悠久美術館














　ぼろぼろの白い服。ばさばさの、それでも艶やかな赤い髪。零れ落ちそうに大きな、仔猫の瞳。一人の少年が、暗い、巨大な建物の前に立った。
「ようこそ」
　明るい声。少年がそちらを向くと、こざっぱりした真っ白な服を着た、オレンジの髪の少年が微笑んでいた。
「お客さんだね。何百年ぶりかな。今日は、蒼い空にすじ雲が綺麗に出ていたから、きっといいことが起こると思ってたんだ」
　赤い髪の少年は呆気に取られたように聞いている。オレンジの髪の少年は続ける。
「僕の名前はセンゴク・キヨスミ。ラッキー（↑）センゴク、って呼んでもいいよ。もちろん、センゴク、でも、キヨスミ、でも好きなように呼んでくれていいけど」
「センゴク、俺の名前は……」
「ストップ」
　センゴクは、赤毛の少年の唇に人差し指を当てた。
「キミは、この悠久美術館（エターナル・ミュージアム）に辿りついた。ということは、もう君が持っているのは、そのぼろぼろの服と、キミの名前だけ。この限りなく広い美術館の中で、キミの想い出を一つでも見つけられなかったら、君はこの悠久世界から抜け出せなくなってしまうよ。入場料の代わりに、キミの名前を貰う。キミを呼んでいい存在は、ボクだけになるんだ。それでもいい？　この美術館に賭ける？」
「賭ける」
　大きな瞳は存外に……強い意思を見せた。
「じゃあ、キミの名前を」
「エイジ」
「可愛い名前だ。キミにぴったりだね、エイジ」
　センゴクは微笑んだ。エイジは、裸足のまま入り口の大理石の階段を上がり、大きな両開きのドアを押した。

「……」
「驚いた？」
　センゴクは、呆気にとられているエイジの頭をくしゃりと撫でる。
「広いでしょ」
「……うん。どこまで続いてるの？」
「今まで人が想いを重ねた数だけ、だよ。無限と言ってもいい。例えばキミが、ああこのセンゴクってお兄ちゃんカッコイイ、と思えば、また一枚飾られる絵が増える」
「思わないけど」
「残念」
「で、俺はここで何をしなくちゃいけないの？」
「探すんだよ。君の想いを描いた一枚の絵を。そうしないと……キミはこの『悠久の世界』から帰れなくなってしまう」
「にゃんで、俺、ここに来ることになったのかな。全然覚えてない」
「キミは、夢を使いすぎたんだ。『現実』の世界で。君の想いをかなえるために、一人の人間に与えられる夢の数をすべて使ってしまった。そういう人間が、ここに辿りつく。最後のチャンスを求めてね。──でも、永かったな。最近は、夢を叶える為に夢を使いすぎてしまう純粋な人間が減ったから、ボクはずいぶん永い間独りぼっちだった。……まあいいや。さ、エイジくん。壁の絵を一枚ずつ良く見て。何か、君の心に引っかかる絵を見つけ出すんだ」
　エイジは、一枚一枚の絵を丹念に眺めていった。絵は、たいてい訳のわからないものばかりだった。半分溶けたような、チーズのような人体。羽根をむしられて、なお羽ばたこうとする鳥。半分は水を滴らせ、半分は燃え上がった緑の木。
「……ぜんぜんわかんにゃい」
「まだ始めたばかりじゃないか。どこかにきっとあるよ、キミのための絵が。──ところで、キミって、よく『にゃ』って言うね。猫みたいで可愛いや」
　むっとした顔を一瞬向けて、エイジはまた絵を見始めた。


