Sailor blouse story［８］




「あら、リナさんの方には言っていなかったの？」
看護士さんが怪訝な顔をした。リナさんは看護士さんに詰め寄った。
「ここは、あたしの右手の怪我を治す病院じゃないんですね？じゃあいったい何の……」
看護士さんは、救いを求めるように僕を見た。僕は、リナさんの肩に手を掛けて言った。
「ここは、精神病院です。貴女は、他人を傷つけ、そして自分を傷つけた。それも深く。そういう人が落ち着いて、自分のことを見つめる場所です、ここは」
「精神病院……」
リナさんは呆然としていた。
「あたし、頭がおかしくなっちゃったの？だから、昨日みたいなひどい部屋に閉じこめられるの？」
「昨日はリナさん、フォークで自分の太ももを傷つけたでしょう。だから、特別看護室に入れられたんです。リナさんが安静にしていれば、僕はずっと側にいますよ」
「いや！ここから出して！」
「リナさんの主治医のフィリア先生がＯＫを出せば、いつでも退院出来ますよ」
「ゼロス！ゼロスはどうしてここにいるの？ゼロスも、心を病んでるの？」
「僕は貴女に付き添いたかったから、こうしているんです。僕は大丈夫です」
「ごめん……なさい……」
リナさんはその深紅の薔薇の瞳から涙を流し続けた。
「あたしが、刺してしまった、あの人はどうなったの？まさか、死んだの？」
「命に別状はないそうです。もっとも、ここを退院したら、貴女は警察に行かなくてはいけませんが」
「警察……」
「ここに入院する前にも行ったでしょう。覚えてないんですか？」
「何も……何も覚えてないわ。覚えてるのはナイフでひとの肉を切り裂いた感覚と……ゼロス、あんたに抱かれたことだけ……」
看護士さんは、気を使うように夕食の食器を下げ、出て行った。
「あたしは、汚い！ゼロスを、道具のように使って……ガウリイを裏切って……生きていてはいけない人間なのよ！」
「リナさん！」
僕はリナさんをきつく抱きしめた。
「貴女は、こんな小さな身体で懸命に生きてきた。生きていていけないなんてことはありません。それに、僕は、自分から望んで貴女を抱いた。あなたの責任ではありません。早く元気になって、ここから出ましょう。そして、きちんと罪を償って、二人で生きていきましょう。僕は、いつまでも貴女の側にいます」
「ガウリイも、そう言ったわ。いつまでも、お前の側にいるって。そして、いなくなった」
「僕は、貴女を遺して死んだりなんかしない。兄さんの代わりに、貴女を守るために、僕は生まれてきたんだと、思えるんです。夢の中で、兄さんは言った。『リナを守れ』って。僕は、それに従います」
「ガウリイ……あんたが死んでから、何もかもが狂い始めたわ。あたしも、あの時一緒に死ねば良かったのよ」
「リナさんは、生きています。生き続けることが、生きているものの使命です」
「辛すぎる使命だわ、あたしには……」
リナさんは、僕のパジャマで涙を拭った。

