彼女の海岸線［３］




「すっかり夜の海になってしまいましたね」
「星が、綺麗……」
あたしとゼロスは、二人きりで潮風に吹かれていた。波の音は、ざわめいた心を落ち着けてくれる。
「リナさん」
「は、はい」
おもわず真剣になる。
「あれから３通、同様の脅迫めいた手紙が来ました」
「……！」
「たぶん、リナさんのファンなんですよ。愛情を裏返しにしか表現できないタイプなんでしょうね」
「あたし、怖いです」
「大丈夫。うちの編集部が、僕が、貴女を守ります。大事な作家さんに手を出させたりはしません」
ゼロスはそう言って、あたしの肩をそっと引き寄せた。不思議と、嫌じゃない。あたしは、頭をゼロスの肩にあずけた。しばらくあたしたちはそうしていた。


高校の卒業式が来た。式次第を終わって外に出ると、校門の前にはずらりと車が並んでいた。どの車も花束を積んでいる。大人の彼のいる女生徒が、彼氏のステータスを見せびらかすために迎えに来させるのだ。
「あーあー、皆さん彼氏がいて羨ましいこって」
その時、あたしの携帯が鳴った。ゼロスからだ。
「ゼロス。今どこ？」
「貴女の目の前ですよ」
気がつくと、校門のすぐ前に、ゼロスのダークブルーのセダンが止まっていた。あたしは電話を切る。ゼロスが降りてくる。
「卒業おめでとうございます」
そう言って、彼は一抱えもある薔薇の花束をあたしに手渡した。冷たくて、ずっしりと重い。
「あ、ありがとう」
「それから、これを」
「……小切手？」
「いままであなたが『少年コミック』に載せた４作の、原稿料です。やっと貴女に渡せる」
原稿料。生まれて初めて、あたしが稼いだお金。
「じゃ、海へ行きましょうか」
「その前に、うちに寄っていって。この薔薇を、生けなくちゃ」
「はいはい」
春の海は、光が煌めいて、とても綺麗だった。まだ冷たい風が、あたしの髪をかき乱していく。
「リナさん、連載、する気はありますか」
「連載！？あたしみたいな、ぽっと出の新人が連載なんて……」
「あなたの今まで載せた４作は、いずれもアンケートの結果がよかった。当然の提案です」
「連載たって、どんな話を描いたらいいのか分からない……」
「今までの、貴女の世界を拡げるだけでいいんです。大丈夫、僕がついていますよ」


あたしは、家を出て、小さなアパートを借りた。敷金・礼金は姉ちゃんに前借りした。
「原稿料が溜まったら返すから」
「応援してるわ。しっかり稼ぎなさいよ」
アメリアの他に、漫研の後輩が４〜５人、代わる代わる来てくれるようになった。
「リナさん、アシスタントの皆さん、差し入れですよ」
「わー、サーティーワンのアイスクリーム！」
「あたしチョコレートね」
「あ、リナさんずるい。じゃあ私はロッキーロード」
ゼロスも、ちょくちょくこのアパートに顔を出していた。
「リナさん、原稿は進んでますか」
「まかせてよ」
あたしの連載は、結構な人気があった。アンケートの成績も悪くない。正統派少年漫画を描いていないことからすれば、上々の結果だろう。ペンの進みも早くなろうというものだ。
「リナさん、絵柄が前よりいっそう繊細になりましたね」
「そう？自然に描いてるだけだけど」
「いえ、この調子で続けて下さい。再来週のネームは出来ていますか？」
「うん、ここにあるわよ」
「見せて下さい……うん、うん、いいですね。これは長期連載になるかも知れません」


