White days…［１］



絶望したことありますか
激しく恋をしてますか


　僕は、孤独な少年だった。クラスでも浮いていたし、休み時間に話しかけてくる友だちもいなかった。小学校六年を通しても、親友どころか遊び仲間すら出来なかったし、それを苦痛に思うこともなかった。

　たいして勉強もしなかったが、成績はトップクラス……というより、いつも学年２位だった。運動神経も悪くない。僕は自分の見た目には全く興味がなかったが、女子が僕を見てきゃあきゃあと嬌声を上げるのだから、悪くはないのだろう。だが、そのことは男子からいっそう僕を遠ざけた。

　たまに、話しかけてくる人もいた。僕は、微笑みを浮かべて彼らを見た。一見愛想良く、それでいて全てを拒絶する微笑み。その微笑みに気づくと、彼らは黙って去っていった。

　そして、今中学の三年間が終わろうとしている。親友も恋人もなく、数え切れない『休み時間』を一人で過ごしてきた三年。きっと、高校へ進んでも、同じことがくり返されるだけだろう。僕は窓際の席から外を見る。銀杏が僅かに残った葉を揺らしている。僕はいつも通り、バッグからＭＤウォークマンを取り出し、プレイボタンを押した。

　華やかなピアノ。心を躍らせるサックス。音楽は、僕のたった一つの慰めだった。ボリュームを上げる。クラスメイトの笑いさざめく声が消えていく。イヤホンを手で押さえ、心地よい音色に心と耳を澄ませる。僕は目を閉じる。そして、開く。

　こんな僕にも、もちろん好きな女の子はいた。僕は、イヤホンを手で押さえるふりをして、そっと彼女の方に目をやる。机の上に綺麗な脚を組んで座った彼女。そのまわりには、男女を問わず人が溢れている。

　リナ＝インバース。それが彼女の名前だった。

　こっそりと、片耳のイヤホンを外す。
「やあだ、アメリアってば……」
彼女の甘い、よく通る声が耳に入る。僕は、頭の中でその響きを反芻し、また音楽の世界に溺れていった。僕は、彼女に想いを伝えるつもりは全くない。

　彼女は、天使だ。僕は、ずっとそう思っていた。柔らかな、長い紅茶色の髪。果実の唇。白い肌。華奢な肩、折れてしまいそうな細いウエスト、形のいい脚。そして、宝石のような深紅の瞳。彼女が何か言うたび、彼女のまわりの人たちはどっと笑う。彼女も笑う。その生き生きとした表情。僕は、彼女を見て、目を閉じる。綺麗なイメージを心のスクリーンに焼き付ける。けっして、手の届かない存在。

　ある朝、僕がバスから降りると、ほんの数メートル前をリナ＝インバースが歩いていた。彼女は、不思議な歩き方をする。まるで体重が無いような、今にも宙にふわりと浮いてしまいそうな、そんな歩き方。細いふくらはぎを包む学校指定の紺のハイソックスを見ながら、僕は彼女を追い続けていた。その時、誰かが僕の腕を引いた。
「あの……メタリオム、さん」
僕は慌ててウォークマンを止め、イヤホンを外す。僕を呼び止めたのは、よその学校の制服を着た、可愛らしい少女だった。
「何かご用ですか？」
「これ、読んで下さい」
淡いピンクの封筒を差し出す。僕は、微笑んで言った。
「これは、ラブレターですか？」
彼女は見る見る紅くなる。
「は……はい」
「でしたら、受け取ることは出来ません」
「おつきあいしている人が？」
「そういうわけではないのですが……」
「だったら、読むだけでも。私の気持ち、決していい加減なものじゃないです」
「ありがとうございます。でも、僕はずっと片想いし続けているんです。その人にしか、僕の心は動かないんです」
「───見込み、なさそうですね」
少女は少し笑った。
「すみません。でも、貴女はとても可愛らしいですよ。きっと、僕なんかより素晴らしい人が現れると思います」
「メタリオムさんほどの人なんていません。でも……想い、通じるといいですね！　私、自分の気持ちが口に出せて、楽になりました。ありがとうございました！」
少女は、かすかに潤んだ瞳をあげ、くるっと後ろを向いて走っていった。とても感じのいい少女。きっと、あんな女の子とつきあえば、幸せな気持ちを味わうことが出来るのかもしれない。でも、僕はそうしない。僕の中にあるたった一人の天使への想いを、特別なものにしておきたいから。

