Call Me Call Me…２








　順調に、レコーディングは進んでいた。俺は授業中にもこっそり片耳で英二の歌声を聴き、どんな風に合わせていくかを考えた。昼休み、しっかり両耳で音楽の世界に浸っていると、不意にイヤホンを奪われた。
「……手塚か」
「大石、ずいぶん熱心だな。お前は今までも音楽の仕事はやっていたが、授業中、ずっとテープを聴き続けるほど熱中しているのは今回が初めてだ」
「まあな」
「大きな仕事なのか？」
　俺は笑っていたと思う。
「楽しい仕事なんだ」
　英二に逢える。英二の歌声が聴ける。英二が俺に飛びついてくる。──贅沢なことなんだろうな。全国の、たくさんの女の子たちが、英二のことを好きなのに。レコーディングの間、俺は英二の色んな表情……笑顔から、こないだみたいな涙まで……を、独り占めできる。
「──本当に楽しそうだな」
　手塚は、呆れたように言って、立ち去っていく。
　しばらくは、浮かれていてもいいだろう？　──どうせ、このレコーディングが終わったら、もう会うこともないんだろうから。


「お疲れ様です」
　いつもの挨拶をして、スタジオに入る。騒がしかった。英二が、頬を赤くして芝さんに食って掛かっていた。
「なんで！　にゃんでダメなの！」
「何で、って……決まってるでしょう。お客様は、何を求めてＣＤを買われると思うの。我侭もいい加減になさい」
「俺、ワガママだもんね。聞いてくれないんなら、もう歌わない」
「……っ、英二」
　芝さんのほうが泣きそうだ。
「あなたはまだ子供だけど、大きなビジネスに関わっているのよ。責任と言うものを分かってちょうだい」
　英二の目が、くる、とこちらを向いた。
「大石！　おっはよー！　ねえ、大石からも頼んでよ。芝さん、頭カタイんだもの」
「英二！　大石くんにも、どれだけ迷惑か考えないの！？」
　芝さんの叫びに、俺はぽかんとした。
「何か……俺に関することで、もめてるんですか？」