あたしの初めての単行本が出ることになった。連載と、今まで描いた短編を合わせたものだ。表紙の書き下ろし、原稿の手直しなどで、ただでさえ連載で忙しいあたしは、てんてこ舞いになった。
「うわー、このころって下手だったんだなあ」
「うーん……だいぶん絵柄変わりましたね」
アメリアも覗き込んで言う。
「ほんとなら、全部描き直したいところだけど、そう言うわけにも行かないしねえ……」
「このころの作品にはこのころの良さがありますよ」
「どわっ！？ゼロス？」
いつの間にかゼロスが上がり込んできていた。
「ごめんくださいくらい言うものよ」
「言ったんですけど、こちらで盛り上がっていたもので……ところでリナさん、サイン会の日程が決まりましたよ」
「さ、さ、サイン会！？」
「小さな本屋さんです。緊張することは何もありませんよ。貴女の作品にはコアなファンがついているようなので、遠方から来られるファンの方もいるでしょうね」
「サインって……あたし、ふつうに『リナ＝インバース』としか書けないわよ」
「それで充分です」
「サインが芸がないんだから……せめて、カットくらいつけてあげたいなあ」
「じゃあ、頑張ることですね。それともう一つ。今週のファンレターです」
「……例の赤文字のファンレターはまだ来てるの？」
「リナさんの気にする必要はないことですよ」
「ということは、まだ来てるのね」
「勝手に書かせておけばいいんです。それでは、再来週のネームを拝見……」


サイン会の日は、雨だった。はっきり言って、あたしのサイン会なんて誰も来ないんじゃないかと思っていた。ところが、小さな書店の外にまで、傘の列が並んだ。
「大人気ですね」
「ねえ、開始時間、繰り上げられない？」
「いいですけど、どうして？」
「雨の中、待ってる人が可哀想。早く、中に入れてあげたいの」
「優しいですね、リナさんは」
「サイン会を開始しまーす。押さないように並んで下さーい」
係の人の声が響く。あたしは、差し出された単行本に一冊一冊、サインしていった。小さなカットもつけて。握手を求めてくる人もいた。一緒に写真を撮って欲しいと頼む人もいた。あたしは、どちらにも応じた。列の尻尾が、店内に入ってしまうと、あたしはほっとした。
「想像してたより、ずっと可愛いですね」
「これからも応援します」
「がんばってくださいね」
「身体を壊さないで」
ファンの人の、優しい声。あたしは、満面の笑顔でそれに応えた。今日は、いつかゼロスが買ってくれたベージュのワンピースを着ている。ゼロスの優しさに包まれているようで、安心する。もちろん、本物のゼロスも脇に控えていてくれるんだけど……
「まだ、描いてるんだね」
不思議な言葉を聞いて、あたしは手を止めた。
「はあ？」
「あれだけ警告したのにさ。まだ、描くのを止めないんだね」
目の前に、折りたたみナイフが突き出されたのを、あたしは呆然と見ていた。
「その可愛い顔に傷をつけてあげるよ。二度と描く気にならないように」
ゼロスが、とっさにその男の手首を捻り挙げた。男は
「邪魔するな！」
と叫ぶと、ナイフを左手に持ち替えて、ゼロスの手に斬りつけた。血がぱぱぱっと散る。
「ゼロス！いやあ、ゼロス！」
あたしが叫ぶ。係員の人が側に来て、男の腹を蹴り上げ、ナイフを奪った。
「リナさん、大丈夫ですか……」
「ゼロス。ゼロス、大丈夫なの」
「ちょっと切られましたけどね……大したことありません」
「これは、縫った方がいいですよ。救急車を呼びましょうか」
「いえ、タクシーで行きます。リナさんのせっかくのサイン会に、おじゃまですからね」
「ばか！そんなこと言ってる場合なの」
「僕はメタリオム社の社員です」
ゼロスは毅然と言った。
「うちの社のホープのサイン会を、こんなことでめちゃくちゃにするわけには行きません」
ナイフ男は、書店員に後ろ手を縛られ、店の裏口から警察に連れて行かれた。ゼロスは、静かに会場を離れると、タクシーで病院に向かったそうだ。
「皆さん、サイン会を再開します。トラブルがあって、申し訳ありませんでした」
係員の人のアナウンスを合図に、再び列が動き始めた。
「あ、リナ＝インバースさん、血が……」
ファンの人に言われて気づく。ワンピースの胸に血が散っていた。あたしは、涙が出そうになるのをこらえて、笑顔を作り、サインとカットを描き続けた。

