なぜに君は帰らない…4
ある日、上質の背広を着た紳士が、病院のロビーで僕に話しかけてきた。 「リナ=インバース先生はいらっしゃいますか?」 「ああ、インバースなら今日は待機ですので呼んできます」 「いえ、こちらから出向かせていただきます。できれば、二人きりになれる場所がいいのですが」 「二人きり……?」 「よろしくお願いします」 男は悪びれもせず言った。僕は応接室に彼を案内し、リナさんを呼びに宿直室へ行った。 リナさんは眠っていた。眠っていると、彼女は本当に幼く見える。枕を抱くようにしてしっかりとかかえ、黒いセーターの胸は薄く膨らみ、呼吸にそって優しく動く。起こそうとして指を伸ばしかけると、その頬につっと涙が伝った。 「姉ちゃん……」 彼女は確かにそう言った。 彼女と男が応接室にいる間、僕はドアの外で何をするでもなく待っていた。ジュイブルックとあんなことをした彼女だし……気になったのだ。やがてドアが開き、男が出てきた。彼は、僕に丁寧に頭を下げ、去っていった。物腰の柔らかな人なのに、何か不安を掻き立てるところのある男だった。つづけて、リナさんが出てきた。ドアのまん前に立っていた僕にぶつかって、リナさんの白衣のポケットから封筒が落ちた。 「あ……」 僕はその中から散らばったものを見て愕然とした。床に扇状に広がったのは、500万をくだらない紙幣だった。 「何だかあんたはいつもあたしに付きまとってるわよね」 平然と札束を封筒に戻しながらリナさんはからかうようにつぶやいた。 「その……お金は」 「もらったの。今の男から」 「何のお金ですか」 リナさんが僕を見上げる。 「治療費、よ」 「彼の?」 「彼は秘書。この間まで、マフィアのボスが入院してたでしょ。あたしが手術を担当した。そのお礼だって」 「治療費は病院に支払われたはずです。貴女個人がこんな大金を受け取っていいはずがない」 「さてと、どこにばらまくかな。今度は放射線科あたりに」 「ばらまく?」 「いずれ、外科部長になるための足固めにね」 僕は、冷や汗が出てくるのを感じた。 「なんてことを……」 「今のままじゃ、あたしがどんなに優れた外科医であっても、部長の椅子は遠いわ。遠いのなら、近づけてみせる」 そして、深紅の瞳の中に僕が映る。 「おもしろく、ない? 外科部長に、そしていずれは院長になる自分にとって邪魔? なら報告すればいいわ。あんたのお母様に。ママ、こーんな悪いヤツがいますぅ、ってね。この最低病院を取り仕切る、最低なお母様に」 笑いながら、彼女は廊下の向こうへ消えて行った。僕は、こぶしを握り締めるしかなかった。 「母様」 「なにかしら?」 珍しく、夜に二人とも家にいられる日。僕は母に尋ねてみた。 「リナ=インバースさんは、メタリオム病院で何かあったんですか?」 「何か……ね。いまでも忘れられないわ」 母は、ブランデーグラスを揺らして遠い目をした。 「昔、私には親友がいたの。ルナ=インバース。優れた……本当に優れた外科医だった」 ルナ。リナさんとあまりに似すぎたその名前は…… 「リナさんのお姉さんですね」 「そうよ。彼女がうちの病院をやめたとき、リナさんはまだ医学部一年生だったわ」 「僕もお相伴していいですか」 「どうぞ」 ブランデーをグラスに注ぐ。馥郁たる香りが立ち上がる。 「あまり酔わないでね。医者ってのは、いつ呼び出されるか分かったものじゃないんだから」 「分かってます」 月の光は、いつでも彼女を思い出させる。初めて彼女に出会ったときの、妖精のような儚い彼女を。 「で? リナさんについて何が聞きたいの? 昔、検査技師のガウリイさんと婚約していたことはもう知ってると思ったけど」 「ええ、それは知っています」 僕は苦笑しながら答える。 「そうじゃなくて……何と言うか、彼女はメタリオム病院を憎んでいるように感じたから」 「──かも、知れないわね」 母の金髪が、暗くした部屋の中で淡く輝く。 「ルナが起こした事件のことは知ってるわね?」 「ええ。確か、大きな手術に耐えられない子供に、ペースメーカーを埋め込んだ。患者が死んでしまうことを承知の上で手術を強行した」 「そうよ」 母は思い出に寂しげな表情を見せる。 