熱砂の薔薇[５]







　小さな少女たちが、リナの夜着を脱がせ、メタリオム・アラブ王国の民族衣装を着せる。髪を梳かれ、いい香りの水を吹きかけられる。膝の裏とくるぶしに、不思議な香りの油を塗りつけられる。身仕舞いが終わる頃、朝食が運ばれてくる。そんな日々が、もう一週間も続いている。ゼロスは、後宮に姿を見せない。結局それまでの座を追われることのなかったフィリアが、話し相手になってくれる。
『それじゃ、あれ以来ゼロスはあなたに触れてもいないのね』
『ええ。もしかしたら、あたしに嫌気が差したのかも』
『ありえないわ』
　フィリアはきっぱりと言い切った。
『それならそれで、あなたを国に帰すなり、なんなりしてくるのがあの王だと思うの。きっと、あなたが精神的に参ってしまうのを待っているのね。私も、何かリナさんにしてあげたい。でも……』
『いいの、フィリア』
　リナは儚く微笑んだ。
『あの夜……逃げられるかもしれないと思ったあの夜。あたしは本当に嬉しかったわ。あって間もないフィリアがあんなにあたしのために命まで賭けてくれて。あたしは、ゼフィーリアに帰ることを諦めたわけじゃない。「精神的に参って」なんかやるものですか』
　フィリアはため息をついて、そっと微笑んだ。
『強いのね、リナさんは』
『開き直ってるだけかもね』
『じゃあ、私はこの辺で。政府高官へお嫁に行くことになった、後宮の女の子のお世話をしなくちゃならないから』
　ドアのところで振り返る。
『負けないでね』
『もちろんよ』

　リナは、一人になると歌を歌った。ゼフィーリアの流行歌を。窓から見える、眩しいほどに蒼い大空が、そのままゼフィーリアにつながっていることを忘れないように。大きな声を出して歌っていると、拍手が聞こえてきた。ゼロスが、ドアの内側に立って、リナを見つめていた。リナは、みるみる赤くなる。
「聞いて……たの？」
「はい。いいものを聴かせていただきました」
「一週間ぶりね。とっくにあたしに愛想が尽きたものだと思ってたわ」
「あなたに愛想が尽きる、ということはあり得ません。ご安心を」
「よけい不安なのよ！」
「貴女の歌声は美しいですね。今夜、晩餐の席で歌っていただけませんか？」
「あたし、この国の歌なんか知らないわ」
「もちろん、さっき貴女が歌っていたような、ゼフィーリアの歌でいいんですよ」
「あれは流行歌よ？　王のあんたに聴かせるような歌じゃないわ」
「僕がいい、といえば、いいに決まってるんです、この国では」
　ゼロスはリナに近づいて、そっと頬に口づけした。
「晩餐までに、歌姫にふさわしい格好を用意させます」

「どこが『歌姫』よ！？　あたしは『アラジン』のジャスミンか？」
リナがゼフィーリア語で文句を言うと、少女たちはびくっと怯えた。
『あ……ごめんなさい。あなたたちを叱っているわけではないの。ただ、あまり……その、露出度の高い衣装だから。ねえ、他の服はないの？』
　少女たちは、首を振る。そして、リナにヴェールを差し出す。
「身体はこれだけ露出しておいて、顔は隠すのね」
　リナはため息をついた。少女たちはリナがヴェールをつけるのに戸惑っているのを見て、手伝った。砂漠の湖に、夕陽が近づいていく。晩餐の時間だった。
　丁寧なノックの音。
「リナさん、迎えに来ましたよ」
　ゼロスが入ってくる。
「思った通りです。よく似合いますね」
「……ったくもう。あんたの趣味って、性格に負けず劣らずの変態ね」
「こちらへ。晩餐会までご案内します」
　指の長い、優美な手をリナにさしのべる。
（ああ、この手……）
　リナは小さな手を差し出した。
（この手が、あたしは好きなのかもしれない）
　手をつないだまま、リナは迷路のような王宮の中を、その中心へと連れられていった。

