冷たいミルク[前編]
目覚ましを止める。夢に現れた彼女の幻影を少しでもとどめようと目を閉じる。雨。いつもの公園に水色の傘。腰まで届く、柔らかな紅茶色の髪が、霧雨の水分を得て、少しだけ柔らかに膨らんでいる。 「ゼロス」 甘い声でそう言って、彼女は振り返る───。 もう一度目覚ましが鳴り出す。夢を見るのを止めて、動く時刻だ。冷たい水で顔を洗い、歯を磨く。髪をとかす。傘の影で振り返った彼女の紅い瞳が、ちらちらと炎のように心を灼く。 目覚ましの横に、もう一つの置き時計。彼女が暮らしている時間を指している。今頃、彼女はベッドの中。きっと、この─── 「リナさん」 ハート型の香水瓶と同じ、薔薇の香りをまとって眠っている。 僕は、ジョグウェアに着替え、ポケットに小銭を放り込む。ウォーキングシューズを履いて家を出る。淡い霧がこの街を包んでいる。 ───New York City。 「おはよう、ゼロス。今朝は涼しくていいね」 「おはようございます。ご精が出ますね」 「身体が資本だからね。あんたもそうだろう」 「ええ。ほんとうに。だからこうして鍛えているんです」 毎朝すれ違う人々と交わす、他愛のない会話。セントラルパークに近づくと、走っている人の数も増えた。少しスピードを上げる。心地よい夏の霧が、火照る顔を冷やす。 「おはようございます、パティさん」 「おっはよー、ゼロス。今朝もBセットでいい?」 「ええ。今日も綺麗ですね」 「ふふっ。駄目よ、決まった彼女がいるのに年上をからかっちゃ……いつか、彼女もここに連れてきなさいよ。あの、栗色の髪の、紅い瞳の、とびっきりの美少女を」 「絶対に連れてきます」 ふと外を見ると、ボートハウスカフェの前の白いベンチに、しっかりと手を握りあった老夫婦が座っていた。 「……あの方たちは?」 「あら、今日まで気づかなかったの? いつもあそこにいらっしゃるの。で、帰り際にここでコーヒーを一杯だけ飲んでいかれるわ」 (リナさん) 僕は心の中でつぶやく。 (いつか、僕たちもあんな風になるんですよ) 「はい、お釣りね。……その手袋、夏なのに外さないのね」 「転んで手をすりむいたりしたら大変ですからね」 「あなたがコンサートを開く日、あと二ヶ月くらいかしら。いくら払ってもいい。聴きに行くわ」 「パティさんなら、喜んでタダでご招待しますよ」 「ふふっ。女あしらいが上手いんだから。彼女……リナちゃんだっけ? 泣かせちゃ駄目よ」 「心配ご無用です。僕は、彼女しか愛せませんから」 「ゼロスくん、今16よね。いつ、彼女と出会ったの?」 「12の時です」 「初めてあったときから彼女を?」 「ええ。好きでした」 「大事にしなさいよ」 僕は、パティさんのウィンクを受け取って、ボートハウスカフェを後にした。 アパートに帰って、軽くシャワーを浴びる。スーツに着替えてアップタウンを歩く。忙しそうな人々とすれ違う。僕は、古めかしい造りの建物の前に立ち、玄関のレリーフを見る。 『ジェラード音楽院』 特待生として、僕はゼフィーリアからこのニューヨークに招かれた。学費の全ては学院側が出してくれる。僕は中に入る。入り口のコンピュータに出席を登録して、決められた個室に入った。指慣らしのハノンから始めて、いくつかのソナタを弾く。そして、2ヶ月後に控えた僕のデビューコンサートのための、壮麗な輪舞曲を弾き始めた。 「ゼロスくん、おはよう」 「おはようございます、先生」 「それじゃ、今の曲、もう一度はじめから」 「はい」 故郷では、母──ゼラス=メタリオムがレッスンしてくれた。しかし母は、もう自分には教えることはないと言った。その時、ここへ特待生留学する話が持ち上がったのだ。僕は嬉しかった。自分のピアノが、世界に名だたる音楽学校に認められたのだから。けれど、僕は辛かった。ずっと、僕のピアノを聴き続け、励ましてくれたリナさん──たった一人の僕の恋人──と離ればなれになるのだから。迷った僕の背中を押してくれたのはリナさんだった。 『サヨナラなんて、もう言わないわ。だって、あたしたちはすぐに会えるんだもの』 空港で交わした最後の言葉と甘いキスを、彼女のまとった淡い薔薇の香りを、僕ははっきりと覚えていた。 「……うん、いいね。私もここの教師をしてずいぶんになるが、君は指折りの逸材だ。我が校の誇りとなる生徒だ」 「僕が……? そんな……」 「自分の実力を自分で分からないのは、芸術家失格だぞ。