なぜに君は帰らない…２






「肝臓の硬変部を切除します。よろしく」
　薄青い手術着に着替えた彼女は、やっぱりとても細く、小さかった。長い髪は、帽子の中にたくし込まれている。
「手術の経験がない、なんて今更言わないわよね？」
「大丈夫ですよ。何のためにセイルーンに留学していたと思っているんですか」
「メス」
　リナさんは露出された皮膚をためらわずに切り開いた。血性の腹水が溢れ出す。リナさんは微かに目を上げて、僕を見た。そして、またメスを握りなおした。

「リナさん」
「何」
　僕と彼女は、並んで手術室前のロッカーで着替えていた。
「素晴らしい技術ですね。感服しました」
「お世辞なんていらないわ」
「いいえ。僕の留学先でも、あれほど素早く的確に患部を摘出できる人はいない」
「まあ、ね……」
　彼女の横顔は、少しもほぐれない。
「あんたも、使えない奴じゃなさそうね。血性の腹水が溢れたとき、ひよっこは大出血と勘違いしてびびるもんだけど、あんたは動じなかった」
　僕は微笑んだ。彼女は、僕の顔を見ないでロッカールームを後にした。


「リナ先生ですか。興味あるんですか？」
「いえ……変な意味じゃなく。すごく技術のある方だと思ったので」
　僕は、目の大きな黒髪の看護師……アメリアさんに話しかけていた。
「リナ＝インバース先生といえば、ここに入ってきたときにちょっとした伝説を作ったんですよ」
「それは、やはり手術で？」
　アメリアさんは、苦笑して手を振る。
「外科的措置の技術は、ずば抜けていましたけど。そういうことじゃなくて……えっと、ジュイブルック先生」
　僕はその名前を思い出した。
「外科部長ですね」
　そして、あの初めての夜に、煙草を買いに云ったまま患者を放置していた医師。
「ジュイブルック先生が、ここに入ってきたリナさんを見て、いきなり胸を掴んだんです」
「胸を！？」
「そして、『姉さんは胸があったけど、お前は貧弱だな』って。周りのお医者さんもさすがに止めたんですけど、『女にはこれくらいしておくのがいいんだ』って」
「──酷い話ですね」
「それだけじゃないです。リナさんのお姉さん、ルナ＝インバース先生は数年前にこの病院を去ったんですけど、そのことを持ち出して。『新聞ダネになるような女医の妹が、役に立つものか』、って」
「……」
「でも、ここからですよ」
　アメリアさんは目を輝かせた。
「リナ先生は、つかつかとジュイブルック先生に歩み寄ると、あのお腹の贅肉をギュッて掴んだんです。そして、『お医者様にしては、ずいぶんと不摂生な身体ですね。それとも、栄養を備蓄していらっしゃるのかしら？』。ジュイブルック先生が真っ赤になると、『男にはこれくらいしておくのがいいのよ』って笑った。はっきりいってあたしたち女性看護師は、ジュイブルック先生のセクハラには嫌気がさしてましたから。心の中で大拍手ですよ。でも……」
　アメリアさんの表情が曇った。
「何か？」
「その後で、女医や看護師がリナさんに、よくぞ言ってくれたってわいわい取り囲んだんですけど、あの人はうるさそうに『別にあんたたちのためにやったんじゃないし。』ってすごく冷たい態度でした。それ以来、なんとなく皆リナ先生には話しかけづらくなって」
　それでもアメリアさんは僕に笑顔を見せた。
「でも、いい人です。そして、綺麗な女性（ひと）です」
「ええ、それに関しては僕も同意します。だって」
「だって？」
「あ、いえ、なんでも」
　あの夜、眠る彼女を月の妖精と見間違えたのだから。


　僕がメタリオム病院に赴任してから一ヶ月が瞬く間に過ぎた。のんびり病院に慣れる間もなく、手術、手術の毎日だった。それでも分かることはいくつかある。リナさんが卓越した手術の腕前を持っていること。彼女があからさまに僕を避けていること。そして──外科部長のジュイブルックが彼女を嫌っていることだ。
　ある夜、僕はジュイブルックに連れ出されて、高級なクラブのもてなしを受けていた。ブランデーは薫り高く、女性たちは品がよかった。
「ゼロス先生、君も女を見る目は養わなくてはいかんよ」
　隣に座った女性の、ストッキングに包まれたすべらかな膝を撫でながら、酔った口調で彼は言った。
「男に尽くすことの出来るいい女。男を立てることを知っている女。そういう女が結局は男を幸せにするんだ」
「お言葉ですが、僕は女性と対等なパートナーシップを築いていきたいと……」
「甘い、甘い。そういう軟弱な男の態度が、インバースみたいな女をつけあがらせる」
「リナ＝インバース先生ですか」
「身体はやせっぽち、態度は生意気。最低の女だな。まあ、見てくれはちょっと可愛らしいかも知れんが、ああいう女がのさばってるようじゃうちの外科部もいかんね。期待してますよ、ゼロス先生。あいつをへこましてください」
「あ、はあ」
　あいまいに語尾を濁す僕のグラスに、ジュイブルックはどぼどぼとブランデーを注ぎ足した。


