
「そんな必要は無い！」
「僕は知ってしまった。そして、うちの部のみんなも」
　観月の目は、思いがけず澄んでいた。乾は気圧される。
「成功を祈ります。……正直、他校生のために命をかけたくはありませんからね」
　そして、くすくす笑う。
「何だか、『バトル・ロワイアル』か『僕らの七日間戦争』みたいな話ですね」
「観たのか？　映画」
「まさか。両方とも、僕の好みではありませんよ」







えーと、まず説明しておきますと、この小説は藤子・F・不二雄さんのSF短編「いけにえ」を題材にとって、テニプリを舞台に書き直したものです。かなり長くなってしまいましたが。
地球上空にUFOが出現して、一人の生け贄を要求してくる、というアイデアを、そっくり頂いています。それ以外は、自分なりにいろいろ要素を付け加えました。
観月好きなので、いい役で出せてよかったです。あと、赤澤部長も。（出ては来ませんが）
英二のお姉さんの希美・亜衣というのはモー娘からです。（好きなんだなあ、二人とも）