熱砂の薔薇[３]







　リナの右腕は順調に回復した。ただ、気がかりなことがあった。毎日自分に食事を食べさせに来るゼロスに、何度問いただしてみても、ゼフィーリアの家族とも大学とも連絡がつかないというのだ。
「失礼かもしれないけど……本当に、電話をかけているの？　中途で連絡がうまくいってなくて、大使館に伝わっていないんじゃなくて？」
「いえ、本当に連絡がつかない。それだけです」
「おかしいわ。大学の新学期はとうに始まっているし、あたしの家は商売をしているから、誰かが必ずいるはずなのに」
　ゼロスは首を振った。
「僕にも、詳しいところは分からないんです。ゼフィーリア大使館のトラブルなのかも知れませんね。基本的に、この国は一般旅行者を受けつけてはいませんし」
「はあ……そうなんだ」
「軍事国家ですからね。石油と鉱物資源でもっている国です。万が一にも、この国に外患を誘致されるようなことがあっては困るんです」
「そんな国が……その王であるあなたが、なぜあたしなんかを歓迎する、なんて言ったの？
あの場で殺されるのはまっぴらだったけど、さっさと国外追放にでもすればいいのに」
　ゼロスは肩をすくめて笑った。
「貴女を、国外追放？」
　そして、リナを見つめる。
「出来ませんよ。こんなに貴女に惹かれてしまった僕には」
「惹かれる……」
「許されるならば、貴女ともっと多くの日々を過ごしたい」
「ゼロス」
「リナさん……」
ゼロスは、テーブル越しにリナのおとがいを持ち上げ、優しいキスをした。
「貴女は、この国にいるのはお嫌ですか？」
「……嫌では、ないわ。でも、あたしは早く母国へ帰らなくてはならないの」
「どうやって？　この国の空港からは、貴女のゼフィーリアへ向かう飛行機など出ていませんよ」
「あたしが発掘作業をしていたダルフィン・アラブ共和国まで送っていただければ、そこからは飛行機で帰れます」
　食後の温かいチャイが運ばれてきた。舌に絡むほど甘いのに、どこかほろ苦いそれを飲みながら、リナは言った。
「ゼロス、あたしに思い入れるのは、止めた方がいいわ。でも、あなたのこと、忘れない。ゼフィーリアに帰っても、優しくて綺麗だったあなたのことは」
　ゼロスは僅かに苦い微笑みを浮かべた。
「僕は、貴女のことを思い出などにしたくないですね」
「だから……」
「右腕の具合はどうですか」
「ええ、もうだいぶ痛みもひいたわ。すっかりお世話になっちゃって……お医者さまと話したけど、あと３日もすれば腕を吊らなくてもいいようになるっておっしゃってた。そしたら退院できるって」
「退院ですか。それでは、退院した後の貴女の部屋を用意しなくてはなりませんね」
「ゼロス、退院できたら、あたしは……」
「故郷へ、ですね。もちろん、それは考えていますよ」
チャイを飲み干して、ゼロスは席を立った。数人の小さな少女たちがてきぱきと食器や机の後かたづけをする。
「貴女が退院したら、とりあえずこの国の美しい場所を回ってみませんか？　考古学を学んだ貴女には興味深い場所もあると思いますよ」
　ゼロスは出ていった。クーラーが止まる。砂漠の夜は、昼と比べものにならないほど冷え込む。


　ある日、リナが少女たちに髪を洗ってもらっていると、病室にゼロスが訪れた。
「おや、おじゃまですか？」
「もう少しで終わるわ。よかったらそこにかけて待ってて」
　水差しから洗面器に注がれる香りの良い湯で、リナの髪は最後のすすぎをされた。少女の一人が、タオルでリナの髪の水気を吸い取り、さらにもう一枚のタオルで髪をくるみこんだ。
『ありがとう、みんな』
　リナが礼を言うと、少女たちは照れたように笑って、病室を駆けだしていった。
「ふう、気持ちよかった。早く自分の手で髪を洗えるようになりたいな」
「なぜです？　貴女付きのあの子たちに洗わせればいいでしょう」
「自分の髪くらい、自分で洗わなきゃ」
「この国のレディは、皆使用人に髪を洗わせます」
「あたしはこの国のレディじゃないもの」
（いずれ、そうなるんです）
　ゼロスは、暗い笑みを浮かべた。リナはそれに気づかなかった。