……ともかく、デビューコンサートまで、気を抜かないこと! それは栄えある君の第一歩になるのだから。ところで、少しお節介、というかお説教をしてもいいかな?」 「? 何ですか」 「君は、アルバイトをしているらしいね。夜、酒を出す店で」 「『ワン・ステップ・ダウン』のことですね。確かに、僕はあそこでアルバイトをしています」 「ピアノを弾いているのかね?」 「ええ、ピアノバーですから」 先生は、軽くこめかみを押さえた。 「君の学資は、すべてこの学院が受け持っている。それに、生活費にしても……君の実家は富裕な方ではないかね。君の母君のゼラス=メタリオムさんは、ゼフィーリアでも評判のピアニストだった……君の父君と別れられてからは、もっぱらピアノ教師としてご活躍のようだが」 「……つまり、僕のアルバイトはよくないことだとおっしゃりたいのですか?」 「君は、今が一番大切な時期だ。一流のピアニストになれるかどうかは、この数年にかかってくる。親御さんからの仕送りで生活できるのなら、そんな水商売は辞めることだ」 「先生。それでは、僕の演奏を聴いて下さい」 「ゼロスくん」 僕は、コンサートのラストの曲を弾き始めた。バッハの難解なコラールを、ピアノ用に解釈したもの。端正なメロディに、僕は感情を僅かに滲ませる。たった一人の人に捧げる感情を─── 指を止める。 「先生、僕がアルバイトしていることによって、僕の演奏に悪影響は出ていますか?」 「う……」 「むしろ、人に聴かせることを前提とした演奏をすることによって、僕は成長している気がするんです」 「しかしだね、うちの生徒がそんな夜の街でアルバイトしていることが知れたら、いい笑いもの……」 「安心して下さい。この学院の名前は出していませんから」 「───分かった。どうやら、信念を持ってやっているらしいね」 「ええ」 「なぜ、アルバイトを?」 「早く自立したいんです。そのためにも貯金を」 「あせらずとも、じっくりこの学院で学べば、君は大成するよ。その時になれば、金は自然についてくる。もっとも、我が校には金のためだけにピアノを弾くような生徒はいないと思うが。君は実に変わっているな」 「ひとを待たせているんです」 「それは……どなたかね」 僕は、先生にウィンクして、指で唇を押さえた。 「秘密です」 先生は肩をすくめる。 「じゃあ、コンサートの曲順通りに演奏してみてくれ。アルバイトで疲れたなどの言い訳は聞かんよ」 「もちろんです」 僕は、鍵盤に指を走らせた。頭の中に、ただ一人、このメロディを届けたい人を思い描いて。 僕がニューヨークに来て、アパートに落ちついてからまず始めたことは、アルバイト探しだった。もっとも、力仕事などは出来ない。手に怪我をする可能性のある仕事は、もってのほかだ。 (店員か……何かですね。でも、時給は低いな……) そんな時目に入ったのが『ピアニスト募集』の文字。 (トライベッカ……ピアノバー『ワン・ステップ・ダウン』) 時給は他の広告とは比べものにならない。僕は求人雑誌からそのページを丁寧に切り取り、店に電話をかけてみた。 「はい、『ワン・ステップ・ダウン』」 「求人広告を見て、電話差し上げているのですが」 「ああ、ピアニスト募集ですね」 「かなり高いお給料ですが……」 「あなたの腕次第では、もっとお支払いしますよ。とにかく、店まで来ていただけますか? 住所はその雑誌に書いてありますね?」 「今から、お伺いしてもいいんですか?」 「店を開く前に、来て下さい」 電話は切れた。僕は一張羅のスーツに着替えると、電車に乗って、その店のある地区──トライベッカにおもむいた。 店は、想像していたよりずっと上品でシックな感じだった。広い。それでいて、ピアノの音が店の隅々にまで行き渡るように設計されている。カウンターの中の老境に近い男性が、目を上げた。僕は、挨拶した。 「先ほど電話しましたゼロス=メタリオムです。ピアノを弾かせていただけるということで」 「君が……失礼だが、おいくつでいらっしゃるのかな」 「16です」 「見れば分かるだろうが──うちは女性こそ置いていないが、夜の店だ。君のご両親はこのアルバイトのことをご存じなのかね」 「僕の親は、ゼフィーリアにいます」 「保護者は……」 「一人暮らしです」 「生活に困っているのかね」 「僕は、自分の食い扶持は自分で稼ぎたい。