「疲れた……」
　エイジがそうつぶやくと、センゴクはぱちんと指を鳴らした。たちまちそこにはテーブルと椅子が現れる。テーブルの上には、湯気の立つおいしそうな食事が並べられている。
「うわ、センゴク、魔法使いみたい……」
「ボクはホントに魔法使いなんだよ」
　エイジは椅子に座って、銀のスプーンを手に取り、「いただきます」ときちんと言って、シチューを食べ始める。スプーンを口に入れ、少し眉をしかめ、また掬って、また眉をしかめ……。
「エイジくん、シチュー、美味しくない？」
「美味しい……のかにゃ……よくわかんない」
　またスプーンを口に入れて、眉をしかめる。
「エイジくん、キミひょっとして、猫舌なんじゃない？」
「ネコジタ……」
「もっと、冷ましてごらん。スプーンに息をかけて」
　ふー、ふー。エイジは真剣な顔で、スプーンの中のシチューに息を吹きかける。
「食べてみて」
「あ、美味しい。熱くない」
「やっぱり」
　少し切なげに、センゴクは笑う。
「そんなことも、忘れてきてしまったんだね。キミは、とっても猫舌だったんだよ。……ふふ。にゃんにゃん言う猫みたいなキミが猫舌だなんて、ホント可愛い」
　エイジは、ただぼうっとセンゴクの言うことを聞いていた。そして、またスプーンに息を吹きかけ始めた。

「ごちそうさま」
「ごちそうさま」
　センゴクが指をぱちんと鳴らすと、テーブルが食器ごとふわりと消える。エイジは感心したような顔でそれを見ている。
「さて、どうする？　もっと絵を見る？　それとも、今日はもう疲れた？」
「疲れた」
　ぱちん。指を鳴らすと、白いベッドが現れた。
「じゃあ、眠ろう。明日の朝になれば、また元気も出る。沢山の絵を見られる」
「センゴク」
「何かな？」
「これ……すごく大きなベッド」
「そりゃそうだよ。ボクとキミは一緒に寝るんだから」
「……嫌」
「なんにもしないよ」
「当たり前だー！！　そうじゃにゃくても、男と一緒に寝るのは嫌」
「ダメかな？　ボクは何百年も独りで寂しかったんだ。久しぶりに誰かと一緒に寝たい」
　エイジは少し考えて、そして答えた。
「いいよ。一緒に寝てあげる」

「エイジ」
「にゃに」
「キミは可愛いね。とても可愛い」
「くだらない事言うと、ベッドから蹴り落とすから」
「くだらない事なんかじゃないさ。ボクは、久しぶりに会う人間がキミのような子で嬉しいんだ」


　エイジが目を覚ますと、横で頬杖をついて、センゴクがエイジの顔を覗き込んでいた。
「おはよう」
「……にゃにしてるの」
「キミの寝顔を見てた。可愛い」
　エイジは言い返す気にもならなくて、ベッドから飛び出した。

　黄金色のトーストに、黄金色のバターを塗って。悠久美術館の朝ごはんはとても美味しい。エイジは黙々と食べた。センゴクは、相変わらず嬉しそうにそれを見守っていた。
「さて、絵を見なくちゃ」
　エイジはトーストと果物を食べ終わると、昨日の続きから絵を観る事を再開する。空から降る羽根、手足の無いトルソー、笛を吹く少年。まったくでたらめに並べられた絵に、エイジの心に引っかかるものは無い。
　少し疲れたな、と思っている頃、センゴクが姿を現した。
「どう？　見つかった？」
「まだ」
「これ、キミにあげる」
　センゴクの手の中に、綺麗なガラスのビーズを沢山あしらった、髪留めがあった。
「じっとしてて」
　エイジの赤い髪を少しかきあげ、センゴクはパチンと髪留めをとめる。
「うん、良く似合う」
　エイジは、ぽかんとしていた。
「……どうしたの、これ」
「ボクは暇人だからね。造ったんだ。ガラスの珠に糸を通して……誰かにプレゼントしたかった。キミが来てくれたからプレゼントできた。ありがとう」
「センゴク」
　エイジは、手を上げて、そっとセンゴクの頬に触れた。
「ありがとう、を言うのは俺」
　そして少し照れた顔で、髪留めに触わる。
「綺麗なものをありがとう」
「キミの赤い髪に、色とりどりのガラスは映えるね」
「そーかにゃ」
　エイジは少しだけそっぽを向いて……そしてまた熱心に絵を眺め始めた。


