サクリファイス…中編









　家に帰り着いた乾は「Eiji．K」のファイルを全てプリントアウトした。内容は多岐に渡っていた。菊丸英二の食事のメニュー。健康状態。そして、何より大切な──監禁されている場所。その見取り図。
「深夜すまないけど、タカさんの家に集合」
　乾の同報メールが走り、レギュラーの面子は河村寿司の二階で顔を合わせた。
「英二は！？」
　大石の大声を、手塚がたしなめた。
「菊丸のいる場所が分かった。……ずいぶんと、ふざけた場所だ」
「どこッスか」
「那須の御用邸」
　全員が目を見開く。
「自衛隊の装甲車が２台、見張っている。菊丸の部屋は玄関からずいぶん離れていて、部屋のドアには電子錠。完全な監禁状態にある」
「何のために。何のために英二はそんな目に合わされてるんだ」
「そうだな、それを説明しよう」
　乾は、一枚の文書を取り出した。
「あの、都庁上空に浮かんでいるシャンデリア」
　文書はいかにも官公庁が作りました、という体裁の、味気ないもの。ただ、真ん中あたりに太いマジックで引かれた乱暴な傍線が気にかかる。
「あれから、国連を通じて、完璧な日本語で、送られてきたものらしい。ああ、傍線は俺。ちょっと汚くなったけど、冷静でいられなかったから」
　文書の始まりは、「日本政府の皆さん、そして世界各地で我々の監視下にある国家政府の皆さん」とある。だが、皆の目線は、乾が引いたという傍線の部分に注がれた。
『──我々の要求は唯一つです。日本国、東京都、目黒区、青春台、３−１５−２にお住まいの人間（この『人間』という言い方だけがどうにも異質で、皆の心を不安にさせた）、菊丸英二、１４歳、の身柄を、我々に渡していただきたい。引渡しの日時は日本時間で８月５日の正午。くれぐれも、精神肉体共に健康な状態でお願いします。──また、このことに関する一切の質問は、我々は受け付けません。もし、彼を指定日時に引き渡していただけないのであれば、この惑星最高峰のたどった運命を、世界中の都市がまた、たどることになるでしょう』
「……この惑星最高峰？……エベレストのこと？」
　固まったまま疑問を口にした河村に、乾は「チョモランマと言うべきだな」と訂正した。そしてさらに、「もっとも、今はもう無いけど」と。
「今はもうない……」
　不二がよく分からない、という口調で繰り返す。
「これ」
　乾は一枚の地図を取り出した。やはり、ＰＣでプリントアウトしたものらしい。
「菊丸のファイルに、一緒に突っ込んであったよ」
　山の地図だ。等高線が走っている。それは中学生である彼らにも分かる。そして、その等高線が、ある高さを境にすっぱりと無くなってしまっている事も。これは、テーブルみたいに平らな山の地図、としかいいようが無い。最高の等高線は、1500mを示している。
「これが、今のチョモランマ」
「本当なの？」
　不二は汗ばんだ手で地図を引き寄せた。
「8848mの世界最高峰が……1500mなんかになって」
「ネパールとチベット自治区のサイトにアクセスしてみたが、いずれも現在、チョモランマへの立ち入りは禁じられているようだ」
「どうやって？　爆発でもさせたってのか」
　海堂がつぶやくように口にする。
「さあね。ただ、物理的に破壊したのなら、それなりの粉塵や熱量が観測されるだろうけど、インターネット上にそういう情報は無かった」
「手品みたいにパッと消しちゃった、ってこと」
　リョーマの言葉に、乾は軽くうなずいた。
「で……エージ先輩差し出さなかったら、世界中の都市にそれと同じ事をするって……」
　桃城が口をパクパクさせる。
「なんで英二なんだ！」
　大石は、地図の上の乾の手を痛いほど掴んだ。
「何か理由があるのか？　理由……理由については何か資料は無かったのか」
「無い」
　乾は、あっさり答えた。
「『菊丸英二』ファイルの中を引っ掻き回して調べたが、なぜ菊丸が『sacrifice』に選ばれたのか、その理由を示したファイルは無い」
「『サクリファイス』……いやだ、英二をそんな物にさせるものか！」
　再び大石が激昂し、手塚がその腕を引いて座らせる。
「国連の、正式な呼び方だよ。菊丸の。」
　全員が顔を青白くし、桃城だけが、「『サクリファイス』って何スか？」と呑気に質問していた。