「明日の５６５室の患者、食道がん切除手術は、ゼロス、あなたと──」
　母が、会議室で指示を出した。
「インバース先生、二人でやってちょうだい」
「ゼラス院長！」
　リナさんがテーブルに手をついて立ち上がった。
「あたし一人で充分です。なぜゼロス……先生まで、一緒に」
　母は腕を組む。
「かなり末期の、難しい術式です。互いの技量でサポートしあって欲しいの」
「手術は教育スポーツではありません！　仕事です。院長は、あたしの腕に何かご不満でも」
「口が過ぎるぞ、インバース」
　ジュイブルックが冷たく言う。リナさんはジュイブルックをちらりと見て、また母に顔を向ける。
「じゃあ、はっきり言います。ゼロス先生がいらっしゃると、邪魔です。迷惑です」
「あらあ、困ったわね」
　母は、ちっとも困った顔をしないで片目をつぶる。
「じゃあ、明日の手術はゼロス一人、ということで」
「なっ……！」
　リナさんが顔色を変える。
「これでいいでしょ？　貴女には一日非番をあげる。バーゲンのシーズンよ。洋服でも見ていらっしゃい」
「あの……」
「なにかしら」
「ゼロス先生には……お一人では、無理、です」
「じゃあ二人でやってくれるわね」
　母に言いくるめられて、リナさんは悔しそうに
「はい……」
とつぶやいて、唇を噛んだ。
「じゃあ、解散」
　白い廊下で、僕は彼女に追いつく。
「明日はよろしくお願いします」
　彼女は意味ありげな視線を僕に向け、黙って早足で立ち去った。

「術式始め。メス」
　彼女のりんとした甘い声で、末期がんの手術は始まった。
「鉗子」
「カテーテル──吸入」
　彼女の技術の前には、確かに僕の手は邪魔になるのかもしれない。でも、僕は彼女の同僚として、ベストを尽くすつもりだった。
「ゼロス先生、切開をお願いします」
「はい……メス」
　僕が患部にかがみこんだとき、リナさんの手にあったメスがふわりと動き、薄いゴム手袋を通して僕の手の甲を切り裂いた。大した傷ではないが、血が滴る。
「あ……すみません」
　冷たく、彼女が言う。
「いいえ」
「ゼロス先生、こちらへ。右手を怪我されては、これ以上のオペは無理です」
　看護師に付き添われて、僕は早々と手術室を後にした。

　右手の甲にガーゼを当てられ、僕は手術室の外のベンチでぼんやりとしていた。やがて「手術中」の灯りが消え、汗に塗れたリナさんが出てきた。脇の水道で手を洗いながら、リナさんは僕を見ずに
「悪かったわね」
と言った。
「いえ、いいんです。よくあることですし。わざと、というわけじゃ」
　リナさんは、嘲笑のまなざしで僕を見た。
「わざと、よ」
　呆然としている僕をおいて、リナさんは手術帽を脱ぎ、豊かな紅茶色の髪を揺らして去っていった。



