目覚めよと呼ぶ声が聞こえ［６］







リナが目を開けると、そこは暗い、何も置かれていない部屋だった。そこそこの広さで、天窓から薄く光が射し込んでいる。部屋の隅には闇が煮凝っている。
「ここは……どこなの？ゼラス＝メタリオムの力で創り出された異空間？」
「その通りですわ、お姉さま」
甘ったるい、可愛らしい声が響いた。
「その声は……ゼリイ！どうしてこんなところにいるの」
闇に目が慣れてくると、リナのいる場所からそう離れていないところに、ピンク色のウェーブのかかった髪が目に入った。そしてリナは目を見開く。彼女の足下に倒れているのは、闇色の神官──ゼロスだった。
「ゼリイ！ゼロスはどうしたの？」
リナはゼロスに駆け寄ろうとした。そして、透明な壁に思い切り顔をぶつけた。
「ぐうぅ……」
リナは顔を押さえてうずくまる。
「何なの、この壁」
「お母さまの力で作っていただきましたの。どんな剣を持ってしても、どんな呪文を持ってしても、その透明な壁は破れませんわ」
「お母さま……？」
「さっき、お会いになったでしょ？」
ゼリスはマントを外し、襟のボタンを２、３個あける。そして、床に横たわったゼロスに近づいた。
「ゼロスお兄さま……」
ゼロスを仰向けにして、その黒髪に触れる。ゼロスは、薄く目を開けて、ゼリイを見つめている。
「お兄さま、私のことを好き？愛してる？」
「ええ……貴女が好きです」
リナは叫んだ。
「ゼロス！何言ってるの。嘘でしょ！？」
「お兄さま、この世で唯一あなたの愛を得られるのは私だけ。そうですわね？」
「ええ。貴女が愛しい。貴女を守りたい」
「じゃあ、証をいただけます？」
ゼロスの唇に、ゼリイの指が触れる。
「どんなことでも。貴女が望むなら」
リナは、透明な壁を叩く。力一杯叩いても、ゼロスはリナを見なかった。ゼリイの唇が、ゼロスの唇に重なる。
「離れて！」
リナは、自分の叫び声に涙が混じるのを感じた。
「ゼロスはあたしのものよ！髪の毛の一本まで、あたしのものよ！ゼロスは、そう誓ったのよ……ゼリイ、ゼロスから離れなさい！あたしのゼロスに触れないで！」
ゼリイは妖艶な笑みを浮かべた。
「まだ、私のことをゼリイと呼んで下さるのね」
「……ゼリイ？どういうこと」
「今こそ名乗らせていただきますわ。私の本当の名は、獣将軍（ジェネラル）ゼリス。かつて魔族の中でも最上位の力を誇り、ドラゴンスレイヤーと呼ばれたゼロスお兄さまの力を受け継ぐもの」
「ゼリス……獣将軍（ジェネラル）」
リナは身体の力が抜けて、床に座り込んだ。
「ゼリイ……いえ、ゼリス。あんたがゼロスの力を受け継いだというのなら、そこにいるゼロスは何？」
「抜け殻ですわ。かろうじて人間と同じ姿を保ってはいるけれど……精神攻撃に弱い分、普通の人間にも劣りますわね」
「ふざけないで！ゼロスの力を返して！」
「お兄さまには、最後に役に立ってもらいます」
ゼリスは、ゼロスの黒髪を、ぐいっと掴み上げた。もう一度、強引に唇を重ねる。
「やめて、ゼリス、止めて！ゼロス、目を覚まして！あたしを見て！」
「悔しいですか？お姉さま。──醜いですわね」
ゼリスは、ゼロスの手袋を外した。長い指を、自分の細い指と絡める。そして、ゼロスのマントを脱がせ始めた。
「何をする気？ゼリス」
「お姉さま。かつてお兄さまと愛し合った貴女なら分かっているはず。互いの欲望を、絡め合うんですわ」
「違う！ゼロスはあたしを愛してる。あんたなんかに、そんなことはさせないし、しないわ」
「信じないならご勝手に。そこで目を閉じていて下さい。最も、声は聞こえてしまうかもしれませんけどね。耳も塞ぎますか？」
ゼリスは、ゼロスの手を取って、服の上から自分の乳房に触れさせる。
「お兄さま、私って、魅力的？」
「ええ」
「私の身体に、欲望を感じてくださる？」
「ええ」
リナは二人を見つめたまま、動けない。