「ええい、このクラゲー！！」
彼女が校内用のスリッパで思い切り金髪の頭をはたく。
「いてえな、リナ」
乱れた金髪をばさっとかき上げて、ガウリイ＝ガブリエフ──もう一人の天使──は不満そうにリナ＝インバースを見上げた。その瞳は空を切り取ったかのような蒼。
　僕が、どれほど彼に憧れたか、彼は知らないだろう。僕の髪は闇のような黒。目は、暗い紫。───彼女の側にふさわしい者ではない。リナ＝インバースが地上の天使なら、ガウリイ＝ガブリエフは空の天使。じゃあ、僕は？
───悪魔にさえなれない。ただの、地表をはい回る醜い生き物だ。ただ、空が輝くのを美しいと思う心はある。そのせいで、自分の醜さをもっと憎むようになる。でも、僕は分かっている。

彼女からは、離れられない。たとえ、どんなに傷つくことになっても。

僕はまたウォークマンのボリュームを上げた。寒い日に人々が外套の襟をしっかり合わせるように、僕も僕の世界へしっかりと入り込んでいった。


「おかえりなさい、ゼロス。面倒なのは分かるけど、帰ってきたなら一度くらい母屋に顔を出しなさい」
　母様───ゼラス＝メタリオムはそう言う。父と別れて、素封家である母様の実家に帰ってきた僕と母様は、結構裕福な暮らしをしていた。僕は、『勉強用』として、かつてお祖父様が使っていたという離れを自分の部屋として与えられた。僕は、けっして少なくはない小遣いで、ジャズのレコードを大量に買い込み、亡き祖父の愛用品だったというレコードプレイヤーを専門店に持ち込んで修理した。離れは、僕の城だった。勉強のためという名目で、エアコンをつけ、それと同時に煙突が詰まって使えなくなっていた暖炉を使えるようにした。
「中間テストの結果が出る頃でしょう？」
「ええ、今日発表されました」
僕は母様に小さな紙を手渡す。
「いつも通りね」
「ええ、いつも通り、２番です」
「まあ、高校進学も全く大丈夫そうだし、心配はしていないんだけど。ねえ、このいつも一番のリナ＝インバースさんってどんな子？」
どきん、と胸が鳴る。
「素敵な人ですよ。とても、ね」
「そうなの。あなたの友だち？」
「まさか。クラスの人気者で、僕なんか声もかけられませんよ」
「あなたのその性格、心配だわ。今日も、ほら、こんな曲をかけて」
「お嫌いですか？」
「違うわ。この曲は、あたくしが学生時代に流行った曲よ。親が言うのもおかしな話だけど、たまにはアイドルとか、流行の歌を聴きなさい」
「興味ありませんね」
「それに、あなたは一度も家に友だちを連れてきたこと無いじゃない。まあ、小さい頃からあなたは一人が好きだったけど……心を開ける子、いないの？」
「僕は『変わり者』なんです」
母様はため息をつく。
「まさか、苛められてるとか、無視されてる、なんてことはないでしょうね？」
「いえ」
僕が、彼らを無視しているのだ。
「好きな女の子なんていないのかしら」
「いますよ」
平然と僕は言った。
「片想いです」
「告白してみたら？」
母様の目は真剣だ。
「僕は、彼女にふさわしい男じゃないんです」
母様は僕に成績表を返すと、離れを出ていった。僕は熱い紅茶を淹れ、音楽に没頭した。


