なぜに君は帰らない…５






　手術明けの報告会で、僕はきっぱりと言った。
「僕は階段から突き落とされたインバース先生を受け止めました。その時、突き落とした人間の顔をはっきりと見ました」
　ハッタリだった。でも、ジュイブルックは見る見る青ざめる。
「ジュイブルック先生、あなたです。あなたは、生体肝移植手術のメインドクターとなるべく、インバース先生に怪我をさせようとした。いえ、あの高さから突き落としたのなら、もっと他の意図があったとしてもおかしくありません」
「な……何を。でたらめだ。証拠は」
　ジュイブルックはよろよろと立ち上がる。
「証拠なんてありません。でも、僕はこの目ではっきりとあなたの顔を見たんです。何なら、警察に行って証言したって構いません」
「それはなんとも──不名誉な話ね」
　母が話に割って入った。
「ジュイブルック先生。ゼロスは、警察の手が入ることも辞さないようだけど、うちの病院としてそれは少し困るの。……そうね。今なら、他の病院への紹介状を書いてあげてもよくてよ」
　最後のほうは小さな声だった。ジュイブルックは真っ赤になる。
「わ、私を貶めるなら、こちらにだって話がある。このインバースと言う生意気な女は……」
「罪状は殺人未遂、ですか。ジュイブルック先生」
　僕が立ち上がって、彼を黙らせた。ジュイブルックはしばらくうなると、
「こんな病院、こちらからお断りだ」
と、乱暴にドアを開けて会議室を出て行った。
「思わぬ事態になりましたけど……それはそれ。インバース先生、生体肝移植の患者のその後の容態の推移を報告してください」
　母はまったく気にしない様子で会議の先を促した。

「感謝なんてしないわよ」
　リナさんは相変わらず挑戦的な瞳で僕にそう言った。
「第一、ジュイブルックに関しては、あのことをネタにこちらの配下につけようと思ってたのに。とんだ計算違いだわ」
　小憎らしい、尖らせた唇。
「正義漢ぶったお坊ちゃまのせいで台無し」
「貴女を傷つけようとした人間を、許しては置けませんから。これは僕の身勝手でしたことです。思惑が違ってしまったのでしたらすみません」
「あんたも、お育ちがいいわりに結構やるわね」
　リナさんは、くるりと僕に背を向けた。僕は、その背中を抱きしめた。
「……っ、こらっ」
「リナさん、好きです」
「……」
　彼女の耳が朱く染まる。
「貴女を、愛しています。貴女を守りたい」
「バカみたい。あたしがあんたを愛するわけ……」
　僕の心は、なぜか澄んだ水のように落ち着いていた。
「そうですね。貴女は僕を愛さなくてもいいんです。僕が貴女を好きなだけなんだから」
　リナさんは黙った。僕は、その花の香りのする身体をしばらく抱いていた。
「……ガウリイとのこと、知ってる？」
　長い沈黙の後、彼女はぽつりとそう聞いた。
「知ってます」
「あたしは、あの優しいガウリイの愛情にも答えられなかった。ジュイブルックにだって身を任せた。誰に愛される価値もない女よ」
「貴女は、宝石です。貴女の瞳と同じに」
「──なぜ、あたしなんかを好きになったの？」
　僕は、それには答えずに、抱きしめる力を強くした。好きになったのは、初めの夜から。濡れた髪を初めて見た時から。


「飲みに、いきません？」
　そう誘ってきたのはフィリア先生だった。珍しいこともあるものだと、僕は快諾した。
「肝移植のときに、補佐していただいたお礼もしてませんでしたからね。僕がおごります」
「いえ、私が……」
　医局でもめていると、アメリアさんが通りかかって僕たちを冷やかした。

