森へおいで…後編
負けろ！ ボクは強くそう願っていた。呪っていた。 負けてしまえ！！ そのボールを落とせ！ そのボール、アウトになれ！ 指が白くなるほどに、祈りの手を握り締めた。 負けろ！ 英二と大石は、２年生にして全国大会で一勝を修め、彼らは『黄金ペア』と呼ばれるようになった。ボクのささやかな呪いは、効果を発揮しなかった。 うらやましい。 『黄金ぺア』でも何でもいいよ。形がほしい。ただの『親友』は、いつしかふっと消えてしまいそうな淡い関係で。それに比べて英二と大石の絆はどんどん強くなっていく。あいつらは、上手くポイントを決めてハイタッチする時に、かすかに指を絡め合わせる。英二の幸せそうな笑顔が眩しさを増す。ああ、もう……そのボールを落とせ！ 負けてしまえ！ 「今日は、大石の家で晩ご飯食べるから」 一緒に帰れない、と、そう言う君。 「大石と、新しいフォーメーションの特訓するから」 一緒に帰れない、と、そう言う君。 誰と話すときにも、鼻にかかった甘い声であまえる君。だけど、大石に話しかけるときには、糖分５０％増。それじゃ、ペットだよ。ご主人様にやっと構ってもらえる、甘えん坊の猫じゃないか。 そして、大石も、英二に甘えられて、嬉しそうにしてる。幸せそうに、英二の頭なんて撫でてる。 触るな。ボクの英二に触るな。テニスでは到底ボクに敵わないくせに、どうしてそんな風に英二を手に入れることが出来るんだ？ 「──不二」 ボクははっと顔を上げた。手塚が、ボクの隣に立っていた。急に恥ずかしくなって目を伏せてしまう。ボクはきっと、卑しい顔をしていた。 「何か、苦しいのか？」 ぶっきらぼうにそう尋ねられる。……ボクはかつて思った。手塚なら、ボクの空虚を分かってくれるんじゃないか、と。でも、今のボクの、凝り固まった嫉妬を相談できるほど、ボクたちはまだ親しくない。 「別に。手塚こそ、いつも苦虫を噛み潰した顔してるけど、悩み、あるのかな？」 ボクは贋物の笑顔を作る。心の防御壁。今は、手塚も入れてやらない。 二年生になって、英二は見違えるように綺麗になった。バランスの悪いほどに大きかった瞳も、上を向いていたわんぱくな鼻も、収まるべきところに収まった感じだ。黙って立っていると、本当に綺麗。そして、黙っていないとき──笑っているとき、怒っているとき、何かたくらんでいるとき──表情が活き活きと動き、見る人を幸せにする。 本当はボクだけを幸せにして欲しいのに。『見る人すべて』なんて、サービスしすぎだよ、君は。 だから、あの事件は起こるべくして起こったんだ。 ボクは悪くない。──悪くない。 あの日、君は珍しくボクと一緒に帰ってくれた。珍しく君は、大石の話もしなかった。テストのこと、文化祭のこと、ボクのうちのワッフルがとても美味しいこと──いい日もあるものだな、とボクは神様に感謝した。そして、分かれ道にくる。 「また明日にゃ、不二」 「うん、明日ね、英二」 僕たちは別れて歩き出した。そのほんの少し後。ザザッ、と音がした。ボクははっとした。その音は、ボクたちのかかえているテニスバッグをアスファルトに放り出したような……ちょうどそんな音だったから。 「英二？」 ボクは引き返して、英二の向かった方角へ足を踏み出した。狭い空き地に面した、細い道。その細い道にバッグが投げ出されている。 「英──」 空き地の草むらのなかで、一人の男が英二に覆いかぶさっていた。みっともない無精ひげ、だらしない腹の贅肉。腕に筋肉だけはついていて、片手で英二の首を押さえつけている。もう片手で、男は英二のカッターシャツをぐいとひっぱった。ボタンが千切れとぶ。 「助け……」 英二が弱々しく声を上げると、男は地面に突き刺していた、生々しく光るナイフを手に取り、英二の顔に押し付けた。もう片手で、男は自分のズボンを下ろし、英二のベルトを外す。 「止めて！ 