「今日のプレゼントは指輪だよ」
「……センゴク」
「なあに？」
「こんなことしてもらう筋合い、俺には無い」
「いいんだよ、ボクがあげたいんだから」
　エイジはガラスのアクセサリーで飾り立てられていた。髪留め、ペンダント、ブローチ、ブレスレット、アンクレット……。
「キミはとても綺麗な子だ。そんな子にボクのアクセサリーをつけてもらえるなら嬉しい。ボクはこんなアクセサリーを作りながら、ずっと待ってたんだ。それが似合う子がここにやってくることを」
「……俺、男だけど」
「関係ないさ」
「この、綺麗なガラス、どこで手に入れるの？」
「……そうだね」
　センゴクは、オレンジの頭をかき回した。
「今日は、絵を観るのは休み。少し散歩しよう」

　悠久美術館の周りには、深い緑が滴り、小さな清い川が流れている。
「覗いてごらん」
　エイジは、言われるままに川を覗き込んだ。
「あ……」
　澄んだ川の底に、きらめくガラス玉が見える。色はとりどり。赤、青、緑、紫……。
「ここでガラス玉を拾って、針で穴を開けて、糸を通してアクセサリーを作るんだ。独りぼっちの時は、暇つぶしにはなったよ。でも、今、キミはそれを身につけていてくれている。こんなにうれしいことは無いんだ」
　エイジは、しばらく川の底を眺めていた。そして、立ち上がると、センゴクの頬に唇で触れた。
「エイジ……」
「お礼。男からキスされても嬉しくないと思うけど」
「ううん、キミみたいな可愛い子からなら、大歓迎さ」
　センゴクは、幸せそうにエイジの触れた頬を押さえた。


　悠久美術館は、奥へ奥へと続いている。エイジの心に触れる絵は、まだ見つからない。夕食のエビフライを食べながら、センゴクは言った。
「もしかして、ここにはキミの探し物はないんじゃないかな」


「どういうこと」
「キミはもともと、この悠久の国の住人だったんだよ。くだらない現実（リアル）に帰る必要なんて無いんだ」
「そんな……」
　エイジは下を向いた。エビフライの上に、涙が落ちた。
「そんなこと、ない」
　洟を啜り上げながら、エイジは言う。
「俺は、すごく心の中が空っぽなんだ。寂しい。きっと、……良くわかんないけど、その『リアル』の中に俺の心を満たしてくれる人がいるんだ」
　センゴクは、少し苦く微笑んだ。
「ボクがいても、空っぽ？」
　エイジは顔を上げる。
「綺麗なガラスで全身を飾っても、心は空っぽのままなの？」
「そ……そんなことない。センゴクは優しい。俺、色々貰って嬉しい」
「じゃあ、さ。」
　センゴクは、エイジの瞳をじっと見た。
「ボクと一緒に、ここの管理人にならない？」

「え……」
「ボクは生まれた時から、この姿だった。……あ、髪の毛は違うな。黒髪だった。鏡を見るたびに気が滅入るから、木の実の果汁で、オレンジに染めたんだ。気に入ってる」
「……」
「でも、もう辛くなったよ。独りぼっちで、この無限に近い美術館を管理するのは。誰かが欲しい。そばにいてくれる誰かが」
　エイジは、センゴクの眼を覗き込んだ。
「それって、誰でもいいんじゃないの？」
「ちがうよ。キミがいい。可愛くて、柔らかくて、寝顔が幼くて、僕の造ったアクセサリーの良く似合うキミがいい」
　エイジは黙った。センゴクの目は真剣だ。自分の身体に纏いついた、沢山のガラスビーズ。それが、自分をセンゴクに繋ぎとめるのだろうか。
「センゴク」
「なんだい」
「あと一日だけ……探してみる。俺だけの、一枚の絵を。それで、見つからなかったら」
　エイジは大きな目に決意を浮かべていた。
「センゴクと一緒に、ここの管理者になるよ」


　いつもの、真っ白な、フカフカのベッドで二人は眠る。エイジは眼を閉じている。センゴクは、そっとその頬に触れ、そして唇を近づけた。
　エイジが、ぱちっと目を開けた。
「エイジくん……」
「センゴク」
　エイジの声は蜂蜜の様に甘い。
「キスしたいんだろ？　してもいいよ」
「エイジ……」
「寂しかったんだよね。キスくらいしたいよね。俺、センゴクのこと好き。嫌じゃないから、キスして」
　センゴクは、エイジを抱きしめた。そして、薄桃色のエイジの唇に唇を重ねた。数百年の、数千年の、数万年の寂しさが溶けていく。
「……センゴク」
「下の名前で呼んでよ」
「何だったっけ」
　センゴクは、オレンジ色の頭をかき回した。
「キヨスミ、だよ」
「うん。……キヨスミ」
「エイジ」
「キヨスミ。綺麗な名前」
　しばらく二人は固く抱き合っていた。
「眠れる？　エイジくん」
「うん。お休みなさい」
「おやすみ」