「でも、ルナは名誉欲のためにそんなことをする医者ではなかった。あたくしには最後まで話してくれなかったけど、絶対に患者だった女の子のためにしたことだと、あたくしは信じてるわ」 「ええ、そうなんでしょうね」 母は一口ブランデーを飲み込む。 「でも、リナさんはこの病院を、このあたくしを恨んでいる。ルナが、赴任した先の無医村で内戦に巻き込まれて死んでしまったこと」 僕は息を呑む。 「そのことを、あたくしのせいだと、この病院のせいだと思っている。そして、この病院を支配することによって、その復讐を果たそうとしている」 そしてまた一口。 「分からないままなの。なぜ、ルナのことがマスコミにリークされたのか……まあ、あたくしは一つの確信を持ってはいるけれど」 「確信?」 「ジュイブルック先生」 「彼が──」 「ルナのもとで、ルナを超えられずにもがいていた彼。年下の、しかも女性に従うのは、彼のような男性には苦々しかったでしょうね。たぶん」 「なら、なぜ今も彼を雇用して」 「証拠が無いわ」 母は額に手を当てた。 「それに、もちろん彼は優れた外科医なのよ。よそに渡すのには惜しいくらいにはね」 僕は、ためらってから言った。 「母様、リナさんは……」 「知ってるわ、あの子のしていることくらい」 母は弱々しく微笑んだ。 「いつか、分かってくれると思ってる。あの子はルナの妹ですもの」 生体肝移植手術の話が舞い込んできたのは、冬も深まった頃だった。外科はその話でもちきりになった。 「誰がメインを張るんでしょうね」 アメリアさんが瞳をきらめかせる。 「立場で言えばジュイブルック先生。腕ならリナ先生。でも、将来的な地位で言えば、ゼロス先生? うーん、どう来るかなあ」 「賭けます?」 シルフィールさんが、普段の慎ましやかな態度には似合わないことを言い出す。 「勘弁してくださいよ」 僕は頭を掻きかき言う。 「何にせよ、外科全員が駆り出されるのは必至なんですから。看護師さんたちも覚悟して置いてくださいよ」 その週の報告会で、母がホワイトボードの前に立った。 「生体肝移植のメインをつとめていただくのは、インバース先生」 ひそやかなため息があちこちで漏れる。 「ゼロスと、ジュイブルック先生がリレー手術のそれぞれのパートの担当を勤めていただきます。フィリア先生はゼロスの補佐を」 「納得がいきませんな」 不機嫌そうに身体を揺すって、ジュイブルックが立ち上がった。 「勤続年数から言っても、経験から言っても、メインは私ではないでしょうか」 母は動じない。 「今回の手術は、メタリオム病院の面子がかかっています。実力から、判断しました」 「実力、ね……」 「ジュイブルック先生、どうか着席を」 母に促され、彼はしぶしぶ座る。 「手術は一週間後です。あらゆる資料に目を通して、準備を進めてください。看護師の皆さんも、よろしくお願いします」 手術が明日に迫った。外科病棟はどこか落ち着かなく、騒がしかった。こんな時でも、他の患者さんの変調を見逃してはいけないと、僕は気を引き締めていた。同じ過ちを二度繰り返したくない。 三階の患者さんを診終わって、四階に上がろうとしたときだった。踊り場に、白衣を着た小さな身体が落ちてきた。僕はとっさに受け止めた。リナさんだった。階段の上に、走り去る気配があった。 「大丈夫ですか?」 リナさんは、しばらく肩を回したり、足を曲げ伸ばししていたが、「どうもないようね」とぶっきらぼうに言った。 「誰かに、突き落とされたんじゃ」 「そうよ」 「まさか」 「ジュイブルックしかいないでしょ。あたしも靴紐を直してるときだったから、はっきり顔を見てはいないけど」 「生体肝移植手術は明日なのに」 「自分がメインを張りたいんじゃないの? あたしがつき指でもすれば、その座はあいつに回るだろうから」 「卑怯な……」 僕はリナさんを立たせると、母の元へ向かおうと、階段を下りようとした。 「ちょっと。どこへ行くの」 「母……院長のところです。あんな奴を明日の手術に参加させるわけには行かない」 「とち狂ったの?」 僕はリナさんを見た。彼女は微笑んでいた。 「明日の手術はマラソン手術。