「で……だ。これからのことを考える。菊丸の引渡し日は10日後。それまでに何としても菊丸を奪還しなければならない」
「乾センパイ！」
　桃城が、ようやく明るい顔をして口笛をひゅう、と吹いた。
「俺、何でもやるっスよ。ケーサツだろうが自衛隊だろうがぶっ飛ばすし。エージ先輩には今まで何度もマックおごってもらった恩が……」
「手塚」
　乾はかわいた声で呼んだ。
「何となく、俺が先導して来たが、俺たちのリーダーはお前だと俺は思う。お前は、菊丸を奪還する作戦の指揮を取ってくれるか？」
　手塚は考えなかった。
「やむを得ないな。それと、コンピュータだのハッキングだの、ということは今までどおり乾が引っ張ってくれ。俺には何も出来ない」
「手塚」
　大石が、手塚の肩を叩いた。
「で？」
　ファンタ・グレープの缶を飲み干して、小さな少年は疑問を投げる。
「どうやって『那須の御用邸』まで行くんスか。行ったところで、自衛隊がセンパイ護ってるんでしょ？　やっつけんの？　武器は？　俺たち人殺し、とかするんスか？」
「武器が問題なんだ」
　乾はがしがし、と頭を掻く。
「この中で、誰か、家に銃器を持っている奴はいるか？」
「はーい」
　手を上げたのは、さっきの小さな少年……リョーマだった。
「正確には俺のじゃないけどね。親父が、自分の部屋に、リボルバーとオートマチックを一丁ずつ持ってる」
「越前、撃ったことは？」
　手塚が尋ねる。
「ありますよ。アメリカ（あっち）にいた頃、お前も慣れとけ、ってんで、大体近くの人間に当てるくらいなら」
「持ち出せるか？　親父さんは？」
「……寝てる隙に持ち出せば、多分いけます」
「ＯＫ。──それ以外は？」
　誰も手を上げなかった。
「叔父さんが、クレー射撃をやってるんだよね。叔父さんのうちから銃を持ち出せれば良いけど、ちょっと無理っぽいなあ」
　不二が肩をすくめる。
「那須までは、どうやって？　まさか、銃持って電車ッスか？」
　桃城の疑問に、乾が答える。
「レンタカーだろうな。今日、解散したら、俺は免許証の偽造を始める。大した手間はかからないだろう。問題は、運転だ。誰か、運転できる奴は？」
「はーい」
　また、少年の声。全員の視線がリョーマに集まる。
「あっちで、家、むちゃくちゃ広かったんで。私道で、練習させられたッス」
「マニュアル車も行けるか？」
「オートマのほうが苦手です」
「越前の運転か」
　手塚は、眉間にしわを寄せた。
「いかなる理由であれ、警察に呼び止められたらアウトだな」
「手塚センパイか乾センパイが運転できたら無問題（もーまんたい）だったんスよ」
　リョーマは唇を尖らせた。
「女装だ」
　不二が膝を叩いた。
「女性ドライバーなら、越前くんの身長でもおかしくはないし、化粧をすれば多少は大人っぽくなる」
「なるほど。その手でいくか」
　手塚が肯く。
「なーんか、俺ばっか損してんスけど」
　リョーマは不満そうだ。
「俺、サバイバルナイフなら５本ばかし持ってます。……役に立たないでしょうけど」
　海堂がぼそりと言った。
「うわ、マムシ、てめー犯罪少年予備軍かよ、やべーな、やべーよ」
「うるせえ！　趣味で集めたんだ、使うつもりはねえよ！」
「趣味ってとこがよけーあぶねーよ！」
「こら」
　手塚の一言で、にらみ合っていた二人は黙る。
「サバイバルナイフも無いよりはマシだが……ああ、あとそれから、どうしても要る物がある。プラスチック爆弾だ」
　全員の目が、乾を見る。
「菊丸が閉じ込められている部屋の錠は、指紋判別式の電子錠だ。たぶん、銃で撃った程度では開かないだろう。部屋の壁ごとふっ跳ばすくらいの威力の、爆弾が要る」
「それは」
「俺が作る。海堂、悪いが明日、俺の家に来てくれ。助手を頼む」
「いいッスけど……なんで俺」
「君にはテニスにおいて、ずいぶんと指導をしてきたつもりだ。勝手だけど、明日恩返ししてくれないかな」
　手塚が腕を組んだ。
「しかし、自衛隊を相手に、たったこれだけの武装というのは……心もとないな」
　電子音が鳴った。味気ない、目覚まし時計のような電子音。
「誰かの携帯？」
「ああ、俺だ」
　手塚はカバンを引き寄せ、鳴りつづける携帯を開いた。
「見覚えの無い相手からだ。こんな時に……」
　着信ボタンを押す。
『おい手塚、困ってんだってな。』
「どちらさまですか？」
『うわ、信じらんね、こいつ。俺様の声が分かんねえのかよ』
「跡部……か。今取り込んでいる。電話なら明日にしてくれ」
『だから、その「お取り込み」に俺が一役買って出ようってんだよ。どうせ、今そこにレギュラーメンバーで、情けねえ面並べてんだろ？　全員に言えよ。明日、俺のうちに来いって。メールアドレス教えろ。住所を送る』
「待った。誰から、このことを」
『ルドルフの赤澤からだ。安心しろ。別に全中学のテニス部に連絡網してるわけじゃねえ。俺様が役に立つと思ったから、電話してきたんだろう。それより、メールアドレス』
　しばらく話して、電話は切れた。
「氷帝の、跡部からだった」
　それは、漏れてくる声で分かってた、と全員が思う。
「明日、彼の自宅に全員で来い、だそうだ」
「俺と海堂は別行動だ。後の全員は行って来い」
「何やらされるんだろ？」
　下がり眉毛の河村は、不安そうにつぶやいた。