「素敵なバーをご存知なんですね」
「女の子同士でよく飲みに来るんです」
　フィリアさんは、唇だけで微笑んだ。その表情は、すぐに固くなった。
「何か、言いたいことがあるみたいですね」
「ええ」
　フィリアさんは、自分の前のキールロワイアルを一口飲んだ。そして言った。
「リナ……先生のことです。ゼロス先生は、彼女を愛していらっしゃいますね」
　僕は少し戸惑いながらも肯いた。
「すみません。この間、報告会の後で一緒にいるところを見てしまったものですから」
　僕がリナさんを無理やり抱きしめたとき。
「先生に彼女は、合わないと思うんです」
　白い手をカウンターの上で重ね合わせて、フィリアさんは言った。
「先生は患者さんのことを誰より尊重なされますよね。でも、リナ先生は……」
「フィリア先生」
　僕は、彼女の唇に指を押し当てた。
「リナさんは、貴女が思っているような女性（ひと）ではありませんよ」
「え……」
「彼女は、尊敬すべき医師です」
「でも、ご覧になったでしょう！　死亡診断をされた患者さんが蘇生したとき、リナ先生は……！」
「あれは、彼女の判断にも一理あったと、思っています」
　フィリアさんは唇を噛んだ。
「でも、このことはご存じないはずだわ。リナさんは神聖な病院内で、ジュイブルック先生と──」
「知ってます」
「知っていて、知っていてなぜ、愛せるの？　リナ先生は、きっとゼロス先生を」
「愛してはくれないでしょうね。それでもいいんです」
「……私の気持ちには気づいていただけませんのね」
　僕ははっとしてフィリアさんを見た。彼女の長い睫毛の先に、涙があった。
「フィリアさん、すみません」
「ずっとずっとあなたを尊敬してきた。好きでした。なのに、先生は無理に、棘のある薔薇を取ろうとなさるのね」
　棘のない、美しい金の薔薇は、「帰ります」と言って、レシートを持って立ち去ってしまった。僕は、追いかけようとして思いとどまった。僕が追いかけるのは、痛い棘のある、深紅の薔薇だけ。


　宿直室で、当直の僕はテレビを見つめてぼんやりとしていた。ソファには、リナさんが横になっている。信頼されている、と取るべきなのか、相手にされていないのか。まぶたを閉じた彼女は、相変わらず幼く見えた。
　──ふと、気になった。いつも果実の色をしていた彼女の唇。どことなく、乾いて白茶けている。単にこの部屋の空気が乾燥しているせいなのか。目の下にも、隈が出来ているように感じた。僕は、彼女の目を覚まさないように、そっと唇に触れた。
　彼女は目を覚ました。そして、気位の高い猫の様に、僕の手をぴしりと振り払った。
「何のつもり？」
　少しかすれた甘い声で彼女は問う。
「外科部長」
　そう呼びかけると、彼女は唇の端を微かに上げた。
「最近、疲れていますか？」
「疲れてるのはいつもだわ。気にしたことなんか無いけど」
「ちょっと失礼しますよ」
　僕は彼女の頬に指を当て、まぶたを少しめくった。血の気が無かった。
「貧血しているようですね。しばらく休暇を取られた方がいい。あと、検査も受けた方が」
「おせっかい」
　彼女は白いまぶたを閉じると、再び僕の前で無防備な眠りについた。
　僕は、彼女が深い眠りに落ちるのを待って、彼女の身体を包んだ毛布の上に手を載せた。
　温かい。
　僕の手の下で安らかに呼吸する、小さな命。彼女がいとしい。たとえ、彼女が清廉潔白な人間ではなくとも。不思議に思う。これまで、僕は母以外、誰も愛してこなかった。寂しいとも思わなかった。彼女に出会うまでは。
　生まれて初めて心を揺さぶられた女性が、僕を憎んでいるなんて。
（でも、こんなに無防備に眠ってくれている、ということは、以前よりも嫌われてはいないということでしょうか？）



いつか負ける日も来る
そんなとき君がいなけりゃ・・・

寂しさから始まった恋
君と僕は似ていた　気づいていないだろうけど



　宿直室のドアが開いた。僕はあわてて彼女の身体から手を離す。検査技師の──彼女の元婚約者の、ガウリイさんが覗き込んでいた。
「リナ、寝てんのか」
「ええ」
「ちょっとあっちの控室に来いよ。ここだとリナを起こしちまうからな。コーヒーくらいご馳走するぜ」
「呼ばれます」
　僕はテレビと天井の明かりのスイッチを切り、宿直室を後にした。