『ここは痛みますか？』
『いいえ、ぜんぜん』
『ここは』
『痛くないです』
『よろしい。晴れて退院ですね。おめでとうございます』
　宮廷医はあたたかく微笑んだ。
『お世話になりました』
　リナが一礼すると、付き添っていたゼロスもそれに続いた。
『お……王よ。私などに礼をしてはいけません』
『あなたは僕の大切なリナさんを治してくれた。後ほど、褒賞を与えます』
　そしてゼロスはリナを見る。
「さあ、退院です。何かしたいことはありませんか」
「とりあえず、お風呂に入りたいな。ずっと清拭だけだったから」
「お風呂ですね、用意させます。とりあえず、病院を出て、王宮に行きましょう」
　病院の前には、トヨタのランドクルーザーが止まっていた。
「さあ、助手席に乗って下さい」
「運転は、誰が？」
「もちろん僕が。こう見えても、僕は運転が上手いんですよ」
　リナが助手席によじ登るのを、ゼロスは支えた。そして、自分は軽々と運転席に飛び込んだ。
「まだ貴女の傷に障るとよくないから、安全運転で行きますね」
　ひどく丁寧に整備された道路。緑したたる街路樹。走っている車は少ないが、すれ違う車は高級車ばかりだ。
「ゼロス……あなたは国王なんだから、お付きの人に運転させたりはしないの？　それに、このごつい車……」
「ああ、僕は砂漠も走りますからね。これくらいの車でないと。覚えてませんか？　砂漠の礼拝堂から貴女を病院へ運んだのも、この車だったんですよ」
「その時は、ずいぶんお世話に……」
「いいんですよ。もうすぐ王宮です。浴室の用意をさせますから、その間は僕とお茶でも」


「うわあ……」
　午後の陽がさんさんと入る、雪花石膏の浴室。湯に溶かしこまれた香料が、得も言われぬ香りを放っている。広くて、静かだ。リナの感覚で言えば大浴場並みの広さだが、シャワーが一つしかないところを見ると、これは一人用の浴室なのだろう。リナは、シャワーで髪を洗い、まとめると、大きな浴槽に浸かった。
「気持ちいい……」
　すこし熱めの湯が、肌にここちよい。光を浴びて、リナはうっとりと足を伸ばし、癒えた右腕を温めた。
「リナさん」
不意に、ドアの方から声がした。
「な、な、なあに、ゼロス」
「お背中でも流しましょうか。右腕、不自由じゃありませんか？」
「結構よ。一人で入れるから、ゼロスは、外で待ってて……」
　言い終わる前に、Ｔシャツに綿のズボン姿のゼロスが浴室に入ってきた。
「きゃあぁ！」
　リナはあわてて湯に沈む。
「バスタオルをもってきました。これにくるまって下さい」
「い、いいから！　結構ですから！　出ていって」
「貴女が心配なんです」
　真剣なゼロスの声に、リナはぶつぶつ言っていたが、バスタオルを身体に巻き付けた。
「髪は洗えたようですね」
「ええ、おかげさまで」
「髪も、僕が洗ってあげたかったのですが。貴女の髪は、柔らかくて美しい」
　ゼロスは、ボディシャンプーをスポンジにとって、泡立てた。右腕を、そっと、大切なものでも持つかのように洗う。そして、左腕。
「すこし、バスタオルを外して下さい。背中を洗います」
「あの……いえ……結構……きゃっ！」
　バスタオルを器用に外されて、リナは必死で胸をタオルで隠す。ゼロスは、何も気にしていないように、リナの背中を擦った。
「気持ちいいですか？」
「気持ちはいいけど、もう……」
「次は前ですね」
　ただでさえ湯に浸かって赤くなっていたリナの顔は、林檎のように真っ赤に染まった。
「前は、自分で洗えるから」
「遠慮なさらずに」
　ゼロスは、リナが力一杯押さえているバスタオルを、軽く引っ張る。
「嫌、嫌、いいいやぁぁぁ！！」
　ぱこーん。音の響く浴室内に、いい音がこだました。
「あう……リナさん、酷い」
「ひどいのはどっちよ！　乙女の柔肌見ようだなんて、いくら王様でも許されないわ！」
　ゼロスを殴った洗面器を握りしめたまま、リナは、耳まで紅くして怒鳴った。
「とにかく、出ていって！　背中を流してくれて、どうもありがとうね！」
　すごすごと出ていくゼロスの姿を見て、リナは大きなため息をついた。
「王様のくせに、暇なのかしら、あいつは」