止めて」 男は英二の声など聞こえないように、英二の下半身に手を滑り込ませる。ズボンと下着をひき下ろす。 「誰かーっ……」 叫んだ英二の口を、男が無理矢理覆った。そして、ナイフを左手に取る。英二の頬に、冷たい刃が押し当てられる。 「これ以上騒ぐと、殺す」 よく聞こえなかったけど、そんな言葉だったと思う。そして、男は英二の頬にナイフを滑らせた。 「……！」 痛みと恐怖で、英二の抵抗する力が抜けていく。男は、英二の足からズボンを引き抜くと、足を開かせた。 ボクには、それで充分だった。ボクは、身を隠していた電柱から離れ、まっすぐうちへ帰った。振り向くことさえなかった。 これは、罰だよ。誰にでも惜しげなくその魅力を振りまいて、誰にでも甘えて寄りかかって。仔猫の仕草で人を惹きつけた罰だよ。 君がボクの本当の親友の頃なら──君と大石がダブルスなんて組む前なら──僕はあの強姦魔を許しはしなかっただろう。大して喧嘩の強くないボクだけど、君を守るためなら、あの男のナイフを奪って、両眼を突き刺してやったって良かったんだ。でも。 今夜、君は犯される。太陽のようだった瞳に、曇りが現れる。君の産毛の輝く、健康な色の頬には傷痕が残される。 君は、知るべきなんだ。どんなに君がボクを傷つけてきたのか。あのいやらしい男はボクじゃないけど、ボクの魂の代わりとなって、今夜君をずたずたにする。 これは、罰だよ──。 英二は一週間、学校を休んだ。僕は、毎日英二のうちへ行って、お見舞いのお菓子と連絡のプリントと、その日のノートを届けた。いつも玄関に出てくる、英二の小さいほうのお姉さんは、暗い顔でそれを受け取った。そして、「英二は家族の誰とも会いたがらない。同じ部屋の幸一（英二の小さいほうのお兄さん）も閉め出して、電気をつけっぱなしにして、ほとんど眠ってない。何も食べない」とつらそうに言った。 ボクは罪悪感を感じるべきなんだろう。ボクは『親友』が強姦されるところを見ていて、きっぱり見捨ててその場から離れたのだ。でも、ボクは何の痛みも感じなかった。ボクは壊れているんだろう。 壊されたんだよ、英二に。責任、取ってくれる？ やっと英二が学校に出てきた。大石が、どこから聞きつけたのか、まっしぐらにうちのクラスに入ってきて、「病気、もう大丈夫か」と尋ねた。「うん、だいじょぶ」と答える英二の顔が首筋まで蒼白いのを見て、大石は「部のほうは大丈夫だから。まだゆっくり休め」と言って、英二の頭を撫でようとした。 すい。英二は、大石の手をかわしていた。 「英二？」 「あ……な……なんでもない、なんでも……」 英二は小さく震え、大石から目を逸らした。 「あれ？ どうしたんだ、それ」 いつも顔のあっちこっちに絆創膏を貼っていた英二。（本当にすりむいているときもあれば、「かっこいいじゃん」と鼻のアタマに貼っているときもあった。）でも、今日の英二はかなり長めの絆創膏を、左の頬に斜めに貼っていた。 「なんでもない」 英二の固い声を聞いて、大石はすこし苛立ったようだった。 「何でも言ってくれよ！ 俺たち、パートナーじゃないか」 英二は、ガラス玉のような冷たい眼で大石を見上げた。 「パートナーでも、言えない事ってあるよ」 大石は、不意を突かれたように、その端正な顔を歪めた。 「大石。これ以上英二を疲れさせないほうがいいんじゃないかな」 ボクが一言いうと、大石は唇をかみ締めて教室を出て行った。 君が部活に出てくるのには、さらに一週間を要した。そして、テニス部に現れた君は、今までの君では考えられないくらい、襟元までレギュラージャージのファスナーをきっちり上げ、パンツの下には肌をぴっちりと覆う黒いサポーターを履いていた。 「おおいし〜！」 君に抱きつかれて、ずいぶんほっとした顔をしている大石。でも、ボクだけが知っている。英二は、バリアを張っている。どんな人間に対しても。 「エージ先輩、なんすか、そのバンソーコー」 一年のくせに、妙に英二になれなれしい桃城が、英二に話しかける。 