秘密

「大石！　こっちこっち」
「待てよ、英二」
「もうバテた？　体力無いの〜」
「ちょっと、待て。こら」
　空が血のように赤い。英二は、川原の石をとんとんと踏み越えて、より森の奥へ入っていく。
「大石、早く」
──木漏れ日が、紅い。大聖堂のように。生贄を屠る聖なる場所の様に。
「はあっ、はっ、はあ……」
　濡れた石で足を滑らせ、木の根に躓いて、ようやく差し伸べられた英二の白い手をとる。テニスをしているとは思えないほど、柔らかな……。
「こんなところまで来て、何を」
「言っただろ？　大石だけに見せたいものがあるって」
　気まぐれな猫の瞳が、太陽と同じ不思議な赤に輝く。
「それは……何だ？」
「それはね……俺の気持ち」
　ふわりと英二は大石の側に降りてくる。
「お前の気持ち？」
「大石。大事な大石。俺の手をとって、何度も励ましてくれた。そのたびに、俺は眩暈がするほど嬉しかったんだ。だから、最初に連れて行くよ」
　次の瞬間、大石はこめかみを何かに砕かれて横へ吹っ飛んでいた。頭がぐらぐらする。ぬめる血が、頬を流れていくのが分かる。
「えい……じ」
「俺のこと、好き？」
　手に提げているのは、ストッキングに包んだ石のようなもの。ああ、あれで殴られたのか、と思う。背筋を恐怖が駆け上がる。
「聞いてるんだ。俺は。俺のことを好きかどうか」
　ストッキングに包まれた石は、しなやかな曲線を描いて大石の膝を打つ。骨が砕ける。
「す……きだ」
「こんなことをされても？」
　英二の足が大石の向う脛を容赦なく踏みつける。体重をかけたそこから、英二はもう一度石を振り回し、大石の心臓の上を強打する。一瞬、鼓動が乱れ、息が止まる。
「すきだ」
「俺が男でも？　一生？」
　もう意識を手放しそうになる。だから本当のことしか言わない。
「すき……だ」
「嬉しいな」
　ああ……紅い、猫の瞳。
「すぐに、皆を連れてくるから」
　好きだよ、英二。──たとえ、お前が罪人でも。
「だから、ここで俺だけのものになってね」
　石が空気を切る音。英二の唇に浮かんだ笑み。なにもかもが奇妙にゆっくりで。
　そして大石は闇に落ちた。

　あらかじめ掘ってあった穴に、大石の身体は入りきれなかった。地面から突き出しそうな膝や腕を、ぎゅうぎゅうと足で踏みつけ、英二は土をかけていく。足のほうから、ゆっくり体の上へ。顔は最後。だって、ずっと見ていたいから。本当は。
「大石、微笑ってるね」
　英二はいとおしげにそう言う。
「俺に殺されて、嬉しかったんだね」
　土に埋めてしまう前に。英二は大石の、乾いた血の付いた唇に唇を寄せた。
「ずっとずっと、俺のものだよ。大石……」
　大石の体が見えなくなると、英二はカッターシャツに付いた土を払った。もうすっかり暗くなった河で、爪の間に入った泥を洗い流す。
「おなかすいたにゃ……」
　石の上を身軽に飛び越えて、英二はその場から姿を消した。

「英二」
　どろりとしたトマトケチャップは、あの時大石の頬を伝ったもの。
「英二ったら」
　黄色い、半熟の卵は、折れた足から覗いた脂肪。
「食べないの？　英二」
「ううん、食べる食べる。ちょっと考え事してただけ」
「英二が考え事か」
　長兄がくすりと笑う。
「明日は槍が降るかな」
「うん、槍が降ればおもしろいね」
　ケチャップに塗れたオムライスの欠片を、英二は口に放り込んだ。
（ねえ、大石もこんなに美味しかったのかな）


