遠い旅路の目的地[１１]
「リナ、さん」 その赤ん坊が初めて口にした言葉はそれだった。抱いていたリナは微笑んで赤ん坊に頬ずりした。 「あらあら、初めての言葉が、『ママ』でもなく『パパ』でもなく『リナさん』？よっぽどゼロスはリナさんが好きなのね」 母親は苦笑する。ゼロスは小さな手をのばし、リナの濃いピンクに染めた髪を弄んだ。 「なぜ、この子に『ゼロス』と付けたんですか？」 リナは問う。母親は、首を傾げて答える。 「そうね。何となくなのよ。この子の顔を見ていたら綴りが浮かんできたの」 （そうよね） リナは赤ん坊の甘いミルクの匂いをかぐ。 （ゼロスは、ゼロスだもの） 「今晩は？ お仕事？」 「ええ、今から出かけます」 「大変ねえ、お若いのに」 リナは、度の合わない眼鏡の奥から、母親に微笑み返した。 けばけばしく染めたピンクの髪。大きな、黒縁の眼鏡は、娼婦の仕事をするときだけ外される。本当は、名前だって変えるべきだったろう。けれども、ゼロスから「リナさん」と呼ばれることだけには、代えられない。リナは、その稼ぎでゼロスの家族の隣に居を構えていた。家族向けの部屋。家賃は安くないが、リナの稼ぎでなら充分まかなえる。 リナが廊下を通ると、露骨に嫌な顔をする人もいた。リナがシーツや下着を干すと、下の部屋の洗濯物が慌ただしく取り込まれる。ときおり、「出て行け」と殴り書きされた紙がポストに入っている。でもリナは、今の幸せを手放す気は無かった。ゼロスが側にいる。「リナさん」と呼んでくれる。やがてゼロスは成長して、リナを愛すだろう。そしたら、この髪の色を元に戻してもいい。ただ、ゼロスの手を取って、共に道を歩んでいくのだ。 深夜、仕事に疲れて帰ってくると、悪夢の時間が始まる。クローゼットの奥に押し込まれたパソコンとカメラ。ひとの頭を殴りつけた、堅くて柔らかい、奇妙な感触。目の前に飛び散る血と脳髄。 （ゼロス……） まだ稚い赤ん坊の名を呼ぶ。 （ゼロス……助けて） 眠りはなかなか訪れてくれない。 （ゼロス……ゼロス） 祈りの言葉のように、その名前をくり返す。 「リナさん、大きくなったら、僕はリナさんをお嫁さんにします」 「ゼロス……」 団地街の、小さな公園。ブランコを揺するゼロスは、５歳の割に大人びた顔立ちをしている。髪は黒く、肩までの長さにさらりと切りそろえられている。紫の瞳。 「リナさん、大好きです」 「あたしも。あたしも大好きなの、ゼロス」 「僕が育つのを、待ってくれますか」 その瞳。遠い昔にリナを抱いた、獣神官の瞳。 「待つわ。絶対に、あんたのお嫁さんになる。だってあたしは……」 「……？」 ゼロスは、微笑んで首を傾げる。その仕草。 （もう、千年以上、待ったんだよ） 魔法の灯りが電気になり、鉄道が網の目のように走り、自動車が駆け抜け、飛行機が飛び、コンピュータが全てを司る世界へ。 「僕は、早く大人になります。誰よりも」 そしてゼロスは、リナの顔に両手を添える。 「ゼロス？」 唇が重なった。リナは、目を閉じる。そのまぶたから、涙が流れる。この口づけのためなら。 （あたしは、どんな罪人にもなれる） 口づけを交わす二人を、険しい目が見ていた。 目を覚ますと、隣のチャイムを押す。ゼロスが走り出てくる、いつもの習慣。いつもの喜び。リナは、チャイムを押した。静かだった。ゼロスの、元気な足音がしない。やがて、そっとドアが開いた。 「リナさん」 「あ……奥さん。おはようございます」 「おはよう。