「フィリア先生、振ったんだって？」
「──話が早いですね」
「看護師の噂のネットワークはすごいものがあるよ。で？　お前さんはリナに惚れてるわけだ」
「ええ」
　隠すことなど何もない。
「可愛いだろ、あいつ」
　ガウリイさんは目を細めた。
「ほっとけない。意地っ張りで悪ぶってるくせに、バカみたいにお人よしで照れ屋だったりする。そして、医者として、患者を誰よりも大切に思っている」
「そうですね」
「お前さんと似てるよ」
　僕は目を上げた。ガウリイさんは優しく微笑んでいた。
「リナに振られたときは、目の前が真っ暗になった。自分が手に入れられなくても、他のどんな男にも渡せない、と思ってた」
　僕は冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
「でも、お前になら任せられるかもしれない」
　ガウリイさんの澄んだ蒼の瞳が僕を見た。
「お前は、馬鹿なことにがむしゃらになってるあいつを、救ってやれるか？」
「救う……なんて、出来ないと思います。僕に出来るのは、ただリナさんを好きでいることだけで」
「ん。まあ、よし。合格だ」
　ガウリイさんは、自分のコーヒーカップを僕のカップにぶつけた。
「リナを、大事にしてやってくれ。……リナは、お前さんのことを特別な存在だと思ってるよ」
　乾杯したコーヒーはぬるかった。ガウリイさんは、もう一杯熱いコーヒーを淹れてくれた。
「それから、報告会で、ジュイブルック先生のことを吊るし上げたらしいな。リナを突き飛ばしたって」
「ええ。僕は見てましたから」
「それ、嘘だな」
「なんで……」
　僕は掌に汗を書いて、ガウリイさんを見た。
「俺も見てたんだよ。あの場面を。上の階の階段から。リナを受け止めたお前に、ジュイブルック先生が走り去るのは見えなかったはずだ」
「じゃあ、あなたは見て……」
「許せなかったけど、公にするのはまずいのかと思って、ゼラス院長に内々に打ち明けてた。だのに、お前さんが報告会で大々的に発表だもんな。焦ったぜ」
「ふう。神様は、見てるものですねえ」
「それから、ゼフィーリア内の、主だった病院にかかっている怪電話のこと」
　僕は、額の汗をぬぐう。
「ゼラス院長は、ジュイブルック先生のために紹介状を書いてやったらしいが、彼が傷害事件を起こしたっていう密告の電話が入ってるせいで、未だに就職先が決まらないらしいな」
　ガウリイさんは、片目をつぶって言った。
「粘着質だな。怖い男」


「あれ？　今日はリナ先生は……」
「有休ですよ。人間ドックへ行くって」
「へえ。リナさんが」
　アメリアさんが小首をかしげる。
「珍しいですよね。あの、お酒なんかばりばり飲んじゃうリナ先生が、健康に気を使うなんて。まあ、いいことだと思うんですけど」
「ええ」
　僕は知らずに微笑んでいたらしい。
「ゼロス先生、なんだか嬉しそう」
「あ、そうですか……？」

　一日の診療を終えて、外来の灯りを消す。廊下を歩いていると、外科部長室に、ぼんやりと明かりがともっていた。ノックする。
「どなたかいらっしゃるんですか？　そろそろこちらは閉めますよ」
　返事はない。僕はノブを回した。鍵はかかっていなかった。
　黒いセーターに包まれた小柄な身体。シャーカステンの淡い光に浮かぶ紅茶色の髪。
「リナさんでしたか。どうしてこんな寒い部屋に、一人で」
「このレントゲン写真、どう読む？」
　シャーカステンに架けられた胃のレントゲン写真。骨格からして、女性。そして、くっきりと浮かび上がる──致命的な病巣。
「スキルス……ですね。もう、末期に近い。患者さんのものですか？」
「違うわよ」
　リナさんはいたずらっぽく微笑む。
「ね、誰のだと思う？」
「誰、と言われても」
「──あたしの、よ」
　僕は膝の力が抜けるのを感じた。立っているのもやっとだ。この、胃全体を覆う病巣。進行。助からない──。
「あんたが人間ドックを勧めてくれたおかげで、分かりました。ありがとね」
　シャーカステンからはずした写真を、僕の方へ放る。
「お大事に、って言ってくれないの？」
　何も言えない僕の側を、くすくす笑いながらリナさんは出て行った。