それに、それ以上のお金も手に入れたい。ピアノを聴いてはいただけないんですか?」 「───そうだね、ピアノを聴かせてもらおう。私の名は、ヴァンペルトだ」 「よろしく、ヴァンペルトさん。では、ピアノをお借りします」 僕は、彼女の好きだと言っていた曲を弾いた。『Love is forever』。まだ誰もいない店内に、軽やかなメロディが舞った。曲が終わると、ヴァンペルトさんはぱちぱちと拍手をしてくれた。 「それは、君の国の歌かね?」 「ええ。僕の大切な人が好きだと言っていた曲です」 「今日から、弾けるかね?」 「ええ。格好はこれでいいんですか?」 「タキシードを貸すよ。給料は月払いでいいかね?」 「はい」 こうして、僕は『ワン・ステップ・ダウン』のピアニストの一人になった。 学院で、くたくたになるまでピアノを弾く。アルバイトのない日は、そのまま居残って、指が動かなくなるまで弾き続ける。練習室のドアがノックされた。僕は指を止めた。 「どうぞ」 「邪魔して悪かったね、メタリオムくん」 「いえ。僕に何かご用ですか?」 「これを」 封筒を渡される。開けてみると、『ゼロス=メタリオム デビューコンサート』の文字の入ったチケットが、数枚入っている。 「毎年、首席で入学した生徒は、この時期にデビューコンサートを持つ。無論、今年は君だ。チケットは一般販売されるが、君も招きたい人がいるだろう。特等席を取ってある。来て欲しい人にプレゼントするといい」 「わざわざ、ありがとうございます」 僕は、印刷されたコンサートの日付を見る。───なんという偶然。 「そろそろ上がりたまえ。熱心なのも結構だが、受付の人が、いつまでも校舎を閉められないとこぼしていたよ」 「はい」 「じゃあ、また明日、会おう」 僕は練習室の灯りを消し、学院を後にした。 アパートに帰る。服をくつろげ、パソコンのスイッチを入れる。メールソフトを立ち上げる。一件の新着メール。差出人は、「リナ=インバース」。タイトルは、「お疲れさま」。 「お疲れさま、ゼロス。今日もいっぱいピアノを弾いてきたんだね。どうだった? 思い通りに弾けた? ゼロス。会いたいけど、寂しくなんかないよ。こうやってメールでつながれるし、それに、ゼロスの演奏は、世界のどこにいたって、あたしにだけは聞こえるから。それじゃ、また明日」 「そういえば……」 僕は、鞄からチケットの入った封筒を取り出す。ぱりぱりに薄い便箋に、万年筆を滑らせる。 『僕の始めてのコンサートのチケットです。リナさんが来られないのは分かっていますが、記念として……』 そこまで書いて、ふと、考えを変える。万年筆にふたをして、椅子にもたれかかる。 リナさんに返事のメールを出す。僕は、僕のコンサートのことも、アルバイトのことも、リナさんに伝えてはいない。僕には、心に決めたことがある。 霧に沈むボートハウスカフェ。僕は、いつも通り注文を取りに来たパティさんに、チケットを二枚渡す。 「ありがとう! ほんとにもらえるなんて思わなかったわ。……どうして二枚なの」 「厨房の男の人、パティさんの恋人でしょう?」 パティさんはぱっと頬を紅くする。 「いちおー秘密にしてたのになあ。何で分かっちゃったの?」 「僕も恋をしているからです」 「そうね。可愛い可愛いリナちゃんが、あなたにはいるものね」 「それで、彼氏と一緒に来ていただけますか?」 「もちろんよ! 彼もきっと喜ぶわ。あー、クラシックのコンサートなんて初めて! とびっきりおしゃれしていくわ。───あなたのリナちゃんは来るの?」 「いえ、彼女をそのためだけにゼフィーリアから呼び寄せるわけにはいきませんから……」 「ふむ」 パティさんは、僕の髪をくしゃくしゃとかき回した。 「辛いな、少年」 「いつかきっと、彼女のためだけに、コンサートを開きます」 「ふふっ」 パティさんは微笑んだ。 「……何ですか」 「成長していく子供を見るのは楽しいものね」 「16は子供ですか?」 「こども、よ。私が16の時なんて、おしゃれとおしゃべりのことしか考えてなかったわ」 僕はBセットを食べ終わる。パティさんに小銭を払う。 「コンサートまで、練習、頑張ってね」 「ええ」 アパートへ向けて走り出す。 アルバイトの夜。僕は中学校までにさんざんたたき込まれた音階を奏でる。酔って乱れる人もいなければ、媚びを売る女性もいない。ピアノの音と、上品な会話の織りなす、居心地のいい空間。