もう午後ですけどね」 「あの……ゼロスは？」 「親戚のうちに遊びに行ってるわ。ねえ、ちょっとお茶でも飲んでいかない？」 リナは、怪訝な顔をした。 「おじゃまします」 「率直に言うけど……ねえ。もう、うちのゼロスに近づかないで欲しいの」 「……はあ」 気の抜けた返事しか出ない。 「なぜ……ですか」 「あなたね、夜のお仕事をしてらっしゃるでしょ」 「ええ」 「ゼロスが小さいうちは大目に見ていたけど……あの子ももう五歳。そろそろ、いろんな事が分かり始める時期だわ」 「ええ……でも」 「どこのものとも知れない男と口づけをしてきた唇で、うちのゼロスにキスなんてして欲しくないのよ。分かる？」 「あの……じゃあ、辞めます」 「は？」 「あたしが夜の仕事をしているのが問題なのなら、辞めます。それですむのなら……」 「あ、あたくしは、別にあなたに仕事を辞めて欲しいわけじゃないのよ。何考えてるの。近所の子供のことで、職まで変える気？」 「あたしは構いません」 「構いません……って。落ちついて。あなた、ちょっとおかしいわ」 「あたしはゼロスくんが大事なんです」 「大事って……」 「ゼロスは、大きくなったらあたしを妻にするって言いました」 「ちょっと！」 母親は、宇宙人でも見るような目でリナを見た。 「子供の言ったことを、真に受けてるの？ あのね、歳から言っても、あなたとゼロスが釣り合うはずは……」 「歳なんて関係ありません。ゼロスはあたしを愛してる」 頬に鋭い痛みが走った。母親は、リナを打った平手を、痺れたように振った。 「……ごめんなさい。殴るつもりは……でも、あなたはおかしい。絶対に、絶対にゼロスに近づかないで」 「あの……」 「もう話すことはないわ。帰って下さい」 「本当に……仕事なんて辞めても」 「気持ちの悪い娘ね！ 変態なんじゃないの！」 リナは、押し出されるように廊下に出た。鍵と、チェーンをかける音がした。 人気のない、真昼の公園。当てもなくブランコの鎖を揺すっていると、後ろから小さな手で目隠しされた。 「……ゼロス？」 声を絞り出す。 「当たりです」 振り向けば、ゼロスの微笑み。片目をつぶる、懐かしい仕草。 「やっと会えた」 ゼロスはリナに抱きついてきた。リナもゼロスを抱きしめる。恋人たちの時間。 「逃げてくれる？」 リナは言った。 「あたしが、ゼロスを育てるわ。一人前に。そして、結婚しましょう。誰も知らない街で、二人きりで暮らしましょう」 「ええ」 ゼロスは、迷い無く肯いた。 「僕も、貴女といたい。母さんにも、父さんにも会えなくなっても、構いません。貴女と行きます」 ピンク色の髪の娼婦と、５歳児。そうとは思えない会話を、二人は交わす。 「今夜、迎えに行くわ。荷物はいらない。あたしが何もかも買ってあげる」 「遠くへ……行きましょう」 二人は、もう一度口づけを交わした。 約束の８時。リナはそっと廊下に出た。ゼロスはいない。 「……」 隣の扉が開くのを待って、リナはうろうろしていた。 ──突然荒々しい靴音がして、警官がリナを挟んだ。リナは気が遠くなる思いをした。この夜に、あの殺人が咎められたのかと。リナの細い手首に、冷たい手錠がかけられた。 「ストーカーの容疑で逮捕する」 リナの思考はめちゃくちゃに揺れた。ゼロスと行けない。警察に捕まったら、部屋に作ってきたあの荷物を調べられるだろうか。そうしたら、いずれ殺人の罪もばれる。人殺しと知られたら、もう幼いゼロスはあたしを愛さないだろう。嫌。