香港エトランゼ［１］



「はあ、はあ、はあ……」
闇の中を、ゼロスは走っていた。追っ手は何人だろうか。さっきはぐれたガウリイは無事だろうか。土地勘のない海辺の倉庫街を、ゼロスは走った。息が切れる。ゼロスは細い道に飛び込んだ。
「いない！？そんなわけあるか、もっと良く探せ！」
男たちの声がコンクリートの冷たい壁に反射する。
ゼロスは細い道を走った。行き止まりになっていた。
「くっ……」
今からこの細い道を飛び出すのは自殺行為だ。ゼロスは懐から銃を取り出した。装弾数は６発。替えの弾は無い。
「これで、どこまでやれるか……」
「何がやれるってのよ、お兄さん」
ゼロスはビクッと振り向いた。自分と同じ袋小路に、１４、５の少女が座っていた。今まで焦っていたから気づかなかったのだろう。
「こんなところで何をしているんですか、貴女は」
「ちょっとね。しつこい男から逃げてんのよ。あんたは」
「子供に説明できることではありません」
「ちょっと！人の事情は聞いておいて、自分はだんまり？しかも子供扱い？無礼な男ね」
「あまり騒ぎ立てない方がいいと思いますよ。追っ手が近くまで来ている」
少女は黙った。路地の前を、何人もの男が行き過ぎる。
「な、なんだお前たちは！じゅ、銃など持って！待て、撃たないでくれ、私はただの民間人だ。この倉庫街にはたまたま迷い込んだだけだ。すぐ、すぐ立ち去るから撃たないでくれ！」
ぱん、ぱん。乾いた音がして、パニックに陥った男の声は聞こえなくなった。
「可哀想に。あたしを追ってきたばかりに」
「どういうご関係で」
「単に、あたしを街でナンパしてきた男よ。ちょっとしつこいからこの倉庫街で巻こうとしたんだけど……今日は先客があったみたいね、ここ。さて、あんたも、相手の男たちも銃なんて持って、物騒ね。あんたが何者なのか、答えなさい」
「……僕は」
その時、狭い路地に強いライトが当てられた。ゼロスと、少女の姿が浮かび上がる。
「いたぞ！袋小路だ。……女と一緒だ」
「何者だ？その女は」
「いいから、二人まとめてやれ！」
男たちの声が響く。袋小路に、５、６人の男が入ってくる。
「貴女は僕の後ろに隠れて───」
「あたしの出番みたいね」
「は？」
ゼロスが呆気にとられていると、少女は立ち上がった。深いスリットの入った、チャイナドレスを身につけ、長い髪を二つのシニヨンにまとめている。
「食後の運動にはちょうどいいわ」
少女は、一番近い男の胸に裏拳をたたき込んだ。男は、うずくまって倒れる。
「おいおい、そんなお嬢ちゃんの拳骨で、倒れるこたあないだろう」
二人目。少女は、スリットから細い脚をのぞかせて、男の胸を蹴りつけた。
「ぎゃああっ」
「な、何だよ。大げさだな」
「あばらを……２、３本いかれた。気をつけろ。こいつ、ただの女じゃない……！」
「ただの女じゃない、ねえ。どう見てもガキにしか見えないぜ。可愛い顔はしてるが」
「ガキで悪かったわねえ！」
少女は軽々と飛び上がり、男の顔に膝をめり込ませる。男は、鼻血を盛大に吹き出しながら倒れた。
「そ、そうだ、銃を」
ようやく冷静さを取り戻したらしい二人の男たちが、ゼロスと少女に向けて銃を構える。
「助けてくれてありがとうございました。ここからは僕が……」
「ふん、銃なんて怖くないわ」
少女は、銃を構えた男の方へ走った。
「危ない！」
弾丸が発射される直前に、少女は跳んだ。
「うわっ？」
突然目標を見失った男は、後頭部をハイヒールで強打され、前にのめり込んで倒れる。
「あと一人！」
「お嬢さん、僕にもいいところを作って下さいよ」
ゼロスは、冷静に銃をあげると、残る一人の男の胸を撃った。
「うう……畜生」
最初に少女に胸を叩かれた男が、ゆっくり起きあがって銃を構える。
「懲りない男ね」
少女は、鋭い蹴りで男の手から銃をはじき飛ばした。落ちてきた銃を拾う。
「殺しちゃっても、構わないのかしら？それとも、こいつから何か聞きたい事情でもある？」
「いえ、片づけて下さってけっこうです」
「そうやって、いたいけな少女の手を汚すのね」
少女はくすっと笑って、男の頭を打ち抜いた。脳漿が飛び散り、あでやかな少女のチャイナドレスが汚れた。
「ゼロース！ゼロス！」
遠くから声が聞こえる。
「よかった、ガウリイさん、無事だったんですね！」
「ゼロス！どこだ」
「ここです！」
ゼロスは、袋小路を出た。長い、明るい金髪の男が、ゼロスに話しかけた。
「ゼロス、追っ手は？」
「そこの勇敢なお嬢さんが片づけてくれましたよ」
「確かに。死屍累々だな」
「うう……」
少女にあばらを折られた男がうめいた。
「みんな殺しちまったわけじゃないのか」
「あたしは殺しは専門外なの」
「でも、こいつらは全員始末しておいた方がいい」
ガウリイは、懐から銃を取り出すと、地面に横たわった男たちに、とどめをさした。
「なにも殺すことはないんじゃない？どうせこいつらもう動けなかったのに」
「お嬢ちゃんの顔を見られた」
「は？」
「こいつらが、お嬢ちゃんのことをゼロスの仲間だと思いこんだら、お嬢ちゃんに迷惑がかかるからな」
「別に、あたしとしてはどうでもいいんだけど……あんた、ゼロスって名前なの？」
「ええ」
「名字は？」
「おい」
ガウリイがゼロスに声をかけた。
「分かってますよ。お嬢さん、僕の名字は教えられません」
「なによ、それ」
「今日はありがとうございました、貴女は命の恩人です。何も差し上げる物がありませんが、これを……」
ゼロスは、ダイヤモンドのついたネクタイピンを外し、少女の手に持たせた。
「宝石店に持ち込めば、それなりのお金になるはずです」
「行こう」
「街まで送りますよ、お嬢さん」
「あたしの名前も聞かないの？」
「その方がいいでしょう」
「ふうん……あんたたちって何者なのかしら」
ゼロスは片目をつぶって、口の前で指を振った。
「それは、秘密です」
３人で歩いていると、繁華街に出た。ガウリイが手をあげて、流しのタクシーを拾った。
「ありがとうございました。さようなら、美しいお嬢さん。また会わないことを祈って……」
「……ええ。また会わないことを祈って」
タクシーは走り出した。
「１４、５ってとこか。えらく可愛い女だったな。ガキだし、胸は寂しいが。ゼロス、どうしてあの女と一緒にいたんだ？」
「僕が袋小路に逃げ込んだら、彼女もまた追っ手から身を隠していたんですよ」
「はあ。彼女を追っていた奴はどうなったんだ」
「僕たちの追っ手に勘違いされて、殺されたようでした。不運な方ですね」
「お前さんは。追っ手、５、６人はいただろう」
「彼女が片づけてくれました」
「何……っ！相手は素人じゃないんだぞ」
「どうやら彼女も、素人じゃなかったみたいですね、闘うことに関しては」
「まあ、お前が無事でよかったよ。お前に何かあったら、俺の首が危ないからな」
「ボディーガードなら、僕を見失わないで下さいよ」
「十何人に囲まれたんだ。勘弁してくれよ」
「まあ、僕も銃で応戦できなくはありませんが、替えの弾丸を持っていませんでしたから」
「じゃああの子は、お前にとっては幸運の女神だったわけだ」
「ええ。今日は、彼女がいなかったらと思うとぞっとしますね」
「名前くらい、聞いておきたくなかったか」
「彼女を僕たちの世界に巻き込みたくはない。あの子とは、もう二度と逢うこともないでしょう」
「そうだな───」
タクシーは、夜の香港へ消えていった。


