遠い旅路の目的地[１６]
ゼフィーリアまで、飛行機で３時間の旅だった。ゼフィール・シティは世界でも有数の大都会だ。ビルが天を突き、地下鉄が様々な人種の人々を吐き出す。リナは、地図と路線図を片手に、かつて自分の家があった丘を目指した。ビルの列が途切れ、緑が増える。やがて懐かしい、なだらかな坂道をリナは見出した。勝手に足が速く動く。走りにくいハイヒールを手に提げ、ストッキングが伝線するのも構わずに走る。丘の上。あの角を曲がれば。 「……」 そこにあったのは、石造りの教会だった。入り口は開かれ、涼しい空気と香の匂いが流れ出ていた。 「赤の竜神の騎士（スィーフィード・ナイト）記念教会……」 中に入る。ステンド・グラスを通して夏の光が床に美しい影を落としている。素朴な木のベンチが並んでいる。入り口近くの売店に、メダイユやロザリオを並べている。人の姿は無い。 まっすぐ、奥へと歩く。この教会の神体は、一枚の磨き上げられたレリーフだった。美しく勇ましい女騎士の横顔が、浮き彫りにされている。 「……姉ちゃん」 その姿の下には、古い文字でこう記されている。 『いかなる日にもルナ＝インバースの顔を眺めよ。その日汝は悪しき死を死せざるなり』 信仰は今でも続いているらしい。人々の灯していった、何十本もの蝋燭の光が揺れている。 リナは、レリーフの下に座り込んだ。姉の面影を残す、レリーフをそっと撫でる。 「姉ちゃん、あたしを叱ってよ……」 レリーフは何も答えない。 「お仕置きして。晩ご飯３ヶ月抜き？ 井戸に放り込む？ 何でもいいの。厳しい、厳しいお仕置きをして。あたしを助けて。導いて」 誰も、何も答えない。 「姉ちゃん……」 ゼフィール・シティには帰れなかった。汚れて荒んだ自分を誰にも見せたくは無かったけれど、誰よりも家族に見せたくなかった。優しかった父母。厳しく、怖く、そして自分を世界へと送り出してくれた姉。 「いまさら、だよね……」 あたしは家族を捨てた。仲間を、友人を捨てた。ただ一人のために。もう誰もあたしを導かない。だれもあたしを叱らない。残酷な自由だけが、目の前に拡がっている。 ふと、気づいた。告解室の扉が開いている。 「ご自由に、お入り下さい……夜の７時まで」 リナは歪んだ笑みを浮かべた。告解室へ入り、扉を閉めた。誰かが、小窓を開けた。 「罪を、告白したいんです」 「どうぞ。スィーフィード・ナイトは、貴女を受け入れます」 老女の声がした。リナは、語り始めた。 「あたしは、魔族と情を交わしました。名前はゼロス。あたしは彼を愛し、彼もあたしを愛しました。そして、彼は姿を消しました」 「続けなさい」 声は厳かで、確かだった。リナは小さく息を吸い込んで、続けた。 「あたしは彼の消息を聞くために、船に乗る必要がありました。船主は、あたしの身体を要求した。あたしは、彼に、そして多くの水夫たちに犯されました。あたしはゼロスの故郷に渡り、彼の主に消息を尋ねました。ゼロスは滅び、人間として輪廻の巡りに入ったと聞かされました」 「あたしは、人間の世界に戻り、彼を捜すためにある魚屋で働き始めた。けれど、店の主人に無理矢理犯され、そこを後にせざるを得ませんでした。旅の途中で、あたしは誰の子か分からない命を孕んでいる事に気づきました。優しい人に助けられ……あたしは堕胎しました」 「あたしは娼婦として働き始めました。街から街へ渡る途中、野盗に襲われ、金の代わりに身体を売り渡しました。彼らに抱かれながら、あたしは肉体の快楽を得ました。浅ましい欲望に駆られました。彼らから解放されてすら、あたしの身体は更なる陵辱を求めていました」 お願い。あたしなんか救われない、とその小窓を閉めて。汚らしい女、と罵って。 「昔の仲間が、あたしを訪ねてきました。あたしを愛していると言ってくれたんです。けれど、あたしは彼を、薬を使って抱きました。卑劣な手段で、犯したんです。彼は、死の床であたしを許してくれた。でも、あたしの罪は消えません……」 「百年、千年の時が過ぎました。あたしはずっと、娼婦でした。身体を知らない男に売り渡しながら、ひたすらにゼロスだけを探しました。ある時、コンピュータを使ってゼロスの行方を探してくれる、という客に巡り会いました」 リナの声が、低くかすれた。 「あたしはその男に……言葉には出来ないほどいかがわしい犯され方をして……」 手を握りしめる。額に汗が浮かぶ。 