「今日、エイジくんの絵が見つからなかったら、エイジくんはずっとこの悠久美術館でボクと一緒にいるんだよ」
「うん。分かってる」
　蜂蜜のクロワッサンとカフェラッテの朝食を済ませて。二人は壁の絵を一枚一枚眺めた。
　この、美術館は、その名のとおり悠久。今日一日で、エイジの探してる絵が見つかるわけが無い。
　センゴクは、自分に言い聞かせて、エイジの後ろをそっと歩いていた。
　でも、予感していた。自分は、独りぼっちなのだ。それは、この姿に生れ落ちた時からの運命──。


「見つけた」


　エイジがそう言ったとき、センゴクはオレンジ頭をくしゃりと撫でた。
　やっぱり、ね。

「どんな絵？」
　センゴクは覗き込む。壁にかかったその絵は、額に落ちかかる髪の特徴的な、端正な顔立ちの少年の絵だった。白地に、肩に青と赤の線の入ったポロシャツを着て、テニスのラケットを持っている。
「これは、キミの友達？」
「わかんにゃい」
　エイジは、にはは、と笑った。
「でも、すごく懐かしい気持ちになる。この絵を観てると。──そして、分かる。こいつ、俺を探してる。一生懸命、探してる。俺は行かなきゃ。こいつのために」
　センゴクは、ほんの少し……それよりも少し、長い間、黙ってその絵を見つめていた。そして、意を決したように言った。
「じゃあ、壁から外して、梱包してあげるよ。エイジ、この絵をしっかり抱えて行って。そうすればこの悠久世界の出口に出られる。現実（リアル）に帰れる。きっと、この男の子にも逢えるよ」
　壁の絵に手をかけて、床に下ろす。
「包んできてあげるから、少し待って」
　ぱちん。指をはじくと、壁の一部にドアが出来た。センゴクは、絵を抱えてその中へ入っていった。