サイン会が終わると、あたしはすぐに、タクシーでゼロスの行った病院に駆け付けた。ゼロスは、薬を待つベンチで、静かに座っていた。左腕を吊っている。
「ゼロス……ごめんね、本当にごめんなさい」
「なんてことないですよ。４針縫っただけです」
「痛かったでしょ？」
「別に」
そして、あたしのワンピースを見た。
「せっかくのワンピースに、血の痕が付いてしまいましたね」
「ワンピースなんてどうでもいいの！」
あたしは泣いていた。
「ゼロスを傷つけるなら、サイン会なんてもうしない」
「僕の方こそ」
ゼロスは、無事な右手であたしの手を掴んだ。
「あんな脅迫状はどうせ単なるいたずらだろうと思って、警備をちゃんとしていなかった。今日のことは僕のミスです。貴女に、怖い思いをさせてしまってすみませんでした」
そして、あたしの頭をくしゃくしゃ、とかき混ぜた。
「しばらく、運転できなくなってしまいました。サイン会のお祝いに、海に連れていってあげようと思っていたのに」
「いいの……ゆっくり、傷を治して」


単行本は、順調に巻数を重ねた。あたしの預金通帳には、今まで見たこともない金額が振り込まれていた。あたしは、姉ちゃんに、アパートの敷金と礼金を返した。
「ありがと、姉ちゃんがこのお金貸してくれたから、作品が描けたようなもんだよ」
「こちらこそ。利子付きで返してくれるなんて思わなかったわ」
「あ、こちらでしたか」
ゼロスが顔を出す。
「アパートの方にいらっしゃらないので。リナさん、今週の土曜日、『少年コミック』の発売部数３００万部突破記念のパーティーがあるんですよ。行きませんか？」
「パーティー……そんな、着ていく服もないし」
「また僕が奢りますよ。ガウリイ＝ガブリエフも来ますよ」
「行くっ！！」
「現金ですね、リナさんは」
あたしは、わくわくしながら土曜日を待った。

ゼロスに買ってもらった薄紅色のロングのワンピースを着て、あたしはパーティー会場に立っていた。はっきり言って、ゼロス以外知り合いは誰もいない。あちこちで談笑がなされる中、あたしはひたすら美味しいローストビーフを胃袋に詰め込んでいた。
「イメージと違って、結構食うんだな」
声をかけられて、振り返る。ガウリイ＝ガブリエフがほほえんでいた。
「あ、ガブリエフ先生！」
「ガウリイでいいぜ。同じ雑誌の連載陣同士じゃないか。それにしても、そんなにほっそい身体でよくこれだけ食えるな」
「ガウリイ……さん」
「ガウリイでいいって」
「覚えてますか？あたしの手にキスしてくれたこと」
「…………お、おーおー。漫画家になりたいって言ってた女の子に、そんなことしたこともあったな」
「あたし、その時の子です」
「へえ。うちのホープのリナ＝インバースがねえ。俺も、先見の明があったな。でも、そういえばあの時も、すっげえかわいい女の子だったことは覚えてるよ。綺麗になったな、リナ」
あたしは、たぶん真っ赤になってたと思う。
「なあ、抜けださねえか？」
「は？」
「俺、こういう華やかな席は苦手なんだ。どっかで静かに呑もうぜ」
「あ、あの……」
「僕のリナさんを勝手に連れ出されては困ります」
「よお、ゼロス。今はその子の担当なのか。いいじゃねえか、ちょっと貸してくれよ」
「ダメです。今日は、リナさんを出版界の色々な方にご紹介するんですから」
ガウリイはふっと笑って、
「そうか。今はその子に一途なんだな」
と言って離れていった。
「僕は、昔ガウリイさんの担当だったこともあるんです」
「ふうん、人事異動とかあるんだ」
「そりゃありますよ」
「じゃあ、ゼロスがあたしの担当を離れちゃうってこともあるってこと？」
「ありうることですね」
「……」

嫌だよ。そんなことになったらすごく嫌。でも、その言葉は唇から出なかった。

「じゃあ、再来週で、僕の担当は最後になります。後を担当してくれるのは、ゼルガディス＝グレイワーズさん。有能な方ですよ」
嫌。その言葉を、言うことができない。
「再来週のネームを見せて下さい」
あたしは黙ってノートを差し出す。
「……うーん、リナさん、これ、本気で描きましたか？」
「一応」
「このネームでは、うちの雑誌には載せられませんね。もう一度全面的に描き直して下さい。どうしたんですか、リナさんらしくないですよ」
「わかりました。描き直します」
そしてあたしは、アパートから消えた。