「おねがい、リナちゃん。手術を受けて。うちに入院して」
　母が哀願する。リナさんは皮肉な笑みを崩さない。
「いいんですか？　ゼラス院長。あたしは、今までずっと、この病院を手に入れるために裏で動いてきた。２７歳で外科部長になれたのもそのおかげです。あたしは、貴女を許せない。姉ちゃん──姉をこの病院から追放し、結果的に死に追いやった……そして、そこにいる貴女の息子さんも大っ嫌いです」
　母はバン、と机を叩いた。
「自分の力を過信して悪ぶるのもいい加減にしなさい。確かに貴女は若くして外科部長になったわ。でもそれが、貴女が裏でこそこそやった卑怯な工作のせいだとでも思ってるの？　残念ながらね、リナちゃん。それはあなたの実力だけよ。あたくしが、必要な人材だと思ったから取り立てただけ。貴女はこの病院に本当に必要な人なの。だから、お願い。手術を受けなさい。この病院の設備に、何も不安は無いはずだわ」
　リナさんは、僅かに頬を染めていた。
「設備にはもちろん不満なんてありません。ただ、あたしの身体を任せられる医者がいないだけです」
「そこにいる、ゼロスでは不満？」
　深紅の瞳がちら、と動く。
「不満です」
「ゼロスはだてに医療先進国セイルーンに留学していないわ。それは……今の貴女の癌の進行状況を見ては怖いでしょうけど、この国でも貴女の手術を出来るのはゼロスだけだと思うの。どうかしら」
　リナさんは応接セットのソファから立ち上がり、院長室のドアへ向かった。
「外来の患者さんが待ってます。失礼します」
「いつ血を吐いて倒れるか分からない人間が外来ですって？　お願い、おとなしく入院してちょうだい！」
　母の金の瞳は切実だった。
「このままでは、あたくしはルナに申し訳がたたないの」
「御用がないなら、これで」
「待ちなさい、リナちゃん！」
　院長室のドアは閉まった。
「あの子は……」
　母は疲れた様子で椅子にどっと座り込む。
「ゼロス」
「はい」
「お願い。あの子を説得して。何とかして手術を受けさせて」
「でも、母様」
　僕は拳を握りこんだ。
「僕の腕でも、リナさんのスキルスを手術することは……」
「今のところ、あなたが見た上での成功率は？」
「１０％、あるかないか」
　母は、ブラインド越しに、はるかに広がるゼフィール・シティを見つめた。
「まだあんなに若くて……あんなに綺麗なのに。神様は残酷なことをなさるわ。ルナを奪っていっただけでは飽き足らず、リナちゃんまで奪おうというの」


　真っ暗な礼拝堂に人影がある。僕は、迷わず入っていった。リナさんの手には小さなロザリオ。
「貴女でも、自分のために祈るのですね」
「いいえ。自分のためになんか祈らない」
　リナさんのうつむいた顔に落ちかかる柔らかな髪。
「今日手術した患者さんのために祈っているの」
「そんな身体で手術を……貴女は本当に無茶な人です」
　雲が途切れて、さっと月光が射した。ステンドグラスを通して、光の束がリナさんを照らし出す。血の気の失せた頬。白い唇。光に溶けて消えてしまいそうな、脆く、儚い存在。
　僕はリナさんを力任せに抱きしめた。
「ちょ……っと。何……すんのよ、ばか」
「僕に貴女を守らせてください。貴女は、気がすむまでここで働いたらいい。でも、もしも倒れる日が来たら、僕に全てを預けてください。僕は全力で貴女を助けます」
　リナさんはしばらく僕の腕の中でじっとしていた。
「あたし……」
　その弱々しい声。
「あんたを、信じるわよ。助けてくれるって。裏切ったら、許さない」
「ええ。僕を信じてください」
　僕はリナさんの華奢なおとがいをそっと持ち上げた。唇が重なる。
「──あんたなんて、大っ嫌いなんだから」
　可愛くないところが可愛い、僕のいとしい人。