　青春学園テニス部は、朝練のときからざわめきに満ちていた。
「大石先輩が、帰ってない？」
「どこにいくとも言ってなかったんだろ、家族には」
「ご家族は、警察に届けてるって……」
　誰もテニスシューズを履かない。誰もラケットを手にしない。一年生から三年生まで、皆が眉を寄せてうろうろ歩き回っている。
「大丈夫じゃないんですか」
　凛とした声が、部室に響いた。
「越前……」
「女の子ならまだしも、大石先輩は、男なんだし、結構いいガタイしてますよね。ケンカとかするタイプには見えないけど、あっさりさらわれちゃったり、監禁されたりはしませんよ。どーせ詰まんない理由で家出でもしてるんじゃないですか」
　テニスシューズのつま先をとんとんと蹴る。
「騒いでないで、練習しましょうよ。時間がもったいない」
「越前！　お前なあ」
　桃城が、リョーマに詰め寄る。
「心配じゃないのかよ！　みんなの気持ち、わかんないのかよ！」
「いや、いいんじゃね？」
　意外な声に、皆が視線を向けた。英二は、ラケットをくるくる回して立ち上がった。
「おチビの言うとおりだよ。ここで皆がくらーい顔して座ってたって、大石のために何かできるわけじゃなし。練習しようぜ」
「エージ先輩……」
　桃城は、リョーマのジャージを掴みかけていた腕を離し、呆然とする。
「桃。お前、そんなことだと海堂に部長の座、取られるよん♪」
　部室から出て行こうとする英二を、手塚が止めた。
「なに、手塚。腕離してよ」
「今日の朝練は中止する。各自、着替えて教室へ戻れ。……昼の練習と放課後は、また連絡する」
　皆、ため息をついて着替え始めた。

「英二、機嫌、いい？」
　教室に入る前の廊下で、不二が英二に声をかけた。
「うにゃ？」
　不意を突かれた感じで、英二は目を見開く。
「なんだかさ。あんなにいつも一緒にいた大石が行方不明なのに、目が明るい気がしたんだ。気を悪くしたらごめん」
「ん……べっつにー」
　英二は目を逸らす。
「さっさと帰ってきて欲しいにゃ。ほんと、世話焼けるんだから」


「大石……寂しい？」
　掃除の時間、床をモップで擦りながら、英二はつぶやく。
「ごめんね。だって、大石が一番最初に欲しかったんだもの」
　バケツの上で、モップを絞る。かすかな笑顔。
「皆も、連れて行くから」


「本当なのか、菊丸」
「本当だよ！　もう一回、メール見る？」
「俺達だけでは……やはり、警察に連絡しよう。二人でそんな山奥へ行くなんて無茶だ。俺は菊丸を守りきれる自信が無い」
「にゃ」
　英二は意外そうに目を見開いた。
「手塚、いざとなったら俺を守る気なんかでいるわけ？　男どーしっしょ、俺たち」
「ずっと前、大石と約束したんだ」
「……」
「自分に何かあって、自分がいないときに、菊丸が傷つくようなことがあったら、守れ、と。俺だけじゃない。たぶん３年は、皆大石に頼まれているはずだ」
「はー……大石って、気が回るというか、何というか」
「だから、菊丸。俺は少し腹を立ててもいる」
「へ」
「今回のお前のことだ。朝も平気で練習を始めようとしたり、かと思えば犯人と思しき人物からメールがあった、と、俺一人を誘って呼び出しに応じようとする。逆の立場だったら、大石はお前の身を案じてどれだけ心を潰すか──」
「ふーん。愛されてたのね、俺」
「菊丸！」
「とにかくいこ、手塚。俺は、警察に話を持ち込んだのがばれて、大石本当に殺されちゃったら、そっちの方が悔いが残るよ」
　手塚の眉間に深いしわが刻まれる。
「確かに……その通りだが」
「俺、手塚を信頼したんだから」
　ふと見せる英二の真剣なまなざしに、手塚は気おされる。
「行こう」
　英二は、テニスバッグをしょったまま歩き出した。手塚はその後を追った。テニスバッグに入っているのが、ラケットよりずっと重い、鋭いものだとも知らないまま。

「……っふ」
　英二は、土の付いた手を冷たい、源流に近い浅い河で洗い流す。土と、赤黒い液体が、混ざり合い、溶けて流れてゆく。
「おーいし、満足？　お前がずーっと尊敬して、ずーっと追いかけてた手塚を、お前の隣に埋めたよ。もう、手塚はこれ以上“高み”へ飛んではいけない」
　手の平が、痛いほどに冷たくなる。英二は、口にくわえていたタオル地のハンカチで手をぬぐった。
「だから、もう手塚を見るのは止めてよね。俺だけを見て」