入院して、一週間が過ぎた。リナさんは、あれ以来自分を傷つけるようなことはしなくなったけれど、ベッドの上で座ってうつむいたまま、何もしゃべらなかった。僕は彼女のために洗濯をし、シーツを換え、食事を食べさせた。今日は、フィリア先生の診察の日だった。僕と彼女は、一緒に診療室に入った。
「リナさん、ちょっときついことを聞くけど、いいかしら？」
「ええ」
「あなたは人を刺したそうだけど、何故そんなことをしたの？」
「ガウリイが……ガウリイが刺されて」
「ガウリイ……」
フィリア先生がリナさんのカルテをめくった。
「あなたの亡くなった旦那さんね。それで……」
「あの男は、ゼロスの頬を切った。ゼロスまでナイフが奪っていくのかと思うと、耐えられなかった。だからあたしは、あの男からナイフを取って、刺したんです」
「それがいけないことだとは思わなかったの？」
「ゼロスを奪われるくらいなら、いけなくたって……」
「あなたは、手首を深く切って、浴槽に浸けているところをゼロスくんに発見されたの。どうしてそんなに自分を傷つけたのかしら？」
「それは……」
リナさんは、言いにくそうにうつむいた。そのままたっぷり一分間、沈黙が続いた。
「ゼロスくん」
「はい」
「あなたがいない方が、リナさんは話しやすそうね。ちょっと外に出ていてくれない？」
「分かりました」
「ゼロス……」
リナさんが不安そうな目をした。僕は、
「大丈夫」
とリナさんの肩に手を置くと、部屋のドアを開けた。ドアの外では、いつも僕たちを世話してくれる中年の女性の看護士さんが待っていた。
「おや、女同士で話した方がいいのかい」
「そうみたいですね」
「フィリア先生。いい先生だろう」
「ええ。とても、優しいし、質問も的確ですね。まだお若いのに」
「それに美人だろう」
「それはもう」
「まああんたには可愛いリナちゃんがいるから、興味ないか？」
はっはっは、と、声を上げて看護士さんは笑った。
「あたしがお見合いの話を持ってきてあげるんだけどねえ。フィリア先生、『今は結婚より仕事です！』って、全然取り合わないんだよ。もったいないねえ、まったく」
ドアがかちゃりと開いた。幾分顔色のいいリナさんが出てきた。
「ゼロス、フィリア先生が呼んでる」
「今度は僕一人ですか？」
「そうみたい」
「リナちゃんは、私がしっかり見張っとくから、安心していっておいで」
僕はベンチから立ち上がると、診療室に入った。
「リナさんとはいろいろ興味深い話が出来たわ。一人にしてごめんなさいね」
「いえ……いいんです。僕に話というのは……」
「単刀直入に言うわ。あなたは、リナさんを愛してるの？」
「愛してます、ガウリイ兄さんの代わりとして……」
「そうじゃないの」
フィリア先生の蒼く澄んだ瞳が、僕を射た。
「あなたは、ゼロス＝メタリオムは、リナさんを愛しているの？一人の男として」
「愛しています」
自分でも驚くほど、簡単に答えは口から出た。僕は、リナさんを愛している。愛している！
「残酷なようだけどね、ゼロスくん。死んだ人は、いつまでも死んでいるのよ。静かに、揺るぐことなく。リナさんが、ガウリイさんへの愛を一生貫きたいと考えているのは美しいことだわ。でも、リナさんは生きている。生きている以上、死者への想いだけで暮らしていくのは難しいことだし、苦しいことだわ。無責任なようだけど、精神科医として言うわ。あなた、お兄さんからリナさんを奪いなさい。それは、悪いことでも、死者への冒涜でもないのよ。辛いけど、涙することもあるけど、人は生きている限り、生き続けなくてはならないの。今、リナさんの心は、死者の世界と生きとし生けるものの世界をさまよっているわ。あなたが、リナさんをしっかりつなぎ止めるのよ、この世界に」
「出来るでしょうか、僕に」
「あなたにしかできないわ」
フィリア先生は、ふっと表情をゆるめた。
「学校を、仕事を失ったリナさんの、存在理由（レーゾン・デートゥル）。あなたは、それになってあげなさい」
僕は診療室を出た。リナさんの瞳が僕を見上げた。
「終わったんかい」
「はい。励まされました」
「良かった。リナちゃんも、フィリア先生の診察が終わったらちょっとは元気が出たみたいでねえ。あたしと話もしてくれたよ」
「どんな話ですか？」
「それは女同士の秘密だね。な、リナちゃん」
「ええ。看護士さん」
「気になりますねえ」
僕たちは、連れだって僕たちの病室に戻った。しばらくじっとしていたリナさんが、ふと立ち上がった。
「どうしたんですか、リナさん」
「あたし、フォークを使って食べる料理も出してもらえるように、受付に頼んでくる」
「リナさん……僕も一緒に行きますよ」
受付の人は、眉をひそめた。
「でもね、リナちゃん。あなた、一度あんなことやってるでしょう。危なくて……」
「もう、大丈夫です」
リナさんの目は、しっかりとした光を放っていた。
「スプーンだけで食べられる、柔らかい料理には飽きちゃったんです。もう二度と、自分を傷つけたりしません。お願いします」
「……本当に大丈夫ね？ゼロスくんも大丈夫だと思う？」
「ええ。今のリナさんなら」
「じゃあ、今日の夕食から普通食を出すわ。また自傷行為をしたら、今度は三日間、特別看護室に入ってもらいますからね」
リナさんはくすくすと笑った。