「ん？ おしゃれだよん。可愛いでしょ？」 その微笑みが、心の底からのものでないのを知っているのは、ボクだけだ。 君がどんな癒しをもってしても癒されないくらい傷ついてしまったのを知っているのは、ボクだけだ。 「不二」 甘ったるくて、ほんの少し苦い。マーマレードのような君の笑顔。 「ずっとノート取ってくれてありがと。明日からは、自分でやる」 「無理しなくていいよ？ ボクとしてはずっと英二のお世話をしていたいな」 「……子ども扱いしてる？」 「してる」 「にゃー！！ 子供じゃないにゃー！！」 きっと君は夜になれば悪夢を見る。自分を傷つけ、陵辱したけだものの悪夢を。 そしてボクは夜になると、あの体躯の大きな男になった妄想をして、自涜にふける。 英二を押さえつけ、ナイフで脅し、無理矢理に服を引きちぎることを思う。英二の中に入る感触は想像でしかないけれど、ボクは夢中になってあの男になりきる。英二の瞳の光が弱くなり、抵抗がなくなったとき、ボクは射精する……。 君が首筋まで上げたファスナーを下げられない限り。膝より少し上の丈の黒いスパッツを脱げない限り。君は誰のものにもならない、とボクは内心ほくそ笑んでいた。 嫌な話は、なんと手塚から回ってきた。屋上のフェンスにもたれかかって、僕たちは二人で話をした。 「なにそれ。ホモってこと？」 「……ホモ、という感じではないんだが。大石だってのべつまくなしに男を好きになっているわけではないし」 「でも、英二が好きだ、と」 「ああ。菊丸が好きで、何も手につかない、とそう言っていた」 「まさか、ボクに仲介役をやれってんじゃないよね」 「……いや、その……それを頼もうかと思ったんだが」 ボクはフェンスを背にして、乱暴にもたれかかった。 「ばっかじゃないの、大石も手塚も。英二が男に好きって言われて、喜ぶわけないでしょ」 「まあ、常識で考えれば。しかし、あの二人は青学テニス部の誇る黄金ペアだし、しこりを抱えられると困る」 「大石が我慢して黙ってればいい話じゃないか」 手塚は、困った風に眉を寄せた。 「あの、お人よしで他人のことにばかり心を砕いている大石が、俺なんかに相談してきたんだ。ずいぶん思いつめているんだろう。振られるにせよ、一度菊丸に気持ちを聞いてみたらどうだろう」 「……で？ ありえないけど、英二が『自分も大石が好き』なんていったら、つき合わせるの？ 部内恋愛、しかも同性。後輩達に示しがつくの？」 「不二」 手塚だって、ずいぶんなお人よしだね。 「大石は苦しんでいるんだ。少しでも、力になりたい」 「分かったよ」 ボクは不機嫌に言った。 「で、ボクの役目は何なのかな？」 「英二」 僕の側においで。 「あのね、話があるんだ」 なになに、と耳を寄せる君。 「大石がね、君のことを好きなんだって」 「そりゃそうだよ。俺たちパートナーだもん。俺だって大石のこと大好き」 「ちがうよ」 ボクは笑む。 「大石は、君のことを恋人にしたいんだ。抱きたいんだよ」 ゴメンね？ 手塚。こんな風に言えとは言われてなかった。でも、どうせ同じことだろ？ 「おーいし……が……」 君は目を見開く。 「恋人、って……それに、抱く、って……」 君の大きく見開かれた目からは、もう透明な涙が溢れ出して。 そうだ。君は男に抱かれるのを思うだけで、吐き気すらするんだろうね。可哀想な英二。 「そんなの無理……大石だけは、無理」 大石だけは？ 「どういうこと、英二」 「俺、大石に好きになってもらう資格、無いから」 「資格？」 「俺、汚れてるから。キレイな大石に好いてもらうこと、できにゃいよ……」 ボクは、英二の涙を誰も見ないように、教室の一番後ろで英二の顔を両手で挟んだ。 「英二、汚れてるってどういうこと」 すると、君は辛そうに、でも真っ白に、微笑んだんだ。 「不二は、知ってるじゃん」 ボクは膝ががくがく震えるのを感じた。