　朝の部室。手塚が家に戻っていないことを、乾が知らせていた。部長と副部長が姿を消した今、彼は自然に皆のリーダーになっていた。
「一年二年は、とりあえず基礎体力のトレーニングを始めて。……三年は、集まって。誰か、手塚と大石から連絡はなかった？」
「あの、センパイ！」
「なんだ、桃城。何か知っているのか」
「いや……何も知らないっス。でも、こんな気持ちで練習なんか……」
「桃城。海堂と一緒に、一年二年をまとめてくれ。頼んだぞ」
「……っ、マムシと、っすか。まあ、自信ないけどがんばります。でも、何か分かったら、俺にも教えてください」
「わかったよ、桃」
　桃城が扉を勢いよく開けると、立ち聞きしていた海堂にぶつかったらしい。もめる声が聞こえてくる。二年、とは言ってもレギュラー勢は、まったく他人事という気はしないのだろう。
「わかるな、桃の気持ち。一緒に戦った仲間じゃん、俺達ってさ」
　英二が言うと、乾は無感情に眼鏡のつるを上げ、何か小さくつぶやいた。

　英語の授業。英二は聞いてはいない。
（何にも考えずに、大石、手塚、と来たけど……）
　２日続けて山奥まで走り──罪に手を染め。そして帰って来た疲れで欠伸が出る。
（どうしよう）
　教科書を立てて、白いノートに頬をつける。
（「怖いほう」からにするか、「怖くないほう」からにするか）
　かり。
　英二はびくっと肩をすくめる。しなやかな、白い指が英二のうなじを探り、何かを引っ掻いている。
「痛かった？」
　小さな声で聞いてくる、隣の席の不二。
「うなじなんかにカサブタがあるからどうしたのかとおもって」
　英二の背筋がずん、と冷たくなった。不二は、爪を二、三度立てて、手の平に落ちた小さな血の塊を英二に見えるように手を向けた。
「何の傷も残らなかったよ。もしかしたら、赤い何かがくっついてたのかもしれないね」
　しつこいほどシャワーを浴びたのに。何の痕も匂いも残らないように、しつこくしつこく水を浴び続けたのに。
（決めた）
　英二は、顔だけで笑うと、ノートをとるふりを始めた。
（「こわいほう」からだ）


「イヤだよ？」
　山へ誘うと、不二は平然と断った。
「暗いし、足元だって悪いしね。こんな夕暮れに行くところじゃないよ」
　英二は、黙ってテニスバッグをずりあげる。血のこびりついたバールの重みで、いつになくバッグはずれる。それを直すたびに、不二が何か考えているような気がして、「怖い」。
（どうする？）
　頭を使うのが得意ではない英二は、黙って考えつづける。不二は、優しくその肩に手を置く。
「とりあえず、お茶でも飲もうよ。じっと立ってて、脚が疲れてきたな、ボク」
「不二」
　追いつめられた顔で、英二は懇願した。
「あのさ……今まで言えなかったけど、俺、脅されてるんだ。それに、大石も手塚も、まだ生きてる。俺が不二、連れて行けなかったら……」
「分かったよ」
　不二は、少し眉を寄せて微笑した。
「英二、言うこと聞いてあげる」
　だから、やれるだけやってごらん。不二は駄々っ子を慰めるように微笑む。

「こっちだよ、不二」
　川の流れから突き出た石を飛び越して。すっかり暮れた空には一番星が光る。
「……っと」
　これで何度目か、ずるずるずり落ちるテニスバッグを肩ですくいあげて。
「ものすごく怖い状況の割にはさ、英二」
「にゃに？」
「君はなんだか楽しそう」
「そ、そんなことない！　今こうしてるときだって、大石と手塚は……」
「うん、そうだったね」
（不二……信じて、ない。）
　英二は、唇を噛みしめる。
（どうやって、助けてあげられるかな……英二を）
　不二は、すこし瞳を鋭くする。