ゆっくりねじれて行ったから
秒読みされてる気もするよ

君を嫌ってしまうには
あまりに理由がなさすぎる



「リナ先生、苦手ですの」
　僕と同じ外科部の新人、フィリア＝ウル＝コプト先生は、ため息のようにそう言って、ピスタチオを割った。
「あの人は、悪い人じゃないです」
　カルアミルクを呑みながら、アメリアさんが弁護する。シルフィールさんはすでに酔ったように、検査技師のガウリイ＝ガブリエフさんの肩にもたれている。今日非番のものだけで、呑みに来たのだ。当直は、ジュイブルック先生と、リナさん。
「おう、リナは全然悪い奴なんかじゃないぞ」
　長い金髪の美しいガウリイさんは、とてもハンサムな男性だ。串焼きの肉をぱくぱく食べながら、少し目を細める。
「あの時のまま、俺と結婚してくれると良かったんだがな」
「結婚！？」
　思わず声が裏返った。
「あ、ゼロス先生は知らないんですね。ガウリイさんと、リナさんは、昔婚約まで行ったんですよ」
　情報通！という誇りに目を輝かせてアメリアさんが続ける。
「でも、振られちゃったんですよね、ガウリイさん」
「まあな。でも俺は諦めたわけじゃないけど」
　シルフィールさんが、閉じたまぶたを微かに開けた。
「どうして、断られたんですの？　……こんなこと、聞いてよければ、ですけど」
　フィリアさんの質問に、ガウリイさんは答える。
「手術の腕を磨くのに、男だの結婚だのは邪魔にしかならないって。はっきり言われたよ」
「リナ先生らしい、というか」
　フィリアさんはそっと口元を押さえた。
「でも、俺は待ってる。リナがいつか、俺の元へ戻ってきてくれるのを」
　シルフィールさんが、長い髪を絡ませるようにガウリイさんの胸元へもたれかかった。
「シルフィール、酔ったみたいだな。俺がタクシーに乗せてくる」
　ガウリイさんは、彼女を連れてバーを出て行った。
「シルフィールさんもガウリイさんにアタックしてるんですけど、なかなか、ですね」
　アメリアさんは肩をすくめる。
「正直、ガウリイさんにリナさんは荷が重いと思うなあ……でも」
「何ですか？」
「ゼロス先生、こないだからリナさんの話になると真剣ですね」
　僕は慌ててカクテルを飲み干し、むせて咳き込んだ。
「こほっ……あの、同僚として、です。で、……こほ、話の続きを」
「はいはい。ガウリイさんは、ずーっとリナさんを追いかけてきたんですよ」
「追いかけて？」
「小学校の頃から。４つ年下のぷりてぃリナちゃんの虜だったらしいです」
「５年生が、１年生を」
「そゆことです」
　僕は、ふと気づいた。
「ガウリイさんは、おいくつ……」
「３１歳ですよ」
「ということは、リナさんは２７歳」
　アメリアさんは黒目がちな目を見開く。
「ええ。どうかしましたか？」
「いえ……大学を出て３年で、あんな技術かと思うと」
　僕の中では、なんとなく彼女は少女のような気がしていたのだ。そんなわけは無い。彼女だって、ちゃんとした大人だし、ガウリイさんという婚約者を持ったこともあったのだ。
「ゼロス先生？　なんか、ぼーっとしてる」
　それでも、彼女は月の妖精。濡れた髪を月光に煌かせて、夜の廊下で振り返る。

　アメリアさんをタクシーで送ってしまってから、僕はなんとなく病院に向かった。何のためか、本当に分からなかった。僕は、ざわざわする胸の中の理由を探せずにいた。そう──僕は嫉妬していたのかもしれない。かつて一度でも、あの細い身体を腕にした事のあるガウリイさんに。僕を邪魔者扱いする彼女。僕を追い出すために、僕の手に未だに痛む傷を刻み付ける彼女。それでも、僕は、あの深紅の瞳に──。

　宿直室で僕が目にしたのは、思わぬ光景だった。ジュイブルックが、リナさんに抱きついている。僕がドアを開けたことで、ジュイブルックの手が緩んだらしい。リナさんはくるりと男の腕から抜け出すと、拳骨でジュイブルックの頬を殴った。いつもの、黒ずくめの格好にだぶだぶの白衣を羽織った儚い姿。それが、僕の横をすり抜けて、猫のように廊下へ逃げ出していった。表情には、恥と悔しさを滲ませて。
「何を、なさっていたんですか」
　僕は、きつい声でジュイブルックを問い詰めた。
「何も。ただ、あの女に、思い知らせてやろうと思っただけで」
　ジュイブルックは悪びれもせずに、殴られた頬を押さえた。僕は、何も言わずに宿直室のドアを閉めた。リナさんが走り去った方向へ走る。
　非常階段のドアにもたれて、リナさんが立っていた。また、月の光の中で。傷ついたリナさんは、勝ち誇ったリナさんと同じだけ、美しかった。
「リナさん」
　鋭い深紅の目が上がる。
「あんたも、あの男と同じように、あたしを馬鹿にしに来たの？」
　刺々しい声。
「ちが……」
「ほっといて」
　リナさんは、目を伏せた。
「あんたには、分からないわ。放っておいて」
　その拒絶は硝子のように固く冷たかった。




三谷幸喜さんは、『振り返れば奴がいる』を書くに当たって、ほも雑誌に取材したそうです。えー、何が言いたいかというと、三谷さんは主役の二人が愛し合っている……という裏設定を持っていたのではないかと。なら、ゼロスとリナちゃんには本気で愛し合ってもらおうじゃないか！　というのが今回の目論見です。リナちゃんはなかなか心を開いてはくれませんが……。
『振り返れば奴がいる』はOPが素敵でした。ひたすら互いに負けないように走っていく二人の医師。


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