右手を私の右手の上に重ねて［後編］
（貴女はとても美しい……か……） リナは、ベッドに埋もれたまま、ぼんやりと考える。 （脈がないわけじゃ、ないよね） 寝返りを打つ。足の裏は、シーツに擦れただけでもわずかに痛んだ。 「リナ様、お召し替えの時間です」 メイドが何人か入ってきた。リナは、痛みをこらえて、ベッドの脇に立った。メイドがリナの寝間着を脱がせ、深い青のドレスを身につけさせた。髪も梳かれる。そして、ヒールの高い青い靴を履かせられた。 「こちらへ」 言われるままに歩く。痛みで、二、三歩ごとに立ち止まる。メイドたちは、急かすこともなくリナを待っていた。そして、リナはようやく夕食の会場へたどりついた。用意された席は、ゼロスの隣。 「リナさん、今度は目眩せずに歩いてこられましたか？」 リナは、足の裏の焼けるような痛みに耐えて、うなずいた。リナの元には、最初から肉類は運ばれてこなかった。パンと、ミルクと、サラダと、沢山の果物。リナは、片端からそれらを食べた。ワインを勧められたが、断った。このつくりものの身体に、酒がどういう影響を及ぼすか分からない。 「リナさん、食欲はありそうですね。安心しました」 ゼロスがにっこり微笑んで言う。 （その微笑みが私のものになれば……） リナは微笑み返しながら、そう思った。 「ゼロスよ。そのお嬢さんはどちらの方だね」 威厳のある声で、女王が問うた。 「リナさんです。僕の大切な人です」 「ふむ……」 女王は、リナを見て言った。 「確かに、素晴らしく美しい」 「そうでしょう？でも、残念ながら、お家が見つかるまで、王宮でお預かりするだけです」 ね、リナさん、と言わんばかりの笑顔で同意を求められ、リナは曖昧にうなずいた。 「残念なことだな」 女王は、もう一度リナを見て、そう言った。 真珠の涙で輝き出したら『右手を私の右手の上に重ねてよ』……
もう一度、割れた珊瑚の上を歩くような痛みに耐えて、リナは部屋に戻った。もう暗い、出窓の側による。外は植え込みが遠くまで続いている。海は見えない。窓を開け放ったが、潮の匂いさえしなかった。 ふと手元を見ると、分厚い本が置いてあった。表紙には、金糸の縫い取りで、十字架が描かれている。人間のことに興味を持って、沈没船のなかで遊んでいたリナには、それがなんであるか分かる。聖書だ。ページを繰ると、訳の分からない文字で神の言葉が書かれている。 リナは、聖書を閉じて、手元に引き寄せる。そして、十字架の上に手を置く。目を閉じる。 （人間の神様、私は誓います、あの人を一生かけて愛することを。どうか神様、あの人が私と同じ事を思ってくれますように……） その時、リナの小さな手の上に、指の長い優美な手が重ねられた。 「……！」 「リナさんの手は、冷たくて小さいですね」 ゼロスが、いつの間にかリナの後ろに立っていた。リナは、その大きな掌からせめて愛情のひとかけらでも受け取れないかと手の先まで神経を行き渡らせた。 「おや、聖書の上ですね。聖書の上で右手を右手の上に重ねることは、誓いを意味します」 リナは、赤くなって、うなずいた。 「リナさんの家族が、どうぞ早く見つかりますように」 ゼロスは、それだけ言って、手を離した。 「じゃ、リナさん、お休みなさい」 「……！」 リナは、ゼロスの後ろ姿にしがみついた。ゼロスは振り返る。リナは、瞳を閉じて、顔を上げた。ゼロスが、くすっと笑ったのが聞こえた。 「あまえんぼさんですね、リナさんは」 唇が、優しくリナのおでこを撫でた。 「寂しかったのでしょう？これで眠れますね。僕の可愛いリナさん、お休みなさい」 ゼロスは部屋を出ていった。あの人が触れたあたしの右手。そして唇が触れた額。どちらも、燃えるように熱かった。でも、あの人があたしに持っているのは、ただの好意だ。愛じゃない。それが痛いほどリナの心に突き刺さった。深紅の瞳から、涙が止めどなくこぼれ落ちた。あの人は、どうやったらあたしを愛してくれるのだろう？ 私 愚かね 分っているのに
祈りの声で 私は泣いている……。