「何かさ、音がしない？」
「あ……うん。目覚まし時計みたいな……」
「止まったね」
「うん」
「また鳴り出した」
「うん」
　わけのわからない顔をしている英二。不二は、哀しげに瞳を上げる。
「何の音か、分からない？」
「わかんにゃいよ。何かなあ」
　不二は、すっと英二に身体を寄せた。テニスバッグを下ろそうとしていた英二は、バッグごと不二に抱きしめられて、息を止める。
「ボクが、電話をかけているんだよ。手塚にね。その樹の根元から響くね、手塚の携帯の呼び出し音」
　英二は、バッグを下ろそうともがいた。不二の腕の力は、見た目よりずっと強かった。しばらく二人はもみ合い、そして英二は全身の力をこめて不二を河の中へ突き倒した。しかし、不二は英二のバッグの取っ手をしっかり握りこんでいた。バッグは不二の手の中にあった。
「ずいぶん重いね、このバッグ」
「……やっぱ、知ってて」
「知らないこともたくさんあるよ。何で君がこんなことをしているのか、とかね」
　英二は、泣き始めた。ほんの無力な、小さな子供のように。甘えて、許してもらおうとしているかのように。
「英二、ちゃんと答えて。ボクには何が起こっているのか全ては分からないけど……君と一緒にいるから。だから」
　ずぶ濡れのまま、不二は重たいテニスバッグを反対側の岸へ向かって投げた。
「ちゃんと、警察に、行くね？」
　警察、という言葉に、泣きじゃくる英二の身体がさらに震える。
「大丈夫。英二、ボクは君を守るよ。君が好きだからね。……どうして、こんなこと」
「だって、俺たちって……」
　涙のたっぷり混じった、甘えた声。不二はびしょ濡れの学生服で立ち上がる。
──ボクは、君の甘えた声が好きだよ。
「俺たちって、トクベツじゃん！　全国制覇もしたし……それに、それ以上に、俺たちはトクベツで……皆、みんなの事が好きで」
「それは、わかるよ」
「だから、引退の式なんてする前に、皆を閉じ込めてしまいたくて……」
　ああ、英二。君は。
　夏休みの終わりが怖い子供のように。
「大石は、一番大好きだから、最初に閉じ込めた。大石は手塚を大事に思ってるから、次に手塚を連れて来てあげたんだ」
　そして、英二は不二を見る。いつも甘えん坊の仔猫のようだ、と不二がからかうその瞳は、夕闇に光っている。
「そうだね。俺、何を迷ってたんだろ。Ｓ１の手塚を閉じ込めたんなら、次はＳ２の不二だよね」
「……」
　英二の声から、弱さと涙が消えた。不二は、さっきテニスバッグを投げ捨てたことを一瞬悔やんだ。英二を傷つけたくはない。でも、本気で来る英二からは……多分、逃げられない。そして、どんな言葉でも、今の英二を説得できはしない。
　ぱしゃ……きゅ。ぱしゃ、きゅ。浅瀬をあるくスポーツシューズの音。岩に乗り上げるたびに、乾いた岩が濡れたゴムと擦れて、耳障りな悲鳴を上げる。
「不二、大好き」
　英二の柔軟な身体がしなった。一瞬にして、不二は腹を蹴上げられ、浅瀬に叩きつけられる。
「くっ……」
　不二は、英二の向う脛を狙った。蹴りは、難なくかわされる。わずかな残光の中に見える英二の影。両腕で石を持ち上げている。
「！！」
「ねえ不二さ、逃げないでよ」
　英二の足が不二の足首を踏みつける。不二は冷静さを失うまいと、痛みを無視して眼を見開く。
「俺のこと、好きなんでしょ。だったら逃げないで。大石は、逃げなかったよ」
　額に衝撃があり、そのあとから生暖かい液が流れ始める。
「大石みたいに、俺に殺されて嬉しそうにしてよ」
　不二は、冷めた頭の中で、一つの選択をした。命を棄てる、そんな選択を。
　今の英二が見たい。
　狂気に駆られて、いずれ失われゆくものへの愛を語り続ける……可哀想な、でも美しいであろう英二を見たい。
　それは、ずっと親友でいた彼への、最期の愛の告白。
　薄闇の中、英二の笑みは想像通りに美しかった。そして、思っていたよりずっと、無垢だった。
（これが、英二。ボクの大好きな親友）
　幾度も続けて額に衝撃が走り、赤黒い液体が眼の表面を覆い……でも、不二は英二を見ていた。
（狂気につかれた、可哀想な仔猫）


