熱砂の薔薇[７]
小春日和のテラスで、リナとフィリアは、すっかり仲の良くなった他の前王の寵妃たちや、身の回りを世話してくれる少女たちと、小鳥を放して遊んでいた。小鳥は高く冬の澄んだ空を飛び、また鳥かごへ帰ってきた。のびやかな鳴き声に皆がうっとりと耳を澄ましていた。後宮の中庭への侵入者にも気づかずに。侵入者は、リナの前に立ち、襟首を掴んで、思い切り頬を殴りつけた。女たちは悲鳴をあげ、リナをかばう。フィリアが声を張り上げる。 『何のつもりですの？ ここに、国王以外の男が入っていいと思っているのですか？ それに、男が力任せに女を殴るなんて……恥を知りなさい！』 『ならば、その不吉な瞳をした女をこちらに渡してもらおう』 侵入者───ジナティは、ふんと鼻を鳴らした。 『不吉な……瞳？』 『王に災いばかりをもたらす女、リナ＝インバースのことだ』 『渡せません。あなたはリナさんに何をする気？』 『かばい立てするか、前王妃フィリアよ。その女は、おとといの共同通信社の記者会見場に図々しくも入り込んだばかりか、女の恥である髪の毛を人前に……いや、全世界の前に晒したのだ。その女がニュース映像に入っていることに気づいた我々が、いかに肝を冷やしたか。通信社に圧力をかけて、静止映像に切り替えてもらうのにどれほど苦労したか。───やはりお前はこの国に災いしかもたらさない』 『ちょっと、ジナティさん』 頬に手を当て、ようやく起きあがったリナが口を挟む。 『不吉だとか何とか、何言ってるのかは分からないけれど、そんなにあたしが邪魔なら国外に追放すればすむことじゃない。王の教育係には、そんな権限もないの？」 ジナティはいまいましげに吐き捨てる。 『国王は、お前に溺れている。お前を追放するなり、殺すなりすることは簡単だ。だが、そうしたが最後、私は王の信頼を永久に失ってしまうだろう』 『これだけ殴りつけられて、ただですませる気はないけど？』 リナは、上目遣いにジナティを見上げる。 『いずれ、お前は王に致命的な災いを呼ぶ。そうなったら、迷い無く私はお前を殺す。もう二度と、あのような出しゃばった真似はしないことだ』 ジナティは、出ていこうとしてフィリアに上着の裾を掴まれた。 『何でしょう、前王妃───』 フィリアは、拳骨で思い切りジナティを殴った。口の中を切ったらしく、手の甲で唇を押さえる。 『あなたとは長いつきあいだけど、こんなくだらない人間だったなんて思いもしませんでしたわ』 『フィリア殿。あなたにも分かる日が来る。この、虫も殺さぬ顔をした女が、どれほど危険な者か……』 『聞き飽きたわ。出て行きなさい』 ジナティは出ていった。 『大丈夫？』 『痛いでしょう、腫れているわ』 『ハンカチをしぼってきたわ、使ってね』 寵妃たちが、かいがいしくリナの世話を焼く。フィリアは、まだ興奮の治まらない震える右手をさすった。 『最低ね、あの男。リナさん、あの男の言っていることに心当たりある？ よりにもよって、その綺麗な深紅の瞳を「不吉な瞳」だなんて』 今は誰の者でもない美しい女性たちに支えられて、リナは起きあがり、腫れた頬を押さえる。 『さあ？ どうもあたし、あの人に嫌われてるみたいなんだけど、不吉だ、とか忌まわしい、とか言われても。たしかにテレビに映ろうとするのは冒険だったけど』 『そうだわ』 フィリアは、涙ぐんだ。 『あの日、テレビに映れるように、リナさんをそそのかしたのは私だわ。なのに、リナさんがそのせいで殴られて……ごめんなさい、リナさん。私がリナさんを酷い目にあわせたも同じだわ』 『いいの、フィリア。結局画面は静止映像になっちゃったみたいだけどね。チャンスに賭けてみるのは当然のこと。フィリアには感謝してるわ』 『それにしてもジナティさんよ。……気が進まないけど、ゼロス王に訴えてみましょうか』 『いいわ、フィリア。ゼロスから逃げだそうとしてるのに、そのゼロスを使って……その……ジナティさん？に仕返しする気はないわ』 『リナさん、あなたって本当に……』 『なあに？ フィリア』 フィリアは、リナを抱きしめた。 『私がゼロス王でも、あなたに恋をするでしょうね。手段はともかく、自分のものにしたいと思うでしょうね』 『やあね、女同士で、フィリア』 周りの女性たちが、花が咲くように微笑んだ。 「なんだ、こりゃ……」 ガウリイは、ポケットに入れてきた『大学一年生のためのアラビア語辞典』を繰った。懐中電灯の光で一字ずつたしかめる。 「立ち入り禁止。砂……流れる……危険。流砂のことか？」 鉄条網を、荷物に入れてきたペンチで切りながら、ぼやく。 「何がレスキューだ。ろくに砂も掘ってないじゃないか。こんなんで、リナが見つかるかよ」 大きなスコップを抱えて、危険領域に入る。しばらく手近な砂を掘ってみたが、後から新しい砂が流れてきて、らちがあかなかった。 「砂が流れてくる方へ、登ってみた方がいいのか」 スコップを置き、懐中電灯を腰に固定して、砂の山を登る。なめらかでさらさらした砂漠の砂は、登っても登っても足下から崩れ落ち、なかなか高い場所まで行けない。 「くそっ……」 その時、どっと大量の砂が崩れ落ちた。ガウリイは、とっさに受け身を取り、流れていく砂に身を任せた。 「リナ……俺を守ってくれ」 衝撃があった。目は開かない。身体のどこも、壊れてはいない。ただ、目が開かないだけ……。 「リ……ナ……」 ガウリイの意識は遠のいていった。 「リーナーさん、ドライブしましょう」 それは、リナがジナティに殴られた２日後のことだった。後宮へいそいそと入ってきたゼロスは、窓辺で浮かない顔をしているリナを見て、怪訝に思った。今まで、嫌がったり抵抗したりと騒がしかったリナが、静かに肯いたからだ。 「リナさん、何か嫌なことでも？ 僕に出来ることなら何でもしますよ」 「いいの」 リナは、顔を上げた。頬に残る痣に、ゼロスは顔色を変えた。 「誰が……誰がそんなことを」 「かまわないで。あんたには関係のないことよ」 「リナさんのことで、」 ゼロスはリナの小さな手を恭しく取る。 「僕に関係ないことなんてありませんよ」 「大丈夫。相手にはその二倍の痣を付けてやったから。あたしとその人の間の話よ」 「リナさん……」 「それより、ドライブに連れていってくれるんでしょう？ あの、あたしが落ちてきた礼拝堂に」 「そうです。仕度して下さい」 「五分で着替えるわ。表に車を出して待っていて」 ゼロスは出ていった。リナがベルを鳴らすと、少女たちがリナの部屋に飛び込んできて、民族衣装を脱がせるのを手伝った。 「今日は砂漠を横切ります。飛ばしますよ。しっかりシートベルトを締めて」 ４ＷＤは砂の大地をかけた。タイヤは細かな砂をしっかりと捕らえ、ハンドルの微妙な動きに答えた。ところどころに立っている指標だけを頼りに、あっという間に車は岩の礼拝堂に着いた。ブレーキを踏むと、砂が舞い上がって視界をさえぎった。 リナは助手席から飛び降りると、作業用ブーツで砂地を踏み、礼拝堂に入っていった。半ば埋まったそこで、リナは小さなスコップを持ち、熱心に砂をかき分け始めた。 後ろでは、ゼロスが作業に没頭するリナを見守っている。 「何を、掘っているのですか？」 「石よ。この上の空洞の、壁だった石。古代文字と、近代文字が、並んで記された……」 「なるほど。この国のロゼッタ・ストーンというわけですね」 「ねえ、ゼロス。もし、その石の一部でも発掘できたら……あたしの大学にそれを送ってもいい？」 「……」 「匿名でもいい。この国から発送したことも分からないようにしていい。この発見を、教授に……みんなに届けたいの」 「分かりました」 「本当にいいの！？」 「貴女がそこまで情熱を傾けるものならば。いったん別の国を通せば、送られてきた荷物の差し出し人を調べることは、ほぼ不可能になるでしょう。いいですよ。そんな表情の貴女を見ては断れませんよ」 「ありがとう……ゼロス」 「病院を出て以来、初めて聞いた気がしますね」 「何を？」 「貴女のお礼の言葉を」 ゼロスは作業をするリナを後ろからそっと抱きしめた。リナの手が止まる。