「ねえ、ゼロス！」
　小声でリナが問う。
「晩餐会って、これまるでパーティーじゃない。あたし、歌えないわ。ほんとうに。恥ずかしいもの」
「あなたが一人で部屋の中で歌っていたように。実際、客には聞こえなくていいんです」
　ゼロスは人差し指で唇を押さえる。
「僕の為だけに歌って欲しいんです」
「……ま、いいけど。ずいぶんと身なりのいい客ばかりじゃない」
「ああ、それはそうです。閣僚懇談の後の晩餐ですから。あちらに座っているのが外務大臣、あれは財務大臣、あの人は……」
「ああもう、分かった分かった。あの一番豪華な席があんたのでしょ」
「分かりますか」
「その横に、ちんまりと置いてある椅子は……」
「当然、貴女の席です」
「女がこんな席に同席していいの？」
「いいんです。僕がそう決めたのだから」
　リナは、ゼロスの席のもう一方の隣に、やはり豪奢な椅子を見出して、首を傾げた。
「あれは、誰の席？　まさか、あんたのお后？」
「いいえ、あれは僕の教育係のジナティさんの席です」
「ふうん……教育係、か。その人の努力も徒労に終わったようね」
「ひ、酷いですリナさん……」
　やがて食事が運ばれてきた。語らいあっていた大臣たちも、席に着いた。その時、リナはきつい視線を感じた。ゼロスをはさんだ向こうから、さっき名前を聞いたジナティという中年の男がじっとリナを見ている。瞳をのぞき込まれるように睨まれて、リナは無理に笑顔を作って、会釈した。ジナティはふいと顔を背けた。何か汚らわしいものを見てしまったような表情で。
（あたし、嫌われてるのかな）
　リナは、それ以上ジナティと目を合わせないように、前を向いた。
　食事は粛々と進んだ。リナは、大学の蔵書で一応のアラブ諸国のマナーは学んできているが、何が失礼になるか分からない。ひやひやしながらフォークを動かしていると、ゼロスからゼフィーリア語で声がかかった。
「いいんですよ、緊張しなくても。貴女の作法は完璧です」
「ほんと？　それならいいんだけど」
「ゼフィーリア語ですね」
外務大臣と紹介された男から声がかかった。
「私も、話せます。少しなら」
「勉強熱心でいらっしゃるんですね」
「いいえ。リナ殿のアラビア語の方がよほど闊達だ。どこで勉強なさったんですか」
「大学で」
「おお、私も大学でゼフィーリア語を学びましたが、とても貴女のようにはいかない。貴女はきっと優秀な学生なのでしょう。王が気に入られるのも分かります」
　ギターに似ているようで、ずっと哀愁に満ちた音色を響かせるウード。宮廷音楽家たちがメタリオム・アラブ王国の古い歌を演奏し続ける。一通り食事が終わると、ゼロスはぽんぽん、と手を叩いた。
『今日、僕の側にいてくれた歌姫、リナ＝インバース嬢の歌声を、皆さん聴いてみたくはないですか』
　王の言うことだ。皆静まり返る。
「さ、リナさん」
　引っ込みのつかなくなったリナは立ち上がった。
『あの……あたしの故郷の歌です。皆さんのお気に召すかどうか分かりませんが、精一杯歌います。どうぞ下手でもお見逃しを……』
　外務大臣が率先して手を叩くと、拍手の音が拡がった。リナは、すうと一息吸い込んで、歌い始めた。