「彼は、写真を盾にその関係を続けるように脅迫しました。あたしは追いつめられて」 スィーフィード・ナイト。姉ちゃん……。 「彼を、殺しました」 リナは待った。罵倒の言葉を。面倒くさそうに、閉められる小窓を。 「続けて」 声は変わらなかった。厳かで、静かだった。 「あたしは逃げました。そして、ゼロスの生まれ変わりを見つけました。小さな赤ん坊。あたしは髪を染め、眼鏡をかけて警察から身を隠しました。ただ、そのちいさなゼロスの側にいたいがために……」 「赤ん坊は５歳になりました。そして彼は、あたしを愛していると言ってくれたのです。遠い昔と同じ瞳で。彼の母親は、娼婦であるあたしが彼の側にいることを許しませんでした。あたしと小さなゼロスは、駆け落ちの約束をしました。その夜、あたしはストーカーとして警察に捕らえられました。じきに殺人者であることも露見しました」 「取調室で、あたしは刑事を殴りつけ、拳銃を奪って逃げました。小さなゼロスを、さらいに行くつもりでした。あたしの心には殺意だけがありました。彼の母親を殺すつもりでした。でも……幸いな……ことに、一家は引っ越した後でした」 「あたしは懲役刑を受けました。牢獄の中で、あたしを贔屓してくれる看守に犯されました。あたしは、もう罪の意識も肉体の快楽も感じなかった。ただの無感覚。誰にも訴えず、心も痛まず、ただ男の身体を受け入れ続けました」 「麻薬に溺れたこともありました。最初は無理矢理に飲まされた薬でしたが、あたしは我を忘れ、望んで自らに注射針を突き立て続けました。まやかしの陶酔の中で男に抱かれ、陶酔から醒めたら次の麻薬を求める日々。垢と脂とよだれにまみれて街に捨てられるまで、あたしは際限なく麻薬を求めました」 「そして今まで、あたしはずっと娼婦であり続けました。千年の時を越えました。たくさんの男が、あたしの身体の上を通り過ぎていきました。……ようやく、ゼフィーリアに帰る決心がついて、あたしはここにいます。ここは、あたしの故郷です。この場所は、あたしの家があった場所です。スィーフィード・ナイト、ルナ＝インバースはあたしの実の姉です。あたしの……ずっと隠してきた名前はリナ＝インバース。あたしは、魔族と契約してかりそめの不死を得ました。あたしは死なないんです。そして、長い時を……罪だけを重ねて生きてきたんです」 リナは言葉を切った。もう、何も言う言葉はなかった。両手で顔を覆った。様々な思い出が、身体を駆けめぐり、苦しい。息が詰まる。 「……それで、あなたは何を望みますか？」 老女の声に、リナは迷わずに答えた。 「ゼロスに会うことです。愛されることです」 声が震えた。 「誰に忌み嫌われてもいい。唾を吐かれてもいい。……救われなくてもいい。あたしはただ、彼に会いたいんです。もう一度、抱かれたいんです。どうすれば……どうすれば、あたしは彼に会えるんですか」 なんて……わがままで、浅ましい女。望むことは、一人の男、ただそれだけ。 長い沈黙があった。リナは、ただ厳かな声を待った。……天上から降る、厳しい姉の言葉を待った。 「彼、以外の人間を、彼と同様に愛することです」 リナの身体に稲妻が走った。そう。あたしは誰も愛してこなかった。彼以外、誰も。 「人間だけではない。鳥を、獣を、草花を、樹木を。ありとあらゆる命、あらゆる精霊を愛することです。彼を愛したように、自分を惜しまず、全て与えるのです」 リナの頬に、無意識に涙が流れた。 「あたしは……そうすることで、ゼロスに会えるんですか」 「あなたが不死を生きる存在なら……時の彼方、約束の園で彼に会えるでしょう」 「約束の……園」 「愛しなさい。与えなさい。慈しみなさい。全ての人の顔に、あなたは彼の面影を見るでしょう。あなたは無限の歳月を生きるでしょう。その彼方に……彼は、います」 「……あなたは、あたしの姉ですか？ ルナ＝インバースですか？」 「違います。ルナ＝インバースは遠い昔に地上を去りました。私はこの教会を護る修道女です。けれどもルナ＝インバースの魂はここにとどまり、人々の心にささやきかけ、導きます。もちろん、実の妹である、あなたのことも」 リナはささやいた。 「あたしを、この教会の修道女にして下さい」 「ええ。ルナ＝インバースの魂は、いつもあなたを歓迎します」 
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