だから、彼女が───リナ＝インバースが、いつもの机の上から舞い降りて、僕の前の座席に後ろ向きに座って微笑んだとき、僕はずいぶんと間抜けな反応しかできなかった。彼女からおろおろと目をそらし、誰かの救いを求めるように視線をさまよわせた。もちろん誰も、僕たちのことを気にも留めていないようだった。僕は何とか、視線を彼女に戻した。彼女は艶めいた唇を動かした。
「……、なに……の？」
僕はウォークマンを止め、イヤホンを耳から出す。
「あ、ごめんなさい。聞こえなかったのね」
そう言って彼女は恥ずかしそうに笑った。秋風に、光を帯びてカーテンを揺れ、彼女の背中の向こう側を通り過ぎる。本物の天使の羽根のようだ、と僕は思った。唇は、もう一度動き、確かな言葉を紡ぐ。
「ねえねえ、何、聴いてるの？」
「古いジャズ、です」
渇ききった喉から、僕は言葉を引っぱり出した。彼女は、机の上に投げ出されたＭＤウォークマンの銀色の縁を細い指でなぞる。桜貝の爪。
「ジャズかあ。あたし、あんまり聴いたことないな。お願いがあるんだけど」
「何ですか？」
「今これに入っているＭＤの中で、一番おすすめの曲を聴かせて。ごめんね、図々しいのは分かってるんだけど……」
「いいですよ、インバースさん。図々しいなんてちっとも思いません」
「インバースさん、なんて止めてよ。リナ、でいいわ」
僕はイヤホンを指で擦って、リナ＝インバースに───リナさんに、差し出した。
「どうぞ。ボリュームはここですから、聞きやすい音にして下さい」
「ありがと。ゼロスは、優しいね」
リナさんはイヤホンを耳に差し入れた。僕は、頬が熱くなるのを感じた。
『ゼロス』。彼女にそう呼ばれて、こんな気持ちになるなんて、思わなかった。くすぐったいような、恥ずかしいような……彼女は、目を閉じて、曲に聴き入っているようだった。陽光を受けとめる、長い睫毛。僕は初めて間近で見る彼女の顔に見とれていた。整っているけれど、あどけない。金色の柔らかな産毛が光る頬。そこに触れてみたくなる気持ちを抑える。その深紅の瞳が開き、まっすぐに僕を見た。
「ありがとう。とっても綺麗な曲だった。なんてタイトルなの？」
耳に甘い、彼女の声。僕は答える。
「スタークロスト・ラヴァーズ」
「どういう意味？」
小さく首をかしげる、愛らしい仕草。
「不幸な星の下に生まれた恋人たち───この曲では、ロミオとジュリエットのことです」
「ん、なんか切ない曲だと思った……不幸な星のもと、かあ。ねえ、ゼロス」
瞳が、瞳をのぞき込んでくる。


「不幸な星のもとで生きるとしても、その恋人を手放さない？」


なぜ、彼女がそんなことを聞くのかは分からなかったけれど。
「手放しませんね。ずっと、ずっと守り続けます」
「ゼロスならそう答えると思った」
リナさんは、蜜のある花のように微笑んだ。
「おーいリナ、パン買いに行こうぜ」
教室のドアから、ガウリイ＝ガブリエフが大声で呼ぶ。
「行かなきゃ。素敵な曲をありがとう」
リナさんは、イヤホンを僕の手に返すと、机の間を縫うように、あの不思議な足取りで去っていった。
僕は、彼女の耳に触れたイヤホンを自分の耳に入れて、「スタークロスト・ラヴァーズ」を聴いた。それは、僕の中でもう特別な一曲になっていた。

　その夜、僕は明日が来るのが怖かった。リナさんに会ったら、何と挨拶すればいいのか。リナさんが僕の音楽を聴きたがったのは、単なる気まぐれに過ぎないのか。僕の心臓はベッドの中でいつまでも落ち着かなかった。そして、一番怖い想像をする。これから一切、リナさんが僕に声もかけてくれなかったら。今日の僕の態度が、何か嫌われる要因になっていたら。片想いすら終わってしまう想像が心の奥から湧いてきて、僕を眠らせなかった。


