なぜに君は帰らない…３
忙しい一日だった。午後だけで三人の患者さんが亡くなった。僕はそのうちの一人のご臨終に立会い、死亡診断書を作った。霊安室が詰まっていたので、僕の担当だった患者さんはしばらく個室のベッドに寝かされたままになった。ご家族は待合室に移り、僕は別の手術の手伝いに呼ばれた。僕は遺体の処理をフィリア先生に任せ、手術室に走った。 手術が終わると、霊安室も空く頃になる。僕は、個室にとってかえし──ドアの外で息を潜めた。中から、言い合う声が聞こえる。フィリア先生と……リナさんだ。 「救命措置を続けるべきです！ 今からでも、遅くはないわ」 「待ちなさい、フィリア」 僕は立ちすくんでいた。僕が死亡診断書を書いたその遺体……いや、遺体ではない。枕もとの心電図は、非常にまばらに、ゆっくりではあるが、鼓動を、刻んでいた。走り出そうとするフィリアさんの腕を、リナさんが掴んでいる。 「あなたはそれでも医者ですか！ この患者さんは生きているわ。見殺しにするわけには」 「フィリア」 リナさんは凄絶に微笑んだ。そして、患者の横たわるベッドにフィリアさんを押し倒した。 「きゃ！ な、何を……」 「医者なら分かるでしょ、フィリア。どれだけの間、この患者が生命維持装置もつけずに心停止していたか。いまさら僅かに心臓が動いたって、もう駄目なのよ。手も、足も……脳も、死んでしまっているのよ」 「放して！ 死亡診断書を作ったゼロス先生を呼んできます」 「あんな青二才のお坊ちゃまに何が分かるってのよ」 「放して！ 見捨てられない」 リナさんは、フィリアさんを平手で打った。 「これから、この患者さんがどうなると思っているの。体中に管をつけられて、人形の様に生かされる？ ご家族はもう５年もこの病院に釘付けだったのよ。……今、延命措置を完璧にすれば、この人は生きるかもしれない。意識も無く、ただ苦しみの中で。本人の苦しみと、ご家族の苦しみと。ねえ、フィリア」 リナさんはフィリアさんにくちづけするほど顔を寄せる。 「分からないわけじゃないわよね？」 フィリアさんはただ小さく震えている。リナさんは起き上がり、心電図計のスイッチに手を伸ばした。僕は、思わず一歩、部屋の中に歩み入った。 「ゼロス先生！」 フィリアさんが泣き出しそうなほっとした顔をして僕を見る。リナさんは、スイッチに手をかけたまま、挑戦的な瞳でこちらを見る。 「聞いていたのね？」 リナさんの、深紅の瞳。 「どうする？ 主治医のあんたは。この患者さんを、生きながら殺す？ 死の中で生かす？」 僕は床を見つめた。全ては僕にかかっている。時間がじりじりと過ぎていく。 「フィリアさん、人工呼吸器を。早く」 「駄目ね。遅すぎたわ、ゼロス先生」 リナさんの声が皮肉っぽく響く。確かに、さっきまで微かに動いていた心臓は、もう鼓動を鳴らしてはいなかった。呆然とたたずむ僕の前に、リナさんが歩いてきた。僕の胸までしかない小柄な身体が少し背伸びする。 「これが、運命だったのよ。これでよかったと思うわ。フィリアも、あんたも、もっと医の道、ってものを考えた方がいいわよ」 そして、くるりと白衣を翻して出て行く。 「あたしみたいなやくざな医者に説教されてるんじゃ、とてもこの病院は継げないわよ。メタリオムのお坊ちゃま」 入れ違いに看護師たちが入ってきて、死後の処置を始めた。僕は、数時間前に作った死亡診断書を見ながら、激しい無力感に襲われていた。 週に一度、全医師の集う報告会が開かれる。僕はリナさんがその席で先日の僕の失態について何か言うのではないかと思っていたが、彼女はつまらなそうに唇をとがらせて、黙っていた。 報告会の最後に、母が──ゼラス＝メタリオム院長が立ち上がって言った。 「各科の部長に通達します。充床率の向上に伴い、いっそうの各科の組織化が求められています。よって、各科に副部長、というポストを設けたいと思います」 母は眼鏡を少し触る。 「二週間の間に、部長は適切な人材を選び、この会で報告してください。