　濡れてしまったことを気づかれないように、そっと浴場へ入る。
「英二！　帰ったんなら一言言いなさいよ。お風呂入ろうと思ってたのに」
　姉の声。
「ごめんごめん、今日部活で汗かいてさ。気持ち悪くてシャワー……」
「汗？」
　ぎょっとしたような姉の声に、英二は舌打ちする。
「さっき、電話があったわよ。あんたの学校で、行方不明事件が続けて起こったから、テニス部室に警察が入ったって。で、部員は解散させたから、ご家族の方でも注意して、って……」
「だ、だからさ」
　上ずる声を必死に抑える。
「冷や汗。あんなに間近でお巡りさん見たの、初めてだったもん。ドラマみたいでさ」
「……あんた、呑気ね。お友達が、行方不明なんでしょ」
「きっと帰ってくるから」
　英二は、爪の間に挟まった苔の緑色を落とそうと、ボディシャンプーと格闘していた。


「確立８５％、だ」
　乾は、訳のわからないグラフや数式が書かれたノートを英二に見せる。
「これが１００％になったら、俺は菊丸を告発するよ」
（これが、「いちばん怖いひと」）
　英二は、握りこぶしを固くした。
「ふーん、１００％にする自信、あんの？」
「何を言っているんだ」
　あ、乾の眼鏡、透けた。ハンサムな顔は、切なげに歪んでいる。
「１００％にしたくないんだ。１００％なんかで、あってほしくないんだ」
「じゃあいいじゃん。俺は何にも知らない。『告発』なんてされる覚えないもん」
「そうだな。警察の人からも言われてるよ。俺は体格がいいから、お前を送っていけって」
　今日の昼間。学校の応接室を使った簡易取調室に入ったとたん、英二は泣き出したのだった。幼い顔をくしゃくしゃにして。大きな瞳から、大粒の涙を惜しげもなく流して。

　大石を助けて。
　手塚を探して。
　不二を返して。
　怖い、怖い。次は自分じゃないかと思う。怖い……
　
　おどおどしているものの、肩幅が広くガタイのいい河村と、取り調べられながら、自分も何かせっせとメモを取り続けている乾の後に見ると、英二はいかにも幼かった。警察官たちは、やっと自分たちが取り調べているのが中学生だったと思い出したぐらいだった。
　大丈夫だよ。さあ、座って。話を聞かせて。
　大人たちは英二を泣き止ませようと、優しい声を出す。英二は、ソファに座って、顔を覆い、ますます高く泣く。柔らかく髪を撫でられても、背筋をさすられても彼は泣き止まない。
　早く、皆をここへ戻して──。

