Fam Fatal［10］





　詩絵羅は、大見世通りで雅瓜と落ち合った。
「あの異人のお客さんが商売をしてるのは、大黒屋さんで間違いないんですね？」
「ああ。確かにあそこに入っていくのを見た」
「じゃあ、雅瓜さんは、そのことをお上に報告して下さい」
「それが、本当に璃奈のためになるんだな？」
「ええ」
「じゃあ、今夜にでも行って来る」
　去っていく雅瓜を見ながら、詩絵羅はつぶやく。
「あたしは、本当に璃奈のためになることをしているの？」
　夏の夕暮れの風が後れ毛を揺らす。
「瑠奈さんもいなくなって……璃奈は誰を頼りに生きていけばいいのか……」
　詩絵羅は、つぶやき続ける。
「でも、あの異人に身請けされてここを出ていくのは、瑠奈さんに対する裏切りだわ。許すわけには行かない……でも、今日来るその異人に、璃奈を抱かせようとしているのはこの私……何故？」

　客は那河太夫を見る。那河も客を見返す。
「あの娘には会わせないわよ」
「分かっています」
「あんた、なら何のためにこんなに金を使うの？」
「あの娘がこのそばにいるのなら」
　客は目を細める。
「僕はいつだって幸せなんです」
「ふん……今日も新造を呼ぶ？」
「ええ」
「胸くそ悪いわね。さっさと行きなさい」
「では。失礼して」

「ゼロス」
「璃奈さん……どうしたんですか、そんなに痩せて」
「とても、とてもね……悲しいことがあったの」
　璃奈は、去っていった姉のことをゼロスに話した。ゼロスは、璃奈の華奢な肩を抱き寄せて、その話を聞いた。暑い夜だったが、互いの体温は全く気にならなかった。
「僕の国で、ルナというのは月の女神です」
「ふうん……」
「きっと、瑠奈さんも月のように遠くからでも貴女を見守ってくれるはずです」
「ありがとう。ねえ、リナという女神はいないの？」
「知りませんね。残念ながら」
「そ」
「でも、璃奈さんは僕の女神ですよ」
「ふふ、ありがと」
　そして二人は重なり合う。真夏の布団部屋は、風一つ入らず、ひどく蒸す。二人は汗だくになって抱き合い、唇を合わせた。
「ねえ……あたし、月の女神の国に行きたい」
　赤い振袖をきっちり着込んで、少しでも涼を取ろうと廊下に出る。月の光が、二人を見ている。
「ティーとスコーンの国へ行きたい。だれも、あたしの髪の色を気にしない国へ……」
「璃奈さん、本気ですか」
「姉ちゃんと一緒にいられないのなら、せめてあんたと添い遂げたい。あんたの国へ行きたいわ」
「分かりました、璃奈さん」
　ゼロスは、璃奈を力一杯抱きしめた。息もできないその腕の中で、璃奈はようやく幸せを感じる。
「僕の国から仕入れてきた宝石は、すべて問屋に売り払いましょう。そして、そのお金で、僕と璃奈さんはイングランドで幸せになる」
「ありがとう」
　璃奈は姉と別れて以来、ようやく微笑んだ。
「あたし、美味しい紅茶の淹れかたを勉強するわ」


「最近こないねえ、あの異人……王手」
「あ……負けました、姐さん」
「これで璃奈の八連敗」
　詩絵羅が半紙に×印をつける。
「璃奈、あんたずいぶんと将棋が弱くなったわねえ」
　那河が呆れて言う。
「でもあたし、ご飯はちゃんと食べるようになったでしょう？」
「それが不気味よ。瑠奈さんとあんな別れかたをして、一時期はげっそりやせ細っていたくせに、急にパクパクご飯を食べはじめて。どれ……」
「きゃ、きゃああ！　姐さん、何を……」
「胸の方も、前に比べればついてきたんじゃないかしら？」
　璃奈は襦袢の前をかき合わせて赤くなる。那河も、璃亜も、詩絵羅も、皆笑う。
「いいわね。久しぶり。みんなで笑うのって」
　那河は、かみしめるように言った。
「璃奈、今夜の花魁道中には来てもいいわよ。ふらふら歩くあんたを連れ歩いてもみっともないだけだと思っていたけど、今日は景気づけに、ね。思い切り奇麗に化粧してもらいなさい」

　久しぶりの花魁道中を楽しんで、璃奈たちは控えの間でお手玉をしていた。ふいにお手玉を落とした詩絵羅が、立ち上がって璃奈の手を引いた。
「なあに？」
「ちょっと廊下に出て」
詩絵羅は先に立ってさっさと出ていった。