「リナの奴、痩せたな」
　ガウリイさんが廊下で僕に話しかけてきた。
「なんだっけ、その、ステルス」
「スキルス、です」
「そう、それ。助からないのか」
　ガウリイさんは唇を噛んだ。
「僕が助けます。僕の医師人生にかけても」
「……そう、だな。俺は言ったんだ。お前に、リナを救ってやってくれ、と」
　大きな手が肩に置かれた。
「お前なら、きっとリナを助けられる。頼んだぞ」


　それはそう遠い日ではないと思っていた。でも、その日が来るのを僕は心のどこかで信じていなかった。
　だから、リナさんが外来の患者さんを見ている最中に、大量に吐血して倒れた、と聞いたときも、僕はぴんと来なかった。アメリアさんとシルフィールさんの泣き出しそうな顔を見ても、フィリアさんの真っ青な顔を見ても。
　リナさんは個室に運ばれていた。僕が入ると、リナさんはガウリイさんと話しをしていた。ガウリイさんは、ぼろぼろと涙を零していた。
「ゼロスと二人にして」
　リナさんがそういうと、ガウリイさんは僕を見た。
「助けろよ。絶対に」
　小声で言って、彼は部屋を出て行った。
「ゼロス」
「リナさん。今から僕が貴女を手術します。はっきり言って成功率は」
「０％」
　くすり、とリナさんは笑った。
「僕が貴女を想う気持ちが、それを１０％まで引き上げてくれます。そして、貴女が僕のことを想ってくれるなら……」
「２０％？」
「そうです」
「ずうずうしいやつ」
　リナさんはそっぽを向く。僕は、その顔を無理に引き寄せて、口づけしようとする。
「だめ」
　リナさんは微笑んでいた。
「そういうことは、手術の後にしましょう。あたしもあんたを想うわ。がらじゃないけど。じゃ、手術室で逢いましょう」
　それだけ言うと、リナさんは落ち窪んだ瞳を閉じた。



曖昧な言葉を探っても埃のように積もる時間
今夜も今夜も今夜もうごけない
忘れさせない

僕の視線を吸い込んだ
君が消えて行くのを　許すわけにはいかない



　僕は、自分の人生の中でも最良の手術をしたと思う。胃は全体が病魔に冒されていて、結局全てを摘出するしかなかった。リナさんは今後の人生、食に関しては大変だろう。でも、『今後の人生』。そういうものがあるという素晴らしさ。
　そして、僕は思う。リナさんの『今後の人生』、それは常に僕と共にあるのだ、と。
　汗でぐっしょりになった手術着を着替え、ネクタイを締めていると、アメリアさんが廊下を走ってきた。
「リナさん、意識戻りました！」
「本当ですか。ずいぶん早いですね」
「早く行ってあげてください」
　アメリアさんは小さくウィンクする。
「ゼロス先生が行ってあげることが、何よりの薬です」


「リナさん、いいですか？」
「どうぞ……」
　点滴３本とバイタルサインを示す機器を体中に取り付けられたリナさんは、ベッドの上で、今にも眠ってしまいそうだった。
「なーんか、おなかの中がすっきりしちゃった気分……」
「それはそうです。胃をほとんど取り除きましたから」
「それに痛いわ。すごく」
　僕は苦笑する。
「今までだって、相当痛かったんじゃないですか？」
「まあ、ね。で……」
　リナさんはそっと僕の方へ手を伸ばす。
「リナさん？」
「約束よ。手術のあとには、ご褒美」
　僕はリナさんの上に屈みこんだ。唇が触れ合う。ほんの、僅かな間だけ……。
「眠いな」
「ぐっすり眠ってください。次に目を覚ましたときには、今よりずっと楽になってます」
　僕は、部屋を出て行く前に、もう一度リナさんを振り返った。もう眠ってしまったのだろうか？
「僕は、ずっとずっとリナさんの側にいますよ」


