右手を私の右手の上に重ねて[前編]

静かな海底の上は、嵐でざわめいている。波が岩に砕ける音が、海底まで響いてくる。

「あたし、ちょっと上見てくる」
「やめなさいよ、リナ。嵐にのまれてケガでもしたらどうするの」
「あたしはそんなドジじゃないわよ、姉ちゃん。嵐が来ると、なんだかあたし、わくわくして来ちゃうんだ」
「悪趣味ね」
「行って来ます」
「すぐ戻るのよ」
リナは、尾ひれをひらめかせて、嵐の中へと飛び込んでいった。
「まったく、あの子っていったら」
ルナは、深いため息をついた。

リナたちは人魚だ。日の光さえ射さない、昏い海底に住んでいる。海草や貝を食べて暮らしている。平穏な日々。ときおり水面に姿を現すこともあるが、人間には出会わないように気をつけている。しかし、人間が彼女たちを見たら、感嘆の言葉を漏らすだろう。彼女たちは皆、得も言われず美しいのだ。だから、彼女たちは人を嫌う。人間に捕まって、見世物にされでもしたら、プライドの高い彼女たちは耐えられないだろう。

でも、リナは生まれたときから変わり種だった。すぐに水面に昇りたがる。人間の船が上を通ると、興味津々で見守る。
「リナ、あんたは人間の怖さをしらないのよ」
「大丈夫。捕まるようなことはしないから。でも、人間って、船に乗ってないときはあの大きな岩棚の上で暮らしてるんでしょ?すごいわね」
「この静かな海底のほうが、ずっと素敵だと思うけど」
「もちろん、あたしもここが好きよ。でも、平和すぎて退屈しちゃう事もあるけどね」
ルナはリナの頭をかるく小突く。
「平和が一番、よ。あんたのその性格、心配だわ」
「姉ちゃんたちを悲しませるようなことはしないわ。じゃ、今日も水面の夕日を見てこようかな」
「あんたはほんとに変わってるわね」
ルナは去ってゆくリナの尻尾を見ながら、そう言った。


嵐は激しい。顔に、胸に、尻尾に、痛いほど勢いのある水がぶつかってくる。
「んー、わくわくする。気持ちいいのよね、この荒波」
リナは、大きな波が来るたびに、それが砕けるまで身を任せた。海面から顔を出す。雲で真っ暗な夜空だ。ときおり稲光が走る。その時だった。
「人間の船……!」
大きな波に隠れて気づかなかったのだが、船はリナの真横までに近づいていた。
「馬鹿な人間たち。こんな日に船を海に出すなんて。波でひっくり返ってバラバラになって、みんな死んでしまうわ」
リナは、暗さと波の激しさに乗じて船を見つめた。甲板の上で、水夫たちが必死になって作業をしている。帆を下ろし、錨を水の中に投げ込み、溜まった水を掻い出している。船室の扉が開く。
「皆さん大丈夫ですか?ひどい嵐ですね」
「だめだ、王子様、船室から出ちゃなんねえ!」
船を、横殴りの波が襲った。王子と呼ばれた青年は、波をまともに受けて、甲板から投げ出された。
「王子様!」
水夫達が船縁にしがみついて、海を凝視する。リナは、あわてて海に潜った。
黒く荒々しい潮の中を、王子は沈んでいく。意識はすでにない。リナは、沈みゆく王子に近づいた。
「馬鹿な人。身体を船に縛り付けもせずに甲板に出るなんて」
揺らめく黒い髪。きめ細かな白い肌。閉じられたまぶた。優美な顔立ち。
「ふうん、ちょっと素敵かな」
リナは、水中で王子の身体を抱き留めた。そして、ゆっくりと浮かび上がる。
「空気の中で息をしないと、死んじゃうのよね、人間って。ほんとに、不便な存在」
水面に顔を出す。王子の頭も、水面の上に浮かび上がらせる。王子は意識を失ったまま咳き込んで、水を吐き出した。そして、小さく呼吸を始める。リナは、ほっとしている自分に気づく。
「人間一人、助かったからって、何でこんな気持ちになるの?」
リナは、王子を抱えたまま、尾ひれを水面に打ち付け、泳ぎ始めた。陸の方に向かって。

暁の光が、海岸で尻尾を水に浸したリナと、砂浜に横たわる王子を照らし出す。人魚には眩しすぎるその光の中で、リナはもう一度王子の顔を眺めた。
「この人の瞳で見つめられたらどんな気持ちだろう……」
固く閉じられた瞳。呼吸はとても安らかだ。光を浴びた王子は、わずかに形の良い眉をしかめた。薄く目を開く。リナは、金縛りにあったように動けなかった。
「僕は……いったい」
かすれた声で言う。リナは思う。声も、素敵。
「……貴女は?」
王子は、菫色の瞳で、リナをぼんやりと見た。リナはふと我に返る。海に飛び込み、深い深い海の底へ舞い戻っていった。
「顔、見られたかな。やばいな。また姉ちゃんに怒られるかな」


