「おっチビーっ」
　簡単に抱きつかないで。
「元気してた？　んー……ちょっと背、伸びたかにゃ」
　大分伸びたんだから。
「よしよし、少年。成長期なんだにゃ」
　そうだよ。俺は成長期。一年前──あんたが高等部に行ってしまう前に、あんたに対して抱いていた「よくわからない、むずむずとした、困った、でもイヤじゃない」気持ちの正体も分かった。
「筋肉もずいぶんついて。抱き心地いいかも」
　心地よい重み。いい匂いは何の匂い？　ヘアワックス？　それとも、コロンでもつけてんの？
──どっちにしろ、あんたはいつもいい匂いだったよね。汗だくの練習の後でさえ。それって、生まれ持ったフェロモンってやつ？
　俺は見事に、惹きつけられたよ。

「──エージ先輩」
「んー」
　顎に細い指を当てて。先輩はちょっとだけ、春霞の空を見上げる。
「おチビ！　２年生になったお祝いに、特別に今日から、そっちから抱きつくことを許そう！」
「……はーい」
「……もっと嬉しそうにできにゃいのかな、この子は」
　ぐりぐり。拳骨を頭に押しつけられる。
　だから、そんなに簡単に、スキンシップとらないでってば。分かんないかな、この人は。


　──欲情しちゃうじゃん。


「エージ先輩。高等部の部活ってどうっすか？」
　あたりさわりのない話題で、ぐちゃぐちゃの感情を誤魔化す。
「それがさぁ〜」
　エージ先輩はみるみるしおれる。
「球拾い！　部室掃除！　ラケット磨き！　信じられる？　全国制覇を成し遂げたメンバーが、下働きなんてしてんの。俺とかまだいいよ。あの手塚が！　不二が！　ゾーキンで床拭いたりしてんの。参っちゃうよ、ホント」
「ふーん。変な感じっすね」
「でも」
　くるっ、と上目遣いして、にっと笑う。この人、どこまで分かってやってるのかな。自分の「可愛さ」、どこまで自覚して使いこなしているんだろう。
「夏までには、ここの旧３年全員、レギュラー取ってみせるかんね。ま、高等部も去年はいいとこ行ったらしいけど──」
　そして満面の笑顔。
「全国制覇メンバーに敵うはずないでしょう！　うん！」
「そっすね」
「おチビが高等部にきたらさ。球拾いとかさせないから。すぐにレギュラーにしてやる……って、たぶんこれは手塚が決めることだろうけどにゃ」

　そして、今度は正面から俺を抱きしめる。もともとそんなに大きくないエージ先輩と、一年で１０センチ以上伸びた俺。まだ俺が小さいけど、顔の位置はずっと近くなった。

　甘い匂い。
「おチビ、桃と海堂を引っ張って」
　甘い声。
「もー一回、全国制覇してね」

「無理っス。先輩たち、どれだけ自分たちが強かったか自覚してるんすか」
「あはは、俺たち強かったもんね」

　虫歯にそっと舌で触れるように、俺は痛い質問をする。
「大石先輩と、また、ダブルス組むんですか？」
「あたりまえじゃん。俺たちはずっと一緒だもん」
「分かんないじゃないですか。高等部の先輩と組まされるかもしれませんよ？」
「そん時は辞退する」
「もったいないっすね」
「おチビも聞いたっしょ？　俺がたった一度シングルスをやったときに、誓った言葉」

　──もう、「大石以外と」ダブルスはやんない──

「高校でも、……まあ、進学できれば、大学でも。社会人でも、もしかしてプロになれても。俺は、大石以外の誰ともダブルスはやんない」
　痛い。触れてしまった虫歯はずきずき痛む。この人は、分かって無いけど分かっているのだ。テニス以外のどんな「ダブルス」でも、一生、大石先輩以外をパートナーにする気はないのだと──その笑顔が。幸せそうな笑顔が語っている。

　だから、俺はたった一つの石つぶてをこの人にぶつけて。そして諦める。
　この人を手に入れることを、きっぱり諦める。

「エージ先輩」
「にゃに？」
「去年の俺の誕生日に、受験生なのに皆俺のうちに来て、パーティーしてくれましたよね」
「うんうん。あれは楽しかった。受験生だったからって、気にすること無いよん。どーせ、内部──」
　俺はエージ先輩のうすべに色の唇に指を当てて黙らせる。
「エージ先輩と、大石先輩が、洗面所行ったことありましたよね」
「あったっけ」
「……キス、してましたよね？　廊下で」
「な」
　あはは。エージ先輩、めちゃめちゃうろたえてる。顔どころか、首筋も耳も真っ赤にして、表情がくるくる変わって。しまった、っていう顔。恥ずかしいって顔。ごまかせるかな、って顔。どうしようって顔。どの顔も可愛いってば、エージ先輩。とても年上とは思えないし、コーコーセーとも思えない。
「あ、あ、あの、あれは」
「いいですよ。誰にも知られたくないのなら、黙ってます」
「そ、そお？」
　安心した顔が無防備すぎて。だから、俺はちょっと背伸びをする。

　唇が、一瞬触れる。

　また、首筋まで真っ赤になってしまった先輩に、俺は言った。
「『これ』で、黙っててあげます。──お幸せにね、エージ先輩」
　こら、とか、先輩脅かすな、とかぶつぶつ言いながら、先輩は離れていく。
　きっとまた、抱きついてくれることもあるだろう。言葉を交わす事だって、これから無数に。
　でも、今。先輩は、俺から離れていく。永遠に。あの人にとって愛しい誰かの腕の中へ帰っていく。

「まだまだ、だね」
　俺は俺につぶやく。らしくなく、視界が滲んだりするから。