英二を支えるように立っていたのに、今はボクの方が英二にすがり付いている。立っていられない。 「不二のこと、責めたりしないよ？ 今まで皆にも家族にも黙っててくれて、ありがと、って思ってる。あの時助けることなんて出来なかったよね。あいつ、ナイフ持ってたし、身体でかかったし」 英二。──英二！ 「だから、大石のことも、不二から言われて良かった。大石から直接言われてたら、俺、何も説明できずに突き放すしかできにゃかったもん……」 「えいじ」 ああ──のどが、カラカラだ。 「君は、大石と付き合いたいの？」 「大石のことが好き。パートナーになって、一緒に練習して、全国大会行って……ずっと側にいて。大好きだよ。カッコイイし、アタマいいし、何より」 そして英二は笑う。 「俺のこと、分かっていてくれる」 ボクは、卑劣にも続けた。 「大石は、君に性欲を持ってるんだよ？ あの男と同じように、君を扱うんだよ？ ううん、今までだって、頭の中で君を何度も汚してきたんだ」 何を言ってるんだ、ボクは。それは自分じゃないか。あの男になりきって、英二を辱めてきたのは──。 「いいよ、大石なら」 君は静かに言った。 「だって、あの夜から……あの怖くて、殺されたほうがマシな夜から、俺だってずっと考えていた。あの草むらのなかで俺を抱いたのが、知らない怖い男じゃなくて、大石だったら、どんなに良かっただろうって」 ボクは、声も出せない。 「だから、汚れた俺を大石が許してくれるんだったら、大石とつきあいたい。ずっと一緒にいたい。それが、俺の望むこと」 ボクは、喉を嗄らして英二に尋ねた。 「英二……ボクのことをまだ親友だと思っていてくれる？ あの時君を見捨てて逃げ出した──」 そして、犯される君を頭の中で何度も反芻し、陵辱しなおした──ボクを。 「もちろん！ 不二はずーっと親友！」 怖い怖い言葉を、君は言った。 「大石の次に、好きだよ」 そして今、ボクたちは列車に揺られている。信州行きの特急。君は、さっき眠ったまま嘔吐したから、服を着替えさせたり、顔をおしぼりで拭ったり、大変だったんだ。 部活に行く前に何か飲もう、と言って、僕は化学室から持ち出したエチルアルコールを甘いジュースで割って君に飲ませた。足腰の立たなくなった君をタクシーに乗せて、駅へ向かい、君を抱えたまま（大変だったんだよ？ 君はボクより少し背が高いしね）ＡＴＭで現金を下ろし、切符を買った。蓼科に、ボクのウチの別荘がある。もちろん、今は誰も使っていない。森の中の、静かなところなんだ。ちょっと別荘から離れると、道に迷って帰れなくなる、危ないところでもある。 そこへ君をつれていくよ。 君がボクを好きだというまで。いちばん好きだというまで。愛しているとはっきり言うまで。ボクは君をそこから出さない。大石のことを忘れるというまで、僕は君を許さない。言うことを聞かないなら、無理矢理犯すかもね。君の頬の絆創膏をはがして、何針か縫ったという傷に舌を這わせ、愛撫してあげるよ。逃げ出したりしたら、君は森の中で帰り道を失う。どこにも行けなくなるよ？ ボクを愛するんだ。 太陽のような、ひまわりのような君には分からない、暗い暗い闇の中で、ボクはずっと迷ってきたんだ。君はやっと掴めそうな救いのロープなんだ。ボクは隣人愛なんて持ってないし、博愛主義者でもない。君が誰を好きだと言ったって、君というロープにしがみついて這い上がるのはボクだ。ボク一人だ。それが、君を壊すことになるのなら── 壊れてしまってもいいよ、英二。 もうすぐ降りる駅だよ。君はまだ意識を失って眠っている。行こう、森の中へ。 ボクの森へおいで──。 とんでもなく不二をブラックにしてしまいました。すみません。あと、手塚は不二を理解してやれる存在だと思うんですね、原作からして。ただ、今回は不二の英二への執着にこだわって書いてみました。 |