「ゼロス！お願いよ、目を覚まして！別の女に触れないでよ。月に……月にまで嫉妬してくれたあんたなのに」
ゼリスは、自分の上着のボタンを開ける。素手で、自分の胸にゼロスの手を触れさせる。
「気持ちいい？お兄さま」
「ゼ……リス」
ゼロスは、恍惚とした笑みを浮かべた。
「私がいれば、いいわよね？お兄さま」
「ええ」
「リナ＝インバースのことは、お忘れになるわよね？」
「ええ」
リナは、涙が頬を伝うのを感じた。
「いやよ、ゼロス。あたしは、今でも髪の毛の一本、小さな吐息までも、あんたのものなのよ。ゼリスから離れて。……『黄昏よりも昏きもの、血の流れより……』」
「無駄よ、リナお姉さま」
リナは、がくりと膝をついた。
「魔力が……集まらない」
「この空間では、全てが私の思うがまま。お姉さまの魔力だって使えないし、お兄さまは私の言いなり。……ふふ、私の可愛いお人形たちのようなものよ」
「何が目的なの！！」
リナは声を枯らして叫んだ。
「あたしの命？それなら、あげる。こんなまどろっこしいことをしなくても、自分でカタをつけるわ。それとも、フィブリゾのように、あたしに重破斬（ギガ・スレイブ）でも使わせるつもり？」
「どちらもハズレですわ、リナお姉さま」
ゼリスは、ゼロスの身体に覆い被さった。
「抱いて、お兄さま」
「ええ」
二人は、もう一度唇を合わせた。
「いや、いやあああっ！ゼロス、ゼロス！」
『彼をその手に取り戻したいか？』
不思議な、声。それは、リナの唇から漏れた。確かに自分の声。でも、自分の意志で喋った訳ではない。
「何なの……」
『彼を奪い返したいか？』
不思議な声は、畳みかけた。
『ならば、我が力を持って、その透きとおった壁を破れ』
「あたしの中に……別の誰かがいる」
（『俺の中に、もう一人いるって、気づいちまったんだ』）
かつて闘い、悲しい別れをした戦友、ルークの言葉がよみがえる。
「お兄さま」
ゼリスは、ゼロスの裸の胸に唇を寄せている。そして、頭を押さえてうずくまっているリナを見た。ゼリスの、赤みがかったピンクの瞳は喜びに溢れた。
「リナお姉さま、苦しいんですの？そうでしょうね、いくら魔力が強くても、生身の人間──それも、お姉さまのような華奢な少女には堪えることですわ」
『我を解き放て』
リナは、とめどなく涙を流し、ただ「もう一人の自分」を抑えるのに精一杯だった。
「頑固ですわね、お姉さま」
ゼリスは、自分の胸に触れていたゼロスの手を取り、その指の一本に力を込めた。嫌な音がして、ゼロスの指があり得ない方向に曲がる。
「ぐあああっ」
ゼロスの、力無い絶叫。
「ゼロス！ゼリス、止めて！何てことをするの」
「細い、脆い骨。人間よりも弱くなってしまった可哀想なお兄さま。快楽と痛みを交互に与えてあげますわ。次は……」
ゼリスの小さな手が、ゼロスの髪に触れた。
「綺麗な、まっすぐの闇色の髪。消滅させるには惜しいですわね。お兄さまが完全に抜け殻になったら、私の部屋に飾らせていただこうかしら」
再び、リナの唇から『別の』声が漏れる。
『我の力、今こそ解き放て』
「ああ……」
リナの本来の意識が薄らいでいく。それを見て取ったゼリスは、勝ち誇った瞳を上げた。
「さあ、目覚めなさい。リナ＝シャブラニグドゥ！！」

身体の中に、途方もない魔力の渦が広がってゆく。それは、リナを翻弄する。荒れ狂う海のように痛みと快楽が押し寄せる。
（リナ＝シャブラニグドゥ？あたしの中の、“もう一人”。それが、赤眼の魔王──ルビーアイだというの？）
『世界を破壊し、混沌へ帰る。混沌の中で、愛しいものと、存在そのものが溶け合うだろう。リナ＝インバース、お前の内にあった我が力の一片を、今こそ解き放つのだ』
ゼリスは、透明な壁の向こうから、微笑んで、苦しむリナを見ていた。
「抵抗しても苦しいだけですわよ、リナお姉さま。今までのルビーアイ様の欠片は、あなたとその仲間が滅ぼしてきたんですわね。そのお姉さまの胎内（なか）に、ルビーアイ様が封印されていたなんて、とんだ結末ですこと」