「菊丸は怖いよ」
「え？」
『いちばん怖いひと』に定めた乾からそう言われて、英二はぽかんとした。
「あの大泣き、応接室の外まで……というか、校舎中に響いてたぞ。中三の男の泣き声とも思えない、甘えた泣き声」
「……悪かったな」
「ココロのキレイな人間なら、誰もお前を疑わないだろうね。俺みたいな歪んだ心の持ち主に言わせると──越前風に言えば、まだまだだね、なんだけど」
「で。なんで俺は８５％もお前に疑われてるの。何で、俺は怖いの」
「泣いているとき、お前が本気だからだよ」
　二人並んで校門を出る。テニス部に話題が集中している時だけに、二人の姿に皆が眼を留める。
「テレビの感動番組で嘘泣きするアイドルの方がまだ可愛げがある……いや、逆説的に言えば……お前の方が心底可愛いといえるのかな」
「可愛いってにゃんだよ！」
　乾は苦笑した。
「実は俺は、お前が『な』を発音するとき『にゃ』になる確立を調べていた時期があった」
「にゃ……あ、何で、また」
　英二は虚を突かれる。
「親しくない一年、二年と話すときには１５％ほどの『にゃ』が、海堂相手だと５５％、桃相手だと６７％、あと越前相手だと６４％」
「うー」
「三年のレギュラー相手だと、９０％を越す。あ、最も手塚に対してだけは３０％を切っていたけどね」
「悪趣味」
「どうも。で、大石に対しては、１００％、だ。『にゃに』『にゃんで』『しらにゃい』……」
「俺の声真似すんな！」
「お前は、とても３年のレギュラーの前でくつろいでいた。大石の前では特にだ。そんなお前が、大石がいなくなった当日に心配するそぶりすら見せなかった」
「だって、すぐ帰ってくると……」
「でも、警察官の前では大泣きして騒いだ」
「だんだん心配になってきたから……」
「お前が怖いのは、どちらもお前の本心だからだ」
「──どういうこと」
「お前は、大石、手塚、不二がどこへ消えてしまったのか知っている」
「……知らない」
「だから、平気なそぶりを見せている。でも、三人が帰ってこないことを知っているから、泣くことだって出来る」
「知らないってば」
「お前は、『本気』でお前を泣かせることのできる『遊び』をしているんだ」
「乾の言うことはいつだってそうだ。難しい言葉こね回して。俺、バカだもん。分かるわけねっつの」
　信号が変わろうとしている。英二は、話を打ち切って乾を振り切ろうとした。けれど、英二がダッシュをかける前に、乾の長い腕が英二の肘を捉えた。
「最初に。大石がいなくなって以来、河村も、海堂も桃城も、越前も。普通の反応しか見せなかった。奇妙な反応を見せているのはお前だけだ、菊丸」
「だから俺が８５％ハンニンだっつの？」
「これで１００％になる」
　乾は、英二のテニスバッグの取っ手に付いたちいさなポケットから、ペンのようなものを取り出した。
「な……なんだよ、それ」
「傷は付いているが……壊れてはいない。水にも濡れたらしい。防水のものを選んで正解だったようだ」
「なんだよってば！」
「ボイス・レコーダーだよ」
　英二の顔から表情がすっと消えた。
「いつ、俺のバッグにそれを」
「昨日だね。お前が不二と帰る前」
「と、友達にそんなもん仕掛けるなんて、卑怯……」
「友達を『殺す』ほうが卑怯、っていうんじゃないかな」
　乾。
　お前だって、大事な一人。『残していく』わけには行かないんだ。
　眩しい、眩しすぎた夏。その汗のひとかけら、その谷間（コート）の熱狂、揺れる情熱（おもい）。
　お前だって、どうやったって、連れて行く。俺には難しいけど。お前頭いいから、俺にはこれくらいしか考え付かない。
「菊丸？」
　ボイスレコーダーのスイッチを入れないまま、乾は英二を訝しげに見た。その猫の瞳は、交差点を行くどんな車のヘッドライトより輝いて──
　英二は、突っ込んでくる大型トラックの前に、乾の腕をしっかり絡め取って飛び出した。忘れずにすることは２つだけ。乾一人を巨大なタイヤの前に置いて、身をかわすこと。乾の手の中にあった「ボイスレコーダー」を奪っていくこと。

『嘘をつかないから、英二は怖いんだよ──』
　そういい残して逝った友だちのために、英二は『本気』の嘘と『本気』の涙をたっぷりと流した。
　喧嘩になったんです。そうです、あいつ８５％俺がハンニン、とか言って、すごいムカついて、取っ組み合って……そしたら俺たち、バランス崩して、あいつ、道路に……俺ももつれて飛び出しちゃって。気がつかなかったです、トラックなんて。ただ、必死でクラクションよけたら、あいつだけが血まみれになって、血まみれに、うあ、ああああ──。

　泣きすぎでしゃっくりをしている英二を、乾の母が車で送ってくれた。気にしないでね、貞治は絶対あなたの事を恨んでなんかいない、菊丸くんがいい子だってことは皆知ってるわ、何もかも忘れて、ゆっくりおやすみなさいね。──繰り返される優しい声に、英二は少し甘えた声で言う。
「乾の鞄、見せてくれませんか。あいつ、俺に渡したいものがある、って言ってたから」
　乾のカバンの中は、教科書もそこそこに、何冊もの大学ノートで溢れていた。素早くそれらを眺める。野菜汁のレシピ、テニスのデータノートvol,47、柳専用データノートvol,2、そして何も書かれていないまっさらな表紙のノート。少しめくると、最初のページにこう記されていた。
『菊丸の様子がおかしい。』
「あ、これみたいです。頂いていきます。……ほんとうに、ごめんなさい……ごめんなさ……」
　また『本気』の涙をこぼし始めた英二の赤い跳ね髪に、乾の母は、優しく手を置いた。