　リナが湯から上がると、数人の少女が更衣室に入ってきて、リナの着替えを手伝った。今まで着ていた白いパジャマは片づけられ、薄紅色の、足首までの細身のドレスという民族衣装をまとわされた。
（わ、感激。いままで資料でしか見たことなかったのに）
　椅子にかけさせられ、ドライヤーで髪を乾かされる。リナのフワフワの髪が乾くと、薔薇の香りの水を霧吹きされ、櫛で梳かれた。全てが終わると、ゼロスが入ってきた。
「良かった。貴女に似合うだろうと思ってそれを用意したのですが、見事に似合っていますね」
「ありがとう。あたし、一度これ着てみたかったの」
「退院のお祝いに、それは差し上げます。それから、これ」
ゼロスは、小さな金属の輪を取り出した。動かすと、しゃらん…といい音がする。
「ブレスレット？」
「いいえ、アンクレットです。右足を出して下さい」
言われるままに、リナが足を差し出すと、ゼロスはリナの前にひざまずくようにして、その輪を足首にかしゃりと付けた。
「お食事を用意しています。僕と一緒に来て下さい」
　リナが歩くたびに、涼やかな音色が響く。ゼロスは満足そうに微笑んだ。

「今までになく、よく食べましたね」
「やっぱり、食事は自分で食べるのが、気兼ねなくていいから」
「気兼ねなど、する必要はないんですよ。今だって、僕は貴女に食べさせてあげたいくらいです。さて、今日から貴女の住まうところにご案内します。その前に、これを」
「黒い……ヴェール？」
「それを頭に巻き付けて下さい。目だけ出して。この国では、女性はそうすることがしきたりですし……」
　ゼロスはにっこり笑って続けた。
「貴女が素顔で歩いたら、この国の男性は皆貴女の虜になってしまいますよ」
　リナが不器用に慣れないヴェールを巻き付けると、ゼロスは席を立った。
「行きましょう」
　リナの手を取る。
（ああ、この冷たくて、優しい指……）
　リナは、あの祭壇に落ちたとき、頬を撫でてくれた指のことを思い出していた。
「ここですよ。僕はここで失礼します。後の貴女のお世話は、フィリアさんという女性がしてくれる手筈になっています」
　ゼロスは、ヴェールからのぞくリナの瞳を閉じさせ、そっと瞼にキスした。
「新しい住まいが貴女の気に入るといいのですが。おやすみなさい」