王宮で、舞踏会が催された。リナは、新しいドレスを着せられ、皆の前に連れ出された。 「この方はリナさん。僕が今面倒をみている方です。リナさんの顔に覚えのある方がいらっしゃったら、ぜひ申し出てくださいね」 ゼロスは、何人もの貴婦人と踊った。リナは、何人かの貴族にダンスを申し込まれたが、皆断ってしまった。会場の隅で山と摘まれた小さな菓子を食べていると、ゼロスから声がかかった。 「リナさん、踊りましょう」 リナは、ゼロスの動きに合わせてステップを踏んだ。足が地面に着くたび、リナの身体は悲鳴を上げた。管弦楽がまだ続く中で、リナは耐えきれずに床に倒れ込んだ。 「リナさん！」 ゼロスはリナを抱き上げた。そのまま、リナの部屋まで、リナを連れてゆく。 「まだ身体が本調子ではなかったんですね。気づけなくて、すみませんでした」 王子は、汗をかいたリナの前髪をかき上げると、そっとそこにキスを落とした。そして、舞踏会へ戻っていった。リナは、ベッドの中で涙を流した。自分は、愛する人と一曲もダンスを踊ることが出来なかったのだ。 次の日、リナは空がゆっくりと目を開けるころに目覚めてしまった。足が痛いので靴は履かずに、壁づたいに、城の中をゆっくりと歩いた。ゼロスの部屋を探して彷徨ううちに、ホールのようなところに出た。 「……」 そこには、美しい女性の肖像画が架けてあった。金色の髪、深い青の瞳、整った目鼻立ち、それらを引き立たせる白いドレス。リナがみとれていると、後ろから声がかかった。 「今朝は早いんですね、リナさん」 （ゼロス） 出ない声で振り向く。ゼロスは、後ろからリナの肩に手をかけて、一緒に肖像画を見つめた。 「この方は、フィリアさん。僕の、婚約者です」 （……！） リナは、大きく打ち震えた。 「綺麗な方でしょう？僕なんかにはもったいないくらいですね。僕はこの肖像画を一目見たときから、フィリアさんに夢中なんです」 心臓を、ざくざくえぐる、ゼロスの言葉。 「フィリアさんは、隣の国の第一王女です。僕は、フィリアさんを迎えに行きたくて、嵐の夜に無理に出港して、海に投げ出されてしまったんです。その時は奇跡的に助かりましたが……今日は海も穏やかですし、今晩にでも船を出して、フィリアさんを迎えに行きましょう」 その時、ゼロスは気づいた。リナが、大きな瞳からぽろぽろと涙を流していることに。 「心配ありませんよ、リナさん。貴女の家族が見つかるまで、ちゃんと僕は貴女の面倒を見ます。フィリアさんに夢中になって、貴女のことを忘れるようなことは、決してしません。安心して下さい」 リナは、ゼロスの胸にすがりついた。ゼロスは、ぽんぽん、とリナの背中を叩くと、リナの手を取り、歩き始めた。 「朝食は一緒に取りましょうか。フィリアさんのことで、まだ話していないこともいっぱいありますし」 リナは、駆け出したかった。耳をふさぎたかった。それも出来ずに、言われるままにゼロスの部屋へ導かれていった。足の痛みも、いつしか忘れていた。 知っているわ たくさんの川が集まる所よ……
深い深い海の泡に変わる最後の時
「……と言うのが、僕とフィリアさんの最初の出会いらしいんです。まだ小さな頃のことで、覚えてもいないんですけどね。……そう言えば、リナさん。貴女に、好きな人はいるんですか？」 リナは、泣きそうになるのを必死にこらえた。そしてうなずく。 「その人は、貴女を愛してくれているのですね？」 リナは、首を横に振った。 「とんでもない話ですね。こんな綺麗な、可愛い方に想われていながら、貴女を愛していないなんて。僕は、その人に決闘を申し込みに行きたいくらいですよ」 リナは、寂しげに微笑んだ。そして、もう一度首を振った。 私を泡に変えるその青さ！ その結果───
出航の準備は整いつつあった。リナは、ドレスを着せ替えられ、馬車に乗せられた。隣にはゼロスがいた。 「貴女のことを、フィリアさんにも紹介しておきたいんです。貴女は、なんだか僕の妹みたいな存在ですから」 （いもうと） リナは、微笑みを崩さないまま、心の痛みに耐えた。 港に着くと、あの嵐を乗り切った、大きな船が待っていた。 「今日は、まさか嵐には巻き込まれないでしょうね？」 「おう、何十年も海を見てきてる俺らが言うんだから間違いない。今夜は真っ直ぐに隣の国まで行けますよ」 「頼りにしていますよ」 ゼロスは、リナを抱き上げ、桟橋を渡った。 「リナさん、前から思っていたんですけど、貴女、歩くのが辛いのでしょう？」 リナは瞳を見開く。そしてうなずく。 「やっぱり。どうして今まで僕に言わなかったんですか……いえ、貴女はしゃべれないんでしたね。僕が気づいてあげるべきでした」 リナは首を振る。 「遠慮することなんて、何もないんです。そうだ、こうすれば貴女と話が出来るのでは？」 広い、綺麗な船室の中で、ゼロスは、作りつけの机から、紙と羽根ペン、インクを取り出した。ペンにインクを含ませて、リナに持たせる。リナは、しばらくじっとしていたが、黙って首を横に振った。 「字も、書けないのですか……」 リナはうなずく。 「それじゃ、結婚式が終わったら、僕が貴女につきっきりで字を教えてあげます。ああ、もっと早く気づくべきでしたね」 リナはゼロスに気づかれないように、涙をこぼした。 言葉を失くしてしまった 見つからないの