「いや……よ。あたしは、世界の滅びなんて望まない。あたしが死ぬことで、それをくいとめられるなら、あたしは……」
「自決なさるのは勝手ですわ。そしたら、この用無しのゼロスお兄さまの身体……私はさんざんにいたぶって、なぶり殺しにしてさしあげますわ」
「まだ、そんなことを！」
「私が憎い？リナお姉さま」
「く……」
「く？」
「憎いわ。生まれて初めて、誰かを憎むわ。ゼリス！ゼロスを返しなさい！」
『我が力で、その壁をうち破れ』
リナの瞳の光が、僅かににごった。
「たとえ、魔王の力でも……それでゼロスを取り戻せるのなら」
リナの掌が、薄赤く光った。力が集中していく。ゼリスは、それを見て微笑んだ。
「さあ、その力でこの壁を打ち破って！手始めに、『憎い』私を滅ぼしなさい。そして、抜け殻のゼロスお兄さまを取り込んで、どこまでもどこまでも成長を続けるのよ。──北の魔王が目覚めるまで。そうでしょう？ルビーアイ様」
勝ち誇ったゼリスの声。リナの掌が壁に触れる、その直前だった。床でぐったりとしていたゼロスが、ふっと身体を起こし、空間を越えた。
「なっ……！」
ゼリスは唖然とした。
「お兄さまの、全ての力は私のものになったはず。それなのに……」
空間を歪ませ、苦しむリナの元へ、ゼロスは現れる。そして、リナを抱きしめる。
「すみません、リナさん。苦しかったでしょう」
「ゼロス……どうして。どうやって、空間を渡れたの？」
「貴女の、お姉さまが」
さらにリナをきつく抱きしめる。
「僕に、最後の力を下さいました。───リナさん、お別れです」
「……なぜ？やっとあたしの側に来てくれたのに」
「僕の残った力……とてもささやかなものですが。それで、貴女の中のルビーアイ様を封印します。僕は、貴女の中へ溶け込むことになる。一生、貴女は普通の人間として生きていけるはずです」
「いや。駄目よ、ゼロス。こうしてあんたはここに来てくれたんだし、あたしはもう……」
「貴女の中の魔王は、完全に目覚めかけている。一刻の猶予もなりません」
ゼロスは、リナの唇に自分の唇を触れさせた。
「お別れのキスです。でも忘れないで下さい。いつも僕は、貴女と共にあるということを」
それまで、壁の向こうから様子を眺めていたゼリスが、はじけるように立ち上がる。
「させませんわ、お兄さま！第一、お兄さまは魔族。滅びこそ、我ら魔族の究極の願い。それを無視してまで、リナお姉さまを守ろうとするんですの？」
ゼロスは、妹の目を闇紫の眼で見つめて言った。
「それが、愛と言うものです」
「魔族に愛だなんて！」
「魔族だって、誰かを愛することはあります。自分の存在が滅ぼうとも、大事にしたい誰か。僕にとって、それはリナさんだった」
「くっ……！」
ゼリスも空間を渡って、壁を越えた。ゼロスに襲いかかる。ゼロスは、最後にリナに優しい笑みを見せると、一塊りの黒い霧に姿を変えた。霧は、リナの身体に溶け込んで行く。
「ゼロスお兄さま！」
部屋にみなぎっていた、ルビーアイの力が消えた。リナは、自分の胸を押さえる。もうそこに、“もう一人”の気配は無かった。ただ、優しく昏い霧の感触が、自分の中に漂っていた。
「ゼロス」
リナは呼んだ。本当に愛しげに、自分の身体を抱きしめて。
「リナお姉さま」
「ゼリス。獣王のところへ帰りなさい。あんたの仕事は終わったわ」
「私が憎くはないんですか！私のせいで、お兄さまは……貴女の恋人だったゼロスお兄さまは滅びたのよ。憎んで！私を憎んで！」
「憎まない」
リナは、手のひらを天窓から差し込む僅かな光に晒した。
「この肉体の中に……ゼロスは溶けた。あたしたちはいつまでも一緒よ。あたしは、一生誰も憎まない。帰りなさい、ゼリス……ゼリイ。あんたとの旅、楽しかったわ」
「リナお姉さま。そして、ゼロスお兄さま」
ゼリスはうなだれた。