「味が、落ちましたね」
「ああ。ひどいもんだ。これで、前と同じ値段を取るなら詐欺だな」
「最近、こういう阿漕な商売をする店が増えましたね」
「ここも、もう駄目だな」
「やれやれ、満足な食事をとれる店が減っていくのはわびしいものですね」
「仕方がない。植民地時代とは違うんだ。第一なんでお前が民間のレストランに食事しにくるんだ。おかかえの料理人もいるくせに」
「僕は、この街が好きなんですよ。おいしい料理を食べられるお店を知っておきたい。でも、今日はとんだハズレでしたね」
その時、店の奥で言い争う声が聞こえた。
「言いがかりです、味が落ちたなんでそんな……」
「言いがかりー？フカヒレの大きさからして違うじゃないの。味付けもひどいもんだわ。それで、前より高い値段を取ろうっていうの？」
「おやおや、僕たちの気持ちを代弁してくれる方がいらっしゃるようだ」
ゼロスは、微笑んでレジの前を見た。そして、固まった。
「…………」
「おい、どうした、ゼロス！」
「彼女、です」
「……ああ、本当だな。あの夜の、あの女だ」
またチャイナ服で身を包んでいる少女は、レジの前で怒鳴り続けている。
「とにかく！あたしは百しか払わないわよ。それ以上の価値があのディナーにあったとは思えないわ」
「困りますねえ、お客様……」
レジ係は、ちらっと店の奥に視線を送った。体格のいい、黒服でサングラスをかけた男たちが出てくる。
「お前みたいな小娘が？いい度胸だな」
「あーあ。こんなくだらないゴロツキを雇うお金があるぐらいなら、もっと料理のほうに力入れてよね」
「お嬢さん、決められた代金は払ってもらいます」
「……嫌よ、と言ったら？」
「お嬢ちゃんとはいえ手加減はしないぜ」
「おい、ゼロス。いいかげん助けに入った方が……」
「おもしろそうですね。見守りましょう」
「ゼロス、何言って―――」
がんっ。少女の足がほぼ垂直に上がり、黒服の一人のあごを蹴り上げた。舌か唇を噛んでしまったらしく、男の口から鮮血が吹き出る。
「うう……」
「こ、こいつ……」
もう一人の男が、少女を捕まえようと腕を伸ばした。その腕を引っ張るように少女は跳び上がり、男の顔に膝をめり込ませた。
「ぐ……ぐあああっ」
「顎と鼻の骨、たぶん折れてるから。すぐに病院に連れて行かないと、二人とも危ないわよ」
きれいな発音の広東語で彼女は言った。立ちすくんだ店主は、しばらく呆然としていたが、やがて電話をかけるためか奥に引っ込んでいこうとした。
「ちょっと待った」
少女が呼び止める。
「今日のお食事代……百でいいわね」
「た……タダで結構です。失礼しました」
「あたしだけタダってんじゃ申し訳ないわ。今日は、ひどいディナーのお詫びに、ここにいるお客さん全員タダってのはどうかしら？」
おおお、と客席から歓声と拍手が上がる。
「そ……そんなことをしたら、店がつぶれ……」
「ふーん、あんたもあたしの蹴りが喰らいたい、と……」
「わかりました。ここにいるお客さんすべてタダです！これでいいんでしょう」
「ええ」
少女はにっこりと微笑んだ。
「ガウリイさん、ちょっとお耳を」
ゼロスはガウリイに何事かささやいた。

