雨の木（レイン・ツリー）の女神[２]





リナは、世界樹───イグドラシルにかけられた金時計をいじった。針の動かし方はでたらめにしか見えなかったが、リナがかちりと針を合わせると、ゼロスの身体が光に包まれ始めた。
「リナさん！この世界へはどうやって戻ってくればいいんですか」
「抜け出したところに魔法陣が出来るはずよ。それに乗って、戻ってきなさい」
ゼロスの周りを、蒼白い光が覆った。ゼロスは思わず瞳を閉じた。身体の中を、不思議な風が駆け抜けていくような、気がした。

気がつくと、群狼の島の海岸に、ゼロスは横たわっていた。体を起こして、砂を払う。確かに、自分の周りに魔法陣が出来ている。
（本当に５１２年前に来たんでしょうか？）
ゼロスは空間を渡った。ゼフィーリアの町中に出る。行き交う人々の姿は、たしかにここに来る前よりは昔らしい気がする。街を行く人に尋ねる。
「すみません。今年は何年でしたっけ」
「はあ？ぼけてんのか兄ちゃん。ことしは赤竜王歴２１１２年だよ」
「なるほど。ありがとうございました」
怪訝な目つきで男が去っていくと、ゼロスは魔導士協会に立ち寄り、自分の探している剣の所在を聞いた。
「ああ、最近魔法鍛冶屋のところでそんな剣が完成したと聞いたな。でも、あれは年を経ないと役にたたな───」
「ああ、いいんです、それで。失礼します」
ゼロスは、魔法鍛冶屋の場所を街行く人に聞き出すと、空間を渡って、鍛冶屋の倉庫に入り込んだ。積み上げられたがらくたとは別に、絹の台座に置かれた光り輝く剣がある。触れようとすると、指先に反発する力を感じた。
「まだ赤ん坊のようなこの時ですらこうなのですから、時を経れば……恐ろしいですね」
ゼロスは剣を手に取り、背筋を走る滅びの予感を抑えつけるように、剣に力を込めた。出来たばかりのまだ脆い剣にヒビが走る───はずだった。黒い布をすっぽりとかぶった何者かが、ゼロスの手から剣を奪った。
（ありえない───）
人間だったら、その気配に気づいたはずだ。黒い布をかぶった何者かは、てのひらに力を込めると、ゼロスをはじき飛ばした。
（知っている、この気配……）
敵はさらにゼロスを追って来ていた。輝くてのひらを、ゼロスに押しつける。ゼロスのかりそめの身体の、胴体に穴が開く。
「ぐふっ……」
胴体の穴はすぐ塞がるが、受けたダメージは相当のものだった。ゼロスは、本格的に戦うために、周りのがらくたを吹き飛ばし、錫杖を構える。
「あなたは何者ですか？なぜ僕がその剣を壊す使命を受けたことを知っているのですか？そして、覚えのあるその戦い方───名乗らないのでしたら、こちらも本気で行きますよ」
返事の声はない。闇は、すぐそこまで迫ってきていた。ゼロスは、錫杖をかざして、彼からの一撃を受け止める。錫杖は、粉々になって崩れる。
（なんて魔力……！）
相手は、もう一度紫に輝くてのひらをゼロスに押しつけようとしていた。ゼロスは、とっさにそれを避け、相手の背中に回った。
「死んで、もらいます！」
黒い錐を出して、相手の身体を指し貫いた───はずだった。その一瞬前に、敵は空間を渡っていた。
（馬鹿な！この間合いでかわせるはずがない……！僕の動きを読んでいるとでもいうのか……！）
相手の手に巨大な光の珠を見たのはその後すぐだった。ゼロスは、その光をまともに食らった。かりそめの身体は、ぼろぼろに弾け飛ぶ。
（滅ぼされる……！）
危険を感じたゼロスは、空間を渡って、その倉庫から空へと逃げ出した。バラバラにされた身体をつなぎ合わせ、何とか人間の形に整える。それでも、受けたダメージは計り知れなかった。あと一度、攻撃を受けたら終わりだろう。
（どうする、逃げるか？それとも───）
ゼロスの背中に、光のプレッシャーを感じたのはその時だった。ゼロスは、黒ずくめの何者かに、背後を取られていたのだ。
「どうする？」
何者かは問うてきた。
「ここで、滅びるか、逃げるか───」
「どちらも……お断りですね。僕はあの剣を壊すように指令を受けた。ここで引き下がるわけには行かないんです」
黒ずくめは、ふっと笑った、気がした。
「お前に滅びられては、こっちも困るのでな───群狼の島まで送り届ける。主には、目的を達成したと伝えよ。それが出来なかったら───本当にお前を滅ぼす」
「待て！」
ゼロスは叫んだが、次の瞬間、街並みは足下から消えていた。岩の転がる海岸。来るときに通ってきた魔法陣だけが、ぼんやりと光を放っている。
（我が主に嘘の報告をしろと？）
しかし、戦っていたら、確実に滅ぼされていただろう。ゼロスは、重い気持ちで魔法陣に乗った。