リナが王子を助けてから、数日が過ぎていた。リナは、ぼうっとしていることが多くなった。食事を忘れることもあった。以前のリナからは想像もできない変化に、ルナは、リナを問いただした。
「リナ、嵐の夜に、何かあったんじゃないの?」
「……」
「リナ、答えなさい」
「……あたし、なんで人魚なんだろう?」
「リナ……」
「あの人は何で人魚じゃないんだろう?」
「あんたは、地上の人間と出会ったのね。そして恋をした。違う?」
「……片想いよ」
「ほんっとうに馬鹿な子……!いつかこんな事になるんじゃないかって、恐れていたわ。リナ、あきらめなさい。そんなことで、私たちを悲しませないで」
「あきらめられるくらいなら、こんなに悩みはしないわ」
「リナ!」
ルナは厳しく言った。
「あきらめなさい。間違っても、人間の世界に行こうなんて思ってはいけないわよ」
「人間の世界に行く方法があるの?」
リナの問い返しにルナは一瞬どきりとする。
「ないわよ。せいぜい、捕まって狭い水槽に閉じこめられて見世物にされるくらいかしら?その人間のことは忘れなさい」
「……わかった」
リナは、うつむいたまま言って、紅い瞳を伏せた。


───おぼれる人魚達は歩く足が欲しさに まわりを忘れるほど


「困りますよ、リナさん。私が、ルナさんから怒られてしまいます」
「キラ、お願い。みんなに聞いてきたのよ。あんたが、この尾ひれを人間の足に変える薬を持っているって」
魔法薬製造者のキラは、ピンクの髪を海流に揺らめかせ、首を振った。
「ダメと言ったらダメです」
「お願い。あたし、あの人にもう一度逢わないと、死んでしまうわ。あんたは、まだ小さいから、この気持ちが分からないのよ」
「……あるにはあるんですけどね」
「ほら、やっぱり持ってるんじゃない。早く、その薬を飲ませて」
「制約が、とても厳しいんです、この薬は」
「制約……?」
「まず、飲むと、その時から声が出なくなります」
「声が……」
「それから、この薬で作った足で地上を歩くと、刃物の上を歩いているような痛みを感じます」
「……」
「それから、最後の制約。リナさんが想った人と結ばれなかったとき、リナさんは海の泡となって消えてしまいます。これでも、この薬を飲みますか?」
「飲むわ」
「リナさん……!リナさんの、その、甘い、綺麗な声もなくなってしまうんですよ」
「かまわない」
リナは、深紅の瞳を上げた。
「あの人にもう一度でも逢えるのならば、なんだって我慢するわ」
キラは、震える手で、リナに薬の瓶を渡した。
「劇薬ですからね。一口だけ、飲んで下さい」
「分かったわ」
リナは、迷いなく瓶の口を開けると、一口、その薬を飲み込んだ。
(にが……)
変化はすぐに起きた。リナの尾ひれが二つに分かれ、細い、なめらかな脚になった。つま先は小さく、貝殻のように壊れやすそうに見える。
「リナさん」
(キラ……)
返事しようとして、出来なかった。
「もう、声が出ないんですね。これ、特別に私から贈り物です」
キラは、珊瑚の小さな板に、貝殻で「Lina」と彫りつけた。
「地上の人たちの使う文字で、「リナ」と書いてあります。本当は、あなたがその王子様を助けたことも、王子様と愛し合わないとあなたが海の泡となって消えてしまうことも、書いてあげたいんですけど、私は複雑な文章を人間の文字で書けるほど、人間の言葉に詳しくないので……」
(ありがとう、キラ。これで充分よ)
リナは、口の形だけでそう言うと、珊瑚の板を受け取った。

リナは、二本の脚をばたつかせ、最後に一度だけ姉を見に行った。厳しくて、優しかった姉。
(ごめんなさい)
リナは、出ない声でそう言うと、真っ直ぐ水面へと昇っていった。

脚で泳ぐのは、尾ひれで泳ぐのと違って、ひどく疲れることだった。リナは、王子を送り届けた海岸まで、必死で泳いだ。やがて水の色が明るくなり、柔らかな砂浜が姿を現す。リナは、最後は腕の力ではい上がり、疲れ切って意識を失った。裸の肌に、潮風が沁みた。