「この簪、返すわ」
「え……だって、詩絵羅はあたしのためにお客様のおもてなしを代わってくれて……」
「私には、これを持っている資格がないの」
「意味が分からない。どういうこと」
「あんたにも直にわかるわ」
「ちょっと、詩絵羅……」
「さーて、今度は囲碁でもしよっかー」
　声の雰囲気をがらりと変えて、詩絵羅は部屋に戻っていった。
　その時。確かに璃奈は聞いた。璃奈を呼ぶ、愛しい声を。璃奈は廊下を駆け抜け、揚屋の前に下りる。
「良かった、いた！」
強く抱きしめられる。
「璃奈さん、事情が変わりました。今すぐ僕と逃げて下さい」
「え……？　そんな、今逃げたら足抜け、ということになって、あんたまで迷惑……」
「僕が日本人になりすまして商売していることが、密告されたんです！　何とか追っ手をまいてきましたが、ここも危ない。僕の国へ、貴女をつれていくんだ。すぐに港へ！」
「荷物は……」
「命さえあれば、後で買えます！」
　ゼロスは璃奈の手を掴むと、大門の方へ走り出した。
「江戸でご禁制の商いをしていた異人、ぜろすはここだぞ！」
　誰かの声が叫ぶ。腰に大小を下げたままの侍が、二人を取り囲む。
「女、その異人を引き渡せ。今ならお前の命までは取らない」
　璃奈は立ちすくむ。ゼロスは一歩前へ出る。
「僕が異人ですって？　何の証拠があってそんなことを」
「その紫の目が何よりの証拠。この国が外患を防ぐために鎖国をしていることは知っていような。女！　その異人から離れろ」
「ゼロスが異人だって言うのなら、あたしだって異人だわ！」
　璃奈は声高に叫んだ。
「紅い目、朽葉色の髪。でもあたしは日本人。それなら、ゼロスだって……」
「この異人は、宝石を売って作った日本の金を、国の外へ持ち出そうとしているのだ。将軍様の金小判を……到底許されるものではない。今ここで……斬る！」
　侍が刀を抜いた。見守っていた女たちが、悲鳴を上げる。
「ゼロスを斬るなら、あたしも斬って！」
　璃奈はゼロスに固く抱きつく。その時、強い力が肩に掛かり、璃奈は見物人の中に引きずり出された。
「姐さん……」
「太夫だ！　那河太夫だ」
　見物人が騒ぐ。
　那河は、璃奈を抱きしめたままゼロスに聞いた。
「異人さん、あんたはこの璃奈を手に入れたのね？」
「そう……です」
「じゃあ、璃奈をあの世まで連れては行かないわね？」
「ええ」
「璃奈、行くわよ」
「いや、はなして、姐さん……！！」
　ゼロスの肩から心臓にかけて、振り下ろされる刀。
「ゼロス！！」
　璃奈は力を振り絞って那河の手をほどき、ゼロスに寄り添った。
「璃奈……さん」
「ゼロス……痛い？　すぐにお医者様を……」
「いいんです。それより……くちづけを」
「死なないで、ゼロス……」
　璃奈は紅玉の瞳からぽろぽろと涙を零した。
「ああ、奇麗だ」
　ゼロスはつぶやく。
「こんな宝石は、見たことがない……」
　そして璃奈の顔を引き寄せ、唇をつける。頬に、そして唇に───
「……？」
　ゼロスの舌が、何か固いものを璃奈の口に含ませた。
　周りの土は、ゼロスの身体から流れた血でじっとりと湿っている。
「僕のファム・ファタル……」
　璃奈の腕の中で、ゼロスは微笑み、ゆっくりと目を閉じた。


　長旅の疲れが身体に堪える。璃奈は、そっと駕籠から外の風景を見た。南の国、長崎。石造りの天主堂の前を、駕籠はゆっくりと通り過ぎる。
『璃奈は、異人がいいんだろ？』
そう言って、薬で長い黒髪を金に染めた雅瓜に、璃奈は笑った。
『そんなに可笑しいかなあ。これを見せた奴はみんな笑うんだ』
『雅瓜。あたしが好きなのは異人じゃないのよ。あの人だけ』
『そう言われるだろうと思ったよ。いいよ、俺は傾奇ものとして、みんなに笑われてやるから……これからお前、どこへいくんだ』
　瀕死のゼロスが璃奈に口移しに渡したのは、粒の大きな、みごとな金剛石だった。璃奈はそれを売った金で吉原を抜け、長崎まで駕籠を走らせている。出島までは後少しだ。
『イングランドへ行く。あの人の生まれた国へ』
『馬鹿。もうあいつはいないんだぞ。言葉も通じねえ蛮国へ行って、女一人でどうする気だ』
『何をしてでも、食べてはいけるわ』
『身体を売っちゃ、駄目だからな』
　璃奈は駕籠に乗る。御簾をまくり上げて、最後に雅瓜に伝える。
『那河姐さんに、もう一度謝っておいて。最後まで、許してくれなかったから』
『璃奈、俺もお前に許してもらわなくちゃいけないんだ』
『知ってる』
『そっか』
『許してあげる。だって、私のためを思ってしたことでしょ？』
「お嬢さん」
　駕籠屋が声をかける。
「ここから先は、異国です。歩いてお行きなせえ」
「はい」
　璃奈は駕籠を下りて、紅玉の簪を髪から抜いた。結った髪がはらりと崩れて落ちる。潮風に、璃奈の豊かな紅茶色の髪がたなびいた。




すみません、死にオチです。ところで、正直、金を積んだからと行って、江戸時代に異国へ渡れるものでしょうか。私はまた嘘を書いているかも知れません。まあ、適当な小説ですのでご容赦下さい。それでは、十日間ありがとうございました。次は二万ヒットを目指します。



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