Ｌｉｎａ〜いもうと［１］




いもうとをやめて　あなたのこいびとに　なるわって　頬はさんでくれる


階下から、香ばしい匂いが漂ってくる。
「お兄ちゃーん、ケーキ焼けたよー」
「はいはい」
僕は階段を下りる。ピンクのミトンでまだ熱いオーブン皿を掴んだリナさんが、僕に向かって微笑む。僕は高校一年生。リナさんは中学二年生。
「甘いものが苦手なお兄ちゃんのために、今日は甘さ控えめのキャロットケーキにしてみました」
「何も僕の好みに合わせることはないんですよ」
「何言ってるの。あたし、お兄ちゃんに食べて欲しくてケーキ焼いてるんだから。今、切るからね。それから、紅茶も」
「紅茶は、僕が淹れましょうか？」
「あーだめだめ。紅茶もあたしにさせて。得意なんだから」
「リナさんは料理は何でも得意ですね」
「食べるのが好きだもん。でも、お兄ちゃんに食べさせるのも楽しみなのよ」
ティーポットから流れる紅茶を漉しながら、リナさんは言う。
「さ、できた。食べて」
「いただきますよ」
ケーキをフォークで切って、口に入れる。確かに甘すぎず、上品な味だ。
「どう？どう？美味しい？お兄ちゃん」
「美味しいですよ。いっそう腕を上げましたね」
「やっりい。お兄ちゃんに誉められた」
リナさんは嬉しそうに微笑む。
「じゃ、あたしも食べようかな」
一切れ切って、皿に移し、フォークを入れる。
「うん、美味しい！あたしってば天才！」
リナさんは、あっという間に一切れのケーキを食べてしまい、もう一切れ切り取る。
「お兄ちゃんは、おかわり要らない？」
「欲しいですね。厚めに切って下さい」
「はーい」
どん、と厚く切られたキャロットケーキを、僕は頬張る。
「人参の匂いなんて全然しませんねえ」
「ほのかな甘みがあるでしょ？それが人参の名残」
二切れ目を食べ終わって、リナさんはもじもじする。
「あ、あのね、お兄ちゃん」
「なんですか、リナさん」
「残りのケーキ、あたしがもらっちゃっても構わないかな？」
「ええ、どうぞ。僕はもう満腹です」
「えへへ……ありがと」
リナさんは、豪快にケーキを食べ始めた。僕は、そんなリナさんを見守る。
「何よ、お兄ちゃん。あたしが食べるとこ見てて楽しい？」
「楽しいですよ」
「どうしてよ」
「そんなに食べたものが、どこに消えてしまうのかなあと思って」
「どーせあたしは胸が小さいですよ」
「そ、そんなこと言ってないじゃないですか。それに……」
「何？」
「ぼくは、小さな胸の方が好きですよ」
リナさんはかあっと赤くなる。
「お兄ちゃんの馬鹿」
リナさんは紅茶を飲んで、またケーキに取りかかった。
「あら、いい匂い。リナ、またケーキを焼いたの？」
「あ……母さん」
「あたくしの分は残してくれた？」
「ご、ごめんなさい。食べちゃった」
「あらあら。こんど作るときは、あたくしの分も考えてね」
「ごめんなさい、母さん」
「ゼロスは食べさせてもらったのね。うらやましいわ」
「とても美味しかったですよ。リナさんはいいお嫁さんになりますね」
「ほんと？お兄ちゃん」
「ええ、本当ですよ」
「ふふ、夢のお嫁さんにまた一歩近づいたなあ」
母さんは、長い金髪をかき上げて言う。
「リナ、あなたは成績がすごくいいんだから、主婦なんて目指すことないのよ。なんでもなりたいものになれるじゃない。お医者さんでも、弁護士でも」
「あたしがなりたいのは、いいお嫁さんだけなの。お料理も掃除も洗濯もアイロンがけも上手くって、旦那様の帰りを毎日とびっきりのディナーを作って待つお嫁さん」
「変わってるわね、あなたは本当に……」
母さんはため息をつく。
「まあ、あなたは家事もとても上手いから、それはいいお嫁さんになるだろうけど……」
「あ、母さんのブラウス、アイロンかけておいたから。いつもみたいに、びしっとなってるわよ」
「ありがとう、リナ。あたくしは家事が苦手だから、あなたがそんなで助かるわ。……ねえリナ。あなたの将来の旦那様は、どういう人がいいの？」
「それは、秘密です」
「全く。いつもそれなんだから。あなたがどんな男の人を連れてくるのか、楽しみなような、怖いような……」
「すごく素敵な人を連れてくるわ。心配しないで」
「待ってるわ」
そんな会話を聞いて、僕は少し胸を痛める。いつか、誰かのものになってしまうリナさん。やれやれ。僕は、思う。僕は、リナさんに恋をしているんだ。