　でも、次の日もリナさんは一時間目の休み時間に、僕の所へ来た。僕の前の椅子に、後ろ向きに座る。
「昨日と同じＭＤ？」
「違いますが……」
「迷惑じゃなかったら、その中で一番のおすすめを聴かせて？」
「いいですよ」
僕はリモコンのボタンをいじる。リナさんは、いきなりその僕の手を掴んだ。
「何ですか？」
声に動揺がにじみ出るのを抑えられない。
「綺麗な手だなあ、いいな、と思って」
そういうリナさんの指は細くて、雪のように白い。
「リナさんの手だって可愛いですよ」
言ってしまってから、僕は赤面する。
「あたしの手って子供っぽいから。ゼロスみたいな、長い、綺麗な指に憧れるよ……」
「リナさんは、それでいいんです」
「それって、あたしが子供っぽいってこと？」
僕は焦る。
「えっ……まさか。リナさんは大人っぽ……いえ、年相応に可愛らし……手は子供みたいですけど……いや、変な意味じゃなく」
リナさんは、声を上げて笑った。
「ごめんね。緊張した？」
「怒ってませんか？」
「ないない。それより早く音楽聴かせて。授業始まっちゃうわ」
リナさんは、イヤホンをつけ、目を閉じ、音楽の中に溶けていった。細い肩がリズムにのって揺れる。
「……はい、ありがとう。これは……あれよね？　『カサブランカ』よね？」
「そうです。『as time goes by』。どうでしたか？」
「映画を見たときにもいいメロディだなって思ったけど、こういうアレンジも新鮮ね」
始業のベルが響いた。
「ほんとにありがとう。じゃ、また」
僕は、僕の手を掴んだ彼女の手の柔らかさを思い出していた。

夜が来るたび、僕は「今日の会話が最後じゃないだろうか」と怯えた。でも、彼女は、朝僕と目を合わせるとにっこりと「おはよう」と言ってくれるし、毎日一度は僕のＭＤから一曲聴くことを要求した。ある昼休み、僕は思いきって尋ねてみた。
「なぜ、僕の好きな音楽なんて聴きたいんですか？」
リナさんはスプーンを止めた。そう、僕たちは初めて一緒に昼食を食べていた。
「あんた、頭もいいし、顔だって素敵なのに、ぜんぜん誰ともつきあわない。いつも音楽の中に閉じこもっている。だったら、それはすごくすごく素敵な音楽なんだろうと思って……」
リナさんは微笑む。
「でも、本当に素敵な音楽ね。ゼロスが夢中になるのが分かる」
「古い録音の曲ばかりですよ。退屈じゃないですか？」
「全然。あたし、あんまり流行りの音楽とか聴かないから。ゼロスの持ってくる、いろんな楽器がそれぞれにきらきらしてる音楽、大好きよ……あのね、話は変わるけどもうすぐクリスマスじゃない」
「ええ。そうですね」
「ジャズには、クリスマス・ナンバーってある？」
「そりゃ、ありますよ。数え切れないくらい」
「持ってる？」
「良かったら、ダビングして、差し上げましょうか？」
「ううん」
リナさんは照れくさそうに言った。
「いつか話してくれたよね、離れで昔のレコードを聴きながら勉強してるって」
「ええ……」
「そこに、行ってみたいの。連れていってくれない？」
心臓が高鳴る。僕は、出来るだけ落ちついた声を出した。
「いつがいいですか？」
「もちろん、クリスマスイブ。ケーキは、あたしが手作りのを持って行くから」


「あら、ゼロス。珍しいわね、そんなに熱心に離れを掃除して。大掃除ってこと？」
「お客様が来るんです」
「女の子？」
「まあ、そうです」
母様は、満足そうに微笑み、母屋へ去っていった。




この小説は、村上春樹さんの『国境の南、太陽の西』という小説をベースに、ゼロリナ化したものです。（ゼロリナ化っていったい……）といっても、細かいところはかなり変えてありますが。私の駄文を読まれて、もし興味を持たれたら、『国境の南…』の方も読んでみて下さい。私の小説がだめだめだとしても、『国境の南…』はいい小説です。
ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。『国境の南、太陽の西』はとても好きな小説なので、改変してしまうのは楽しいやら申し訳ないやら、でした。


次へ