一曲弾き終わるたびに、僕は立ち上がって一礼する。優しい拍手が降り注ぐ。ミルクで満たされたロンググラスが、グランドピアノの端に置かれた。 「これは……?」 「ああ、ゼロスくん。これは、あちらのお客様から」 品のいいドレスを着た30歳前後の女性が、僕にひらひらと手を振った。僕は、彼女にもう一礼すると、次の曲を弾き始めた。弾き終わって一礼し、冷たいミルクのグラスをぐっと飲み干す。乾燥した空気にひりついていた喉が、柔らかに癒されて行く。いつの間にか、さっきの女性がピアノの側に来ていた。 「ミルクを、ありがとうございました」 「いいのよ。素敵な音楽のお礼。……やっぱり、まだ子供なのね。ミルクでよかったみたい」 「たしかに僕は子供ですが、すぐに大人になります」 「あなたの好きな誰かを守るために?」 「ええ」 「残念だわ。年上の女の魅力を教えてあげようかと思っていたのに、あなたにはもう決まった女性(ひと)がいるのね」 「僕も残念です。貴女はとても素敵だから」 「駄目よ、からかっちゃ。何曜日にここに出てるの?」 「月曜と木曜、それから日曜ですね」 「また、あなたのピアノを聴きにくるわ。そしてミルクを奢るわね」 「おかまいなく」 彼女は自分の席へ戻っていった。僕は、「冷たいミルク」という、故郷の歌を弾いた。 「おはよ、ゼロス。今日がコンサートだっていうのに、ここでのんびり朝ご飯なんて食べてていいの?」 「パティさん。今夜は来られそうですか?」 「もっちろんよ。それと、彼氏も」 そばかすの浮いた可愛らしい顔で、にっこりと微笑む。 「怖くない?」 「緊張しては、います。でも怖くはない」 「あなたの心の中に、リナちゃんがいるから?」 「その……通りです」 「早くリナちゃんを迎えに行けるといいわね」 「僕は、そのつもりですよ」 「え?」 「独り言です」 花屋のおじさんに、故郷の花屋から花束を送れないか、尋ねる。 「出来ますよ。お花の種類は」 「紅い薔薇を。16本」 「メッセージは? いや、言わなくても当ててみせよう。『16歳の誕生日、おめでとう───』」 「当たりです」 「ワン・ステップ・ダウン」で貸してもらうタキシードよりいい生地を使った、なめらかな礼服に身を包む。中規模のホールだが、学院の首席入学者という看板のせいで、客席はいっぱいに埋まっている。 「メタリオムくん」 「なんですか? 先生」 「満席なのはありがたいんだが……前から3列目の真ん中の席が空いているんだ。あれは、君に渡したチケットの席だね? あそこが空いていると、結構目立つんだが」 「あそこはあのままにしておいてください」 先生は微笑んだ。 「あそこは、君の故郷の、誰かのための席なんだね?」 「はい……すみません」 「謝ることはないよ。君のコンサートだ。さあ、もうすぐ第一ブザーが鳴る。準備はいいかい?」 「ええ」 「緊張は」 「それなりに。でも、弾けます」 僕は、小さな頃にあったコンクールのことを思い出す。リナさんが来なかったために、僕はコンクールを投げ出したのだ。でも。 「もう大丈夫ですよ、リナさん」 僕は一人の楽屋で小さく声を出す。 「世界のどこでピアノを弾いても、それは全てあなたのためなんですから」 第二ブザー。客席が暗くなる。ステージに、ライトの光が降り注ぐ。 「リナさん……僕の初めてのコンサートがあなたの誕生日だなんて、これは神様のプレゼントですね」 小さくつぶやいて、僕はステージに出た。 実際のところ、クラシック界のことなんてまるで分からないので、音楽専門学校の特待生がバーでピアノを弾くことがありえるのか、また個人でピアノコンサートを持てるのかどうか、分かりません。あと、セントラルパーク内には本当に「ボートハウスカフェ」というお店がありますが、ガイドブックに寄ればバイキング形式で、ウェイトレスさんが注文を取りに来ることは無いそうです。 ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。本当はこれより前に収録すべき小説があるのですが、この壁紙が使いたかったから!(「Love is forever」の時と同じ壁紙なのですが……)ゼフィーリアとニューヨークが同時に存在する世界って、何か怖いですね。時差まであるし。ピアノのことについては、相変わらず無知なままです。(母親がピアノ教師だというのに……) |