　リナがドアを押し開くと、そこは中庭を囲んでいくつものドアを向けるロの字型の建物になっていた。
（アパートみたい。といっても、豪華さでは比べものにならないけど）
　磨き上げられた大理石の柱を撫でていると、
『もうヴェールを外してもよろしくてよ。ここには女しかいないわ』
　優しい声がかかった。
　リナは、ヴェールをほどき、声の主を見た。豊かな金髪、深い海の瞳。優しそうな女性がリナを見つめていた。
『ようこそ。ここでは貴女の暮らしに何一つ不自由がないようにするわ。それが私に与えられた役目だから』
『あ……ありがとう、ございます』
『まあ、敬語なんていらないわ。私たち、お友達になりましょう』
『ええ……』
『貴女の部屋まで案内するわ』
女性が───フィリアが先に立って歩き出した。
『ここよ。湖の見渡せる、一番いい部屋』
　中は広く、上品な調度がしつらえられている。
『朝食は７時半に運ばれてくるわ。お腹が空いたり、何か用事があったら、このベルを鳴らして。世話係の女の子たちがすぐに来るわ』
　フィリアがじっと自分を見つめていることに気づいて、リナは戸惑った。
『なあに？　フィリア』
『ゼロス王が選ぶ女性はどんな人かと思っていたけれど、あなたなら納得だわ。可愛らしくて、その綺麗な髪と紅い瞳……女の私が見ても、ほれぼれするわ」
　リナは真っ赤になる。
『フィリア……フィリアだって、凄く綺麗だわ。あたしなんか、チビだし、胸もないし……』
『小柄で華奢、というのよ。貴女みたいな美少女の場合にはね』
『美少女、という歳じゃないわ。あたしは、２１よ』
『あら。あなた、１５歳と言っても通りそうよ』
『うれしくないわ』
　ふくれてしまったリナを見て、フィリアはくすくすと笑った。
『あなたって本当に可愛いわ。ゼロスがここに置きたくなったのは、そのふくれっ面を見て、かもしれないわ』
『ここに、置く？　ここは、客用の部屋じゃないの？』
『何を言っているの。ここは国王の後宮よ。そして、その足首の鈴は、国王の一番の寵妃である証。あなたは選ばれたのよ。ゼロス王の最も位の高い愛人に』
『何を、何を言ってるの？　フィリア』
『とりあえず、今日はおやすみなさい。明日もまた、おしゃべりしましょう』
『待って、フィリ……』
　フィリアは、ドアを閉ざして出ていった。リナは、慌てて後を追う。
『フィリア！』
　ドアを押すが、固く鍵がかかっていた。頑丈な金属製のドアを、リナは叩く。
『後宮って、愛人って、どういうことよ。誰か来て！　説明して！』
　分厚いドアと壁は、リナの声を吸い込んでしまったようだった。
「……そうだ」
　リナは、世話係の少女を呼ぶ鈴を鳴らした。これで、ドアは開くはず。
　しかし、開いたのは部屋の中の、クロゼットか何かだと思っていた扉だった。
『ご用ですか？　リナ様』
『フィリアを呼んで。それから、あたしをここから出して』
　少女は困ったように微笑んだ。
『フィリア様はもうお休みになられています。それから、リナ様をこの部屋から出したら、私たち世話係の子供全員の責任になり、しかるべき罰を受けることになります。どうぞ、あきらめていただけませんか？』
『……分かった。分かったから。悪いけど、冷たい水を一杯ちょうだい』
『かしこまりました。すぐに』
　少女は、細いドアの向こうに消えた。鍵をかける音がした。やがて、氷を浮かべた冷たい水が運ばれてきた。
『リナ様、どうぞ』
『悪かったわね。もういいわ。あたしも今日は寝る』
『おやすみなさいませ』
　水を飲みながら、リナはつぶやいた。
「愛人だなんて、まっぴらよ。何としてでもここから抜け出さなくちゃ」




というわけで、とんでもねえ国王に、閉じ込められてしまったリナちゃんです。ゼロス王は一筋縄ではいかない人ですが、もちろんリナちゃんもおとなしく捕まってはいない女の子です。文中のカッコは、「」がゼフィーリア語、『』がアラビア語となっています。
私は、フィリアを「リナちゃんよりちょっと大人の女性」として書くことが多いです。前王の后、ハレムのお局様なフィリアさんはお気に入りです。






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