　一旦解散。午前３時を回っていた。家に帰り着いたリョーマは、音を立てずに玄関に入り、カバンを部屋に置くと、足音を忍ばせて父の寝室へ向かった。ふすまを開けるまでもなく、聞こえてくる大いびき。幾分安心して、そろりとふすまを開け、中に入る。文机の一番上の引き出しに、あれは入っていたはず。
　す、と引き出しをひいたとき、ぴたりといびきが止んだ。
「なんだ、小僧。物騒なもん持ち出して、何に使う？」
　リョーマは下唇を噛んだ。この男──越前南次郎の前で、嘘はつけない。でも、本当のことも言えない。
「助けるんだ。先輩を」
　無難なところでそう答える。
「誰に向ける？　それを」
「……言えない」
「じゃ、貸せねえな」
「言ったら、親父も母さんも、奈々子さんも危なくなるから、だから言えない」
「ふーん……」
　南次郎は鼻を鳴らした。
「相手は、国か何かか？」
「言えない。親父は知らないほうがいい」
　寝返りを打つ音。南次郎は布団をかぶりなおしたようだ。
「二段目の引き出しに、弾丸（たま）がぎっちり詰まってる。全部持ってけ。あと、怪我すんなよ」
「親父……」
「もう寝てまーす」
　ふざけた口調で言い返してきた南次郎は、ほんの何秒か後にはもう大いびきを立て始めた。



　次の日の午前10時。寝不足の欠伸をかみ殺して跡部に言われた最寄り駅に着いた一行に、上品な感じの老人が近づいてきた。
「青春学園の、テニス部の方でいらっしゃいますか？」
「あ……はい、そうです」
「お待ちしておりました。坊ちゃまがお待ちです。当家までお送りいたします」
　駅の車寄せに止まっていたのは、マイクロバスともいえそうな、でも黒塗りの、なんとも形容できない高級車だった。
「８人様と聞いておりましたが」
「ああ……２人、用事があります。６人です」
　声も無く、全員乗り込む。老人は、スライド式のドアをこの上なく上品に閉めて、自分は助手席に乗った。車は静かに滑り出した。