彼女の愛は深くてとうめいな川
あなたの海へとそそぐ

王子は、毎朝のようにその砂浜へと足を運んだ。あの時、誰かが自分を助けたのだ。頭にかすみがかかったように、ぼんやりとした記憶しかないけれど。嵐の翌朝、自分は船から投げ出された位置からはほど遠い、この砂浜に横たわっていたのだという。
「大変です、王子様」
王子は、ふっと意識を現実に戻した。
「少女が倒れております。裸です」
「少女……?」
その長い栗色の髪。覚えがあるようで、ないようで、王子の頭は混乱する。
「王子様、いかが致しましょう」
「王宮へ運べ。手当が必要かもしれない。医者を呼べ」
王子の部下が、リナを抱き上げた。髪に隠された顔を見ようと、王子は近づいた。その時、リナは目覚めた。大きな深紅の瞳が、王子を見る。
「どこかで、貴女に会ったような気がする。貴女の名は?」
(リナ)
声を出そうとして、リナはその声がもうないことを思い出す。
「手に何か持っていますね。身元の手がかりになるかもしれません」
王子の部下が、リナの固く握りしめられていた右手を開かせる。「Lina」と彫られた珊瑚の板がこぼれ落ちる。
「リナ……この子の名前でしょうか?」
リナは、まだ目覚めきらない意識の中で、うなずいた。
「リナさん。貴女を王宮までお連れします」
リナは、うなずいて、再び意識を失った。

気がつくと、リナは天蓋付きの大きなベッドに寝かされていた。淡い桃色の、寝間着を着ている。慌てて身体を起こすと、目眩がした。再びベッドに倒れ込む。
「リナさん、まだ無理をしない方がいいですよ」
優しい、高い綺麗な声。リナは、声の主に向かって弱々しく微笑んだ。
「僕の名前はゼロス。この国の王子です」
(ゼロス)
唇を動かす。でもそこから声は出ない。
「貴女は、リナさん、でよろしいんですね?」
リナはこくりとうなずく。
「貴女は、しゃべれないんですね?」
もう一度、リナはうなずいた。
「食事の支度が出来ています。起きあがれますか?」
リナは、ガウンを着せられ、ベッドの下に足をつける。
(痛……っ)
刃物を素足で踏む痛みが、リナを襲った。体重をかけて立ち上がると、痛みは更に激しくなった。
(うう……っ)
リナは、一歩踏み出すたび、よろめいた。そんなリナを見たゼロスは、
「目眩でもするんですか?」
と言って、近寄ってきた。リナは、その胸に抱き込まれ、抱え上げられる。

「まだ、ベッドから起きあがるのは無理だったみたいですね。食事はベッドに運ばせましょう」
リナは、足の痛みより、ゼロスに抱き上げられたことの方が嬉しかった。ベッドに戻ると、食事が運ばれてきた。食器も、トレイも、全てぴかぴかの銀で出来ている。ふたを取ると、魚のムニエルが現れた。リナは、魚は食べられない。全く手を付けないでいるリナを見て、ゼロスは言った。
「魚は、お嫌いですか?」
リナはうなずく。ゼロスは魚の皿を下げさせ、肉料理の皿を持ってこさせた。リナは同じように、皿から立ち上る匂いさえ苦しくて、手を付けることは出来なかった。
「野菜や、果物はどうでしょう?」
リナは、何とか微笑んで、うなずいた。サラダと、新鮮な果物の盛り合わせが運ばれてきた。リナは、夢中でそれらをたいらげた。お腹は、ひどく空いていたのだ。やっと満たされたリナは、ゼロスに向かって微笑みかけた。
「リナさんは、野菜や果物しか食べられないんですね」
リナは、再びうなずいた。そして思う。こんな、わがままばかり言っている身よりのない娘を、いつまで王子が面倒を見るだろうか?
「リナさん、どうしたんですか。悲しそうですよ。お家が恋しいのですか」
リナは首を振った。しかし、ゼロスは話を続けた。
「あなたの似顔絵を作って、国中に張り出します。それで、きっとお家の人も見つかりますよ」
リナは、心細げな瞳をした。ゼロスは、リナの肩に手を置いて言った。
「それまでは、貴女のことは僕が責任を持って守ります。あの嵐の翌朝僕が打ち上げられていた砂浜に、貴女もまた裸で打ち上げられていた。運命のようなものを感じるんです。それに、」
ゼロスは、リナの顔にそっと指を触れた。
「貴女は、とても美しい。まるで、伝説にある人魚のように」




「人魚姫」をまんまゼロリナにしただけだー!手抜き?って感じですが。でも、書いているうちになんかリナちゃんに感情移入してしまいました。やっぱり古典は偉大。では、後編もよろしくお願いします。

ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。ただ「人魚姫」をゼロリナに置き換えてみたのですが、結構好評でした。古典はやっぱりすごいものがありますね。


次へ