「はあ、俺とのデュエット」
　英二のワガママは、まさに凄まじいものだった。ソロアルバムの中の一曲を、俺とのデュエットにしたいと言うのだ。
「大石は歌、上手いし。俺にとって恩人みたいな奴じゃん。いいでしょ、芝さん、ねえ……」
「英二、ダメだよ」
　俺は──もう癖になってしまったけど──英二の柔らかな赤い髪に手を載せた。
「英二はアイドルだ。ＣＤを買うお客さんたちは、英二の声が聴きたくて、お金を出すんだ。そのＣＤに、名前も顔も知らない人間とのデュエットが入っていたら、お客さんたちはびっくりするし、がっかりすると思うよ」
「大石の歌声聴いて、がっかりする奴なんかいない！」
　俺にも必死で食ってかかる英二。俺は英二の髪に入れた手を、よしよし、と動かす。
「ありがとう、英二。そんな風にまで思ってくれて、俺は嬉しい。気持ちだけ、受け取るから。さあ、今日のレコーディングを……」
「やんない」
「英二」
「絶対やんない」
　芝さんが、焦った風に時計を見る。
「あのね、英二。６時半までにここを出ないと、次の生のテレビ収録が……」
　ワガママ仔猫の眼がきらりと光る。
「ふーん、生なんだ。じゃ、俺それに出ない」
「英二！」
「おーいしと歌わせてくれなきゃ、俺はもう何にも仕事しない！」
　俺は、とっさに平手を上げた。英二は、ひるまずに俺を睨みかえす。
「大石くん、頬はぶたないで！　次の仕事に差し支えるの」
　芝さんが素早く俺の右手を掴んだ。
「あ、すみません……でも、英二」
「ぶちたいなら、ぶてば」
　拗ねた眼の英二は、怖いほど綺麗だ。
「俺、男だもん。ちょっとくらい頬にアザ作ってテレビに出たっていいよ。大石が殴りたければ殴ればいいじゃん。そんなことより、俺と歌ってよ。一緒に。大石と一緒の歌が歌えないんなら、俺、もう歌わない」
　仔猫の瞳が俺を捕える。俺の背筋に電流が走る。ここが皆の前でもいい。抱きしめたい。抱きしめて、頭を撫でて、お前の言うことなら何でも聞いてやるよ、と言いたい。甘いお菓子をあげられないなら、甘い言葉で癒してやりたい……。
「いいんじゃないの？　大石とのデュエット。ボクは賛成だな」
　思わぬ声がドアの側から上がった。俺は、我に返って振り向く。不二が、英二と同じ学校の制服──どこかの私立の芸能科──を着て、手に紙の束を持ち、微笑んでいた。
「不二くん。分かっているでしょ、英二を甘やかすと……」
「英二は、ずっと、歌を歌うの、嫌いだったじゃないですか。人気を盛り上げるためには音楽コンテンツも必要で、仕方なく歌っていた。でも、そんな英二が自分から歌いたい、って言ってるんです。きっと、名曲になりますよ」
「──ふむ」
　芝さんは、心底困った顔で考え込む。不二はニコニコ。英二は、芝さんがどう結論を出すか、ネコミミをぴくぴくさせて（るように見える。）待っている。
「まあ、不二くんまでそういうのなら。でも、大切なことを聞きわすれていたわ」
　芝さんは、英二の背中を押した。
「大石くんが迷惑でないか、ちゃんとあなたから聞きなさい」
「ん。大石」
　瞳は期待にきらきら輝いて。
「俺と、デュエットしてくれるよね？」
　断れる奴なんかいるわけない。
「俺なんかでよければ。でも、本当にいいの？　英二のソロアルバムなのに……」
「お・れ・が！　決めたんだからいいの！　やったぁ、ぶいぶいびーっ」
　英二は子供のように跳ね回る。そしてドアに駆け寄って、不二の両手を両手で掴んだ。
「不二、いつも俺のことフォローしてくれてありがと！　やっぱお前ってサイコーにいい奴！」
「じゃあ、英二、作詞は初めてだろうけどがんばってね」
「うん、がんば……はぁ！？」
　英二の顎がかくりと落ちる。
「さ……作詞？　にゃんで？　不二がしてくれるんじゃないの？」
　不二は少しだけ鋭い視線で英二を射る。
「ボクはね、作詞するとき、ラブソングでも、そうでなくても、いつも『ボクと英二』のことを考えながら書くんだ」
「はあ……」
「だからね、君のソロならともかく……君が大石と組んで歌うって言うんなら、それはもうボクの書ける詞じゃないよ。君と大石で考えれば」
　くる。英二のすがる目が俺を見る。
「ちょ……ちょっと、無理だよ。俺は、今までバックコーラスしてきただけで、作詞なんて……」
「麻布高校。」
　英二は、ぴっと俺を指差す。
「堀江学園、芸能科。」
　自分を指差す。
「さらに俺は、芸能科でも下から数えた方が……」
「待った、待ってよ。成績で詞が書けるわけでもないだろう」
「不二は、芸能科でもトップで……」
　ぱんぱん。芝さんが手を打って、俺たちの間に割って入った。
「英二。ワガママを通したいなら、それなりの意地を見せなさい」
　綺麗にマニキュアした人差し指で、英二の鼻をつつく。
「曲は渡辺先生に頼んでおくわ。男声二人のデュエット。曲ができたら、英二。あなたが詞を付けなさい」
　今までさんざん英二に困らされてきた仕返し、と言わんばかりに、芝さんは不敵に笑う。
「それが出来ないなら、デュエットは無し。いいわね」


　俺は、いつもつるむ友達を必要としないタイプだ。そして手塚も同じ。なので、どういうわけか、結果的に俺と手塚がつるむことになってしまう。その日も、机を向かい合わせて、俺たちは弁当を食べていた。互いに無口なので、食事は早く済む。食後のウーロン茶をすすっている頃、教室が妙に騒がしくなっていることに気づいた。
「見たか？」
「見たみた！」
「頭ちっちぇーの！」
「ホンモノなんだよな、あれ」
「どこどこ？」
「応接室だよ。あー、カオ可愛い、女みてー、人形みてー、アイドルってああいう風なんだな」
　少し、嫌な予感がする。
　応接室。わが校のそれは、外部からも監視できるように、ガラス張りなのだ。
「……なんだ、大石。そわそわして」
　手塚の怪訝な顔に、ごまかしの笑顔で応えるが……
『３年１０組、大石秀一郎くん。お客様がお見えです。応接室まで早急においでください』
　校内放送が流れたとたんに、俺の周りで健全なる高校生の好奇心が爆発した。
「大石！　あれ、『３−６』の菊丸英二だろ！」
「何？　知り合いなの？　親戚？」
「何で平日の昼間にお前訪ねてくんの？」
「妹と姉ちゃんがファンなんだ、頼む、サイン！」
　人波が押し寄せて、教室からも出られない。この調子では、応接室のガラスにも見物人がびっしり貼り付いていることだろう。早く行って、落ち着かせてやりたいけれど……。
「おい、お前ら。待て」
　めったに声も出さない手塚が急に大声を出したので、皆は一瞬ひるんだ。
「大石と、そのお客様の用事だ。邪魔になるようなことをするのは本校の生徒として恥ずかしくないか」
　ふうん……手塚って、低くて深みのある綺麗な声が出せるんだな。こんどスカウトしてみようか、なんてことを考えながら、俺はありがたく、手塚の声に立ちすくんだ生徒たちをかいくぐり、応接室を目指した。