　朝の校門で、英二は河村と顔を合わせた。はれぼったくなるまで泣きじゃくったことがわかる英二の顔をみて、河村は辛そうに笑う。
「英二。俺、お前のせいだなんて、これっぽっちも思ってない。事故だったんだ。そして、いなくなった皆が帰ってくる日もきっと来る」
　だって、幼稚園児なんかじゃなくて、俺たちは中学三年生なんだぜ、と河村は言い切る。自分のことくらい、自分で守れる年齢（とし）だ。
「タカさん、ワガママ言っていい？」
　下を向いたままのしおらしい英二の声に、河村はかすかに微笑む。
「俺に出来ることなら。それが英二の心にいいことなら、何でも」
「にゃんでも？」
　──あ、俺いま『にゃ』って言った。３年レギュラーの前でなら９０％の確立で言うんだった。
「はは、『にゃ』んでも」
　河村の声真似に、少しすねたふりをして。
「サボろ、タカさん。俺、哀しいこと在った時、いつも行く場所あんの。今日は一人で行くの辛すぎるから……着いてきて」
　もちろん、と河村は英二の肩を抱き寄せる。そして、二人は校門をくぐらない。近くのコンビニでサンドイッチやおにぎりや缶コーヒーを買って。英二が先に立って歩き出す。

　眩しい午前の光が川の流れをきらめかせる。
「わ、気持ちいい」
　澄んだ水を跳ね飛ばして、英二は川を渡る。そして木漏れ日の中へ。河村は、躍動する英二を目を細めてみていた。
「タカさん、早く来ないと置いていくよん」
「はいはい」

「──着いた」
「そっか。皆、ここにいるんだな？　乾は、来られなかったけど」
　英二はアーモンド形の瞳をこぼれんばかりに見開く。
「ど、して……」
「乾から、伝言。『俺が止められなかったら、英二を止めてくれ』。なあ英二、俺たちは確かにかけがえのない仲間だ。俺にとって皆は宝物だし、英二にとってもそうだろう？」
　英二は、何もいえないまま、河村の穏やかな声を聞いていた。
「特に俺はもうテニス辞めなきゃいけないからな。辛かった。全国制覇できた瞬間、嬉しかったけど、ああもう終わりなんだ、テニス、終わりなんだ──ってそれが頭にこびりついて離れなかった。もっと皆といたいな、もっとこのメンバーで戦いたいな、って。だから」
　川村の目は、いつもどおりに優しかった。
「英二がしてること、悪いこととは思うけど、分からなくは無い」
　そして木陰に座り、河村は荷物を下ろして胡坐をかいた。
「いいよ、俺を殺しても。」
「タカさん──」
「その代わり、お願いが二つ」
　優しい下がり眉毛を少し上げて、河村は続けた。
「後輩（した）の子たちは勘弁してやってくれないか。桃と海堂と越前。あの子たちにも、俺たちみたいなかけがえのない『３年間』を味わう権利があるはずだ」
「……最初から、そのつもりだったよん。桃も薫ちゃんも、おチビも。手を出す気は無かった」
「それから、英二。自首してくれないか」
「……」
　英二は気まずげに目を逸らす。
「やだ。俺も一緒に行く」
「英二。中学生なんだし、死刑にはならない。しっかり罪を見つめて、生きてくれないか」
「タカさん」
　英二は、胡坐をかいている河村の首にぎゅっと飛びついた。
「俺はね、タカさん」
　英二の汗は甘く香るんだな。河村はぼんやりと考える。
「最初に、大石をこの手にかけたときから──」
　英二。俺たちのフィーリングメーカー。お前がお日様みたいに笑うから、皆最後まで笑っていられたんだ。
「もう、死んでたんだよ」
　逆光。英二が棒のような何かを振り上げている。時間は、蜜の様にゆっくりと溶けて、流れて──
「成長したくなかった」
　そうだね。寂しがり屋で我侭で、いつも大石の側を離れなかった英二。
「ばらばらになりたくなかった」
　それは俺も同じ。テニスに全てを賭けていた、中学三年生の夏を──
「ガラスダマみたいに、閉じ込めたくて」
　そして、河村の意識は途切れる。


「俺たちは、もう成長しない」


　英二は、深く深く切った手首を、川に浸した。そろそろ、真昼？　暑いはずなのに、すごく寒い。


「皆、大好き。『今の』皆が大好き」


──大人になんか、成らせやしない。


──嫌なこと全部忘れて、テニスだけ、してようよ。天国の、雲のコートで。


──俺だけ、地獄に行くのかもしんないけど、さ。




死にネタその３。すんまそん……。