では」 退屈そうな瞳のまま、リナさんがちらりと僕を見た。 ジュイブルック先生が、ビールをあおりながら僕の肩を叩いた。 「ゼロス先生、外科の副部長をよろしくお願いしますよ」 僕は驚いた。 「あの……僕はまだこの病院に赴任してから日も浅いですし。もっとふさわしい先生もいるのでは」 「いやいや」 手酌でビールを注ぎながら、ジュイブルック先生は上機嫌に言う。 「フィリア先生はまあちょっと頼りないですし。あなたしかいないでしょう」 「僕はまだ３０ですよ？」 「歳なんて関係ないですよ」 「リナ先生は……」 「駄目ですよ。あんな生意気な女。副部長なんかにしたらつけあがるに決まっている。第一あの女はまだ２７です」 「でも、実績では」 「副部長になったあかつきには、いい手術どんどん回しますから。実績は作っていってください。なんたって、あなたは」 僕のグラスにビールを注ぎたして、ジュイブルックは酔った目を向けた。 「この病院の跡継ぎなんだから」 副部長の発表がある報告会が近づいていた。僕は気が重かった。明らかに、僕がそのポストにつける理由は一つしかない。──母の息子だからだ。それを恥じる気持ちくらい、僕にだってある。 その日の勤めを終えて、僕は暗い病院を歩いていた。遠い廊下の向こうから、痰の絡んだ喉で咳き込む音が聞こえてくる。その時僕は気づいた。傘を、忘れてきた。当直室に。 急ぎ足で廊下を進む。手術室の前を通ると近道になる。右手に折れて、さらに進む。手術室の使用中ランプが付いていないのに、中から細い灯りが漏れていた。 （つけっぱなし？ 珍しいな） 僕は、戸惑いながら、手術室の引き戸を勢いよく開けた。 手術台の上に、細い、華奢な女性の裸体がある。それに覆いかぶさった、着衣のままの男の身体。薄い水色のシーツの上に広がった、長い紅茶色の髪。ドアの音にうろたえた男が顔を上げた。ジュイブルックだった。 「あ……あの」 僕も、ジュイブルックも固まる。ゆっくり起き上がった花のような女性（ひと）は、相変わらず挑戦的な瞳でこちらを見た。 「邪魔よ、ゼロス」 白い腕をジュイブルックの首に回す。 「続きをしましょう。もう一度、してくれるわね？」 ジュイブルックは慌ててその腕を振り払うと、服を整えた。そして、僕を突き飛ばすようにして手術室を出て行った。薄い胸をさらしたリナさんと、僕だけが手術室の中に取り残される。 「貴女、は──」 僕の声が勝手に裏返る。 「副部長のポストにつくために、彼に身体を」 「何勝手なストーリーを作ってるのよ」 散らばった服をかき集めながら、彼女は気怠げに言った。 「お互い大人の男と女よ？ 楽しんでただけ」 「貴女が彼を嫌っていることくらい知ってます」 「もっと嫌いな男もいるけどね」 石榴の瞳が、じっと僕の目を見た。 「あんたよ。出て行って」 僕は、きびすを返した。悔しさと、嫌悪感と、──傷ついた気持ちと。そう、彼女はいつも僕を傷つける。なのに、なぜ僕は彼女に惹かれ続けなければならないのか。 傘を取って、病院の駐車場に行くと、人影が待っていた。ジュイブルックだ。 「ゼロス先生、誤解があるといけないので言っておきますが、副部長になるのはあなたですよ。あの女じゃない」 僕は目を見開いた。 「だって、あなたは彼女に……」 「あれは『合意の上』です。彼女もそう言ったでしょう」 確かに。僕は肯く。 「馬鹿な女ですよ。あれくらいのことで私が動くと思っている。副部長のポストは、あなたのものです。安心していてください」 ジュイブルックは僕の肩に手を置いて、そして去っていった。僕は、不快なその手の重みを振り払うように車に乗り込んだ。 次の日、病院はいつに無く混んでいた。外来は二時間待ちになっていた。僕は患者をさばくのに夢中になっていた。いつしか真昼を過ぎて、２時になった。まだ患者は引きもきらなかった。 「ちょっと、トイレ休憩」 僕は看護師に言い残して、席を立った。 