気がつくと、雨が降っていた。あの、リナのいる世界に帰ってきたのだ。ゼロスは、遠くに霞んで見える世界樹を目指した。巨大な世界樹の周りに、リナの気配はない。
「リナさん……リナさん！」
彼女がいないと、ゼロスは元の世界には戻れない。世界樹の下で途方に暮れていると、なにかが頭上で動いた。ゼロスはふっと上を見上げた。瞳に飛び込んできたのは、白いドレスに包まれた細い身体。世界樹の蔓で首をくくり、力無くリナは垂れ下がっている。爪先から、絶え間なく雫が流れ落ちている。
「リナさん……」
ゼロスは浮かび上がると、リナの胸からナイフを取り出して、リナの首にかかった蔓を切った。リナは、真綿のような顔色で意識を失っている。
「リナさん」
ゼロスが軽く頬を叩くと、リナはゆっくりと深紅の瞳を開けた。
「ふふっ……また、死ねなかったのね、あたし」
「首を吊るなんて……無茶なことを」
「こうして生きてるんだもの、全然無茶じゃないわ。あんたが時の彼方に消えてしまってから、あたしはあんたがくれたナイフでいろんな事を試したわ。手首を切ったり、のどを突いたり……痛みだけはちゃんとあるのが嫌になっちゃうわね。ナイフでどうにもならないと知ったとき、あたしはこの樹から蔓を切り取った。そして輪を作って……枝に引っかけたの。苦しみに、気を失ったわ。でも、こうしてあんたに助けられた」
「もしかして、僕、余計なことをしましたか？」
「いいえ……」
リナは、でたらめな数字が並ぶ、金時計を見上げる。
「何時間もつるされてて、死ねなかったんだもの。結局、あたしは首吊りじゃ死ねないってことだわ」
「リナさん……」
「ね、またお願いがあるの」
「首を絞めろとか？もうごめんです、貴女の自殺につきあうのは」
「ふふっ……あんたにまで見放されちゃった」
リナは、雨の中立ち上がり、濡れて頬に貼り付いた髪を後ろに流した。
「あんたは、あんたの役目を果たしてきたのね？その、あんたのいる世界から５１２年前の世界で」
「いいえ、僕は、役目を果たせませんでした。何者か……強い何者かに邪魔されたんです。あれ以上戦っていたら、僕は滅びていたでしょう」
「ふうん……パシリ魔族のなかでは一番強いあんたがそこまで言うなんてね。どんな相手だったのかしら」
「どこかで会ったような気もしたのですが……とにかく、こちらの攻撃は全て読まれていました」
「で、あんたはあんたの獣王様にそのことを伝えなくちゃいけないのね」
「いえ……その強い存在から、僕は、獣王様には仕事を成し遂げた、と伝えろと言われました。僕は、そうするつもりです」
「あるじより、敵の言うことを優先するわけ？」
「あの声には、何か逆らえないものがあった。それに、そのようにした方が僕のためだ、という感じが強くするんです」
「あたしが、獣王様にほんとのこと伝えようか？」
「リ……リナさん、ひどいです〜やめてくださいよ〜」
「あっははは」
リナは口を開けて笑った。
「この樹から離れられないあたしが、どうやってあんたの主の所へ行くのよ。冗談よ」
「怖い冗談言わないで下さいよ」
「笑ったのなんて久しぶり！ありがとね、ゼロス。あんたがここに来てくれて、ほんとに嬉しいわ。ナイフももらったし」
「貴女にナイフをあげたことは後悔していますよ。そんなに乱暴に自分を扱うなんて」
「だって、あたし、本当にこの雨にうんざりしちゃったんだもの」
「僕がいます」
「は？」
「僕が、貴女の側にいる。だから、もう自分を傷つけることは止めて下さい」
「嬉しいわ、そう言ってくれて。たとえ、実現できないことでも」
「リナさん……！僕は本気です。永劫に近い時間も、二人でいれば気も紛れるかもしれない」
「この雨はね……あらゆるものを蝕んでゆくの。あたしと、この世界樹以外」
「僕も……？」
「ええ───本当なら、あんたもそろそろ耐えられなくなるはずよ」
「僕はなんともない」
「ええ。あたしが、あんたの苦しみを吸い取って、あんたを守っているから」
「そんな！まさか、リナさんが苦しいんですか？」
「そうよ。恩を着せるわけじゃないけど、あたし、あんたの分まで苦しいわ」
「すぐに、僕にその苦しみを戻して下さい！」
「そんなことより」
リナは、世界樹のもとを離れ、一方向を指さした。
「あんたの元いた時間軸に帰りなさい」
「リナさん……お別れなんですか」
「それがお互いのためよ」
「……そうみたいですね」
ゼロスは、歩き始めた。自分の無力さが心に痛かった。やがて、自分を囲む世界が歪み、気がつくと獣王の部屋の魔法陣の中にいた。
「ふふっ……お前が消えてから現れるまで、ほんの数秒の事だったぞ。だが、お前は長い時間を過ごしてきたのだな？」
「はい」
「どうだ？懐かしい顔に会えたであろう？」
「驚きました」
「あのイグドラシル……雨の木（レイン・ツリー）。その元で雨に打たれ続けるひとりぼっちの女神。気の毒なことだな」
ゼロスの金髪の主は、暗い空間に白い煙草の煙を吐き出した。