「サイン！」
「握手！」
　皆が好き勝手に叫んでいる。携帯のデジカメを応接室内に向けている。英二は、居心地悪そうに肩をすくませていた。つるりとした湯呑みで出されたお茶は、すでに湯気も立てなくなっている。
「ごめん、英二、お待たせ……ほんと、うちの生徒はこういうの、慣れてなくて」
「う、ううん、俺こそごめん……こんな騒ぎになるって、思ってにゃくて」
　ガラス張りの外では、おお、喋った、ホンモノだ、とか、騒ぎが続いている。
「で、何の用事で、わざわざ高校まで来てくれたの？」
「大石、怒ってない？」
　あまりの騒ぎにびっくりしたのか、英二は半分泣きそうだ。
「怒ったりしないよ。それより、何か用事があったんだろう？」
「うん」
　英二は、カバンを開けてごそごそと原稿用紙を取り出す。
「これ」
　俺は、そっとそれを開いた。

　ふたりだから　最高さ
　まだまだ　パワー全開
　ひとつひとつ　作ってく
　そんな時間　過ごしてゆけるから──

「ああ、歌詞」
「ん。そんで、このテープが曲」
「でも、歌詞、未完成だね？」
「ずっとずーっと考えた。でも、これ以上、どしたらいいのか分かんにゃくて……」
　よく見ると、目が赤い。夜更かしでもしたのだろうか。
「でも、俺が考えないとダメで、だけどもうぐちゃぐちゃで、だから、ヒントだけ、ヒントだけ大石にもらおうと思って。でも、ごめんなさい。こんな大騒ぎにするつもり、にゃかった……」
　必死で俺の目を見て喋る。自分の学校もあっただろうに、歌詞が行き詰まって、俺を頼りにしに来てくれた。
　愛しい。
　一つ、こんな可愛いところを見せられるたびに、自分の中に温かい感情が満ちていく。
──それは、恋心にも似て。
　もちろん、英二も俺も男だし、その上英二は天下のアイドルだ。俺のものになることは、絶対にない。
　でも──こんな、ガラスの外から見物人にじろじろ見られて、どうしようもないこの状況の中で。俺は、英二が自分だけのもののような気がしたんだ。
「ねえ、英二」
「にゃに？」
「この、『ふたりだから、最高さ』って……俺と英二のこと？」
「あったりまえじゃん！　俺、ずーっと大石のこと考えて書いたよ。下手だけど、バカみたいだけど、不二の書く歌詞に比べたらちょー恥ずかしいけど、大石のことだけ、想って書いたよ」
　俺は、赤茶の跳ね髪に指を入れて、かき回した。気持ちよさそうに英二は目を細める。ガラスの外でなんかギャーギャー盛り上がってるけど、俺は何も気にしない。