嫌── リナの荷物は暴かれ、中からパソコンとカメラが出てきた。マスコミは、４年を隔てた殺人犯の逮捕に湧いた。 拘置所の取調室。冷たく、暗い、湿っぽい部屋。リナは、うつむいたまま、何も喋らなかった。 「困るんだよね、だんまりは──」 妙に鼻声で喋る、若い刑事が言う。 「ね？ あんた若いんだし。罪、軽くなりたいでしょ？ 名字くらい、教えてよ、リナちゃん」 リナは答えない。 「分かってるんだよ。お巡りさんたちは優しいよ？ あの被害者の部屋から、とんでもない変態さんのおもちゃがたくさん出てきたんだ。君はきっと悪くない。罪だって軽くなる。だから、喋ろうよ。お巡りさん困っちゃうよ」 リナは唇をかみしめている。 「全く、この売女──」 刑事は、リナに背を向けた。振り向くと、リナはパイプ椅子を振り上げていた。 「なっ……」 その表情は、四年前に人を殺めた時と同じ。人形のような目。椅子が振り下ろされる。刑事は意識を失った。リナは、素早く近づいて、ポケットを探る。鍵束。そして、重い──拳銃。リナは、繋がれた紐を歯で噛みきり、鍵を開けて外に出た。向かってくる刑事がいれば、銃を使うつもりだった。しかし、神の配剤か、出口まで誰とも出会わなかった。出口の小窓で、守衛が昼寝をしている。リナは、無我夢中でアスファルトを突っ切った。道路に出た。タクシーに手を挙げる。 「お嬢さん、どちらまで」 「ソレイユ団地まで」 そして、拳銃を見せる。 「ひっ」 「急いで」 タクシーはタイヤをきしらせて、急発進した。 団地に着くと、リナはタクシーの売上金を掴み、ポケットに入れた。そして、階段を駆け上がる。リナの目は狂気を帯びていた。 （殺す。殺す。あたしとゼロスを引き裂くものは、みんな死んでしまえばいい） ゼロスの家のチャイムを押した。拳銃を構えて待つ。誰も出ない。家の中はシンとしている。くり返し、チャイムを押す。心なしか、その音は空々しく反響して聞こえた。リナは、拳銃の安全装置を外し、鍵を撃った。思ったより軽い、ぱん、と言った音が上がり、ドアノブは壊れた。リナは、銃を構え、ドアを開けた。 空っぽだった。部屋の中には家具一つ、荷物一つなかった。リナは、愕然として座り込み……立ち上がった。希望は、捨てない。だって、ようやくゼロスが自分を愛してくれたのだ。どこまでも。地の果てまでも、追いかける。 隣の家のチャイムを押した。チェーンをかけたまま、リナを露骨に嫌っていた老婆が出た。 「隣の一家はどこへ引っ越したの！」 老婆はリナをじろりと見る。 「言えないねえ。第一、あんた警察に捕まったんじゃなかったのかい」 ドアを閉めようとする。リナは、咄嗟に銃をそのすき間にこじ入れた。 「ひいい」 老婆は後ずさる。 「答えて。本気よ。撃つから」 老婆は、引きつった顔で叫んだ。 「知らないよ！ あんたが帰ってきたときのために、誰にも、大家にも、知らせずに行ったんだ！ それを引っ込めておくれ！」 「本当に、知らないの……」 「知らない……知らない。殺さないでおくれ、やめて……」 リナは銃を引いた。ドアは堅く閉まった。リナの手から、銃がこぼれ落ちた。 「どこかへ、行ってしまった……」 ゼロス。愛しいゼロス。 「この、広い、馬鹿みたいに広い世界のどこかへ……」 リナは、今度こそ座り込んだ。立ち上がる力は、もう出なかった。 「ゼロス───ゼロス……あたし……」 疲れたわ。 
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