眠りは麻薬
途方にくれた 心を静かに溶かす
舞い上がる 愛を踊らせて
ふるえる身体を 記憶の薔薇につつむ
I keep my love for you to myself


絶え間ない雨が、浅い眠りを覚ます。
「たとえ……どんなに苦しくても、もっとゼロスに側にいて欲しかったなあ……でも、あたしの身体はあれ以上の苦しみには耐えられない。やわな身体。でも、死ねない。なんて酷いのかしら───」
リナはふっとその果実のような唇に笑みを浮かべた。
「あたしの神様は……いや、あたしが神様なのか」

「我が主よ、お願いがあります」
「なんだ、ずいぶんとせっぱ詰まった顔だな、ゼロス」
「僕を、あの世界樹（イグドラシル）───雨の木（レイン・ツリー）の元へ送ってください」
「お前のことだ。近いうちにそう言い出すだろうと思っていた。お前は、あの女神ノルンの在りし日の姿───リナ＝インバースに執心していたからな」
「そんな……そんなことはありません……」
「ふふ、隠さずともよいのだ、ゼロス。我ら魔族も、時には生在るものに惹かれることもある。あの娘がお前と関わったのはほんの数年のことだったが、時の女神ノルンとなった彼女を見て、その頃の心が蘇ってきたのであろう？行って来い。気のすむまで、共にいるが良い。どうせ、こちらの世界では一瞬のことなのだから……」
「では……」
「ところで、その懐のものは何だ」
「リナ……いえ、ノルンに役立つかと思って」
「どうだかな」
ゼラスは魔法陣を描いた。ゼロスは、その中に足を踏み入れた。