「はい、お疲れ。完璧だったよ、英二、大石くん」
　英二のソロアルバム「Hello!」。最後の一曲の収録が終わって、スタジオは和やかな雰囲気に包まれる。飲みものが回され、俺と英二はヘッドホンをはずしてお互いを見る。
「やっとできた。やっと歌えた」
　少し涙ぐんでいる英二。
「大石のバックコーラス、できた」
　長い練習期間があったとはいえ、俺も英二の成長ぶりには驚いていた。音程もずいぶんしっかりしたし、スキャットまでこなしたのだ。
「いい曲になったわ。これなら、英二のファンも納得できるし……きっと、大石くんのファンもたくさん出来るでしょうね」
　芝さんは、英二が目をこすらないように、ハンカチを取り出して英二の目の縁を押さえた。
「俺にファンなんて、いらないですよ。えい……っと、菊丸くんの魅力を引き出すことが出来れば、それで」
「なあ、大石くん」
　アルバムプロデューサーの渡辺さんが、俺にスポーツドリンクを渡す。
「君は、歌で生計を立てたいんじゃないの？」
「もちろん、出来ることなら」
「僕もね、今回の君の歌声は本当によかったと思っているんだ。君はルックスもいいしね。今度、君のための企画を立ち上げてみようかと思っている」
　俺は息を呑んだ。
「いや……俺、なんて」
「この業界でやっていくんなら、謙虚は美徳にはならんよ、大石くん」
　プロデューサーはそう言って俺の肩をバシッと叩いた。
「じゃあ英二、大石くんにお礼とお別れを言いなさい」
　芝さんが英二の背中を押した。
　お別れ。そう。分かっていたこと。
　俺は、背筋を伸ばして英二に向き合った。
　多分これから、俺は（芝さんによると５％しかいないという、男の）「３−６」のファンになる。コンサートにだって行くし、ＣＤも揃える。ポスターもグッズも全部買うよ。英二の出てるテレビ番組は全部観る。
──英二が遠くへ行ってしまっても、俺は英二を好きでい続ける。
「……やだ」
「英二！？」
　柔らかい髪の甘い匂いが、俺の鼻腔をくすぐった。英二は俺にしっかりと抱きついていた。……なんだか初めて会った日を思い出す。
「大石、今日でお別れなんて、絶対絶対やだよ」
「メールアドレスも携帯も教えただろ？　いつでも好きなときにかけてきていいよ」
「そんなんじゃやだ。一緒に歌いたい。一緒に仕事したい」
「こら」
　俺は、きりきり痛む胸をかかえたまま、英二を軽くこづく。
「英二のパートナーは不二だろ？　大丈夫。俺がいないことにだってすぐ慣れるよ」
　がむしゃらに俺のシャツを握り締める、小さな手。
「寂しくなんて、ないよ」
　英二は、動かなかった。周りのスタッフさんたちや、芝さんも、かける言葉が見つからない感じで佇んでいる。──が、芝さんがぱちんとスケジュール表を開く音で、皆が我に帰った。
「英二。悪いけど、この後すぐにバラエティの収録があるの。もう行かないと」
「やだ」
「英二！」
「この、手を、離したら」
　英二は搾り出すように叫んだ。
　哀しみと嬉しさが同時に俺の感情を支配した。この可愛い子は、俺と離れたくなくて必死なんだ。俺だって同じだ、と言ってやりたい。側にいる、と出来もしない約束をしてやりたい。
　英二の扱いに慣れている芝さんは、ただ事でない、と感じたのだろう。
「じゃ、いつかのように、大石くんには次の仕事、スタジオで見ててもらいましょ？　だったら行くわね？」
「あ……それ、なら……」
　すん、と鼻をすすり上げて、英二は少し表情をやわらげた。

　タクシーが、テレビ局に滑り込む。英二が降りると、待ち構えていた女の子達が、甲高い声を上げて、携帯のカメラやデジカメを英二に向ける。俺が降りるのに手間取っていると、英二は俺の手を掴んで引っ張ってくれた。たぶん、女の子達には、俺はスタッフか何かに見えるんだろうな。（ま、実際そんなもんだけど）
　スタジオに入ると、スタッフさんたちがあからさまに戸惑った、妙な顔をした。
「あれ？　英二クン、来たの？　芝さん、これってどういう……」
「え、あの、菊丸の出演する番組はこちらですよね？」
　芝さんもスケジュール帳を何度も見て、不思議な顔をする。
「やっほー、英二」
──舞台の上に、不二が立っていた。
「不二？　あれ、今日オフじゃ……」
　番組の偉い人らしいスーツ姿の男が、芝さんに確かめるように言う。
「今日は、菊丸くんの体調が悪いから、特別シークレットゲストとして不二くんが出演するんですよね？」
「は？　あの、あれ……」
　その時、舞台の上の不二が叫んだ。
「大石！　英二連れて逃げて！　デートしておいで！」
　どこか苦い、ウィンク。
「特別だよ。英二、貸してあげる！」
　とにかく、不二が俺たちのために──いや、英二のために、何か計ったことはわかった。俺は、英二の腕を引っつかむと、スタジオを飛び出した。ぐるぐるとややこしいＴＶ局の廊下を突っ切って、玄関に出て、きゃあきゃあ言う女の子たちの声の中で、タクシーに乗り込む。
「どちらまで」
　そういわれて思わず顔を見合わせてしまったが、英二が運転手さんに告げた。
「ディズニーランドまで！」