「……」
　センゴクは、のろのろと紐と包み紙を取り出した。絵の中では、ラケットを持った少年が遠くを見ている。エイジが求めていた人。エイジを求めている人。
──自分から、エイジを取り上げる人。
　センゴクは、テーブルの上からカッターを手に取った。絵に歩み寄る。カッターの刃を出し、絵に向かって手を振り上げる。
「……キヨスミ、何してるの」
　冷や汗がどっと出た。エイジが、扉を開けて中に入ってきていた。
「あ……これは」
　あわててチキチキ、とカッターの刃を仕舞う。エイジは、哀しいほど真っ直ぐな大きな目で、センゴクを見つめる。
「キヨスミ、絵を傷つけようとしていたの？　切ってしまおうとしていたの？」
　ちがうんだ、と言いたいけれど……言い訳の仕様も無い。醜い、醜い自分。カッターをテーブルに放り出して、センゴクは鮮やかなオレンジ色の頭に両手を入れてぐしゃぐしゃにした。
「──ごめん。どうかしてたんだ。ボクは……キミが欲しかった。でも、分かってたんだ」
　血が出るほどに、頭をかきむしる。
「ボクは勘がいいから。今日、最後の一日、キミがこの絵を見つけてしまうこと、分かってた」
　罵ってくれればいい。ボクは卑怯者だ。絵の中のこのハンサムな少年に嫉妬している。
「ボクは……」
「いいよ、キヨスミ」
　センゴクは顔を上げた。
「側にいるよ。一緒にここの管理者になろう。だって、俺、ここのご飯好きだもん。キヨスミが魔法で作るご飯、好きだもん。エビフライはプリプリだし、オムレツはフワフワだし」
「エイジ……」
「こんな綺麗な飾り、いっぱいくれたし。俺、綺麗なものも好き。もっとくんろ？」
　エイジは優しく笑っていた。その髪に、その首筋に、その胸に、その指に、その足首に。数え切れないほどの、煌くガラスのアクセサリー。
「カッター、貸して」
　エイジは止める間もなくカッターを手にし、チキチキ、と刃を出す。
「この絵が無くなれば、俺は現実（リアル）に戻ることはもう無い」
　エイジは、迷い無くカッターの刃を絵に当てた。そして、びくりと刃を止める。センゴクが、カッターの刃を素手で握っていた。真っ赤な血が、絵の上に滴った。
「……だめ、だよ」
「キヨスミ！」
「キミは、この男の子のところへ帰らないとダメだ」
「キヨスミ」
　エイジは自分の服の袖を裂いた。センゴクの手の傷に巻きつける。白い布は、見る見る赤く染まる。
「嬉しかったよ」
　センゴクは、血に濡れた右手を隠すようにエイジに言った。
「君のその言葉で、ボクはあと何百年……もしかしたら何万年続くかもしれない独りぼっちを生き抜くことが出来る」
「センゴク！　一緒にいるってば」
　センゴクは、エイジの少し上を向いた鼻をちょん、とつついた。
「ボクにだって、プライドがあるんだよ。さっきは、それも失くそうとしてたけど……キミをここに縛り付けたら、ボクは最低の人間になる。──まあ、ボクは人間じゃないけどね」
　センゴクは、作業を再開した。白い包み紙で、片手で抱えられるほどの大きさの絵をくるみ、麻紐をかける。
「持ってみて。持ちやすい？」
　エイジは、ためらいがちにそれを受け取った。
「うん。持ちやすい」
「じゃ、さよならだ」
　ぱちん。
　二人は、いつしかこの大きな、いささか大きすぎる美術館の入り口に立っていた。
　ぱちん。
　センゴクがもう一度指を鳴らすと、その手の中に一足の履き易そうな布靴が現れた。
「これは、おまけ」
　エイジの前にひざまずき、片方ずつ靴を履かせる。
「この先も長いから。エイジの可愛い足が傷ついたら可哀想だ」
「『可愛い』」
「どうかした？」
「センゴクは、いつも俺のこと、可愛い、って言ってばかりだ。俺、男なのに」
「エイジは、死ぬほど、可愛いよ」
　美術館と同じ悠久の命を持つ管理者は、そう言ってエイジの頭をなでた。
「『エイジ』……」
　赤毛の少年は、不思議そうにその単語を繰り返した。
「『エイジ』って何？　誰かの名前？」
　ああ、キミは。最後の持ち物を失ってしまったんだね。
「さあ、出発するんだ。その絵がキミを導く。現実（リアル）に帰れる。そして、キミは失ったものをすべて取り戻す」
「お前は？」
　もう、『センゴク』とも、『キヨスミ』とも呼んでくれない。
「待つよ」
「何を？」
「次のお客さんが来るのを」
　赤毛の少年は、しばらくセンゴクの前をうろうろしていた。そして、センゴクにしがみつくと、伸び上がって唇にキスをした。
「……！」
「ありがと、……えっと、お前。俺のこと、忘れないで」
　そして、新しい靴の靴音を立てて、美術館の入り口の階段を軽やかな足取りで下りていく。
「ばいばい」
「はい、ばいばい」
　森の中に消えていった少年の面影を抱えたまま、センゴクは少し泣いた。悠久の管理者としては失格の行為だが、今くらい許されると思う。
「テニスの、ラケットか……」
　エイジも、テニスをするのだろうか？
「ボクも、あの子とテニスをしてみたいな」
　永久にかなわぬ夢。
「さて……と」
　美術館の前の小川に降りて、せせらぎの中からガラス玉を拾い上げる。赤、青。緑、紫。そして、ぱらぱらとそれを川に落とす。
　しばらくは、誰のためにも飾りを作る気にはなれない。しばらくは……百年？　千年？
「エイジ」
　もう、その名の持ち主は失ってしまった名前を唇に乗せる。
「大好きだった」
　オレンジの髪をくしゃりとかき回し、センゴクは美術館の中に入っていった。

　次の来客を待つために。








なんとなく千石が好きなので、英二と会話させてみました。話のアイデアは、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」です。全然違う部分と、アイデア丸ごといただき！の部分がありますけどね。英二が見つけた絵の中の少年は、大石です。