「完敗、ですわ。私は創られた目的を達成できなかった。こんな……こんな結末をむかえるなんて」
ゼリスは小さく微笑んだ。
「最後にゼリイと呼んで下さって、嬉しかったですわ、お姉さま。もうお会いできないでしょうけど、お元気で」


「───終わったようだな」
「……何が」
すっと背筋を伸ばして立ち続けていたゼラスと、道の端に座り込んだガウリイ。
「どうやら、われわれは失敗したようだ」
「それは、どういう意味だ。リナは無事に帰ってくるのか」
その時、ガウリイの遙か頭上に、きらめく光が生まれた。雪のようにゆっくりと舞い降りてくる光は、次第にリナの形を取った。
「リナ！」
ガウリイは、腕を伸ばして、リナの身体を抱き留めた。
「どこか怪我してないか？何かされなかったか？大丈夫か？」
「ええ、あたしは大丈夫。話すことは、たくさんあるけど」
「リナ＝インバース」
ゼラスは呼びかけた。
「私が言うのもおかしな話だが……幸福な一生を送れ。二度と、誰かを憎しまないように」
「分かっています。さようなら、ゼラス＝メタリオム。どうか、貴女の部下にお慈悲を……」
「ああ」
ゼラスは指を弾いた。突然、空間が姿を変えた。行き交う人々。馬車の轍。サイラーグの街の中に、リナとガウリイは現れたらしい。
「聞きたいことはいろいろあるが……まず、ゼリイはどうした」
「帰ったわ。彼女のいるべき世界へ」
「魔族の世界に、か」
「……！ガウリイ、あんた知って……」
「約束してたんだ。お前にばらさないって。それが、お前にとって悪い結果になったのなら、謝る」
「ううん、同じだったと思う。彼女が魔族であることを、知ろうと知るまいと」
「───そして、ゼロスとは、もう会えないんだな？」
「あんたには、何でも分かっちゃうのね」
リナは苦笑した。
「そう。もう会えない。でも、言い方を変えれば、誰より側にいる。この体の中に、あたしの血の一滴、髪の毛の一本一本の中に……」
ガウリイは、微笑みを消さないリナを、後ろからぎゅっと抱きしめた。
「辛かったら、泣いてもいいぞ。俺はお前の顔を見ないから」
「……ありがとう」
そしてリナは、優しいひとの腕の中で、愛しいひとの面影を浮かべながら泣いた。


「お母さま」
「ゼリス。ご苦労であった」
「私を滅ぼして下さい」
「……なぜだ」
「リナ＝シャブラニグドゥの覚醒に失敗したばかりか、ゼロスお兄さままで失ってしまいました。私の存在意義はもはやありません。滅ぼして下さい」
ひざまずいてうなだれたゼリスの髪に、優しくゼラスの手が置かれた。
「お母さま？」
「お前は、かつて魔王の腹心を除けば最強と呼ばれたドラゴンスレイヤー・獣神官ゼロスの力を受け継ぐもの。どうして滅ぼしたりできようか」
「……」
「お前に、新しい任務を与える。この世界のどこかに散っているルビーアイ様の欠片。あと三体。その内の一体でもいい、見つけるのだ」
「私に罰はお与えにならないのですか？」
「お前に課せられた任務は難しいものだ。罰など与えている暇はない」
「お母さま……！」
「気をつけて、行って来い。その旅路で、リナ＝インバースと再会できるかもしれない。その時には、私がよろしく言っていたと伝えてくれ」
「はい」
ゼリスはあてのない旅へ、空間を跳んだ。
「───私も、甘くなったな」
ゼラスは、瞳を押さえ、愛に消えた、かつての部下を思った。
「ゼロス……お前は、良い部下であった」






ゼロスは滅びたとも言えるし、ずっとリナちゃんと一緒になったとも言えます。でもまた悲恋っぽい話ですみません、です。それでは、最後まで読んで下さってありがとうございました！
ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。「リナ＝ルビーアイ」説を私なりに書いてみたのですが、いかがでしたでしょうか。では、またできれば明るいお話でお会いしましょう。