　結局俺たちはディズニーリゾートの入り口まで乗せてもらって、タクシー代も入場料も持っていないことに気づいて最寄りの銀行まで引き返して、英二は財布すら持っていなくて、俺の貯金を下ろしたり、もう散々だったけど。
「英二、サングラスとか帽子、持ってないの？　そのままじゃ、危なくて遊園地になんて入れられないよ」
「うーん、全部置いてきたにゃー。中で買えるっしょ」
　英二は思いっきり浮かれたミッキーマウスの耳のついた帽子を買った。サングラスもなんとか買えた。俺たちは、どちらからともなく手をつないだ。乗り物にのって、ポップコーンを食べて、パレードを見て、花火を見て──夜の「マーク・トゥエイン号」の３階デッキの上で、英二は俺の手に小さな何かを押し込んだ。
「指輪？」
　イルミネーションにきらめく、ガラスのシンプルな指輪。
「嵌めてみてよ。どれかの指に入ればいいんだけど」
　心配そうに覗き込んでくる英二。
「薬指に、ぴったりだよ」
「あー、やっぱ手、でかいんだ。身長大して変わんないのに、やんなるにゃ。俺は、人差し指にぴったり」
「おそろい？」
「……うん」
　華やかな音楽が流れるミシシッピ河の上。英二は、そっと俺に耳打ちした。
「あのね」
「何？」
「キスしても、いいかな」
　英二の必死すぎる声がおかしくて、俺はとんでもないことを言われたのに笑ってしまった。
「あ、ひどい。俺、すっごい勇気出していったのに」
「キスって、どこに？」
「えっと……」
　長いことためらってから、英二は口を開いた。
「ほっぺで、我慢す……」
　その唇を、俺は自分の唇でふさいだ。長い汽笛がなって、船は速度を落とす。河のほとりから、誰かが俺たちを見ているかもしれない。でもかまわない。このキスのことを、ずっと覚えていよう。英二が他の誰とキスをしても、俺はもう誰ともキスをしない。
「英二、好きだよ。愛してるんだ」
　唇が離れた後に、俺は思わずそう言っていた。
「俺も、大石を愛してる。」
　サングラスをはずして、俺のためだけに笑ってくれる。俺は、力いっぱい英二を抱きしめた。
「電話してね？」
──Call Me,Call Me……
「俺を一人にしないで、大石」



──それから。
　あの夜、引き裂かれる運命の恋人になりきっていた俺たちはバカみたいだった。英二のソロアルバムが発売されると、意外にも一番人気は英二と俺のデュエット曲で、「大石秀一郎って誰だ」という問い合わせが殺到した。デュエット曲はシングルカットされ、（もちろん英二の人気のおかげだけど）売り上げベスト１０内に５週間留まり、俺は芸能雑誌や音楽雑誌から、そこそこの数の取材を受けた。イケメンとかキャプションを付けられてマジかと呆れた。そして、あっという間に、英二との二曲目のデュエット曲──今度は最初からシングル──が発表された。
　もちろん、英二はあくまで「３−６」の菊丸英二、なんだし、いつもいっしょ、と言うわけにはいかない。それでも、しょっちゅうスタジオで顔を合わせて、そして声を合わせて歌う。そんな日々が続いた。英二は人差し指の、俺は薬指のガラスの指輪を他人に見つからないように、いつも握りこぶしを作って、隣にいた。
　いつしか、英二のテレビ収録には、俺が付き添うことが当たり前になっていた。その日もパイプ椅子に座って、英二可愛いなあとか思いながらぼおっとしていると、わき腹を小突かれた。
「やあ」
「不二……か」
「あの駆け落ちの日、何処に行ったの？」
「ディズニーランド」
「ふうん。オリジナリティが無いね」
　不二はニコニコ笑っている。でも、その奥に鋭い瞳を秘めていることを、俺はじゅうじゅう分かっていた。
「指輪、もらったんだってね」
「……！」
「それで、キスまでしたんだって？」
「あ、それは……その……なんで、そのこと」
「英二がその日の夜に興奮して話してくれたよ」
　そういうやつだった。
「いつか、こんな日が来ると思ってた」
　不二は、琥珀色の視線を俺に向けた。
「英二のことが大好きだったけど。英二はボクを親友としてしか見ていない。そして、君のソロ曲……『Call Me Call Me』を、満面の笑顔でボクに聴かせてくれた日に、もういやな予感はしていたんだ」
「不二……」
　ごめん、と言おうとした俺の足を、不二の足がしたたかに踏みつけた。
「！　……っつう！」
「すいません、そこ、大声出さないで。撮りなおしします！」
　涙目を上げた俺に、不二は静かに微笑んだ。
「でもまあ、まだ勝負はついてないし。英二の公式のパートナーは、ボクだからね？」
　収録中の英二が、俺と不二が並んでいることに気づいて、嬉しそうに手を振った。





えーと、もちろんこのお話は、菊丸英二デビューアルバム『Hello！』を意識して書きました。大石くんとのデュエット曲、「Happy Goody」があまりにも嬉しかったのでその記念に。あと、私の一番好きだった曲「僕が僕でありますように」（携帯の着メロにまでしている…）も話の中に出てきます。