「リナさんが出ていくとき、何か変だと思わなかったんですか？」
「そう言えば、大荷物を持って……でも、実家の方に戻られるんだと思って、気にもしていませんでした」
「今日までに原稿が上がらないと、紙面に穴が開いてしまう。そのことを、リナさんが知らなかった訳じゃないと思うんですが……」
「ここからだと、空港が近いです。リナさん、飛行機に乗ってどこかに行っちゃったんじゃ……」
「冗談じゃないですよ！……そうだ、アメリアさん、あなたの原稿、持ってますか？」
「え、ええ。持ってますけど……」
「リナさんが捕まらなかったら、あなたの原稿をお借りします。僕は、ちょっと空港まで行ってみますから……」

北の国の空港の、白いカフェで、あたしは熱いコーヒーを飲んでいた。

逃げて、きちゃった。

今頃、あたしのアパートは大騒ぎだろう。ゼロスは、たぶん怒ってる。でも。
もう、あたしはゼロス以外の担当さんのもとで原稿を描くことは出来ない。

「コーヒーだけじゃ、お腹が空くな。何かサンドイッチでも注文しようかな……」
目の前に、ゼロスが立っていた。
「ゼ、ゼロス！？どうしてここが」
「探しましたよ」
ゼロスは、あたしの目の前の椅子にどっかと腰を据えた。

「空港の乗客名簿を片っ端から調べて。警察のものだって嘘をついちゃいました。さて、聞かせてくれますね。どうしてこんなことをしでかしたんですか」
「ゼロスには、関係ない」
「それでもプロですか！」
ゼロスはテーブルを叩いた。周りの客が、何事かと振り返る。
「貴女の原稿の穴は、アメリアさんのデビュー作が載ることになりました。ちょうどページ数が同じでよかった。でも、貴女が逃げ出したことで、どれだけの人に迷惑をかけたか……分からないではすまされませんよ」
「じゃあ、アメリアの担当でもしてればいいじゃない！」
自然に涙が溢れてくるのを止められない。
「あたし、あんたのもとでしか……」
「……なんですか？」
「あんたのもとでしか、原稿、描けない！他の担当さんなんて嫌よ。ゼロスでなきゃ描かない！」
「やれやれ」
ゼロスは、頭を押さえて、深い紫の瞳であたしを見た。あたしは気圧されて黙る。
「これは、あなたが表紙と巻頭カラーを取ったときに取っておこうと思っていた台詞なんですが」
ゼロスは、コーヒーを一口飲む。
「貴女が好きです。愛しています」
「ゼロス……！」
「僕と結婚して下さい。一生幸せにします」
「ゼロス、あたしも、あたしも……あんたしか、愛せないわ」
「本当に……これはもっと後まで取っておく台詞だったんですからね。プロポーズは、表紙＆巻頭カラーまでお預けです」
「分かってる。あたし、絶対、勝ち取ってみせるわ」


三年後。
「リナさん、最近線が荒れていませんか」
「あら、そう？担当さんからは何にも言われないけど。文芸局の担当のあんたが、漫画のことなんて分かるの？」
「誰のせいで文芸局に移転になったと思ってるんですか」
ゼロスはあたしの頭をくしゃくしゃとかき混ぜる。
「でも、ストーリーはいいですよ。最高です。今や単行本売り上げランキングに必ず顔を出す貴女の最初の担当だった僕は、誇らしいです」
「でも、こないだの売り上げ、アメリアに並ばれるところだったのよね」
「ゼルガディスさんは名担当ですからね。でも、まだ貴女にはかなわないでしょう」
ゼロスは、あたしを後ろから抱きしめていった。
「僕の奥さんは、日本一の美少女少年漫画家なんですから」
「ねえ、海、見に行こうか」
「いいですね」
あたしとゼロスは外へ飛び出していった。




サイン会で切りつけられそうになるリナちゃんは、吉野朔実の「少年は荒野を目指す」をちょっとパクリました。すみません。それから、最後に文芸局に転属されてしまうゼロスは、白倉由美さんの「セーラー服物語」からのパクリだし……ほんとにすみません。自分なりに、ゼロリナに咀嚼しているつもりではありますが……どちらの作品も、私の大好きな作品です。それでは、また明るい話でお会いしましょう。
ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。書いていたのを忘れていたとはいえ、こうして読み返してみると楽しんで書いているのが分かるような……誰かのパクリだと生き生きする羽久でした（なんていけない。）


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