「全員来い、って言っただろう」
　跡部は不機嫌そうだ。
「あのデータメガネとバンダナはどうした」
「すまない。彼らは今日、やらなければいけないことがあるんだ」
「それも、菊丸がらみか？」
「そうだ」
「ち、しょうがねえか。あ、お前ら上がる必要無いぞ。ちょっと待て、俺も靴はくから」
　跡部に導かれて連れて行かれた場所は、──射撃場だった。個人の邸宅にあるものとは思えないほど広い。
「ほら、お前ら、好きなの一丁ずつ取れ」
　壁に、黒光りする猟銃が十丁ほど並んでいる。中には、取っ手がどう見ても象牙のものや、真珠で装飾されたものもある。
「あの……これ」
　河村がおどおどと尋ねる。
「高価いんじゃ」
「ああ、まあ高価いかもな。親父のだから俺はよくわかんねぇけど、親父はこういうののコレクターみたいだから」
「悪いよ……」
「うるせー。ごちゃごちゃ言うんなら、貸さねーぞ」
　跡部も一丁手にとって、撃鉄を起こし、遠くの的を打った。タァン、と澄んだ音がして、的の端っこがはじけとんだ。
「ち……腕がなまってるな。お前らもとっとと並べ。練習くらいしておきたいだろう？」
　手塚は、跡部に確かめるように言った。
「君は……これらの銃を、俺たちに貸してくれるつもりなのか？」
「あたりまえだろ。分かんねぇか？　アホか？」
「君のお父様のものだし……高価なものだし。それに、返せるとも限らない」
「いいんだよ。妙な恩感じられたほうが気味悪い。それより練習だ。お前ら、自衛隊かなんかを相手にするんだろう。今日一日で、どうにか格好をつけたほうがいいぞ。あの猫目……菊丸か。あいつの『引き渡し』まで日が無いんだろう」
　全員の手に銃が渡った。ただし、リョーマは昨日南次郎から受け取った短銃を持っている。今、手の中にあるこの銃で戦う。政府だろうが宇宙人だろうが。
「跡部……恩に着る」
「おう、着とけ。さっさと練習始めだ」


　耳が轟音でしびれてしまって綿を詰めたようだ。引き金を引き続けた指が痛い。血が滲んでいる。
「おまえら、マジ下手くそだな」
　夕日の落ちてしまった射撃場で、疲れきった跡部が疲れきった青学レギュラーに毒づいた。
「でもまあ、朝よりはずっとマシだ。手に慣れた、今持ってる奴を持ってけ」
　そして、苦笑い。
「健闘を祈る」
「跡部」
　手塚が、真正面から相手を見て言った。
「俺たちは、俺たちのエゴで──仲間が『生け贄』にされるのが嫌だから、菊丸を助ける。でも、それは多分世界を滅ぼすことに繋がるのかもしれない。お前は、俺たちに協力していいのか。お前が──死ぬのを早めるのかもしれないんだぞ」
「手塚。見くびられたもんだな」
　もう一度、跡部は静かに苦笑した。
「あんなお天気な猫野郎を犠牲にして生き残って、何になる？　俺は気にいらねえよ、何もかも隠してる政府も、それに乗っかってるマスコミも、何もかも。手塚。頑張れよ。菊丸を奪い取って、小ずるい連中に一泡吹かせろ」
「──ああ」
「君は、お父様に叱られないの？」
　不二が微笑む。
「別に。親父に殴られたって、大して痛かねえ」


　大層ゴージャスな猟銃を見て、乾と海堂は目を丸くした。
「で、どうだった、そっちは」
　手塚が促す。
「まず、偽造の免許証。それから、ガソリン。ガソリンスタンドに寄る訳には行かないからな。で、それをちょっと使って、火炎瓶を１０本。それから、今日の最大の目的であったプラスチック爆弾」
「俺は──詳しくないんだが、信管、とかいう奴がいるんじゃなかったのか？」
「ああ。アンダーグラウンドのサイトで、今日中に都内で手渡しできる人を探して、取引した。ちょっとした値段だったんで、悪いけど後でみんなで割り勘してもらうよ。それにしても、その銃はちょっと凄いな」
「神様仏様跡部様だよ」
　不二がふざけた口調で言った。
「それで？　作戦決行は明日？」
　大石の声は切羽詰っている。
「英二の引渡しの日にちは決まっている。明日は休日としよう。全員疲れを取るんだ。明後日、俺たちは『那須の御用邸』へ急襲をかける」
　手塚が出した拳に、皆の手が重なった。