The dream is over
声にならない 言葉を繰り返しても
高すぎる灰色の壁は
過ぎ去った日の思いを夢に写す
Until I can forget your love


雨が、降っている。強くもなく、弱くもなく、変わらずに。ゼロスは、辺りを見渡して、遠くに世界樹を見つけ、歩き出した。彼女は樹の根本で足を投げ出して座り、枝を見上げている。その顔に、身体に、たえまなく雫が降り注ぐ。視線を動かさずに、彼女は言う。
「何をしに来たの。また、時を越えるお仕事？」
「いえ、今回は貴女のために来ました」
「あたしの……ため？」
「貴女は、この雨の世界から解放されたいのでしょう？」
「ええ、そうよ。どうも、うまくいかないけれど」
「今日は、おみやげを持ってきました」
「おみやげ？ふうん……何かしら」
「これです」
黒い神官のマントの下から、長剣を一本と、魔法銃を取り出す。
「なかなか素敵じゃない」
「本当は……本当は、貴女をこの世界から連れ出したいのですが、それは僕の力を越えたこと。だったら、貴女の望むままに……貴女をこの手で滅ぼしてあげに来ました」
「嬉しいわ」
リナは、にっこりと微笑んだ。その微笑みは三千年前と何ら変わることなく───ゼロスの心を締め付ける。
「まずは、その長剣の方から試してみようか」
「そうですね。貴女の心臓を貫きます」
ゼロスは剣を構えた。リナは、ふらりと立って無防備にその薄い胸を晒した。
「いきます」
ゼロスの剣が、リナの胸を刺しつらぬいた。リナの顔が苦痛に歪む。
「く……ぅ」
ゼロスは剣を引き抜いた。剣に血は一滴も付いていなかった。リナの雨に透ける白いドレスも、血で汚れた痕跡はない。リナは、しばらく胸を押さえてうずくまっていたが、やがて白い顔を上げた。
「どうやら、あたしのここには『心臓』はないみたいね」
「すみませんでした。いらない苦痛を貴女に与えてしまった」
「苦痛には慣れてるわ。気にしないで」
「じゃあ次は……何をしましょうか？」
「あたしの身体を裂いて。はらわたを引きずり出して」
「これはこれは、とんでもない要求で」
「魔族のあんたにしか頼めないことよ」
「いくら僕でも、人間をそんな風に殺したことはありませんよ」
「じゃあ、初めてね。頼むわ」
リナは、ゆっくりと雨に濡れたドレスを脱いだ。白い、華奢な身体を、リナは濡れた地面に横たえる。
「いいんですね？」
「ええ。この辺の地面を、あたしの内臓で汚してちょうだい」
ゼロスは、リナの胸の下に剣を突き立てると、一気にそれを下へ引いた。肉が裂ける。相変わらず、血は一滴も出ない。腹の所まで裂くと、ゼロスは剣を置いて、傷に手を突っ込んだ。そこにあるのは、ただ、白い肉。そして骨。内臓と呼べるものは何一つ、ない。そのほの白い肉は、掴んでも掴んでも指の間をすり抜けるだけだった。ゼロスは、肉の中に浮かんでいるリナの背骨を掴み、砕いた。しかし、いつかリナの喉の骨を砕いたときと同じように、その骨は次第に固まり、元の形に戻った。ゼロスが手を肉から引き抜くと、傷はすぐに塞がった。ゼロスの手は、血にまみれるどころか、何の肉片も、液体も、付いていなかった。




血は出ていませんがすぷらった。気分を害された方、申し訳ありません。このタイトルは、気づかれる方は気づかれると思うんですけど、大江健三郎の『「雨の木（レイン・ツリー）」を聴く女たち』をちょっといじったものです。この小説もすごく好きなので、機会があったらぜひ。それでは、続きもよろしくお願いします。
「時の女神ノルン」のアイデアを得たのはゲーム『真・女神転生デビルサマナー』に出てくる仲魔キャラからです。時計を抱えた可愛らしい女神。自分のレベルが上がって役に立たなくなっても、ずっとパーティーに連れていました。