僕が、リナさんを愛し始めたのは、いつごろからか分からない。でも、ものごころついたときから、僕はリナさんが可愛くてたまらなかった。紅茶みたいな色の、柔らかな髪。可愛らしく、整った顔立ち。でもいつの日もあどけなくて……。そして、宝石のような深紅の瞳。それを飾る、長い睫毛。果実のような、紅い唇。
僕は、いつもいじめっ子からリナさんを守っていた……と言いたいところだが、実際はそんなことはなかった。リナさんは、男の子も含めて、近所で最強の子供だった。
「リナさん、また擦り傷を作って……喧嘩したんですね」
「ふん、あいつらが砂場を占領するからよ。それにしてもぜんぜん手応えないわね、あいつら。あれでも、男なのかしら」
「勝ったんですね」
「あったりまえよ！」
「誰かにいじめられたら、僕が守ってあげるって言ってるのに」
「お兄ちゃんがいなくたって、あたしは負けないわ」
「……本当にそうですね。ちょっと寂しい」
「お兄ちゃんも、誰かにいじめられそうになったらあたしに言って！いつでも助っ人するわ」
「妹に守ってもらうほど、僕は情けない男ではありませんよ」
そう。妹。二つ年下の、僕の、大切な、妹。
「とりあえず、その擦り傷の手当をしましょう」
「大げさよ。こんなの舐めとけばなおっちゃう」
「じゃあ……」
僕は、リナさんの腕の擦り傷を、そっと舐める。
「お兄ちゃん……」
「痛くないですか？」
「ううん。舐めてくれてありがとう！じゃ、あたし、また公園に行って来る！」
駆けていくリナさんの後ろ姿を眺めながら、僕は口の中に残ったリナさんの血の味を味わっていた。僕と同じ血が流れている、リナさんの身体。その血が、僕と違うものだったらいいと、どんなに夢見たことか。大きくなれば、いずれは誰かのもとへ行ってしまう、僕の大切な妹。
「僕たちは、大きくなんてならなければいい」
そうすれば、僕たちはいつまでも一緒にいられる。一緒に遊んで、勉強して、ご飯を食べて……たくさん食べるリナさんのために、僕の食事を分けてあげて。

「……ちゃん、お兄ちゃん！」
いつのまにかリナさんが僕の顔を覗き込んでいた。
「どうしたの、ぼーっとしちゃって」
「リナさんこそ。公園に行ったんじゃなかったんですか」
「友達、帰っちゃってて、誰もいないの。ねえ、一緒に遊んで？」
「もちろん、いいですよ」
僕たちは、手をつないで公園まで行った。リナさんの小さな手を握りしめる僕の手は、汗ばんでいたと思う。
「何をして遊びますか？」
「砂の山を作ろう。そして、トンネル掘るの」
「いいですよ」
僕たちは、大きな砂山を作った。ぽんぽんと叩いて固めると、両側からトンネルを掘り始めた。冷たい砂を掘り進んでいくと、まるでそれ自体が一つの生き物のような、リナの小さな手に触れた。僕は、その手をぎゅっと握る。
「えへへ、トンネル、開通だね」
リナさんは嬉しそうに微笑む。僕は、砂にまみれたその手をぎゅっと掴んだ。
「なに？お兄ちゃん、痛いよ」
リナさんはとまどったように言う。それでも、僕はその手を離さなかった。

「ブランコしましょう」
「わーい。お兄ちゃん、背中押して」
「いいですよ。それじゃあ、押しますからね」
リナさんの小さな身体が大きく揺れる。リナさんの身体が戻ってくるたび、ぼくはリナさんの細い背中を押した。
「うわー、気持ちいい！景色が、びゅんびゅん動くよ。お兄ちゃん、もっと押して！」
リナさんはブランコが水平になるほど揺れて、そしてその頂点からジャンプした。すとっと、地面に着地する。
「リナさん！危ないでしょう」
「何言ってるの、お兄ちゃん。これくらいへっちゃらよ」
「いくら運動神経がいいからと言って……怪我でもしたら、どうするんですか」
「もちろん、お兄ちゃんに舐めてもらう」
僕は、顔が赤くなるのを感じた。
「さ、次はお兄ちゃんを押してあげる。ブランコに乗って」
「僕はリナさんみたいに飛び降りませんよ」
「なによ、意気地なし。そんなお兄ちゃん、嫌いになっちゃうかも」
僕は焦った。
「分かりました。飛び降ります。だから、僕のこと、嫌いにならないで下さい」
「じゃあ、お兄ちゃん、がんばれ〜」
リナさんが僕の背中を押す。ブランコは、次第に大きく揺れ始める。
「リナさん、後は僕がこぎます。リナさんは離れていて下さい。危ないですよ」
ブランコが水平になるほど漕いでから、僕は思い切って前へ飛び出した。なんとか、形になるように着地する。
「お兄ちゃんー、ぱちぱちぱち」
リナさんが手を叩いていた。
「かっこよかったよ、お兄ちゃん」
僕はまた赤くなる。僕はすぐに赤くなるのだ。
「楽しかったね。帰ろうか」
リナさんは、砂にまみれた小さな手を僕に差し出した。僕はその手をしっかりと掴んだ。二人は帰り道をたどる。
「今日は、すっごく楽しかったね！」
「ええ。本当に楽しかった」
リナさんは、深紅の瞳で僕の瞳を覗き込む。
「お兄ちゃんは、あたしみたいな子供と遊んで、つまんなくないの？」
「何を言うんですか」
僕は、つないだ手を大きく振った。
「リナさんと遊ぶときが、僕は一番楽しいですよ」