久しぶりの、フォークのある食事。
「これこれ。肉が食べたかったのよね」
リナさんは、仔羊肉のローストを口の中に放り込む。
「おいっしー！やっぱり、柔らかくした野菜なんて、あたしの好みじゃないのよ」
リナさんは、あっという間に自分の分を平らげてしまった。僕は、仔羊肉のローストを少しリナさんに分けた。
「ありがと、ゼロス。あんたも、お腹空いてるでしょうに」
「いいえ、僕は、リナさんが喜ぶ顔が見たいだけです」
「あんたってほんとに優しいわね」
リナさんは、にっこりと微笑んだ。それは、久しぶりの表情だった。

「ねえ、隣に行っていい？」
消灯時間を過ぎてしばらくして、リナさんが囁いた。
「いいですけど、少しだけですよ。看護士さんが見回りに来るんだから」
「それでもいい」
リナさんは、そっと僕の横に滑り込んできた。
「さて、お姫様。御髪を、撫でましょうか？」
「うむ。貴公は物わかりが良くて助かるぞ」
僕たちは静かに笑った。そして、僕の指がリナさんの前髪をかき回す。リナさんはぎゅっと目をつぶった。
「ガウリイ……」
僕は、髪をなで続ける。
「ガウリイ……ガウリイ、さよなら」
リナさんは、消え入りそうな声で、確かにそう言った。看護士さんの足音が聞こえてきた。僕たちは、慌てて離れた。差し込む懐中電灯の光。
「ゼロスくん、リナちゃん。眠ってないでしょう」
「な、何で分かったんですか」
「寝息よ。寝たふりしてる人の息は、安定してないからすぐ気づくわ。入眠剤、もっと強いのあげましょうか？」
「いえ、結構です。二人で、ちょっと話をしていたもので……」
「そういうことは昼にしてね。じゃあお休みなさい」
看護士さんは去っていった。
「また、隣に行っていい？」
「駄目です。本当に眠り込んで、一緒に眠っているのがばれたらまずいでしょう」
「ゼロスのけち」
「退院したら、いくらでも一緒に寝てあげますよ。だから今は、お休みなさい」
「お休み」

「リナさん、今後はどうするの？」
「とりあえず、警察に行って、裁判を受けて、きちんと罪を償います。それから、働き口を探して、働きます。ゼロスと一緒に、生きていきます」
「ゼロスくんは？」
「高校を卒業します。それから、何か仕事をしながら、資格試験を受けるための勉強をするつもりです」
「二人とも、もう大丈夫そうね」
フィリア先生はにっこりと微笑んだ。
「リナさんの瞳。最初にここに来たときには曇ったガラス玉のようだったのに、今は内側から光を放つ宝石のようだわ。それが、本来のあなたの瞳なのね。じゃあ、退院許可証を書きます。あなたたちは、部屋に戻って、荷物をまとめてちょうだい」
僕たちは、少ない私物を鞄に詰めた。
「ゼロス……この部屋で、あたしと一緒に過ごしてくれてありがとう。そして、ごめんなさい。あたしのせいで、高校休んでたのよね？」
「何てことありません。夏休みとも重なってたし、出席日数が足りなくなって、留年することもないでしょう」
「この病院ともお別れか。最初に精神病院と聞いたときには目の前が真っ暗になったけど、慣れてみるといいところね」
「でも、またここに来るのは勘弁ですよ」
「大丈夫。あたし……きっと、前より強くなったわ」

リナさんの叔父さんが、僕たちを車で家まで送ってくれた。
「上がっていって下さい。お茶でも出しますよ」
「いや……今日は家内の加減が良くなくてね。気持ちだけ、受け取っておくよ」
僕たちは、二人で家の前に立った。
「なんか……照れくさいね」
「鍵を開けましょう」
カチ……鍵が回る。ここを出て行ったときとは、まるで違った僕たちが、ここにいる。
「ただいま」
「ただいま」
埃の匂いと……懐かしい匂いがした。僕とリナさんの生活の匂い。

「ゼロス……抱いて」
「リナさん、今度は自分を傷つけたりしませんよね？」
「あの時は、自分をめちゃくちゃにしたくて、ゼロスを利用した。でも、今は違う。あたしは、一人の女として、ゼロスに抱いて欲しいの」
「僕も、一人の男として、リナさんを抱きたいです」
「ねえゼロス、あたしは汚れてない？」
「言ったでしょう、宝石は傷つかないって」
「嬉しい……」
未だにふさがらないリナさんの右手首と太ももの傷を気遣いながら、僕はリナさんを優しく抱いた。何もかもが、あの夜と違っていた。リナさんは、つぶやくように僕の名前を繰り返していた。
「ゼロス……ゼロス」