廊下を歩いていると、中年の女性に呼び止められた。 「あの……循環器科の外来はまだでしょうか」 「何時間くらいお待ちですか？」 「２時間は待ちましたわ。ここは酷い混みようですわね。ちっとも順番が回ってこない」 「もうすぐですよ。では、僕は急いでいるのでこれで……」 「腰が痛いんです」 女性は、僕の袖を引っ張った。 「座って待っているのがつらいんです。どこかで横になれません？」 「皆さん、それぞれにおつらいのに、座って待っていらっしゃるんです。もう少しですから、待ってください」 僕はそっと袖を掴んだ指を離させると、トイレに急いだ。 騒ぎが起きたのは、その３０分後だった。 「揺すらないようにそっと運んで！ 第３手術室空いてるわね！ すぐ着替えてくるわ」 待合室で、きびきびと指示を出しているのはリナさんだった。 「何ですか？ 一体……」 僕が診察室から顔を出して聞くと、リナさんは僕を睨みつけた。 「あんたには関係ないわ」 外来を一旦打ち切り、僕も着替えて第３手術室に駆けつけた。リナさんはもう手術に入っていた。 「動脈の硬化部分を……」 素早いメス捌きで、患部を露出させる。その間にも、患者のバイタルサインはどんどん弱まっていく。さっき僕を呼び止めた中年女性だった。 「脳波、弱まっていきます！」 「心音、停止しました！」 リナさんは僕を見ることさえせず、ひたすらに指を動かしていたが、やがて力なくメスをはなした。患者の腹腔内部は血の海だった。 「腸骨動脈瘤が……大出血を起こして。あっという間だった。何も出来なかった」 手術室の前のベンチで、リナさんは吐き出すように言った。僕は、黙って聞いていた。 「あの患者さんは言ったわ。腰が痛いって、つらいっておかっぱの男の先生に言ったけど、ただ待つように言われたって」 「……」 「腰の痛み。顔面の蒼白。発汗。すべてが体内の出血を示しているサイン。なのに、あんたは全てを見逃した。ただ待つように言った」 リナさんは、僕の前に立ち、僕の襟首を掴んで持ち上げた。 「あたしは、動脈瘤の手術で失敗したことはない。助けたかった。でも、あの状態からではどうしようもなかった」 そして、手を離す。 「最低の医師よ、あんたは……」 何もかもが終わった後で、僕は敗北感にふらつきながら、階段を下りていた。月の光が、階段の天窓から射しこんでいる。その時、小さな嗚咽が聞こえた。僕は周りを見回した。階段の踊り場から、小さなドアがどこかへ繋がっている。そっとドアを開けた。 そこは、ホスピス棟との間にある、礼拝堂だった。薔薇窓を通して射す、澄んだ月光。たたずむのは、黒衣の小さな身体。肩が震えている。少女のような、無心の泣き声をあげて、許しを乞う女。 （違う……！） 僕は彼女に駆け寄りたかった。許しを乞うべきは僕だ。全ての責を負うのは僕だ。彼女は、何も神に謝らなければならないことはしていない。 でも、僕には分かっていた。今の彼女にかけるべき言葉を僕は何一つ持っていないことを。清らかな礼拝堂。祈る聖なる女性。ここに僕の穢れた足を踏み入れるべきではない。 僕は、ドアを閉め、階段を下りた。消えてしまいたかった。 程なく各科の副部長指名の日が来た。外科の副部長はリナさんだった。誰もそれに文句をつける人はいなかった。 タイトル『なぜに君は帰らない』はチャゲ＆飛鳥さんの曲で、『振り返れば奴がいる』のスペシャル版のテーマ曲です。「とんでもない女だけれど 一人ぼっちよりましだよ」の歌詞が、なんとなくリナちゃんを思わせて好きです。「とんでもない女」って。ちなみに、ドラマ本編のテーマ曲は、有名な「YAH YAH YAH」です。 『なぜに君は帰らない』という曲は、ドラマのとき一度聴いただけで猛烈に気に入ったのですが、近所のレンタルショップに行っても見つからず、ネットショップにもない。結局、ヤフーオークションで手に入れました。 
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