「何かお召し上がりになりませんか？」
「いらにゃい」
「あなたのお母様の手料理だって、ご所望できますよ？」
「食べたくない……そうだ、俺に作らせてよ。俺、自分の作った料理好きなの、ダメ？」
「ダメですね。この部屋に調理器具は持ち込めません」
「なんでだよ」
「あなたが自傷されるあらゆる可能性は取り除いておきたいからです」
　監禁されて３日。電子錠で施錠された扉と、四方の壁は、柔らかな素材で覆われている。英二が体当たりなどして傷を負うのを防ぐためらしい。食事と共に出されるフォークは、ぺらぺらのプラスチック製だ。
「困りましたね……栄養を取っていただかないと、昨日の様に栄養点滴になりますよ」
「また、縛るの？」
「仕方ないじゃありませんか。あなたが点滴の針を抜くから」
「テニスしてー」
「屋外には、出せません」
「よっ……と」
　英二はスポンジ状の壁に向かって逆立ちした。そして、そのまま腕で弾みをつけて一回転。
「そういう、怪我の元になるような行為は辞めていただけますか」
「身体、なまっちゃうから」
「いいんですよ、あなたは、もうテニス選手になることは無いのだから」
　英二はびく、と肩をすくめる。
「なあ、俺さあ、あのシャンデリアに連れて行かれて、何されんの。食べられんの？　皮剥がされんの？　何かの実験に使われるの？」
「さあ。上の方の意向は、我々には」
　英二は、嵌め殺しの、防弾ガラスの窓から、夕焼け空を見た。
「何で、俺なの」
　何度も繰り返された質問。
「上の方の意向は、我々には分かりかねます」
　何度も繰り返された答え。
「俺以外にも、こうやってあのＵＦＯに連れ去られる子がいるの？」
「今のところは、あなたお一人です……夕食は、食べないんですね？」
「いらにゃい。持ってって」
「点滴の準備をさせます」
　奇妙に姿勢のいいスーツ姿の男は、恭しく英二に頭を下げると、電子錠を開けて部屋を出て行った。間もなく、ボディビルダーとも見紛うような白衣の看護師が二人入ってきて、英二を押さえつけ、ベッドに柔らかな布で縛りつけた。点滴が始まる。英二は、憂鬱な気持ちでその薄黄色い液体を見上げた。

「入ってもよろしいですか」
　柔和な声。
「やだよ」
「そうおっしゃらずに」
　ドアは勝手に開いて、手に分厚い本を持った丁寧な物腰の男が入ってくる。
「一日ぶりですな」
「勝手に来んな」
「今日も、神様のお話をいたしましょう」
　男は牧師だった。
「俺、神様なんか信じないよ。復活、とかも信じない。最後の審判、とかも信じない。あんたのいうことはみんなデタラメだよ。不愉快だから出て行ってよ」
「英二くん」
「名前で呼ぶなよ」
「英二くん。人は母より生まれ、天の父に見守られ、そして必ず死んでいきます。このことは分かりますね」
「……」
「あなたより幼い子供達が、病気で、事故で、そして飢えで死んでいくのです。今日、今、この時も」
「そうかもね」
「あなたの運命は私にも分からない。しかし、遠い宇宙から来訪した人々に連れ去られ、そこであなたが命を落とすとしても、それは尊い犠牲となるのです」
「サクリファイス、ってやつ？　聞き飽きたよ」
「人の死に、意味は無い。死ぬべきときに、天の父のもとに召されるだけです。しかしあなたは違う。多くの人を救うために死ぬことが出来るのです。それも、世界中の人を。人ばかりでない、動物も、植物も、微生物すら、あなたの犠牲の元に生き延びるのです。これ以上意味のある死はありません。１４年間、あなたはご家族に愛され、お友達に愛され、そして人類史上稀にみる『意味のある死』を遂げる。それは羨ましいくらいのことですよ」
「……なら、代わってやろうか」
「英二くん」
「代わってやろうかって言ってんだよ！！」
　英二は叫んだ。
「俺は気に入らない。俺のこと、国連も日本の政府もがちがちの秘密にして、俺さえ差し出せば皆助かって、で、何事も無かったように地球は続いていくんだね。それって…俺ってバカだからさ、上手くいえないけど、ずるいよ。真っ当じゃない。俺がもしも、俺みたいな運命の子を見つけたら、俺は絶対にお前らのようなことはしない」
「英二くん、あなたの命こそが、数十億の命を救うのです」
「聞きたくにゃい。もう、出てって。俺、眠りたい」
「英二くん」
「もーすぐ死ぬ人間の頼みにゃんだよ？　聞いてくれるよね？」
　英二は固く目を閉じた。牧師は、聖書の上に手をかざし、その手を英二の額にのせる。
「だから、気持ち悪いって。点滴だけでもイヤにゃんだから、早く出てけ」
　牧師は小さくため息をつき、電子錠を開け、部屋を出て行った。

　英二は眠ったように静かな呼吸を繰り返していたが、ふとつぶやいた。
「大石……みんな」
　まぶたの端から、透明な涙が伝う。
「もう、会えにゃいのかな……」







牧師さんが生け贄の少年を説得する、というのも「いけにえ」からとっています。ただ、原作の「いけにえ」には、彼を救うために特攻する存在は居ません。その辺で、違いを出したつもりです。
（いや、パクリはパクリなんですけどね）