10時間はかかるわ。ジュイブルックの力だって必要よ。第一、証拠がないでしょう。どうやってあいつをとっちめるのよ」 「リナさんは……自分を突き落とした男を許せるんですか」 「もちろん、許せないわ。でも、あたしにとっては明日の手術の方が大事なの。それだけ」 僕は、心の中で一つの決意をした。そして、リナさんに声をかけた。 「今、外科病棟を診察して回ってるんです。一緒に来てくれませんか」 「あら、あたしでいいの?」 「最高のパートナーです」 リナさんはくすりと笑った。 「パートナー、ね……」 その笑顔が嬉しくて、僕は顔をほころばせたと思う。 とんでもない女だけれど
ひとりぼっちよりましだよ
「只今より、先天性胆道閉塞症のための生体肝移植手術を始めます。ドナーから肝臓の一部を切開して取り出すまでを第一段階とし、ここはあたし──リナ=インバースがやります。第二段階は……」 リナさんの甘い、凛とした声が、手術の手順を説明していく。僕たちは真剣にそれを聞く。医師、看護師が3つの班に分かれる。 「第四段階。移植そのものは、再びあたしがやります。以上、質問は」 無言。 「では、早速始めます。待機の班は、出来るだけ休息を取っておいてください」 薄い手術用のマスクがリナさんの小さな顔を覆い隠す。 「メス」 10時間にわたるリレー手術の始まりだった。 「お疲れ様」 暗い廊下。僕が冷たいスポーツドリンクの缶を後ろから彼女の頬に押し当てる。彼女は「ひゃ」と声を上げ、肩をすくめる。 「つめた!」 くすくす笑いながら僕がプルタブを押し込むのを見る。 「どうぞ、お姫様」 「あんたこそ、お疲れ。いい腕だったわ」 「とんでもない。貴女には到底かなわない」 それは本当のことだった。10時間の手術の最初の二時間と最後の三時間を受け持った彼女。そのメス捌きの素晴らしさ、的確な助手への指示。彼女はこの国でも最高の外科医だ。 「美味しい……」 彼女はスポーツドリンクを一度唇から離した。濡れた唇が夜の灯りに光って艶かしい。 「思ったより、疲れてたみたいね」 「当たり前です。何時間手術したと思ってるんですか」 彼女は、僕を見て笑う。その笑顔を見て、胸が痛くなる。 「マスコミが、玄関まで来てますよ。貴女を取材したいんじゃないですか」 「マスコミはね……嫌い。でも、もっと嫌いなものもある」 深紅の瞳が動く。 「あたし、あんたなんて大っ嫌いなのよ」 「知ってます」 「今日の手術をしたのだって、地位と名誉のため。患者さんのためなんかじゃないわ」 「では、なぜポケットにそれを入れてるんですか?」 リナさんはポケットを押さえて顔を赤くする。僕は、その小さな手をのけて、ポケットに自分の手を差し込んだ。星明りに光る──それは繊細なつくりのロザリオだった。 「今から、礼拝堂に行って祈るつもりだったのでしょう? 今日の手術の成功を感謝し、患者さんの回復を祈るために」 リナさんはますます赤くなる。僕は、思わず彼女を抱きしめていた。分かっていた。彼女がどんなに僕や母を憎んでいるか。裏の組織から金を受け取り、それを医局内にばらまいていること。副部長の地位を得るため、望まない男にも進んで抱かれたこと。でも、僕の心は止まらなかった。彼女は、子供の様に笑い、少女の様に泣く、月明かりの妖精。 「一緒に、祈らせてくれませんか?」 腕の中で彼女が小さく肯く。 「きっと、良くなります。ドナーも、レピシエントも」 僕たちは、夜の廊下を礼拝堂へ向かっていった。 生体肝移植のシーンは、元ネタになった『振り返れば奴がいる』にも出てきた重要なシーンです。でも、元ドラマと違って、リナちゃんは少しだけゼロスに心を開きます。 『なぜに君は帰らない』という曲は、ドラマのとき一度聴いただけで猛烈に気に入ったのですが、近所のレンタルショップに行っても見つからず、ネットショップにもない。結局、ヤフーオークションで手に入れました。 あははは、生体肝移植手術のシーンなんか書けませんので、すっ飛ばしました。医療用語にも間違いが多々あると思います。もし医療関係者の方が見ていらっしゃったら、心の中だけで「バカだなあ」と思ってやってください。 |