「ふう。ろくでもないディナーだったけど、まあタダだったからよしとするか。それにしても、最近質の落ちた店が増えたわね。英国領だった時代とは違うか……」
少女はぼやきながらネオンの煌めく繁華街を歩いていた。その時、目の前に巨大な薔薇の花束が差し出された。すべて深紅の蕾で、３０本はある。
「な……何？」
「ぜひ受け取ってください」
花束を差し出しているのは、肩までの絹糸の黒髪を切りそろえた、品のいい男。２０代半ば、といったところか。きめの細かい、白い肌。整った顔立ちに、淡い笑みを浮かべている。その横に控えるように、金髪碧眼の背の高いハンサムな男がいる。どちらにも、はっきりと見覚えがあった。
「また、会ったわね。あんたたち。この花束は、何？」
「今日のディナーをタダにしてくれたお礼です」
「ああ、あの時、あんたたちもあの店にいたの。すごい偶然ね。……この馬鹿でかい花束の方が高くつくんじゃないの」
「あんなディナーにお金を使うくらいだったら、美しく強いレディに薔薇を贈った方がお金も喜ぶというものです」
「街中で、こんなものもらっても困るわ」
「これはこれは。配慮が足りませんでした」
ゼロスは、ガウリイに耳打ちした。ガウリイは、ポケットから薄い携帯電話を取り出すと、どこかにかけた。やがて、違法駐車の並ぶ繁華街に、黒塗りのリムジンが現れた。
「どちらまで」
「こちらのお嬢さんをお家まで。料金は……」
ゼロスは運転手の耳に口を近づけた。
「獣皇会まで請求してください。それとこれはチップ」
決して薄くはない紙幣の束を、運転手に握らせる。
「また、名前も聞かずにお別れするのね、ゼロス」
「僕の名前を覚えていてくださったんですね」
「忘れようったって、忘れられないわ。ゼロス」
「貴女の甘い声で名前を呼ばれるのは嬉しいですね。……なぜ、僕が深紅の薔薇の蕾を贈ったと思いますか？」
「さあ？わからないわ」
「貴女は花開く直前の蕾のような美しさをはらんでいる。そして、深紅は貴女の瞳の色です」
「気障ね、あんた」
「よく言われます」
リムジンのドアは閉まった。少女が内側から窓を開ける。
「あんたはあたしにあんたのことを知られたくないみたいだけど―――」
ネオンに煌めく深紅の瞳。
「あたしは、あんたに興味があるわ、ゼロス。もし、もう一度だけ出会うことができたら……あんたのフルネームを教えて。その時、あたしもあんたに名前を教えるわ」
「素敵な約束ですね。でも、貴女とはもう会わない方が、貴女のためでしょう」
「ふうん……」
少女はつまらなそうに口をとがらせた。
「お嬢様、行き先は」
「セントラルへ」
「かしこまりました」
リムジンは、違法駐車で狭くなった道など気にしないかのように、すうっと道を走り抜けていった。
「お前が、女に花を贈るなんてな。まあ、あの娘になら誰でも花を贈りたくなるか」
「ガウリイさんも？」
「ああ。さあ、俺たちも戻ろうぜ。半島ホテルのスイートルーム……獣皇会の本拠地にな」




まず、すみません！香港には行ったこともないし、知識もありません。そんな私が香港マフィアものを書けるのかというと……たぶん、へろへろになると思いますが、お許し下さい。それでは、続きもよろしくお願いします。
ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。「半島ホテル」というのは、そのまま英訳して「ペニンシュラ・ホテル」のことです。一度行ってみたい。そして午後のお茶してみたい！


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