優しく頬をかすめる唇。リナは、振り向いてその唇と、自分の唇を重ねた。 「リナさん」 「……勘違いしないでね。これは、お礼よ。さーて、あの石を発掘しなきゃ、今のキスは無駄になっちゃう。気合い入れて掘るか」 「僕も手伝いましょうか？」 「そんなちゃらちゃらとアクセサリーの着いた衣装じゃ、かえって邪魔よ。そこで見ていて」 しばらく、無言の作業が続いた。そして、リナの手が止まる。 「見つけた……！」 てのひらで、石壁のかけらの砂を払う。 「これよ。これだわ」 リナは、そっとその石を引っぱり出した。 「おめでとうございます、リナさん。……リナさん、危ない！」 今の欠片を取り出したことで、バランスが崩れたのか、壊れた礼拝堂の天井から、さらなる砂がどっと落ちてくる。ゼロスは、咄嗟にリナを横抱きにして、礼拝堂の入り口まで下がった。そして、二人は目を見開く。 砂にまみれた金髪。リナと同じ作業着。背の高い、体格のいい男が、砂と一緒に転がり落ちてきた。ゼロスの腕の中で、リナが小さくつぶやく。 「ガウリイ……！」 ガウリイが意識を取り戻したのは、どうやら車の中らしかった。静かに、時に荒々しく響くエンジン音。誰かが会話している。知らない男と……リナ。間違えようのない、可愛らしい甘い声。 「リナ……」 からからの唇でつぶやくと、リナの声が振ってきた。 「すぐに、病院に着くから。しばらく寝てなさい」 一緒に聞こえる、高く上品な男の声。 「お知り合いですか？」 「……大切な、友だちよ」 （違う） 声を出そうとして、声にならない。 （リナは……俺の） 体中の痛みさえ、どうでもいいくらいに、もどかしい。リナは俺の…… （恋人だ） エンジン音に身を委ねていると、やがて白く明るい光がまぶたを通して射し込んできた。 『……、……？』 アラビア語だ、ということは分かる。けれども、何を聞かれているのか分からない。 『……、……。』 今度はリナの声。 「ガウリイ、あたしが通訳するわ。どこか痛むところはない？」 「リナ。本物の、リナなんだな」 ガウリイは手をのばして、リナを抱きしめた。 「リナ……！ 俺は、お前を探して、探して……何度もお前の夢を見た。でも、今は全身が痛い。だからこれは夢じゃない。俺は本物のリナを抱きしめてるんだな……！」 「ガウリイ、全身が痛むのね？ 分かったから、放して」 「放さない」 さっき車の中で聞いた、上品な男の声が割り込んだ。 「───失礼ですが、あなたはリナさんの何なんですか？」 「恋人です」 「ガウリイ……」 医者が近づいてきた。 「全身を、スキャンします」 ガウリイの載せられたストレッチャーは、病院の奥へと運ばれていった。 「彼は、貴女のことを恋人だ、と言っていましたが」 「あいつ、混乱してるのよ。あたしとあいつは仲が良かったけど、恋人なんかじゃなかった。……でも、あいつ、来てくれたんだ」 「リナさん」 「来てくれ……たんだ。もうこんなに時間も経って、みんなあたしが死んだと思ってるだろう、と覚悟してたのに、来てくれた」 リナの瞳から、大粒の涙が落ちた。 「リナさん、僕が彼の立場でも、やっぱり諦めませんよ。助けに来ます」 そう言いながら、ゼロスは空しさを感じていた。そして、ガウリイは薄らいだ意識の中できっぱりと言ったのだ。 （恋人です、か……） ゼロスは泣いているリナを後ろからそっと抱きしめて、あやすように髪を撫でながら、考えた。 （とんでもないところから、ライバルの出現ですね） ジナティの憎悪は、彼をどこへ運んでいくのでしょうか。そして、やっとガウリイがリナのもとへたどり着きます。彼の苦労の結末は。文中のカッコは、「」がゼフィーリア語、『』がアラビア語となっています。 冒頭の、鳥の声を聞く女官たち、というのは、谷崎潤一郎の「春琴抄」のラストシーンのイメージです。いや、唐突に書いてしまいましたが、谷崎好きなんです。それだけです。 
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