傷つき　心が怖さを覚えてく 切なき　心が何かにもたれてく
強さは　全てを包み込んだ砦…

皆、真剣な顔でリナの歌に聴き入っている。
（ゼロスのうそつき。あんたにだけ、聞こえるように歌えばよかったんじゃないの？）


闇よ……雨よ　今、教えて
月よ……風よ　今、答えて
遠く……遠く　遙か遠く 旅の……果てに　何があるの

　最初のフレーズを歌い終わると、ウード奏者がゆっくりと伴奏を付けてくれる。リナは、出来る限り声を大きくした。


鳥よ……雲よ　今、教えて
波よ……影よ　今、答えて

　リナが歌い終わると、テーブルについた客たちから、温かい拍手が湧いた。
「リナさん、ご挨拶を」
　満足そうにゼロスが言う。
『皆さん……拙い歌で宴席を白けさせたのではないかと恐縮です。伴奏を付けてくれた方、心より感謝します。では、皆様、よい夜をお過ごし下さい』
　リナは、しとやかに会釈して、席に着いた。
「こんなもんでよかった？」
「リナさん、あなたは最高ですよ」
　ゼロスはリナの肩に手を置いて立ち上がった。
『皆さん。僕の妃にしたいと思う女性の歌声はいかがでしたか』
　会場がざわめく。外務大臣が、いち早く立ち上がり、王の手に祝福の口づけをした。
『素晴らしいことです。ヴェールに覆われても、その美貌は隠せない。美しく、賢く、おまけに皆の心をとろかす歌まで歌える。素晴らしいフィアンセです』
　堰を切ったように、皆がゼロスとリナのもとへ押し掛ける。
『最高の夜ですな』
『その深紅の瞳。吸い込まれそうです』
『王よ。よきパートナーを選ばれました』
　リナは、しばらく呆然と祝福の言葉を聞いていたが、やっと声を張り上げる。
『待って下さい！　あたしは、ゼロスの妻になる気はありません』
　湧いていた会場は、一転静まり返る。
『あたしは、ゼロスにむりやり後宮に入れられたんです。拉致されているんです。妻になるなんて、とんでもないことです』
　外務大臣がゼロスを見る。
『王よ。彼女が言っていることは確かなのですか？』
『ええ。今のところはね。彼女は僕の妃になることを承諾したわけではありません』
　再び、会場はざわめく。
『でも、必ず彼女を振り向かせてみせる。近い内に』
『はっはっは』
　外務大臣が笑った。
『いや、失礼だが、じつに面白い。今まで女を寄せ付けなかった国王が、今やたった一人の女性に恋して、しかもその女性に拒まれているとは。どうです、皆さん、賭けませんか。我らの王がみごとこの女性の心を射止めることができるかどうか……』
『悪いけどね、大臣さん！』
　リナは腕組みしていった。
『この、強引で、やらしくて、腹黒い王様の妃になんて、ぜーったいなりませんから！　ゼロスに賭けるだけ損をしますよ！』
『これはこれは。いっそう賭けが面白くなると言うものです』
　楽しげな声の響く会場で、ただジナティだけが、じっとリナを見つめていた。

　それから日にちを空けず、ゼロスはリナのもとへ通った。ただし、フィリアの監視のもとで。
『私がこの後宮を取り仕切っている限り、絶対にリナさんに変なことはさせませんわ』
『やれやれ、嫌われたものですね』
『私に十何丁という銃を突きつけておいて、よくそんな呑気なことが言えますわね……そこ！　近づきすぎです。もっと離れて！』
「リナさん、ドライブに行きませんか。もちろん僕の運転で。前にも言ったでしょう、考古学を学ぶ貴女なら、きっと喜ぶ場所があるって。この国は、旅行者を受け付けていませんから、外国人でこの国の様々な遺跡を見るのは貴女が初めてになるでしょうね」
「変なこと、しない？　車の中だと、二人きりよね」
「しません。我らが神に誓って。僕は、貴女にこの国を少しでも好きになってもらいたいんです」
「それなら……いいわよ」
『リナさん？』
ゼフィーリア語を解さないフィリアが、金の髪を逆立てた。
『あなた、いま、このろくでもない国王の申し出を受けましたね？』
『あ、分かる？　神に誓って、あたしに変なことはしないと言うし。あたしも、この国の遺跡に興味はあるし』
『まあ、神に誓うのなら、いいでしょう。なにしろ、ゼロス王はこの国の宗教的君主であらせられるのだから。ね、ゼロス王？』
『その通りです。フィリアさん、勘弁して下さい』
『神に、ね。あなたが神を裏切ったら大変なことになるわ。リナさん、でも気を抜いちゃ駄目よ』
『フィリアさん〜』
　王宮の正面入り口に、４ＷＤが乗り付けられた。リナは助手席によじ登った。足首に付けられた鈴が、音を立てた。
「よかった、すっかり治ったようですね」
「へ？」
「腕ですよ。もう痛みませんか？」
「全然」
　リナはシートベルトを止めて、前を向く。
「さて、どこに連れていってくれるのかしら？」




文中でリナちゃんが歌った歌は、もちろん林原めぐみさんの「Midnight Blue」です。数多い林原さんのリナちゃんソングの中でも、私が特に好きな歌です。文中のカッコは、「」がゼフィーリア語、『』がアラビア語となっています。
映画第一作の主題歌だった「Midnight Blue」。神秘的で、美しくて、林原さんの声が伸びやかで、ほんとに好きな一曲です。






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