ある日、リナさんは画板と画用紙とクレヨンを持って、僕の部屋に入ってきた。
「な、なんですか？」
「宿題。一番好きな人を描きなさいって」
リナさんは平然と言って、画板に画用紙を挟み、クレヨンの箱を開ける。
「一番好きな人？」
「みんなは、母さんとか描くみたいだけど、あたしはお兄ちゃんが一番好きだから」
「母さんよりも？」
「母さんは大好きだけど、お兄ちゃんはもっと好きなの」
「本当ですか」
「本当よ。さあ、こっちを向いてじっとして。あたしのモデルになって」
「いいですよ」
僕は椅子を回して、リナさんの方を向く。リナさんは、熱心にクレヨンを動かしていた。
「お兄ちゃんの髪は黒くてさらさらだから、黒いクレヨンがいっぱいいるわね」
僕は、立ち上がってリナさんの絵を覗き込む。
「だめ！完成するまで、覗かないで」
リナさんは画板を抱え込む。僕は苦笑して、おとなしく椅子に腰掛けてじっとしていた。
「できた！」
「見せてくれますね」
「うーん……」
リナさんは不満そうだ。
「見てもいいけど、怒らない？」
「僕がリナさんを怒るわけないでしょう。さ、見せて下さい」
クレヨンの迷った跡がさんざん残る、僕の似顔絵。肩までの僕の黒髪が、ごしごしと滑らせた黒のクレヨンで現されている。
「良く描けてるじゃないですか」
「違うの。違うの。お兄ちゃんは、もっとかっこいいの」
「そうですか？」
「こんな絵、お兄ちゃんの格好良さをちっとも描けてない。あたし、図工は５なのに……」
「僕は、この絵は充分素敵だと思いますよ」
「ほんとはね、もっと格好良く描くつもりだったの。ごめんね」
「何を謝ることがあるんですか」
「あたし、もっと大人になって、もっと絵が上手くなったら、もう一度お兄ちゃんを描く。それまで、待ってくれる？」
「もちろん待ちますが」
僕はリナさんの画板を取り上げていった。
「僕は、この絵も大好きですよ」
「ほんと？」
「本当です」
リナさんはようやく微笑んだ。太陽の光が射したようだ、と僕は感じた。
「じゃ、これを提出するね。お兄ちゃん、モデルありがとう」
「どういたしまして」
リナさんはクレヨンを片づけると、部屋を出ていった。
「一番好きな人、ですか……」
僕は一人でつぶやいた。
「僕も、リナさんが一番好きですよ」


台所で、リナさんが何か格闘している。泡立て器で、何かかき混ぜているようだ。甘い匂いが漂っている。
「リナさん、何を作ってるんですか？」
「あ、お兄ちゃん！まだこっちに来ちゃ駄目！」
リナはボウルを抱え込んだ。
「楽しみにしてて」
僕は、ダイニングテーブルについて、漂ってくるバニラの匂いをかいだ。やがて、トレイにグラスを乗せて、リナさんがふらふらと近づいてきた。
「これは……」
「ミルクセーキよ。学校で習ったの」
「そういえば、一昨年、僕も習いましたね……」
「いいから、飲んでみてよ」
氷の入ったグラスに口を付ける。もともと甘いものがそんなに好きではない僕だが、それはいい香りがして、美味しかった。
「どう？」
「美味しいですよ」
「良かった。お兄ちゃんに飲ませたくて、頑張って作ったの」
「リナさんはいいお嫁さんになれますね」
「ほんと？」
「ええ」
「ふふ、嬉しいなあ」
「リナさんは、誰かのお嫁さんになりたいんですか？」
「うん。最高のお嫁さんになりたいの」
「誰のお嫁さんになるか、決めてるんですか？」
「それは、秘密です」




まず、すみません！冒頭の短歌は、穂村弘さんという歌人の、「いもうとをやめてあなたのともだちになるわって頬はさんでくれる」という短歌を改竄したものです。「この『ともだち』が『こいびと』だったらいいなー」という気持ちで勝手に変えさせていただきました。この小説のメインテーマです。それでは、今後ともよろしくお願いします。
ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。他人様の短歌を勝手に改変してしまっていいものでしょうか。でも、私はこの歌人さんの短歌がすごく好きです。おひまでしたら、本を探してみて下さい。素敵ですよ。


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