　外は暗い。雨が降っているらしい。僕はレインコートを手に、病院を出ようとしていた。心地よい疲れと、満足感が僕を充たしていた。自動ドアをあけようとしたとき、悲鳴のようなアメリアさんの声を聞いた。
「ゼロス先生！　戻ってください。リナさんが！」

　鞄もレインコートも手に持ったままで、病室に飛び込む。真っ白な、人形のようなリナさんの顔。
「バイタルは！」
「脈拍微弱。呼吸ありません！」
「人工呼吸器を。早く！」
「脈、止まりました！」
「リナさん！」
　僕は夢中でリナさんの毛布を剥いだ。心臓の上に手を当て、強くマッサージする。頼りない肋骨が、掌の下で折れるのを感じる。
「リナさん、リナさん！　僕たちは……ともにこれからの日々を……リナさん！　帰ってきてください！　生きてください！　リナさん！」
　心音装置は何の反応も示さなかった。
「脈が停止してから３分が経過しました」
　僕はひたすらにリナさんの心臓の上を押し続ける。
「５分経過」
　汗だくになった僕の手の上に、綺麗な手が重なった。
「フィリア……さん」
「落ち着いて、ゼロス先生。悲しいけれど……もう、逝ってしまわれました。リナさんがおっしゃっていたこと、忘れてないはずですわ。無理な延命措置は……」
「貴女には僕の気持ちは分からない！」
　びくっと身をすくめたフィリアさんに、僕は謝った。
「そうです、そうでしたね……すみません、逆上していました。人工呼吸器のスイッチを切ってください」
　アメリアさんが辛そうに言う。
「切りたく、ないです」
「もう意識は戻らないでしょう。点滴も抜いて」
　──せめて最期は、安らかに。


　遺体の清拭をするために、看護師が入ってきた。僕は、入れ違いに部屋を出た。もう命をなくしてしまった彼女の身体を、これ以上見ていたくなかった。
　正面玄関に向かう暗い廊下の途中で、遥か彼方に、小さな黒い影を見た。細い身体を優しく包む紅茶色の長い髪。
（こんどこそ、あれは妖精。幻なんですね……）
　僕はその影から目を逸らして、階段を下りていった。



なぜに君は帰らない　僕は走り出せない
なぜに君は帰らない
開いたままの傷からつらい夜が来る



　レインコートをひじに提げたまま、冷たく激しい雨の中を歩き出す。僕は無力だった。彼女を救うことなんてできなかった。
　僕は彼女に教えたかった。長い日々をかけて。僕がどんなに彼女を愛しているかを。僕がどんなに彼女を欲しているかを。
　──貴女は何も知らないまま、遠くへ行ってしまった。
　僕は強い雨に打たれながら、泣いていたのかもしれない。これから僕を襲う、空虚な日々を思って。初めて月の妖精に出会ったときから、ずっと、ずっと夢を見ているような毎日だった。
（大っ嫌い）
　もう一度、あの甘い声でそう言われたかった。
　雨は降り止まない。僕は歩き、歩いて──
　ふっと、背中に灼けるような激しい痛みを感じて立ち止まった。
「……え？」
　一瞬のうちに身体が砂のように崩れ、意識が遠のく。僕は、最後に必死で振り返った。そこには、ひきつったように笑う、ジュイブルックの顔が──







『振り返れば奴がいる』とは、立場を逆にしてみました。でもラストは同じです。またまた、救いのない話を書いてしまってすみません。でも、個人的にはすごく、この小説、気に入っています。可愛くてちょっと悪ぶったリナちゃんが、私は好きなようです。（それ、リナちゃんか？）
最近死にネタが多くて反省気味の羽久ですが、やっぱり今回も死なせてしまいました。ただ、手術のあとのキスで、二人の心は本当に通い合ったのだと思います。