さよなら 私の恋人
「渦だ！」 船員たちの荒々しい声が、ゼロスとリナのいる主船室まで響いてくる。ゼロスは、さすがにこの前のことで懲りたのか、ドアを少しだけ開けて、外の様子を見る。 「何事ですか」 「王子様、大きな渦が進行方向に出来てるんです。これじゃ、先には進めませんや」 「渦は、いつごろ消えるんですか？」 「さあ……この海域で渦が出来るなんて事が、そもそも珍しいもんで……今夜は、渦から離れて、錨を降ろした方が良さそうだ。明日の朝には、渦も消えてるでしょう」 「わかりました」 ゼロスは、船室の扉を閉める。 「リナさん、残念ながらフィリアさんと出会えるのは明日になりそうですよ」 （渦……） リナには、思い当たることがあった。人魚の魔法の一つに、好きな場所に大きな渦を作れるというものがあるのだ。リナは、立ち上がった。そして、ドアを押して、甲板に出た。 「あ、お嬢さん。甲板には出ない方が……」 船員の制止を振り切って、リナは船の後部へと走った。甲板から身を乗り出すと、そこに懐かしい姉の顔が浮かんでいた。 （姉ちゃん） 「リナ……！あんた、ほんとにバカなんだから……！」 ルナは、涙を流していた。そして、一本の短剣をリナに差し出す。 （……？） 「事情は分かってるわ。あんたの王子様は、あんたを愛さなかった。このままでは、あんたは海の泡になって消えてしまう。でも、消えなくてもいい方法が一つだけあるのよ」 短剣が、ルナの手からリナの手に渡る。 「その剣で、王子を、殺しなさい」 （……！） 「リナ、あんたのことを、みんな、ずっと心配していたわ。お願い、勇気を持って。私たちを悲しませないで」 リナは、目を伏せた。そして、短剣を懐にしまった。 私 愚かね 分っているのに
祈りの声で 私は泣いている……。
「リナさん、そろそろ明かりを消しましょうか」 リナがうなずくと、ゼロスはランプの芯にふたをかぶせた。 「お休みなさい、リナさん。明日はフィリアさんと会えますよ」 リナは、息を潜めてじっとしていた。やがて、ゼロスのベッドから規則正しい寝息が聞こえてきた。リナは、するりとベッドを抜け出した。そして、短剣を持って、ゼロスのベッドに近づく。 （ゼロスの寝顔……あの嵐の翌朝以来だわ） そっと顔を近づける。 （何て綺麗な人……） リナは、自分の唇を、ゼロスの唇に触れさせた。とても軽く、わずかな時間で。でもそれは、永遠に近く。 リナは船室を出て、海に短剣を投げ捨てた。 （ごめんなさい、姉ちゃん） そして、もう一度、人間の神様に祈った。 （どうかゼロスとフィリアさんに幸せを……） そして、水しぶき一つ立てず、海に飛び込んだ。船の中で、気づいたものは誰もいなかった。 私が私でなくなったその日 快楽の海はやさしくつつんで
深い 深い 海の泡に変えてしまうのです
指先から、つま先から。リナは、自分が溶けていくのを感じる。 （あたしは、せいいっぱい恋したわ……） いっそ心地よい、泡になっていく瞬間。 （何も悔いはないの……でも） リナは、もはや形をとどめない存在になって、沈んでゆく。 （あのとき……聖書の上で手が重なったとき、あの人が違う言葉を囁いていてくれれば……） リナが消え去る最後の瞬間。孤独で、哀しくて、でも……幸せだった瞬間。 お願いよ……『右手を私の右手の上に重ねて』……
そして、永遠の魔法をかけて
お願いよ───私の恋人。
『右手を私の右手の上に重ねて』は、ＣＨＡＲＡさんの曲です。 「SOUL KISS」というアルバムに入っています。この曲を聴いて、猛烈にゼロリナ人魚姫が書きたくなった次第です。ハッピーエンドも考えたんですが、哀しい歌を元にしているので、こうなるしかありませんでした。では、またお会いしましょう。 ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。「右手を……」は、とても綺麗な曲です。いつも聴いているＭＤウォークマンに入れっぱなしにしています。投稿させていただいたときは、ゼロスの親は父王だったのですが、 「やっぱゼロスの親はゼラス様でしょ！」と思い直して、今回は女王にしてあります。あと、フィリアさんは直接出ては来ないのですが、やっぱりリナちゃんの恋敵ですね。  |