リナさんの取り調べは、今度は簡単に進んだ。少年裁判所に呼び出され、正当防衛ということもあって、執行猶予付きの判決が出た。インターネットの一部にその情報が流れたらしかったが、もうリナさんをつけ回すものも、好奇の目で見るものもいなかった。夏が、終わりに近づいていた。
「ねえゼロス、ガウリイのお墓参りに行きましょう」
それは、明後日が新学期という日だった。僕たちは、タクシーに乗って墓地へ向かった。ガウリイ兄さんのお墓の前には、うつむいて枯れた、何本ものひまわりがあった。
「ひまわり……咲いてくれたんだ。見に来てあげられなくてごめんね……」
「リナさん、種を取りましょう。来年には、もっといっぱい咲かせましょう」
「そうね」
僕たちは、しばらくひまわりの種を取る作業に熱中した。それが一通り終わると、リナさんは鞄から赤いガラスの小さなハートを取り出した。
「あ……そのペーパーウェイト、どうするんですか？」
「これは、あたしのガウリイへの恋心」
リナさんは、手で地面を掘った。そして、ハンカチにくるんだそのペーパーウェイトを埋めた。
「ここで、眠るの。ガウリイと一緒に、永遠に、永遠に……」
僕は、墓の前に立って、リナさんの唇にそっとキスをした。
「ガウリイ兄さん。僕は、リナさんをあなたから奪います」
「ゼロス……」
リナさんは、びっくりしたように目を見開いた。
「リナさんと一緒に、生きていきます。僕が、リナさんを守ります。兄さんも、天国から見守っていて下さい」
「ガウリイ……」
リナさんも、口を開いた。
「あたし、ゼロスと生きていく。ガウリイのことは、一生忘れない。それでも、あたしにもう一度生きる力をくれたのはゼロスだから……ゼロスと、行くね。あたしたちを、守ってね」
そして僕たちは墓地を後にした。僕たちは、生きていく。辛いことがあっても、乗り越えられない困難があっても……。僕にはリナさんが、リナさんには僕がいるから。僕たちは、迷うだろう。苦しむだろう。それでも、互いに支え合っていけたら……

僕は、眠っているリナさんの前髪をそっとかき混ぜた。
「ゼロス……」
リナさんは、仔猫のように、肩をすくめた。


それから一年。また、夏が来る。
「ガウリイのお墓参りに行こう」
兄さんの墓の前には、眩しいくらいのひまわりがたくさん咲いていた。僕の背よりも高いその花は、光を浴びて、本当にガウリイ兄さんを思わせた。
「今日は、報告に来ました」
夏の暑い日射しのなか、僕はリナさんの肩を抱いた。
「リナさんは、今日からリナ＝メタリオムになります。許してくれますね？」
「ガウリイ、あんたの優しさ、一生忘れない」
僕は何も言わずリナさんを抱きしめた。服が汗ばむと、僕はリナさんを放した。
「兄さん、僕もあなたのことを忘れません。僕とリナさんの想い出の中の兄さんは、僕たちの中で生き続けます」
『リナを守れ』
あの時夢に出てきた兄さんの声が思い出された。
「僕は、一生をかけて、リナさんを幸せにします。兄さん、許してくれますね？」
不意に強い風が吹いて、ひまわりを揺らした。まるでうなずくように。
「また、来るわ、ガウリイ」
僕たちは、生きていく。ガウリイ兄さんに見守られて。
「リナさん、愛しています」
「あたしもよ、ゼロス」
僕は、自分の妻であるリナさんを、そっと抱き寄せた。






これも、ガウリイが振られたと言えるんでしょうか。「リナちゃんに振られるガウリイの会」（会員２名）のうちの１名は、ちょっと首をかしげます。それはともかく、ハッピーエンドです。精神病院に一緒に入院させてもらうというのは、島尾敏雄さんの「死の棘」から取りました。実際に入院させてもらえるかはちょっと分かりません。フィリア先生がゼロスに言った言葉は、村上春樹の影響を多大に受けています。引用だらけ。それでは、ここまで読んで下さってありがとうございました。
ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。リナはガウリイをはじめ色々なものを失ってしまいましたが、それを乗り越えて掴める幸せもまたあるのだと思います。読んでいただいてありがとうございました。


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