遠い旅路の目的地[９]
目の前を、肩で切りそろえられた髪が通り過ぎたとき、リナはあまりの心臓の鼓動に、一瞬立ち上がれなかった。混雑する休日の繁華街。リナは追いかけた。さらさらとなびく髪は、見失いそうになるリナを導くように数メートル前を歩き続けた。走っても走っても差が縮まらない。リナはかかとの高いミュールを捨てた。裸足で、走り続ける。繁華街を抜けて、住宅地へ。追いつけないのは、それが幻だからか。リナは、思い切って声を出した。 「ゼロス！」 影は振り向かない。リナは、喉を絞って声を上げた。 「ゼロス！！」 ゆっくりと、彼は振り向いた。紫色の瞳。その顔立ち。数百年の幻が、今目の前で一つの絵を結ぶ。 「ゼロス」 「貴女は……」 膝をついて息を整えるリナに、彼は歩み寄ってくる。 「どなたですか。どうして僕の名前を？」 「あたしよ、ゼロス」 リナは顔を上げてゼロスを見つめる。 「あたしよ」 「……リ……ナ、さん」 「ゼロス……」 リナは手をのばした。ゼロスに触れたかった。もう待たなくてもいい。もう汚れなくてもいい。ついに、ついに手に入れる。たった一つの輝くもの。 「パパ！」 無邪気な子供の声が、静寂を破った。黒髪の男の子が、ゼロスに抱きつく。 「パパ、お帰り！ このお姉さん誰？ うわきあいて？」 「こら、エルス。ママのところに行ってなさい」 「お姉さんのこと、ママに言ってもいい？」 「このお姉さんは仕事の相手ですよ。告げ口したらおしりをたたきますからね」 「はあい」 男の子は、軽々と坂を駆け上がっていった。 「全く、生意気盛りで……え、と……貴女のお名前は？ さっき、ついリナさんと呼んでしまいましたが」 「そうよ。あんたのリナよ。あんたが『待っていて下さい』と言って消えてしまってから、ずっと、ずっと探してたわ」 「は……？ あの、待って下さい。僕は、貴女のことを知らな……」 「嘘！ リナって、呼んでくれた。お願い。もう一人にしないで。あたしを抱きしめて！」 リナはよろよろと立ち上がった。ただ、ゼロスの腕を待つ。でも、ゼロスはとまどいの表情を浮かべたまま、固まっていた。 「……覚えてないの？」 長い沈黙の後、リナはそう問うた。ゼロスは、眉をひそめて答えた。 「分からない。何だか、貴女を見ると、とても懐かしい感じがする。でも、確かに僕は貴女を知りません」 「今からでもいいの。あたしを知って。そして、遠い昔に消えた愛を、呼び起こして」 「愛……」 ゼロスは、リナの肩に触れた。触れられたところが焼けつくようで、リナは涙を流す。 「貴女の言っている愛とは、男女の愛のことですか」 「……ええ」 何を言ってるのゼロス。ここにいるのはあたしなのよ。あなたのリナなのよ。なぜ、そんなまだるっこしい言い方をするの？ 「ならば、僕には出来ません。僕には妻がいて、二人の子供がいる」 「……妻。子供」 リナは、オウムのようにくり返す。 「正直言って、貴女はひどく僕の心を戸惑わせる。多分、ずっと一緒にいたら、貴女を愛するかも知れない。でも、僕は僕を愛してくれる家族に誠実でありたいんです」 あたしに。あたしに誠実であってはくれないの。 「子供たちが待っている。もう行って下さい」 「嫌！」 リナは叫んだ。 「あたしが何歳だと想ってるの！」 「……」 「３８５歳よ！ ずっと数えてきた。あんたにもう一度会うためだけに、不死を生きた。この身体は罪にまみれて、もうめちゃくちゃよ。お願い、側にいて。捨てないで！」 捨てないで、か。妙に冷めた頭の一部でリナは考えていた。『捨てないで』。最低の女のセリフ。 「リナさん」 その声で呼ばれたかった。ずっと。 「貴女はとても綺麗です。きっと貴女だけを愛する男が現れます。それを信じて。じゃあ、僕は家に帰ります」 ゼロスの背中が遠のいていく。ゼロスはあたしとは別の、愛する人の元に帰っていく。溶岩のように、殺意がたぎった。家なんて簡単につきとめられる。あたしは、ガウリイから形見に譲り受けたブラスト・ソードで、あの人の妻と呼ばれる女を斬り、二人の子供を斬り捨てる。そうすれば……。 「駄目」 リナは、道路に座り込む。 「そうしたら、あたしはあの人の愛を永久に失ってしまう……」 立ち上がることが出来なかった。絶望。それが深く深くリナの身体を抉った。 「これは、罰なの……」 罪を重ねてきた。あの人にもう一度会うためだけに。 「こんなことって……あたしは、また待たなくちゃいけないの……」 遠い未来に、遠い街に生まれ変わるあの人を。 「その人を見つけたとき、また彼が愛する人を持っていたら？」 転生。そして、転生。あの人は、何度もこの世界に生まれる。そして、死んでゆく。あたしは死ねないまま、あの人を捜し続ける。 周りは暗くなった。家々に灯がともる。リナは、糸の切れた人形のように、ただ座り込んでいた。 「可哀想にな」 だれかが、リナの頭に手を乗せた。リナは振り返る。数百年前と変わらない、豪奢な金髪の女が立っていた。 「リナ＝インバース。絶望したか？」 「……」 「生命の珠を、今砕くか？」 「ゼラス＝メタリオム」 リナは声低く言った。 「あたしは、まだあきらめない。まだ絶望しない」 「ほう……？」 「いつか、ゼロスはあたしの手の中に帰ってくる。今まで待ったんです。これからだって、待てます。何百年だろうが、何千年だろうが」 「リナ＝インバース。強き女よ」 「いいえ、あたしは……弱い」 「お前は強い。魔力を誇った遠い昔から、たった今この時まで。永劫の時を生きる魔族ですら、お前ほどの強さは持たない」 ゼラスの瞳が、哀れみに揺らめいた。そして金の女は宙に溶けた。 
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